傭兵将軍の嫁取り

013.雌豹雌鹿

茶色い大きな瞳に結わえたきれいな赤金色の髪。チアルよりも随分と背の低いそれは、どう見ても仔リスか何かのようにしか見えない。だが、その小さなリスは外見の愛らしさとは真逆の、攻める瞳で眼の前のしなやかな猛獣……チアルを見つめていた。チアルが一瞬呆気に取られたようにスフィルを見下ろし、あはっ……と笑う。

「なに、このちっちゃいリスみたいな女は。まさかこれがアンタの嫁?」

「違うわ。ジオリール様の妻はシリルエテル様です。私はシリルエテル様の侍女よ」

「へえ。じゃあ、アンタのご主人様に伝えてよ。愛人が子供を産むから、安心して正妻の座に座ってなさいって」

「何度も言ってるだろうが! 俺はそんなもの……」

「ジオリール様は引っ込んでらっしゃい!」

その場にいる全員が瞳を丸くした。仔リスが思いっきり傭兵将軍を怒鳴ったのだ。ジオリールもスフィルの口調に、話を邪魔された怒りを忘れて言葉を失う。……しかし、ジオリールが一番驚いたのが、この忠義な仔リスが「ジオリール様の妻はシリルエテル様」と断じたことだった。思いがけぬ言葉だった。後を追いかけてきたらしいラクタムも、一瞬、虚を突かれたような顔をしていて、チアルだけ、挑戦的に腕を組んでいる。

「アンタのご主人様は、子供がいなかったって言うじゃないか、だから……」

「お黙りなさい! 何にも知らないくせに。……誰が産みたいと思うものですか、あんな男の子供なんて! それに、前と今とでは違うわ。同じだなんて、言わせないし、させるもんですか!」

ラクタムが、思わずスフィルの横顔に視線を向ける。今スフィルが憎いと思っているのは、チアルと……そして、多分、あの男……ノイル候だろう。しかし、その光は主人の敵を思うだけではない、個人的な感情を湛えているようにも思えた。ただ、今そのような疑惑を問い詰めるわけにもいかず、そもそもそれを問う権利すらラクタムはいまだ持ってはおらず、成り行きを見守るほかなかった。

スフィルが、きっ……と強い視線をチアルに向けている。

「それに、シリルエテル様は魔……」

その時、全員の視線がゆるやかに動き、スフィルの前に細い手が出て、柔らかく後ろに押した。少し斜めに下がらせると、ちらりと黒い瞳がスフィルを見下ろす。

「おやめなさい。スフィル」

チアルともジオリールとも異なる静かで柔らかな声だ。だが、この場の誰よりも、有無を言わせない強い響きだった。スフィルがぎゅう……と手が白くなるほど拳を握り締め、一礼をして一歩下がる。

「私の侍女が、お話の邪魔をしたようで申し訳ありません」

「……いいや。ねえ、アンタがシリルエテル?」

「申し遅れました。確かに、私がシリルエテルです」

黒い髪を横に流すように結った貴婦人が、チアルに対して完璧な淑女の一礼を取った。その礼の隙の無さと所作の美しさにチアルが気圧されたように口を閉ざす。その間にシリルエテルは顔を上げて、ジオリールへと瞳を向けた。しかしその視線は瞬きの間に外され、伏目がちな頑なな表情になる。その様子に、ジオリールも二の句が告げない。

「こちらにいるだろうとお伺いいたしましたので。ジオリール様、エノラート様が、お呼びです」

そう言って、ジオリールに対しても淑女の一礼を取り、スフィルに目配せをして、その場を下がる気配を見せた。それを思わず呼び止める。

「おい、待て……」

「ねえ、シリルエテルさん」

「チアル! 余計な口を開くんじゃねえ!」

ジオリールが腹に響く声でチアルを下がらせようとしたが、その言葉を邪魔するように、挑戦的な目つきでシリルエテルの正面に向き合った。

豹のように逞しくしなやかな女と、鹿のようにか弱く強かな女が向きあっているように見える。

「なんでしょうか」

一触即発にも見える緊張した空気だが、シリルエテルが風に揺れる布のように受け流す。その余裕そうに見える表情に、挑戦的な態度を崩さないチアルが言い放った。

「アタシが、ジオリールの愛人になってあげてもいいかしら。アタシは傭兵だから身体も鍛えているし、アンタよりもイイ思いをさせてあげられる。子供だってすぐに産んであげるわ。もちろん、アンタをないがしろにはしない」

「きさ……っ」

貴様!とジオリールが口を開く。その声をどこか遠くに聞くように、シリルエテルが沈黙した。スフィルが困惑したようにシリルエテルの名前を呼ぶ。その声も聞いていないようで、シリルエテルがひどく冷静な声で頷いた。

「ジオリールが、……それを望むならば」

その声に、なぜかジオリールが、今までに無い強い怒りをはらんだ視線をシリルエテルに向けた。シリルエテルはやはり伏目がちで、長い睫の向こうの黒い瞳がどのような光を宿しているのかは伺えない。だがシリルエテルがどういう意味のことを言ったのかは、はっきりと分かる。

シリルエテルはジオリールに、「愛人を持ってもいい」と言ったのだ。これまで何度か身体を重ね、少しは自分に興味を持ってくれているかと自惚れていたが、それを冷たく突き放されたように思えた。シリルエテルはジオリールに女が居ようがどうでもいいのだろうか。それこそ、自分が正妻でさえあれば。

苦々しい思いが一気に去来するジオリールに向き合って、チアルが勝ち誇ったように言い放つ。

「ほらね、ジオリール。やっぱりいいってさ、旦那に愛人がいても」

「……妻としてそれが必要なことならば、否を唱えることはいたしません」

「あら、物分りのいい正妻さ……」

告げたシリルエテルの言葉に機嫌よく振り向いたチアルだったが、その顔を見てぎょっとした。周囲の傭兵達も、水を打ったように静まり返った。スフィルが、ぎゅ、とシリルエテルの服を掴み、つらそうな瞳で主を見上げる。

「あ……シリルエテル様……」

周囲の様子を気に留めることも無く、シリルエテルは小さく首をかしげた。肩に流れている黒い髪がさらさらと零れ落ちる。

「用件は、それだけでしょうか?」

小さく問いかけ、僅かの沈黙を待って、では失礼します……と一礼する。そうして踵を返そうとしたとき、シリルエテルの身体がふわりと浮いた。

「え……?」

ジオリールが一歩近づいたかと思うと、シリルエテルの身体は逞しい大きな肩に担ぎ上げられたのだ。

「な、なに、ちょっ、ジオリール、はな、離してくださ……」

「黙れ」

不機嫌な枯れ声が低く響いた。抱き上げられるならともかく荷物のように担ぎ上げられ、おまけに傭兵達の衆目に晒されている羞恥に、シリルエテルは足をばたつかせた。だが、もちろんジオリールの力をシリルエテルの体力で押し返すことなどできず、足は担いだ腕にきつく抱き止められた。手でどんどんと背中を叩くが、もちろんジオリールの鍛えた背中にそれは痛くもかゆくもない。

「暴れんじゃねえ。まあ、あんた程度が暴れても、落とさねえがな」

「何をなさっているのです、ジオリール、離して、歩け、ますから……!」

必死に抗議するシリルエテルの意見は聞き入れられず、ジオリールはさっさと城内へと続く扉へ向かう。一番先に立ち直ったのはチアルで、慌ててジオリールの後を追った。

「ねえ、ジオリール! 待ちなさいよ、まだ話は終わって……」

「……チアル、あまり調子に乗んじゃねえぞ」

今までの怒号とも苛立った声とも違う声で、ジオリールが視線だけでチアルを振り向いた。熱いが冷たい。背の凍るような迫力で、チアルを睨む。

「見て分からねえか? 話は終わっただろうが」

これまでは口出しを許す余裕を持っていたが、今は決して口を出させない、関与を許さない声だった。もしジオリールの言葉に従わなければ、この大きな猛獣を怒らせ、長年の付き合いのチアルであっても容赦なく敵に見なされるだろう。

さすがのチアルもその迫力に息を飲んで押し黙り、傭兵達も声を出せない。ジオリールはその様子をぐるりと睨みつけた。今後一切口出すな、という暗黙の視線であることを傭兵の全てが知る。ジオリールは最後にラクタムを見た。

「後、任せた」

「は!? いや、任されましても……」

しかしジオリールは既に城内に入ってしまい、バタンと勢いよく扉が閉まる。後に残されたのは呆気にとられた傭兵達。呆然としているチアル。今はジオリールよりもチアルに対して怒りの矛先を向けているスフィル。どうしようもない微妙な空気感。一体どうしろというのか、無茶な難題を押し付けられたラクタムはうなだれるように額に手を宛てた。

ジオリールが出ていくと、緊張が解けた。ざわりと傭兵達がざわつき始める。

みな、めいめいに、「あれが隊長の奥方かい」「てっきり鼻持ちなら無い貴族のご婦人かと思ったのによう……あれは……」「あんなもん見せられちゃあなあ……」などとそわそわし始める。チアルも苦々しい顔をして、俯いた。何か言おうと一歩前に出たスフィルを手で制し、ラクタムはようやくチアルに向き合う。

「お久しぶりです。チアル」

「……ラクタム。ねえ、あれが、ジオリールの嫁?」

「そうなる予定の方です。チアル……あそこまで、惚気と睦まじさを見せ付けられて、まだ諦めませんか?」

「なんなのあのひと……あんな、」

チアルはラクタムの問いには答えず、ただシリルエテルの顔を思い出して、呆れたように首を振った。

「あんな顔して……ジオリールになんで愛人なんて好きにすりゃいい、なんて言うのさ」