傭兵将軍の嫁取り

020.傭兵将軍と奥方

カルバル王国の首都王城、宰相の執務室から1人の魔導師が姿を現した。魔導師は扉で一礼してを踵を返す。

宰相の執務室から廊下を少し渡るとすぐの場所に、魔導師に与えられた部屋がある。麦わら色の髪に緑の瞳のこの魔導師の名前はイリド・ワズワースという。カルバル王国の主席魔導師が、彼に与えられた身分だった。

イリドは自らの部屋に戻ると、執務机に置いてある二枚の書類を指でなぞった。傭兵将軍と呼ばれるジオリール・グレゴル伯爵が、無事に与えた伯爵領に入り領政の任務に着いたことの報告と、ホーエン侯爵を結婚の後見としてジオリール・グレゴルとシリルエテル・リーンが夫婦となった婚姻証明書の写しだ。個人的な調査事項として、すっかり仲睦まじい2人の様子も情報として受け取っている。

それを満足げに眺めて、ふ……と笑うように息を吐いた。

グレゴル伯爵が、道中にて食人鬼オーガに襲われながらも妻と協力して撃退し、無事に伯爵領に入った……と聞き、宰相は、ふん……とつまらなさげに瞳を鋭くさせただけだ。もちろん、その顛末は宰相自身の手柄として国王に報告している。北の領地にグレゴル伯爵を配しての守りの強化、そして祝い事をまとめたことに対して、国王は頷いた。

この程度のことで宰相がジオリール、そしてシリルエテルから興味を失うのであれば、手柄を立てさせることくらい安いものだ。すでに宰相の息子が騎士団の要職に着くことは決まっている。何事もなければ、辺境の地に去った傭兵将軍にかまうことも無いだろう。

傭兵将軍ジオリールはイリドの友人だった男だ。……否、今でも友人だと思っている。

この先、もしもイリドが宮廷を追われるようなことになれば、巻き込むことを承知でジオリールを頼るつもりだった。そしてもし、ジオリールが宮廷につながりが必要になれば、どれほど自分の立場が悪くなってもかならずそれを受け入れる。もちろんそうした約束をしたことはないし、イリドの独りよがりかもしれないが。

2人の道は別れているが、それが再び交差することに何の憂いもなく、無理に交差させることも無い。2人はそのような友人なのだ。

沈黙呪サイレントの首輪と魔法鎧マジックアーマーのを呪符を宰相に渡したのが俺だと知れば、あんたは呆れるかもしれないな」

それでも、ジオリールは何の苦も無く倒すはずだとイリドには確信があった。なにしろ、ジオリールの側にはあの女性ひとがいるのだから。

「もうこれで、何の心配もない。ジオリールはきっとあの女性ひとを愛して守る。そうだろう。ジオリール」

むしろ、ジオリールにはもったいないくらいだ……と口の中でつぶやく。

シリルエテルをジオリールの妻に……と手配したのはイリドだ。シリルエテルはジオリールが側に置きそうな女ではなかったが、一目会えば必ず惹かれるだろうことは分かっていた。淑やかで、強かで、弱い。その強さと弱さに、ジオリールは心惹かれるに違いない。それにシリルエテルも、ジオリールの荒々しさを包みこんで、その奥にある情や熱さをきちんと受け取るだろう。

イリドは2歳年上の、シリルエテルのことを思った。自分の心が狭くて、いまだ会うことの叶わぬ黒髪の女性。死んだとはいえ、ノイル侯爵という男の未亡人にさせておくのが嫌で嫌で、やっとこうして自分の信頼できる男に預けることが出来た。

人にすがることを知らず、幼い妹を手放した罪悪感を心に押し込め、弟に魔導師としての学び舎と活躍の場を与えるために、自分の身を枯れた老人に売った女性。しかしその弟は、姉を奪った男の金で魔導師になった自分に嫌気が差し、あの男の手駒として出世しなければならない自らの立場を捨てるため、姉に黙って戦場で姿を消したのだ。

シリルエテルにすれば家族を全て失ったことになる。そのような身でありながら、シリルエテルは誰に不満を言うこともなく、己の身を不幸に思うこともなく、強かに生きていた。無論、戦場で姿を消した弟も生きていた。弟はノイルが死んでから、何度姉に会いに行こうと思ったか知れない。しかし、姉が我が身を売って与えてくれた機会をむざむざ放棄し、あまつさえ死んだと思わせた自分の身で、今更どんな顔をして会いに行けるというのだろう。そう思って、ずっと機会を逃したままだった。年月が経てば経つほど心が硬くなり、狭量なことよと分かっていても会うのが怖い。

……いつか、なんのわだかまりもなく再会出来る日が来るのだろうか。

シリルエテルは、魔導師の腕も知識と呪文の構築も弟など遥かに凌駕し、一族の長にふさわしかった。しかし、もう恐らく家名は残らず、ただ静かに血筋が残っていくだけになる。それでも別段かまわない……と、自分たちは笑うだろう。ただ、彼女らが幸せであってくれればいい。

心残りは妹のことだけだった。手を尽くして調べたが足取りがつかめず、どこで生きているかは分からない。ただ死んでいるとも思えなかった。それはシリルエテルも分かっているはずだ。

このカルバル王国で、リーン家の魔導師シリルエテルが美しく立っていつでも待っている。姉はここだと笑っている。自分達にとっては、それが何より大切だ。

機会があれば、いつか会えると信じていられる。
会えなくても、幸せであることを祈っていられる。

それで十分なのだ。

「そうでしょう。姉上。ハウメア」

懐かしい姉妹の呼び名を口に乗せ、イリド・ワズワースの緑瞳が、一瞬黒く輝いた。

彼の本当の名前は、オルクス・リーンという。それを知っているものはどこにも居ない。

****

「アシュラル卿は、そんなにも、お強かったのですか?」

「そりゃあ、俺なんかよりも数段な。あの年で死ぬ寸前まで、親父にゃ勝てなかった」

「70歳を越えてらしたのでしょう?」

「ああ、化け物みてえだろ」

「……ジオがそんな風に言うなんて。お会いしてみたかったですわ」

「親父はシリルを見たがっただろう。何を言われるか分かったもんじゃねえな」

「ふふ。どんなことをお話くださるでしょうね」

グレゴル伯爵領ケテン砦の裏手にある林を、2人の男女が散歩するようにゆっくりと歩いている。1人は大きく逞しい体躯の男。もう1人は細身の黒い髪の女で、その女は両手に抱えるように白と黄色の野の花束を持っていた。林といってもだいぶ人の手が入っている。目的地までの道のりには背の高い木々が整然と配されていて、整備された道は北の地独特の濃い緑で彩られていた。

濃密な緑の香りに包まれて道を少し歩いた先には、ケテン砦という蛮勇の砦には不似合いな美しい墓地があった。代々この地を守ってきた領主の墓、そのもっとも新しい墓碑の前に行く。

ジオリールとシリルエテルがグレゴル伯爵領に入り、1ヶ月が過ぎた。領地に無事到着した旨とホーエン侯爵が仲人となった婚姻の証明書を首都に送ると、労を労う言葉と、婚姻を寿ぐ形式的な書類が返送された。もっとも、政治の思惑がどうであれ、既にそのようなものは2人の間に関係は無かった。2人は、ホーエン侯爵の5男で元々この地を執政していたバーニル・ホーエンの補佐を受け、共に領政を執る準備をしている。ジオリールは執政よりも剣を振るう方が気が楽だと、渋い顔をしているが。

この1ヶ月は領内の民に姿を見せたり、宴席を設けたりと忙しかった。先代グレゴル伯爵を慕う者は領内に多く、それゆえ養子であるジオリールを見知っているものももちろん多い。戦で武勇を上げて爵位を得、奥方を連れて、新たな領主としてこの地に戻ってきたジオリールを、領民は歓迎のムードで受け入れた。

そうして、今日。ようやく2人でゆっくりと、何もしない数日間を作ることができたのだ。

シリルエテルが先代グレゴル伯アシュラル卿に自分達のことを報告したいとジオリールに申し出た。そういえばジオリールは養父が亡くなってから、墓参していないことに気付く。元よりそんな湿っぽいことが柄でないことと、あまりグレゴル伯爵領に寄りつかなかったということもあった。

「ここに来たのは親父が死んじまって以来だな」

ジオリールは近所に遊びに来たかのような気安い声で言って顎を撫でる。その様子にシリルエテルが優しく微笑み、アシュラル卿の墓碑とジオリールを交互に眺めた。

それほど華美ではないが、よく手入れされているのだろう。墓は綺麗に調えられていて、傍らにはバスタードソードが捧げられている。独身の男の墓にしては大きい造りで、銘にはただアシュラル卿の名前だけが刻まれていた。

シリルエテルが墓碑の前に進み、しゃがみこんでそっと花束を置いた。墓碑に触れるか触れないかのところに片手を翳し、その手を自分の額に触れて瞑目する。祈りの形をとっていると、傍らにジオリールがしゃがみこみ同じように祈っている気配を感じた。

先に立ち上がったのはジオリールで、そのすぐ後にシリルエテルも立ち上がる。

報告したのは、自分がジオリールの伴侶であること。この北の地で領民を守って生きていくこと。何があっても自分はジオリールの傍らにあることだ。そしてもうひとつ、出来れば生きている貴方に会ってみたかった、と。

ジオリールが満足げな妻の腰に手を伸ばして抱き寄せた。突然の動きにシリルエテルの身体が揺れて、腕の中にすっぽりと収まる。

「ジオリール?」

不思議そうに自分を見上げるシリルエテルを見下ろして、ジオリールはゆっくりとその黒い髪を梳いた。自慢の妻だ。どうだ、賢くて……おまけに美人だろう。そう言葉にしては言わなかったが、ジオリールは墓碑に向かってニヤリと笑って見せた。

こうしてそれぞれ物言わぬ対話を済ませると、「さてと……」とジオリールがシリルエテルの身体に本格的に腕を回す。シリルエテルが思わず身を退こうとすると、その前に、ちゅ……と耳元に吸い付いた。

「行くか、シリルエテル」

耳に走った感触に、くすぐったそうに肩を竦めたシリルエテルが、ジオリールを見上げる。

「ん……戻りますか?」

「いいや。ここから少し外れたところに湯が沸いてるところがあるって言ったろうが」

「ええ。この辺りには、温泉があるのでしょう?」

「見たいと言ってただろ。連れて行ってやる」

「え、今から……ですか? でもスフィルには言っておりませんが……」

「かまわねえ。ラクタムとバーニルには言ってあるからな」

けれど……と渋るシリルエテルの身体が浮いた。途端にシリルエテルの顔が真っ赤になる。

「もう! ジオリール、分かりました歩けます、歩けますから!」

「ああ? 何が不満なんだ。担いでねえだろうが」

「そうではなくて……ジオ、下ろして!」

「さあてな」

ジオリールはシリルエテルの身体を横抱きにして、アシュラル卿の墓を振り返った。

「じゃあな、親父、また来る」

「ちょっと、も、お、おろしてください……」

器用にシリルエテルの唇に触れて意地悪く笑うと、ジオリールは墓碑を背に歩き始める。愛馬は少し歩いた林を抜けたところにある。スフィルに言えば絶対に着いてくる……と言うだろうから、ラクタムとバーニルに言い付けて荷物は準備させておいた。シリルエテルの分は、バーニルの妻が上手く用意してくれたようだ。

こっそり門番に預けておいた荷を取りに行って、シリルエテルと2人で、目的の場所までは1日もかからない。シリルエテルは温泉を辿り、魔法で何とか砦や集落の多いところまで引けないかと算段しているようだが、もちろんジオリールの目的はそれだけではない。温泉の近くには小さいが感じのよい湯番所を兼ねた宿屋がある。2人で野趣溢れる温泉に入って、さてどうしてやろうか。

「あの仔リスみてぇな侍女がな、お前を運ぶときはこうしろってよ」

「スフィルったら……!」

じたばたと動くシリルエテルをあの手この手で大人しくさせながら、楽しげにジオリールは林の道を戻っていく。

一陣の風が吹いた。

緑と花と、そして金属を打ったような頑なな香りが混じっていて、シリルエテルとジオリールの背中を優しく押す。

――― いい歳になって見せつけるなクソガキどもめ。

遠ざかっていく墓碑から、呆れたような、しかしとても楽しげに笑う声が聞こえた気がした。