傭兵将軍の嫁取り

014.涙

中庭からシリルエテルを連れ出したジオリールは、暴れるシリルエテルを押さえ、黙って廊下を歩いていく。エノラートとのお茶が終わった後、ジオリールを呼んで一緒に執務室に来てくれ……と言付けられたのだ。通常ならば使用人を遣るところなのだろうが、エノラートがわざわざシリルエテルに頼んだ。ということは、ジオリールと共に傭兵の様子を見て来い、ということだろう。シリルエテルはこうした用件を疎ましく思うような女ではない。当然のことと受け止め、ジオリールを呼びに行った。

そこでなぜか、ジオリールの馴染みの傭兵……彼とはただならぬ関係にあるように見えた女性と、会ったのである。

シリルエテルは内心ひどく動揺し、動揺した自分に動揺した。自分の心の揺れの正体が何者か分からず、いつにもまして感情を押し殺す。そして気が付けば、なぜかジオリールの肩の上に担ぎ上げられ運ばれていたのだ。

「ジオリール! 何をなさって……離して下さいっ」

「離さねえ」

「自分で歩けます、急に何を……」

「急いでるんだよ」

「どこへ……」

「寝室だ。決まってんだろうが。ここで無茶苦茶にされてぇか」

「な……」

さすがのシリルエテルも平静ではいられず、何を言い出すのかと眉をひそめた。だが、連れて行かれたところは寝室ではなく、エノラートの執務室だ。扉を守る護衛を眼力だけで退かせ、蹴るように扉を開けた。執務机ではエノラートが老眼鏡を手に書類をいくつか検分している。シリルエテルとお茶を嗜んだあと、ジオリールに報告すべき案件について、ちょうどまとめていたところなのだ。

突然入ってきたジオリールにも慌てることなく、老眼鏡を少し下げて傭兵将軍を見やった。

「なんだね。さわがしい。私はシリルエテルをあんたの使いにやったはずだが? 抱えてこいとは言っていないよ」

「急用が出来ましたんで、用件は後で訊きます。かまわんですか」

おやおや……という顔をして、エノラートは肩を竦めた。

「切羽詰っているようだね。じゃあ、話は夕食後にしよう」

「すみませんね」

再びバン! と扉を閉めてジオリールが出ていった。暗に、「夕食までには用件を済ませろ」もしくは「夕食まではお前の自由」……と命じる。その機転はさすがエノラート……としか言いようがない。しかもこうして言質をとっておけば、シリルエテルも従わないわけには行かない。つまり「ジオリールの言うことを聞いておけ」ということだ。

また廊下を大股で歩いていく。まるで小走りに駆けて行くかのような速度で、ホーエン侯爵の使用人達とすれちがい、各々ぎょっとされたり道を空けられたりしていたたまれない。ホーエン侯爵が息子と同様に扱っているというジオリールは、我が城のようにホーエン侯爵家を闊歩できるらしい。迷うことなくシリルエテルに与えられた客室へと入り、その身体を抱えたまま片手で扉の鍵を閉めた。

部屋は居間と寝室が続きの間になっている造りだ。小さいが居心地がよいように作られていて、湯浴みのスペースもある。ちなみにその隣がジオリールが侯爵領を訪れる度に使っている部屋で、これも客用の部屋だ。

「ジオリール……?」

もはや離せ下ろせは諦めて、今度は一体何が始まるのか……という不安でシリルエテルの声が弱々しくなる。それでもジオリールは黙ったまま、居間を横切りまっすぐに寝室へと歩いた。寝台の前まで行くと、シリルエテルの履いている靴を引っ張って脱がせ、柔らかな身体をその上に下ろす。あれほど乱暴に運ばれたのに、何の衝撃もなくふんわりと寝台の上に沈みこみ、シリルエテルの身体は沈みこんだまま、浮上しない。ジオリールも靴を脱いで寝台に登り、シリルエテルの上に馬乗りになったからだ。

シリルエテルがジオリールを見上げる。何が始まるのか、という疑問は愚問のような気がした。見下ろすジオリールの薄い青い瞳はぎらりと熱を帯びている。自分は寝台の上で囲われていて、逃げられない。

「あ、の」

「シリルエテル」

「……はい」

「あんたは……俺が愛人を囲っても、平気なのか」

ジオリールの思いがけない問いかけにシリルエテルは瞳を丸くする。先ほど、チアルに似たようなことを投げ掛けられたばかりだった。ジオリールの口から今、それが出る……ということは、やはりあの女性はジオリールの恋人か何かなのだろうか。

自分は伯爵の地位が欲しいだけの、宮廷から押し付けられた妻だ。少なくともジオリールにとってはそれ以上の存在ではない。受け入れてくれているだけでも、感謝しなければならない。だから、もし……そのようなことになれば、自分はそれを受け入れなければならないと思っていた。

「ジオリールがそれを、の、ぞむなら……」

言うと視界がぼやりと陰り、同時にジオリールの大きなごつごつとした手のひらが頬に当てられた。薄い青い瞳が傷ましいものを見るような、苦しげな表情をしている。この強い……敵などいなさそうな大きな男が、このような表情を浮かべるのはなぜなのか。シリルエテルがぼんやりと首を傾げると、ジオリールが息を吐いて……太い腕をシリルエテルの背と寝台の間に入れた。身体を起こされ、抱き締められる。

「……なぜ、泣く」

「え……?」

「泣くんじゃねえ……」

ぎゅ……と、抱き締める腕が強くなり、戸惑ったようにシリルエテルが首を振る。

「泣いてなど……」

「泣いてるだろうが」

ジオリールが身体を離し、シリルエテルの眦(まなじり)をそっと指でぬぐった。視線を向けると、そこには透明な雫がついている。その雫をジオリールが舐め取り、シリルエテルの片方の手を取って頬にあてさせた。

自分の頬に手を当てたシリルエテルは、初めて涙を流していたことを知る。

「……わ、たし」

「さっきも」

「さっき……?」

「中庭で、だ」

「私、が、……?」

「そうだ」

ジオリールの短い返答に、シリルエテルの黒い瞳が驚愕したように見開かれる。

先ほど、中庭でチアルと向き合ったとき。

―――――妻としてそれが必要なことならば、否を唱えることはいたしません。

そう冷静に言ったとき、その声色の冷静さとは裏腹に、シリルエテルの真っ直ぐな瞳からぽろりと一粒だけ涙が零れ落ちたのだ。声の乱れも無く表情に揺らぎも無いのに、瞳だけがシリルエテルの胸の痛みを現したように涙を落とした。

ジオリールは、その直前まで、シリルエテルが「愛人を持ってもいい」……という風な意味の発言をしたことに憤っていた。お門違いの怒りだとは分かっていたが、それでも……自分の女関係には一切興味が無いらしい様子のシリルエテルに、苛立ちを覚えていたのだ。

しかし、シリルエテルの涙を見たときに頭を強烈に殴られたように目が覚めた。

「なあ、シリルエテル」

「……」

「何故、泣いたのか聞かせてくれねえか」

子供じみた愚かな質問だと分かっていた。だが、ジオリールはどうしても聞きたかった。シリルエテルは涙の理由に困惑している。

「わ、……わたし」

何故泣いたのかすら分からないのに、聞かせてくれと言われても答えることなどできはしない。けれども、ひとつ、シリルエテルには分かっていた。あの時、自分でも驚くほど動揺した理由、それは。

「ジ、オリールの……手が、」

「俺の手?」

「それが……他の人にも優しく触れるのだ、そう思うと……」

ぐ、とジオリールの胸が詰まる。

「そうなる、と、……もう私には触れなくなるのかと、おも、思って……寂しくて……」

チアルが「愛人になる」と言ったとき、その親しげな様子から、ああ、やはりそのような人がいたのだ……と、シリルエテルは思った。それならば、退く以外の方法をシリルエテルは知らない。チアルの身体は見るからにしなやかで、自分とは全く異なる。自分はいまだ寝台の上でジオリールに触れられると緊張してしまうし、気を遣わせてしまっているのだ。魔導師であるから子も出来難いだろうし、ジオリールに無理を強いる理由はどこにもないのだ。

そう、分かっているのに。

ジオリールが自分のことをゆるやかに忘れていくのかと思うと、寂しくて仕方が無かった。ジオリールに愛されるであろう他の女性がうらやましかった。あるいは自分が妻という立場でなければ、いや、愛し合ってから妻になればこのように悩まなかったのだろうか。

最初は、貴族の地位が目的なのだといううしろめたさから、せめて妻として出来る限りの義務を果たそうと思った。けれど、旅程を共に過ごすうちに、その決意が枷になってシリルエテルを苛む。行動は荒々しいのに自分に触れるときは優しくそっと扱うその手。全く甘くないのに、慈しみが隠された潰れたその声。それが離れることを思うと、その度に胸が傷んだ。

しかし、そんなことをジオリールに言えるはずがない。ジオリールに触れて欲しい、愛して欲しいというなどと、なんて贅沢なのだろう。それなのにジオリールはシリルエテルに優しく、もしかしたら愛してくれるかもしれないという期待を抱かせる。だが、自分は降って沸いたような妻だ。ジオリールに他に好い人がいたとてそれはごく当たり前のことで、もしそうであったとすれば無理やり押しかけてきた自分のほうが邪魔な存在だ。

ほんの僅かな邂逅だったけれど、チアルの艶やかさと正直さは眩しかった。彼女ははっきりと「ジオリールの愛人になりたい」と言ったのだ。そして、妻であるシリルエテルに堂々と相対した。一方シリルエテルは黙って、ジオリールの判断に任せた。自分の気持ちは押し黙って。

「……き、ぞくの身分が目的だと言い張ったのは私です……。それなのに……」

「シリル」

それなのに、それだけでは満足できない強欲な自分が浅ましくて、勝手に期待して勝手に悲しむ自分があまりに愚かで、さらに惨めになった。

「申し訳ございません」

「何が、だ」

「泣く、つもりは……」

「そんなこた、どうだっていいんだ」

そう言っている間も、瞬きするとほろりと涙が溢れる。それを見てジオリールは、もうどうしようもなくシリルエテルが愛しいのだと自覚した。シリルエテルは、この女は、ジオリールを欲してくれていたのだ。いちいち「妻」だの「夫」だのという壁を作っていたのは、自分とて同じだ。夫婦という関係性だけが2人を結び付けているのだと勝手に考え、それが無ければ、シリルエテルはどこかに行ってしまうのではないかと心のどこかで思っていた。そのくせ、「妻」という義務感を取り払え……などと、都合のいいことばかりを期待して。

互いに求め合っているのであれば、愛し合って一緒になった夫婦と全く変わらない。ジオリールはシリルエテルに怒りを向けそうになった自分を思い出し、舌打ちしそうになるのを堪えた。

「チアルは俺の女でもなんでもねえ、勝手に決めるな」

ジオリールはシリルエテルの手に自分の大きな手を絡めた。

「俺は、……愛人なんざ要らねぇ」

「ジオリール……」

「俺は、……お前、だけでいい」

「けれど……」

「俺はお前だけがいいんだよ、何度も言わせんな!」

ジオリールが声を張る。びくっ……と肩を竦めて、シリルエテルの黒い瞳がジオリールを見上げている。年相応だと思っていた表情は、まるで初めて男を知った女のように幼げだ。そのような表情にさせているのが自分だと考えるだけで狂おしい。

いつからシリルエテルに惹かれたか……となると、そんなものは分からない。最初は確かに、妻として与えられただけの女だったはずだ。だが、シリルエテルを見ているうちに、強いと思った瞳が急に弱くなったり、熱くなったりするのが気になった。次にはどんな表情を見せるのか。泣きはしないだろうか。笑わないだろうか。そんな風に思ってシリルエテルを視線で追いかける。その表情を自分だけのものにしてしまいたい。そう思った時点で、負けた。

「……お前は俺以外に欲しい男がいるのか」

「そんなはずがありません。私は……」

「ああ?……なんだ」

「その……」

「言ってみろ。……いや、言ってくれ」

シリルエテルが、自由な片方の手をジオリールの顔に伸ばす。言っていいのかどうか、葛藤するように唇が震えた。それでも、搾り出すように言葉にする。

「ジオリールだけが、よいのです」

「ああ」

は……と息を吐き、ジオリールがシリルエテルに覆いかぶさった。

「俺もだ、シリルエテル。お前がいいんだお前だけが……」

額に触れ、鼻を擦り合わせ、耳元から顎のラインを咥えるように唇でなぞっていく。一度シリルエテルの口元に舌で触れ、それから堰を切ったように柔らかな唇を奪いとった。幾度か角度を変えて噛み付くように唇を食み、シリルエテルが呼吸を付いたところに舌を絡め入れた。2人の口腔が繋がり、その中で舌がぬるりぬるりと触れ合って踊る。時折きつく吸い付かれ、ゆるく解放され、そうした交わりが長く続き、軽く触れ合わせたまま一息を付いた。ふ……とシリルエテルが息を継いで顔を横に向けると、頬を寄せ合うようにジオリールの唇が滑る。そのまま耳元に舌を這わせ、這わせながら、ああ……と感に堪えぬ幸福なため息を吐き、潰れた声でジオリールが笑った。

「お前が嫁でなくても、欲しくなっちまったんだよ」

「ジオリール……」

「どこにも行くんじゃねえ。気持ちも身体もだ」

「……はい」

「お前は俺のもんだ。……俺が守ると言っただろうが。守らせろ、頼むから」

「はい……わた、しも」

「ん?」

「夫でなくても……伯爵などではなくても……、あなた、が」

涙声で返事をし、潤んだ瞳で微笑んだ。それを聞いてジオリールが、背が震えるほど悦が走るくせに思い切り顔をしかめる。

「ああ、くそっ……あんまり煽るんじゃねえ……!」

刻みつけるように、再び深く蹂躙する。

柔らかな唇の上も下も、咥えるようになぞり、溶かすように唾液が零れる。舌がまるで身体を繋げているかのように濃密に絡まり合い、何度も角度を変えて吸い上げる。空気が混じるシリルエテルの吐息と肌は甘く、味わう舌を離すことが出来ない。

シリルテルの腕が持ち上がり、ジオリールの背に回され、さらに繋がりが深くなった。やがてゆっくりと、シリルエテルを抱き締めていた腕が下がっていく。ジオリールが好きなシリルエテルの腰の曲線を手繰り、もう片方の手が胸の膨らみを捉える様に這い上がった。興奮で吐息が荒くなり、その吐息のまま、濡れた舌の動きが首筋、耳元へと何度も往復し、……いよいよ、理性の糸が焼き切れる、その瞬間。

「……隊長! 隊長!!」

ドンドンと扉を強くノックする音と、叫ぶように自分を呼ぶラクタムの声が聞こえた。