傭兵将軍の嫁取り

011.侯爵夫人

宿場町にて3日間の滞在の後、5日程の行程を経てホーエン侯爵の領主館へと到着した。白灰色の壁に煤けた臙脂色の屋根、城のシンボルともいえる円塔と、その傍らに中庭がある。白亜の印象が美しいが規模はそれほど大きくはない、こじんまりとした愛らしい城だ。しかし、正面から見ると平原に立っているように見えるが、その背後に切りたった崖がある。背後から迫るには大きく迂回しなければならない構造のようで、首都から遠く離れた辺境地近くならではの実用を兼ね備えた館だった。

出迎えてくれたエノラート・ホーエン侯爵は、飴色の髪と笑い皺の美しい貴婦人である。

「よく来たね。待ちくたびれたよ」

しかし、貴婦人にしてはざっくばらんな口調で言って、エノラートはジオリールよりも真っ先にシリルエテルのところにやってきて、その正面に立った。

「貴女がシリルエテルだね。グレゴル伯爵の嫁によく来てくれたもんだよ」

「シリルエテル・リーンと申します。突然の訪問、お許しくださいませ」

「いいんだよ。今は息子たちが揃いも揃って留守でねえ。来てくれなきゃ、私が行くところさ」

シリルエテルは、立ち寄る前に着替えていた旅装用のドレスの裾を持ち、貴族らしい一礼を取った。ジオリールは、申し訳程度に頭を下げたのみだ。2人の対象的な礼の取りように、エノラートがははっと笑う。

「おやおや、ジオリール卿はいい歳で伯爵になってもがさつさが抜けないらしい。少しは奥方を見習うといい」

「……ホーエン夫人。相変わらず、お達者で何よりです」

「おお、あんたが敬語を使うと気色が悪いね。さあ、シリルエテルや、こちらにおいで。城を案内しよう」

なんともいえない物言いに呆れたようなジオリールの前を通り過ぎて、エノラートは戸惑いがちなシリルエテルの肩を親しげに抱いて、連れ出す気満々のようだ。去り際、ジオリールとラクタムの方を振り返った。

「ラクタムや。そこの侍女のお嬢さんに城のことを教えておやり。それから、後で実家に寄ってお行きよ」

ジオリールの副官に掛ける言葉にしては妙に親しげな言葉に、控えていたスフィルが首を傾げたが、ラクタムは心得たように澄ました顔で一礼を取る。

「それから、ジオリール。領内の傭兵らにも顔を通しておき。何人かは領地に連れて行くんだろ」

「……確認しておきます。夫人、シリルエテルは、」

「安心おし。女同士、お茶を飲むだけさ」

だから、安心出来ないのだ……と渋面を作るジオリールを、楽しげに見やる。

ジオリールが夫人にだけは頭が上がらない……とぼやいていた理由がなんとなく分かった気がして、シリルエテルは小さく笑う。大丈夫か……と問いたげなジオリールに、ふ……と瞳を細めて、シリルエテルは頷くように礼を取った。

****

城の一番端の、もっとも見晴らしのよいバルコニーに、夫人がシリルエテルを伴った。表から見ると平地に建っていたようなのに、バルコニーの先は崖だ。高台を切り取った……という程の高さだったが、それでもこちら側からこの城にやってくるのは大変な労力だろう。その崖は北に向かって伸びていて、丁度この城に回りこむために迂回しなければならない経路のその先に、これからジオリールとシリルエテルが赴くケテン砦があるのだという。

景色に感嘆していると、いいところだろう、とエノラートが自慢げに瞳を細めた。

「貴方達の行くケテン砦の方が規模は立派だよ。あそこは砦も兼ねているからね。……だが、景色はここが一番さ」

「そうですね。……これほどのすばらしい風景は、見たことがありません」

「……ノイル侯のところに、いたんだっけね」

景色を見ていたシリルエテルの視線が、そっとエノラートに戻った。最初に見たときは気弱そうにも見えた淑やかな表情だったが、少し警戒の色を帯びた黒い瞳は存外に強い力だ。ノイル侯爵の醜聞は、ジオリールは知らないようだったが、この国で侯爵家をいただいている貴族ならば誰もが知っている。だが、幾人か居たという正妻は……それこそ、何人も居すぎて今が誰だったのか……というのははっきり覚えていない。

その瞳を見返して、エノラートは肩を竦めた。何かの返答がある前に、苦笑して先制する。

「警戒させたんならすまないね」

一瞬だけきょとん……とした間があったが、いいえ……とシリルエテルが首を振った。警戒を解いた風な気配が伝わって、シリルエテルが風景に再び眼を向ける。

「ホーエン夫人は、ノイル候がどのように亡くなったか……というのは、ご存知なのではありませんか?」

ノイル候の名前を言ったとき、一瞬ならずシリルエテルの表情が無表情になる。明らかに侮蔑の様子を隠そうともせず、……だが、すぐに、ふ……と大人しやかな表情に戻した。その表情の移り変わりを見ながら、エノラートも何かを読み取る。

「もちろん知っているさ。だから、驚いたんだよ」

「驚いた?」

「あんな男に嫁いで5年も我慢して、葬式まで出してやって、離縁もせずに5年も未亡人だろう。……一体どんな女が来るんだろうってね」

なるほど……とシリルエテルが頷いた。周囲から見ると、そのように見えたのかもしれない……とシリルエテルは思う。貴族だからこうした結婚も仕方がないと諦観するしかない女か、よほどノイル候に義理立てした女か。しかし残念ながら、シリルエテルはどちらでもなかった。

「私はお眼鏡にかないませんか」

「さあ? まだなんともいえないね。少なくとも、前の旦那に気がある……なんて様子じゃなさそうなのには、安心したよ」

ふ……とシリルエテルが苦く笑った。決して平和な笑みではないのは、ノイル侯のことを思い出したからだろう。

「ひとつ聞いてもいいかい」

「なんでしょうか」

「ノイル候という男は、どんな男だった?」

「どんなも何も……ホーエン夫人がお耳にしている通りの男でした」

「……エノラートでいいよ。で、貴女はずっと我慢していたのかい?」

「我慢……?」

「愛人の存在に」

シリルエテルは一度眼を見張り、静かに「いいえ」と首を振る。

「そもそも、愛人を許容したのは私ですから」

だからこそ、愛人の存在に我慢など……とんでもない、とシリルエテルは言う。シリルエテルは愛人を薦めすらしなかったが、目は瞑った。あの厄介な老人の性を引き受けてくれただけでも感謝しなければならない。ただ、時折、訳も分からず連れて来られた女もあった。そうした存在にひっそりと手を貸すことだけは、人知れず行っていた。

そもそも、あの老人には子供というものが居なかった。それなのに、自身の直系でなければノイル家は渡さないと言い張り、養子を迎えることもしなかった。だから、子供の多く居る家系の女を正妻に迎えては子供が出来ずに縁を切る……ということを繰り返していたのだ。晩年になるほど狂ったように必死で、それでも子が出来なかったのだから男自身に問題があったのだろう。

「けれど、貴女は魔導師だろう。余計に子供を得にくいのではないかい?」

エノラートが疑問を挟む。魔力という人の身体に帯びる力を操る魔導師は、多くの理由から子供が出来難い、……と言われている。わざわざそうした魔導師から妻を得るというのは、どういうことなのだろうか。

「私の父母は2人とも魔導師ですが、3人の子に恵まれました」

「へえ、魔導師同士でそれは多いね」

「ええ。ですから、多産系の魔導師だと思われたのでしょうね」

「なるほどね……」

「父も母も仲睦まじい夫婦でしたが、それでも、結婚してから5年を待ってやっと私が出来たのです。どんな男であっても、1年やそこらで子供が出来るはずはありません」

ノイル侯は好色な男で、なおかつ子供が欲しいと来ている。魔導師ならば子が出来る薬などはないのかと無茶を言ったり、怪しげな薬を使おうとしたり、果ては、子の出来やすい体位や方法を試そうとした。そのような行為にシリルエテルが愛情などを感じるはずもなく、当時、侯爵の愛人だった女の名前を上げ、それほど魔導師の実子が欲しいのならば、彼女に子が生まれれば自分が魔導師として育てましょう、と言ったのだ。

それは暗に愛人の存在を認めたことになる。そうなれば、何のためらいも無い。もとより愛人の1人や2人は貴族のたしなみだと豪語するような男である。何人もの女を囲い、淫蕩に耽る日々に堕ちていくのは早かった。シリルエテルにはほとんど眼も向けられず、だからこそ侯爵夫人という地位にありながら、自由に魔導師の研究を行い、弟子を育てる事が出来たのだ。

「そんな男だのに、なぜ死んでも離婚をしなかったんだい? こう言っちゃなんだが、とても貴女らしくないね」

すでに、食人鬼オーガに襲われたときに魔導師の腕を振るった……という報告は受けていた。ジオリールと一瞬なりとも肩を並べて共闘したほどなのだから、たいした腕なのだろう。ほんの僅か言葉を交わしただけだが、エノラートから見たシリルエテルは、侯爵という地位にすがりつくような女にも、こうした男に義理立てする女にも見えなかった。もちろん、どれほどの女であっても貴族の身分から平民になれば、生活は一変するだろうから、貴族の身分に甘んじていたいという気持ちも分からなくはないが。

「私にとって侯爵夫人という地位は、それだけ大切なものでした」

「地位、目的だってことかい?」

「そうですね」

「じゃあ、ジオリールとの……グレゴル伯爵との婚姻も?」

「…………」

沈黙が肯定の意味を伝える。その様子にエノラートの瞳が、す……と細くなった。

「そりゃあ聞き捨てならないね」

「そうでしょうね」

エノラートにとってジオリールは息子も同然だ。もちろん、45歳にもなった男に30歳の女が嫁ぐのだ。周囲が何を言おうとも、本人達が同意しているのであれば口を出すつもりは毛頭無い。しかし、あからさまに地位目的で結婚する……という女との婚姻を、後ろ盾しろ……というのは、なんとも都合のいい話ではないか。

しかしエノラートは楽しげに笑っただけだった。そのような理由しおらしく隠しておけばいいのに、それを堂々と口にするシリルエテルを面白いと思う。せいぜい、どうすればいいのか途方にくれていた……とか、生活していくだけの自信が無かった……などといっておけば同情も買えるだろうに。

エノラートは笑ったまま、頷いた。

「身分の必要な理由があるんだね。……それはジオリールも知っているのかい」

「ジオリール……卿は、伯爵など面倒なだけだが、少しは役に立つ事がある……と」

「そうか、なら、いいんだよ」

理由も問わず即答したエノラートに、シリルエテルが意外そうな表情で顔を上げた。

「ジオリールを騙そうなんて考えてんなら、説教の1つでもしようと思ってたけどね、……そうじゃないなら、いいさ。2人ともいい歳なんだ、結婚の理由なんか好きにすりゃいい。仲がよくて幸せであれば、それでいいんだよ」

「……でも、それは……」

「ん?」

「私に、……都合がよすぎではありませんか?」

「自分で吹っかけておいて、なんだねそれは」

はははっ……とエノラートは、今度こそ本気で大きく笑った。

「私にはそうは思えないね。……ひょいと転がり込んだだけの伯爵の地位のひとつやふたつで、シリルエテルみたいな立派な魔導師の嫁がもらえるなら、ジオリールのほうがよっぽど都合がいいさ。よくもまあ、あんながさつな男のところに嫁に来てくれたもんだよ」

「がさつだなんて、そんなことは……それに、卿が私に満足なさっているかどうかは分かりません」

シリルエテルが長い睫をふわりと瞬かせた。絶世の美女でもなければ極上の美人というわけでもないが、切れ長の瞳に長い睫は、華やかさと慎ましやかさを絶妙なバランスに保っている。年齢相応の落ち着きと、……腹に一物を持つ強かさ、相手によっては素直に心根を口にする正直さ、だが今は、自信の無さげな不安な表情を見せた。

これまでのジオリールならば、側に寄せ付けなさそうな女だ。だが、それだけに、これまでの女に抱いてきたのとは異なる想いをジオリールは持っているはずだ。エノラートはシリルエテルを連れて行こうとしたときの、ジオリールの名残惜しそうな瞳を思い出した。要するに、ジオリールはすっかりその気に違いなかった。それこそ、伯爵の地位だけで惚れた女が妻になるのであれば、その程度……と笑い飛ばすだろう。シリルエテル側に愛情があるにしろ、無いにしろ、野蛮な男の妻になどなりたくない……と泣きながら嫁がれるよりはよほどいい。

惚れた女……エノラートはそう称するが、そもそもジオリールがエノラートに女を見せる、などということが今まで無かったことなのだ。傭兵仲間に手を出したことは無く、街の女といい仲になったことはあるらしいが、俺にも会わせてくれん……と、エノラートの伴侶であり、ジオリールにとっては養父であった男も愚痴をこぼしていた。

あの歳になって女を見せにくるなど、可愛らしいじゃあないか。

エノラートは機嫌よくバルコニーのテーブルとベンチにシリルエテルを誘い、向かい合わせに座る。

「あんな男だが、少なくともノイルよりはマシさ」

「あのような男と比較などしては、ジオリール卿に失礼です」

シリルエテルがおぞましいものを吐き捨てるように、眉をひそめて言った。そうした様子からも、シリルエテルもジオリールのことを憎からず思っていることはすぐに分かる。こうした男女が一緒になれば、いずれはゆるやかに愛情を育てるだろう。5人の息子を育て、それぞれがちゃんと家庭を持ち、孫に囲まれているエノラートにはよく分かる。

それにしても、一体誰が用意した縁談かは知らないが、よくもまあ、絶対に噛み合いそうに無い2人を結び付けようとしたものだ。

「シリルエテル。ジオリールを大事にしてやっておくれ」

「エノラート様。……大事にされているのは、きっと私の方です」

その言い方に優しいものを見るような表情になって、エノラートが美しく微笑んだ。一つ大きく頷いて、懐かしい風景を脳裏に浮かべる。

「ああ、あれもシリルエテルのことを見たがっただろうね。美人が好きだったから」

エノラートの追憶の瞳を追いかけて、シリルエテルが首を傾げた。

「アシュラル卿、ですか?」

「卿だなんて柄の男性ひとじゃなかったけどね。でもいい男だったから、貴女もきっと気に入るよ」

「エノラート様や、ジオリール卿を見ていれば、分かります。……できることならば、私もお会いしてみたかった」

ふと、エノラートとアシュラル卿の間に何があったのだろうと、小さな好奇心が沸く。5人の息子を設けたにも関わらず、2人とも独身だったと聞く。侯爵夫人と伯爵なのだから、結婚が困難だという程でもなかったはずだ。だが、それをシリルエテルから問うことは無いように思えた。

ジオリールやエノラートと何日もいっしょにいたわけではないが、それでも、自分の感覚を信じるならば……話に聞くだけのアシュラル卿という人は、この2人を構成する一部なのだ。シリルエテルは先代の傭兵将軍アシュラル卿とエノラートに、しばらくの間思いを馳せる。

すぐに会えるはずなのに、……なぜかたった今、ジオリールに側にいて欲しいと思った。