傭兵将軍の嫁取り

017.傭兵将軍の怒号

アルカは領館がある土地から、馬で半日ほどのところにある。小さい集落ながら堅牢な石造りの礼拝堂があり、一度そちらで宿営を取った。翌朝、マンティコアが現れたという場所に移動する。

街道の右手が岩と草の斜面になっていて、左手が森だ。道を外れて森の側に足を踏み入れれば、すぐさま道に迷いそうなほど樹木が密集している。反面、右手は解放的だ。ところどころ大きな木が生えているのは、側に森林地帯があるからだろう。その場所が近づくに連れ、魔物の気配……というよりも、魔物が獲物を狩った後の独特の気配や臭気が強くなる。当たりには肉食獣が食い散らかしたような別の魔物の死体も転がっていて、それは何日も経っていないものだ。

獲物はすぐに姿を現した。

地面に下ろした囮の羊の死体を置き、所定の位置に着こうとした刹那、獣の咆哮が聞こえて太い足が猛然と地を蹴る音が響く。風に獣の匂いが混じり、その風がジオリールらの元に吹きつける。

「……全員下がれぇ!!」

ジオリールの怒号に反して、ラクタム、チアルが前に出る。弓と投擲槍を持った者が片方に退き、シリルエテルとスフィルも後方へと下がった。魔導師2人の纏う空気が魔力を孕んで緊張する。

グオオオオオオオオオオン!

咆哮とほぼ同時に、森の奥から人面獅子マンティコアが姿を現す。大人を横に5人も並べた程の体長の獣が、その体躯に似合わぬ素早さで街道をふさぐ様に跳躍した。

「スフィル……!」

「はい!」

< fixa donec engine moritur magicam frustrarentur……>
(魔を無に帰す陣を固定せよ。その首が落ちるまで……)

詠唱が開始される。それと同時にマンティコアの四肢へ槍が投擲され、縄を張った強弓が放たれた。

クフォ……!と、嫌な熱気がマンティコアの首元に集中する。獣が喉をぐるりと天に向け、瘴気の魔力が老人のような醜い人面の口元からずるりと零れた。

<terminus corpus et caput……!>
(魔力の発する境界へ……!)

しかしそれが形になる前に、シリルエテルの声にスフィルの声が重なる。魔導師2人から放たれた魔力が真っ赤な帯になり、きゅるりとマンティコアの首に巻きついた。魔法を見届ける前に思わずシリルエテルが膝を付いたが、それをスフィルが支え、腕を借りてなんとか後ろに下がる。

…………………グゥ!

マンティコアの咆哮は瘴気にならなかった。異常を察知した魔物の瞳がたちまち怒りにぎらつき、喉を地面にこすりつけるように暴れ始める。喉元から魔力が感じられない違和感に、パニックに陥っているらしい。シリルエテルとスフィルの魔法を知っているジオリールらの傭兵隊が、すぐさま近接戦を仕掛ける。森側からマンティコアの気を引いて牙を向かせ、尾を重点的に切りつけ始めた。

一方チアルらの傭兵隊は一瞬、呆気に取られた。見事に呪文が決まったことと、来ると思っていた瘴気が来なかったことに対して……だ。

グル……。

「何してんの! 四肢を引いて!」

叫ぶチアルの声に、マンティコアのサソリの尾が唐突に反応した。

「チアル、余所見するんじゃねえ!」

一番最初に気付いたのはジオリールだ。大剣を一振りして腹を切りつけたが、獣の筋肉に刃を取られて一歩遅れる。マンティコアがチアルの声につられて、サソリの尾から毒針を放った。

「……! 」

チアルの身体が反応し、周辺の傭兵らと共に盾を構える。それでもある程度のダメージは致し方ないだろう。覚悟を決めて、身体を捻る。

「シリルエテル様!」

<protege corpus ab labefactum!>
(衝撃を弾く壁となれ!)

しかし、予測していたダメージは来なかった。チアルと傭兵らを避けるようにぱらぱらと周辺にサソリの針が落ち、それらはチアルには届かなかったようだ。チアルが瞑目してしまった瞳を開けると、黒い髪が揺らめいている。シリルエテルが咄嗟に一番前に出て、防御魔法で自分をかばったのだと認識した。

息を付く間も無く、尾の攻撃は無駄だと悟ったマンティコアが一点を見た。

自分の魔力の一切が消え、その代りに魔力の集中した存在に狙いを定めて咆哮する。上げた咆哮は威嚇の類ではなく牙を剥いて武器にするためだ。視線の先には……シリルエテルが居る。後方を防御魔法の範囲に入れるために、一番前に出てしまっていた。獲物としては最適だ。

「くそっ、シリルエテル、下がってろ!」

ジオリールがシリルエテルをかばう様に出て、マンティコアの喉元に飛び込んだ。

「今だ、引け!」

ラクタムが叫ぶ。

「何やってんの、下がって!!」

同時にチアルがシリルエテルの身体を抱えて後ろに下げさせる。目の前に現れてすぐに消えたジオリールに、シリルエテルの動きが止まってしまったのだ。一瞬虚を突かれた様に立ちすくんだシリルエテルを押し倒すように、チアルが飛び込む。

ラクタムの声を合図にマンティコアの身体がずるりと後ろに引き摺られ、喉元のジオリールが剣を構えている姿が一瞬見える。だが、それは一瞬のことだ。クワッ……と開いたマンティコアの顎、口腔内に並ぶ血の付着した3列の牙。それらがジオリールに覆いかぶさるように、振り下ろされた。

「ジオリール……!?」

シリルエテルの眼には、ジオリールが自分らを庇ってマンティコアの牙に掛かってしまったように見えた。
遅れて、耳を押さえたくなるようなマンティコアの咆哮が響く中、シリルエテルが喉が裂けるかと思うほどに叫んだ。暴れて前に出ようとする身体を、懸命にチアルが押さえる。

「ジオリール……どこ!!」

「馬鹿っ、危ないから、下がって、下がれって!」

「でも……、ジオリー、ルが……」

「大丈夫、落ち着きなよ、まだ終わってないんだから!……ちょっとそこの仔リス! アンタのご主人を押さえて!」

前に出ようとするシリルエテルを、チアルに変わって懸命にスフィルが押さえる。

「シリルエテル様!……お願い、下がってくださいませ!」

「……っ、でも……っ」

これほどに取り乱したシリルエテルをスフィルは初めて見た。シリルエテルとて落ち着かなければならないと頭のどこかで理解している。叫びだしたくなる焦燥を堪え、一気に狭くなる心を感じながら、歯を食いしばってラクタムやチアルが指示している姿を見守る。

四肢を引かれた魔物は腹を地面につけ、フウ、フウ……! と荒々しい息を吐きながらのた打ち回っている。その間も後方に回っている傭兵達が尾に攻撃を集中させ、サソリの身体は地に上がった魚のように跳ね回った。戦いは終盤に見えた。しかし、ジオリールの姿は見えない。

終わりは唐突だった。

オ オオ オオ オオオオオオン

重い断末魔の音が響いて、マンティコアの尾が落ちた。暴れていた四肢がいつのまにか静まっていて、ずるずると地面を引く音だけになる。

「やったか」

チアルとラクタムがほっと安堵したようにつぶやいた。その声に、シリルエテルが顔を上げる。

「ジオリール……?」

「相変わらず、くっそ重てぇ野郎だな、ちくしょう」

地に臥したマンティコアの脇の毛皮の下から、ジオリールが這い出てくる。手にしていた大剣は無い。それは倒れたマンティコアの喉に深く突き刺さっているはずだ。

何パターンかある対四肢獣用の動きで、ジオリールが獣の喉元に場所をとった場合は、大剣で喉を下から上に貫いて致命傷を与える。今際の際に暴れるため、四肢を押さえつけ、他の傭兵達がとにかく攻撃を与え、尾を落とす。瘴気が止められていたのでマンティコアの正面に易々と入り込むことが出来、短時間でしとめることが可能だった。獣の牙がジオリールの正面に来るのも計算のうちだった。

もっともその計算は、シリルエテルが標的にされている……ということに気付いたジオリールが、咄嗟に算段して切り替えたものだ。さらにラクタムとチアルがジオリールの動きを察知して、弓手・槍手の攻撃に比重を持たせた。ここまで上手く形に出来るとは思わなかった。上出来と言えるだろう。

ジオリールがのっそりとシリルエテルらに近づく低い気配を感じて、チアルがおやおやと笑ってシリルエテルの身体を前に押した。

「シリルエテル……!」

その声は怒りを孕んでいる。

「なんで前に出やがった! 危ねえだろうが!」

誰が聞いても身を震わせずには居られないジオリールの怒号が響き、勝利の余韻にざわついていた傭兵達が一気に静まり返った。その怒号が、シリルエテルを想うあまり出てしまったものであれ、心配する気持ちの裏返しであれ、その類のがなり声がシリルエテルに向けられるとは傭兵らの誰もが思わなかった。

傭兵らははらはらしていて、スフィルですら目を丸くしていたが、チアルはニヤニヤ笑っている。大の大人の男が聞いても震え上がる傭兵将軍の怒鳴り声は、傭兵達の誰もが1度は経験したことのある恐怖体験で、シリルエテルにもそれを味合わせてやろうという、チアルのちょっとした悪戯心だった。

……の、はずだった。

「シリルエテルっ、聞いてんの……か……」

「ジオリール。勝手に前に出てしまって、申し訳ありません」

聞いてんのか!……と続けようとした声は、柔らかで凛とした声にさえぎられた。声量はジオリールのそれに比べると遥かに少ないのに、ジオリールの言葉を黙らせる。

た……と黒い髪の貴婦人が前に出てきて、ジオリールの頬に両手を伸ばした。

「でも、よかった。……ジオリール、貴方が、ご無事で」

「お、おう」

ジオリールの髭面が、かあ……と赤く染まった。周囲の傭兵らは信じられないものを眼にしたように、総じてぽかんと口を空けた面をしている。

「お怪我は?」

「……無ぇ」

「でも、血が付いて……」

「これは、俺の血じゃねえ。返り血だ、おい、近っ……」

これは返り血だから近づいてはいけない。……という類の言葉を吐こうとしたのだと思われたが、それを命じる前に、シリルエテルは血濡れた墨黒の鎧に魔法衣が汚れるのも気にすること無く、抱き付くように身体ごと近付いた。ジオリールの頬を、細い指が包み込む。

「……よかった」

潤んだ黒い瞳で見上げられ、泣き笑いの表情で首を傾げたシリルエテルに、ジオリールの身体がガチリと固まった。間を置いて、両手がシリルエテルを抱き寄せようとわきわきと動いている。ジオリールは一瞬自分の手を見て、がしがしとマントで手を拭き、……壊れ物に触れるようにそっと肩を抱いた。

「怪我は無ぇか?」

「ありません」

「魔力は」

「急に減ったときに少しふらつくことがあるだけで、今は大丈夫です」

「そうか。それなら、いい」

恐る恐る、ジオリールがシリルエテルの背に手を回す。ぎゅ……とは抱きしめずに、子をあやすように、ぽんぽんと背中を叩いていた。

****

主に傭兵将軍の怒気を消し飛ばし、なだめ、一気に甘い雰囲気に持っていった奥方について。

勝利の余韻も吹き飛ぶ奥方の手管に呆気に取られていた傭兵達だったが、頭を振り振り徐々に立ち直り、後始末を始めた。ジオリールはシリルエテルを片腕に抱いたまま、指示を出そうとしている。その様子を面白くなさそうに見つめていたのが、スフィルだ。ぷう……と頬を膨らませて2人を見守っていたスフィルだったが、突然、たたっ……!と駆けだして、シリルエテルの名を呼んだ。

「シリルエテル様!」

丁度指示の合間に一息ついたジオリールの太い腕が、さて、シリルエテルの腰を1つ抱きしめてやろうかと、深く絡みついた絶妙のタイミングでスフィルが主の名前を呼んだ。呼ばれたシリルエテルはジオリールの腕からするりと離れ、忠義な弟子に微笑む。

「スフィル……取り乱して、ごめんなさいね」

「いえ、いいえ! すばらしい呪文でした。魔力の消費は大丈夫ですか?」

スフィルはさりげなくシリルエテルの両手を取っている。

「ええ、大丈夫でした。スフィル。貴女も呪文の拡張をよく合わせてくれましたね」

そう言ってシリルエテルが笑顔でスフィルの術を褒め、肩を抱いて赤金色の髪をやさしく撫でた。完全に片腕がお留守になってしまったジオリールが、青筋を浮かべんばかりの形相をしていたが、さすがにシリルエテルの前で妙な真似をするわけにもいかず、憮然とした様子で2人を見守っている。

そんなジオリールに、シリルエテルの腕の中からスフィルがちらりと視線を向け、……むふっと笑って見せた。それも一瞬のことで、スフィルが「あのぅ、シリルエテル様」と背伸びをし、シリルエテルに何かを耳打ちしている。

今のスフィルの表情は何だ……?とジオリールが怪訝に思っていると、シリルエテルがスフィルから離れてジオリールの正面に来た。再びしっとりとした黒い瞳で見上げられ、身体が胸板に触れるほど近付き、そっと細い手がジオリールに掛かる。

「ジオリール。あ、の……」

「おう……なんだ」

「お願いが、あるのですが……」

シリルエテルの頬がほんのりと染まっていて、常のようなおとなしやかな表情ではなく、何かを求めているようでジオリールは年甲斐も無くうろたえた。

****

怪我人の治療や休息など、ひとしきり指示を終えたジオリールが、むっつりとした顔で座り込んだ。視線の先はマンティコアのサソリの尾の様子を、なにやら確認しているシリルエテルである。ポっと頬を染めながら愛らしい表情でジオリールを見上げた妻のおねだりは、「マンティコアのサソリの尾針を採集したいのですが」という色気の全く無い内容だった。

いや、別に怒るほどのことではない。何かを期待したわけでもないのだ。しかし行き場を失った腕と共に、妙な敗北感が残る。分かってやったのだろう、絶妙のタイミングでシリルエテルの興味をジオリールから引き離したスフィルが実に腹立たしい。

「アンタの嫁、変な女だね」

ジオリールが視線を傾けると、チアルがニヤニヤ笑いながら立っていた。ジオリールも今は近付くなと跳ね除けるでもなく、ふん……と鼻を鳴らす。

「いい女だろうが」

チアルがジオリールの言葉に、あははっ……と笑って隣に座った。

「そうね。アンタが絶対近付かなさそうな女だ」

「……」

ジオリールが憮然とした表情で押し黙った。確かにそうだ。今までジオリールが好んで側に置いた女は、言ってみればチアルのような張りのある身体と、気風のいい派手やかな性格の女が多かった。何しろ、そういった女の方が感情の機微がはっきりと分かる。シリルエテルのように感情の起伏の少ない女は苦手で、なおかつ貴族のように淑やかで触れれば壊れそうな女とは縁が無かった。

「宮廷とやらも、よくもまあ、あの人とアンタを引き合わせたもんだわ」

その通りだ。どういった偶然なのか、単に丁度いい女がいなかっただけなのか……。奇縁といえる。もっとも、今更「やっぱり返せ」と言われたところで返しはしないが。

黙ったままジオリールはシリルエテルをじっと見つめている。チアルも同じように視線を向けた。視線の先では、シリルエテルとスフィルが手を怪我しないように、そっとナイフでマンティコアの尾針をつついている。その周辺をもの珍しげに傭兵達が囲み、時折ラクタムが何に使うのか、どのように使うのかを質問していた。

シリルエテルはその質問に丁寧に答えながら、尾針を布に包んでいる。普通の女なら気持ち悪がって近付かないだろうマンティコアの死体も平気で、ジオリールの怒号などそよ風か何かか……とでもいうように、変わらない表情で受け止める。ジオリールの妻になる女は、そういう女だ。

「チアル、手出しすんじゃねえぞ」

「さあてね」

ジオリールがじろりと睨みつけたが、チアルはにんまり笑って肩を竦めただけだ。しかし、もう大丈夫だろうと思えた。何も言い返さずに、立ち上がる。シリルエテルがジオリールに気付いた風に振り返り、ふ……と瞳を和らげた。それに頷きだけを返して、「てめえら!」と咆哮を上げる。

「帰還だ! 死体の始末をつけて帰るぞ、準備しろ!!」

おう!……と傭兵達から声が上がり、ジオリールらは帰還の準備を始めた。