スフィルを案内していたラクタムは、年嵩の侍女長などにスフィルを紹介して歩いていた。基本的に客人のお付き……ということになるので、シリルエテルが部屋に戻った後の世話を任せられるはずだ。シリルエテルのために用意された客室と、その近くの供部屋を案内し終わったところで、スフィルが首を傾げた。
「ラクタム様は……こちらにご実家がありますの?」
エノラートがラクタムに対して実家に寄れ……と言っていたのを思い出したのだ。侯爵が顔見知りの伯爵の副官に掛ける声にしては、存外親しげだった。それに、ホーエン侯爵の使用人達もラクタムを尊重している様子で、それを問うと、ラクタムは意外なことを聞いた風に、低い位置にあるスフィルを見下ろす。しばし沈黙した後、ふ……と笑った。
「そういえば、言っていませんでしたね。私の父は、……ホーエン侯爵の長子、エノル・ホーエンなのです」
「……え?」
ということは、ホーエン侯爵と先代グレゴル伯爵アシュラル卿の孫……しかも、恐らく次代ホーエン侯爵の息子ということになる。スフィルが目を丸くしてぱちぱちを瞬きする様子が愛らしく、おや、少しは自分に興味を持ってもらえたかな……と妙に心が浮つく。
「もちろん、隊の戦士達は知っていますよ」
「そうだったのですか……」
「意外でしたか?」
スフィルが瞳を丸くしてラクタムを見上げる。仔リスのようにぴこん……と首を傾げて、じっと見つめている。そうした視線にやっと慣れたラクタムも、つられたように首を傾げてスフィルの言葉を待った。
「いえ、別に意外ではありません」
「そうですか」
「ラクタム様は、なんとなく振る舞いが端正でしたので、不思議に思っていましたが、納得いたしました」
ラクタムが驚いた風にスフィルを見下ろす。正直、そこまで自分のことを注視されているとは思わなかったのだ。先ほどまで浮ついていた心に拍車が掛かりそうで、気を引き締めた顔をする。それにしても、スフィルの率直な言い回しがなんとなく気に入って、ラクタムは心の中で反芻する。仔リスの頭にちょいちょいと触れているような愛らしい気分になって、会話はそこで途切れた。今はスフィルも他家の城に居るからか、ジオリールに対する立腹も鳴りを潜めているようだ。ゆるゆるとした沈黙が続くが、不愉快ではない。
まったりと城を歩きながら、こちらから中庭が見えますよ……と言ってラクタムはスフィルを促した。円塔を通じて外に出る階段があり、そちらへと足を向ける。少し降りると踊場が広く取られ、視界が解放的で城の中庭でたむろしている傭兵達が見えた。ホーエン侯爵が雇う傭兵達……先代グレゴル伯爵にも縁の深い者達だという。
それの中心に、ジオリールがいる。
傭兵将軍の姿を視界に納めたスフィルが不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたが、ふと思いついたようにラクタムを振り返る。
「だとすれば……ラクタム様は、侯爵家の跡取りなのですか?」
不意にスフィルから問われ、苦笑してラクタムは首を振る。
「いえ、私は次男坊なので気ままなものですよ」
ひょい……と肩を竦めた様子に、スフィルが再び「そうですか。よかった」とだけ言って小さく笑った。
え? よかった?
それはどういう意味なのか、ラクタムは妙にどぎまぎした。顔が赤くなるのが自分でも分かり、かなり動揺する。
もちろんスフィルは、別段、ラクタムが期待するような意味で「よかった」と言ったわけではなかった。ただ、なんとなく話の流れで、気ままでよいではないですか……みたいな意味で付け加えたのだった。そもそも、なんでこの人はこんな話を自分にしているんだろうなあなどと思いつつ、実のところ頭はシリルエテルのことでいっぱいだ。
中庭にはジオリールが居る。最初は7日間もの間、主人を助けなかったとんでもない夫候補として腹が立っていたが、それについてはスフィル自身も同じだ。主の側にいながらその様子をジオリールらに伝えられなかったのだから、自分の中でもあれは失態だった。
野外で、おまけに朝帰りしたときも同様だ。あの時、シリルエテルが外に出たことに気付いていれば未然に防げたのに。スフィルにしてみれば、シリルエテルの初夜が野外で奪われたことになる。なんという油断も隙も落ち着きもない男……。そして、宿屋に泊まったあの時……。まさかシリルエテルからあの野獣の檻の中に飛び込んでいくとは思わなかったから、悔しさもひとしおだった。詳しくは聞いてないが、あの日は朝食を持っていった後もしばらく出てこず、結局昼まで2人で部屋で過ごしていた。
「これだから無駄に体力のある戦士っていうのは……」
「スフィル殿?」
「いえ、何でもありませんわ、ラクタムさ……」
中庭を見下ろしていたスフィルが、がばっ……!と欄干を掴んで身を乗り出した。何事かと思って視線の先を見ると、そこにはジオリールと……もう1人の人物がいた。浅黒い肌に短く切った白い髪。自信に満ちた美しい顔を綻ばせた、1人の女傭兵が大きく手を振っている。
「……チアル……?」
これは不味い……という表情をラクタムが見せた瞬間、その女傭兵が豊満な胸をジオリールに押し付けるように、抱き付いた。
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ホーエン侯爵領には、先代グレゴル伯爵との縁故もあって、他の領地よりは多くの傭兵が仕事を得ている。このホーエン侯爵領を境に、グレゴル伯爵領の地……つまり北の辺境に入ると魔物が多くなるため、仕事には事欠かないからだ。その中にはジオリールの馴染みの傭兵隊もあり、彼が北の地に赴任すると聞いて何人かの傭兵が供を希望していた。
ジオリールはホーエン侯爵領に到着早々、そうした傭兵と顔合わせを行っていたのだ。
挨拶程度のつもりだったがそこは傭兵達の気安さで、久しぶりにホーエン侯爵領にやってきたジオリールは一気に取り囲まれる。何しろ、養父の跡を継ぎ伯爵様になったばかりか、妻を娶るというのだ。いい話の種にされるに違いが無かった。
ジオリールが傭兵達を適当にあしらっていると、それらを掻き分けるようにはつらつとした女の声が聞こえた。
「ジオリール! こっちに来てたのね!」
その声に、あからさまにジオリールが身を退いた。下がろうとした腕に有無を言わさず飛びつかれ、張りのある胸を押し付けられる。他の男ならば押し付けられた胸のふくよかさにニヤニヤを隠しきれそうにない場面だが、ジオリールは嫌そうな顔で引き剥がそうとした。
「チアル……! ……ってめえ、なんでここにいるんだ!?」
「アンタがこっち来るっていうから、丁度近くの街で仕事してたし、待ってたのよ! ねえ、アンタ、嫁取るんだって?」
「くっそ、離しやがれ!」
女相手でも遠慮することなく、ジオリールが強い力で捕まえられた腕を離す。さすがに女の力ではジオリールに叶うはずも無く、チアルと呼ばれた女傭兵は「ああん」と色っぽい声を出して、しぶしぶジオリールから身体を離した。だがもう一度、今度は胸板に飛び込もうと大きく手を広げて飛びつく。
「バカ野郎! やめねえかっ……!」
それはすんでのところで防いで、ジオリールはチアルの両腕を掴んでそのまま振り払った。
「やあん、つれない男。ねえ、アンタ結婚するんでしょう? ひどいじゃない、アタシを差し置いて」
「はあ? バカなこと言ってんじゃねえ、なんでお前ぇに義理立てしなきゃなんねえんだよ」
ふん……とチアルが鼻を鳴らし腕を組む。胸の膨らみが強調され、にんまりと笑った唇はぽてりと厚くて妖艶だ。それなのに男のように短く刈った髪が華美になりがちな女らしさを押さえ、野生的でしなやかな美しさでジオリールを見据えている。
「チアル……お前な……」
「なにさ。……ねえ、前からずーっと誘ってたじゃない。アンタの子供産ませてくれって」
「俺はお前は相手にしねえと、前から言ってただろうが。諦めて帰ったんじゃねえのか」
ジオリールは本当に嫌そうな表情で、頭を振った。チアル……というのは、馴染みの傭兵仲間だ。正式なジオリールの傭兵隊の面子ではないが、ホーエン侯爵領で仕事をするときは一時的に協力したりもする。チアルがもっと若い頃は一時、傭兵隊に入っていたこともあった。なぜかジオリールを気に入り、子供を産みたいと迫ってくる女だ。
ジオリールとてこうした強引な女が嫌いというわけではない。しかし目的は子種であったし、チアルは自分に迫る前までは彼の養父……アシュラルを狙っていたのだ。アシュラルが居ないからアンタでいいと言われていい気分ではない上に、そもそも部下とか仲間を女という対象には見られない。迫られる度に断り、適当にあしらい、その度に周囲の傭兵からからかわれる始末で、何度断っても楽しげに食い下がってくるチアルを、ジオリールは大いに苦手としていた。
「正妻なんて言わない、愛人でいい。伯爵様なら愛人の1人や2人、嗜みみたいなものでしょ?」
「愛人なんざいらねぇよ。ったく……お前も、ちったあ他の男に目ぇ向けろ」
「向けたわよ。でも、アンタら以上に強い男がいないんだもの。ねえ、聞けばアンタの嫁は元侯爵夫人なんでしょ?」
何故知ってるのか……と聞きそうになって口を閉ざす。ホーエン侯爵領……エノラートの膝元で、その質問は愚問だろう。傭兵将軍の奥方になる女はどんな女なのか……など、少し調べれば分かることだ。
「しかもその侯爵っていうのは何人も愛人抱えてて、その正妻だったって言うじゃない。そんなヒトなら、次の旦那の愛人だって許してくれるわよ。ねえ、どこにいるの、アンタの嫁は」
「……てめえな……。余計な口聞くんじゃねえぞ」
「なんでよ。……そんな貴族の女よりも、アタシの方がいい思いをさせたげるわよ?」
シリルエテルの前夫の話がちらりと出てきて、ジオリールの眉間の皺がぐっと深くなった。最初は面白そうに聞いていた傭兵達も、ジオリールの機嫌が本気で悪くなってきた雰囲気と、チアルが意地になって言葉が険悪になってきた様子を感じ取り、奇妙な緊張感で見守っている。
「ねえ、そんな女だったら、どうせ妻ってだけで、アンタに興味なんてないんじゃない?」
「止めねえか!」
チアルの言葉にジオリールの苛立ちが噴出した。シリルエテルが自分のことを、妻の義務としての「夫」としか見ていないことなど知っている。ジオリールはそれを苦く思いながらも、シリルエテルを得る言い訳にしていた。だが、他人から……しかもシリルエテルを見たことのない人間から指摘されるのは、なぜか腹の腸が煮えるほど怒りが沸く。何に対する怒りかと言われると、当然、シリルエテルに期待を持ってしまう、自分へだ。
誰もが震え上がりそうな怒号でチアルの言葉をさえぎろうとしたが、女も存外に強かった。
「5年も妻だったくせに、子供だっていないんでしょう? ……だったら私が……」
「お黙りなさい! 無礼な!!」
ジオリールがいよいよチアルの肩を掴もうと腕を上げた瞬間、それを止めたのは若い女の声だった。
いつの間にか、スフィルがジオリールとチアルの間に立って、チアルの褐色の肌を見上げていた。