カルバル王国北方の辺境の地。この地を領地として治めているのが傭兵将軍ジオリール・グレゴル伯爵……で、その奥方シリルエテルに仕えるのが、侍女スフィルの役割だ。
スフィルの一日は、早い。眼を覚まして身支度を調えると、主 (もちろんシリルエテルである)が住まう居住区へ向かい、他の侍女と共に部屋を調える。主が好んで淹れるお茶の用意、主が好んで口にする小さなお茶菓子を補充、部屋の端々に施してある敵避けの魔力がきちんと作動しているかどうかの確認。隣の部屋では給仕の手によって、朝食の準備が始まっている。ただ、主が起きるのはもう少し後だから、温かい食べ物を給仕するタイミングが難しい。指示しなければと心に留める。
「さて」
スフィルは主が居住している一画のもっとも奥、主寝室の扉の前に来ると服の裾を払って、す……と息を吸い込んだ。
コンコン……と控えめにノックする。
「シリルエテル様。おはようございます。お目覚めですか?」
「起きています。お入りなさい、スフィル」
今日は当たりである。鈴の鳴る様に澄んでいて、空気を含んだ涼やかな声は、スフィルの大好きな主の声だ。この声がスフィルの入室を許可する日は、勝ちだ。
「失礼します」
部屋に入ると、すでに身支度を調えたシリルエテルと、その夫の姿があった。シリルエテルは髭面……ではなかった、夫のジオリールの服の合わせに手を掛け、身支度を手伝っているようだ。入ってきたスフィルに柔らかく微笑み、首をかしげる。
「おはよう、スフィル」
「はい! おはようございます、シリルエテル様」
「早ぇな……」
ふん……と面白くなさそうな枯れ声でつぶやいたのはジオリール。シリルエテルの夫であり、傭兵将軍と呼ばれるその人だ。ジオリールの不機嫌そうなつぶやきはさらりと無視して、逆にスフィルは上機嫌に頷いた。
「朝食の支度が出来ておりますので、準備が整いましたらおいでくださいませ。今日はシリルエテル様の好きな、えんどう豆のスープでした」
「ええ。ジオリール?」
「おう。行くか」
シリルエテルがジオリールを見上げると、両手で腰を深く抱き寄せて口付けを落とそうとしている。ぴく……とスフィルは青筋を浮かべ、「シリルエテル様。……と、ジオリール様」と、咳き込む。シリルエテルの顔がジオリールの胸に囲まれ、こちらを向いていない時に、スフィルが半眼でジオリールを睨みつけた。ジオリールもシリルエテルの顔を自分の胸に隠し、スフィルを見返す。
「……なんだ、すぐに行くと……」
「……いいえ、ジオリール様」
恐っろしく低い声でジオリールを黙らせた。
「スープが冷めますわ」
ジオリールがシリルエテルを抱き寄せる時間よりも、シリルエテルの好きなスープが冷めないことの方が、重要である。
****
朝食が終わり、ジオリールを執務室に送り出した後、やっとスフィルは一息つくことが出来る。今日の昼はジオリールは傭兵達と共に訓練で、昼食は彼等と一緒のはずだ。スフィルには全く関係がない。むしろ音沙汰が無くて好ましいほどだ。
午後のお茶の時間までシリルエテルを独り占め、……もとい、仕事を手伝うことができる。
スフィルは魔導師でもあり、シリルエテルの弟子でもある。このため、通常の侍女が行う仕事とは別に、シリルエテルの魔導師として研究を手伝うことを許されていた。今取り掛かっている案件は、つい先日、砦の近くに発見した温泉の湯を城に設える件だった。水を引くのと同じように温泉の源を引くのだが、温泉の泉質で管が傷まないように線を補強したり、源泉の位置を魔法で補修したり……魔導師のやることは多い。施設に魔法の力を行使することは、この国では普通のことだ。とはいっても、魔導師の数が多いわけではなく、こうした設備を整えることが出来るのはお抱えの魔導師を得ている領主か、首都くらいなものである。
グレゴル伯爵領は、北の辺境の地であるにも関わらず、優秀な魔導師シリルエテルとその弟子スフィルの活躍によって、そうした設備を得る事が出来ていた。
「主寝室と……客室、それから使用人用の共用と、兵士のための共用、応用は難しくないでしょう」
城の図面と魔法の図面を重ね合わせながらシリルエテルが呪い語を書きとめていく。それをスフィルも自身の帳面に書き込んでいく。すべての語をシリルエテルが書き込めば、そこからはスフィルの質疑応答が始まる。何に使うのか分からない呪い語や、応用の方法、まだまだ学ぶことの多い魔法の言葉を解き明かす時間だ。
ふと覗きこんだシリルエテルの真剣な横顔が、あまりにも綺麗でスフィルは一瞬見蕩れ、ほう……とため息を吐いた。
その時だ。
シリルエテルの首筋。ちょうど鎖骨と首筋の境目。髪を下ろすことが多いシリルエテルの黒髪に、ちょうど隠れるか隠れないかの辺りに、ぽ……と小さな赤い痣があるのを見つけた。
「ぬああああああっ!?」
「スフィル?」
どうしました? と首をかしげると髪の毛がはらりと掛かって、赤い痣は無かったように見えなくなる。なんという巧妙な位置。
何の赤い痣か……などと言わずと知れている。シリルエテルとその夫の仲睦まじさは、砦に住まう者達は誰もが知っているのだ。この傭兵将軍という男は、もう若い年齢ではないくせに、そこらの若い男衆よりも体力がある。その体力を如何なく発揮して、朝になっても妻のシリルエテルを部屋から出さないことがあるのだ。これは、この痕は、そうした時に付けられたのに違いない。
シリルエテルの綺麗な白い肌の上に、わざと、そんないかがわしい痕跡を残すなど。
いち早く気が付かなければと、スフィルはいつも気を遣っているのだが、シリルエテルは浴室を使う時も着替える時も侍女を使わない。特別なドレスに着替えるときなどはスフィルの手を借りるが、それ以外はほぼ一人で、気が付きたくても気が付けないのが痛いところである。もちろん回復魔法で消すことも出来るのだから、シリルエテルの肌にそうした痕が残されてはいないと信じたい。
余談だが、ジオリールの着替えや湯浴みの世話はシリルエテル自身がすることもある。常日頃から、一人でやれこの野郎と思っているのはスフィルだけの秘密だ。
さて、このように普段はシリルエテルの肌を見ることが無いので、目に見えないところに付けているのだとしたらスフィルには分からない。今日の傭兵将軍は早く起きていたし、ずいぶんと素直にシリルエテルを離していた。さてはこれで満足したのではなかろうな……。
「シリルエテル様、少し失礼いたします」
「え?」
びしぃ!……と、シリルエテルの首筋に手をあてて短く呪文を唱える。呆気に取られた表情のシリルエテルだったが、スフィルが何をしたのか感付いたようだ。ふっと顔を赤くする。困ったような嗜めるような顔で、「スフィル……!」と小さく呼んだ。
「虫に刺されておりました」
「……そ、そう。ありがとう」
どう見ても信じている顔ではなかったが、それ以上はお互い口を慎んだ。ああ、それにしてもいつも冷静な表情のシリルエテルが、頬を染める様子は侍女のスフィルから見ても魅力的だし、これはこれで、なんだかすごくいいものを見たような気持ちになる。
「いいえ、おきになさらず」
スフィルは自分の仕事にいたく満足して、笑顔で頷いた。
****
一転して、午後のスフィルはご機嫌斜めだった。
城を守る護衛達と傭兵らの鍛錬を終えて執務室に戻ってきたジオリールのところに、シリルエテルが午前中にまとめた魔法の図面を持って行った。日を改めて石工や築城の技術者などを交えて打ち合わせをする……と言っていたので、すぐに戻ってくるかと思っていたが、一向に戻ってくる気配が無いのだ。用が無いのに執務室まで押しかけるわけにもいかず、折角のお茶の時間も1人になってしまった。ホーエン侯爵からもらったお菓子を出しましょうねと言っていたのに、ジオリールはシリルエテルを捕まえて一体何をしているのだろう。
食堂で紅茶を淹れ、1人お茶を飲んでいたスフィルは悔しげに息を吐いた。
「……昼間っから……いかがわしい……!」
どうやら、いかがわしいことは確定らしい。スフィルが黒いオーラを噴出しつつお茶のカップを握り締めていると、ほんのりと甘い揚げ物の香りがして思わず顔を上げた。
「あら、ラクタム様」
「こんにちは、スフィル殿」
傭兵将軍の副官ラクタムが、小さな器を持って爽やかな笑顔で立っている。甘くていい匂いにつられて、スフィルはラクタムの顔と器を交互に眺めた。その視線に優しく笑って、ラクタムがスフィルの隣に座る。
「……お茶の時間ですので、いかがですか? 厨房のまかないだそうですが。美味しかったら、砦でも出そうかと言っておりましたよ」
「お菓子、ですか?」
「いつものパンを柔らかく甘めに作って、揚げたものだそうです」
「よいのですか?」
「熱いうちに、どうぞ」
ラクタムは粗野な傭兵達の中にあって、珍しく振る舞いにそつの無い戦士だ。正式には傭兵ではなく、ジオリールに仕えている副官という立場である。スフィルに接してくる態度も非常に紳士的で、貴族的なところがあった。それもそのはずで、彼はグレゴル伯爵の上司であるホーエン侯爵の孫らしい。次男だから気楽だと言っていたが、どちらかというと彼自身は戦士というよりも文官というほうが似合いそうだった。だが、戦士としての腕も相当立つことを、スフィルは知っている。
そのラクタムは、なぜかスフィルによくお菓子などを振舞ってくれたり、休憩時間に砦の中庭を案内してくれたり、薬草園の世話を手伝ってくれたりする。シリルエテルやスフィルが作る薬や、魔物の素材の使い方にも興味があるらしく、そのような面もまた学者か何かか……という風情なのだ。魔導師のスフィルにとって、なんとなく話のしやすい男だった。
ラクタムが持ってきた小さな揚げ菓子を一口つまむ。
外側がカリカリ、中がふんわり。噛むと熱い空気が控えめな甘さに混ざって、しゅわりと口の中に広がる。
「おいしい」
「そうですか。よかった」
スフィルの顔が思わず綻ぶと、ラクタムも釣られたように微笑む。ラクタムの笑顔を見ると、スフィルは何故かほっとしてしまうのだ。昔ノイル侯爵のところに居た頃は、1人で居るときにノイル侯爵や侍女達に変に目をつけられないように振舞っていたため、なんとなく人を疑ったりするくせがついてしまった。主に対しては微塵もそんなことは思わないのに、それ以外の人に対してはどうしても敵意を先に持ってしまう。しかし、ラクタムに対してはどちらかというと気を許す自分がいるのだ。ジオリールへの愚痴を言っても大人しく聞いてくれるし、こうして時々スフィルの知らないお菓子をくれる。
「まかないだけなのはもったいないですね。素朴な甘さはきっとシリルエテル様も好まれますわ」
「では、そのように厨房に申し付けておきましょうか」
「私が行ってきますわ。副官のラクタム様にそんなことはさせられません。折角なので熱いうちに出せるかどうか、聞いてみたいですし」
「それならば、一緒に行きますよ」
親切だなあとスフィルは思う。けれど……。
「でも、もうちょっと食べてから」
「では私もいただきましょう」
1人でぱくぱく食べるのも恥ずかしかったので、ラクタムも一緒に食べてくれてスフィルはやっぱりほっとした。シリルエテルの首筋に残っていた痕のことも、いつまでたってもジオリールの執務室から帰ってこないことも、今はとりあえず置いておく。揚げ菓子のほんのりとした甘さにも似た、この空気がスフィルは嫌いではない。
****
結局シリルエテルはジオリールと一緒になって夕食の時間に戻ってきた。仲睦まじいといえば聞こえがいいが、シリルエテルがほんのりと色っぽいため息を吐いていたのでスフィルは歯噛みをする思いだ。しかし、ジオリールはまだ若干仕事が残っているらしく、夕食を終えたらすぐにシリルエテルを置いて執務室へと戻ってしまった。なぜ仕事が残っているかは大方予想がついている。自業自得だ。ざまあみろ。
夕食を食べ終えたシリルエテルが1人で読書をしている間に、浴室と夜着の準備などをする。今日は夫のジオリールが残業中なので安全安心のはずだ。
「シリルエテル様。湯浴みの準備が整いました」
「ありがとう。……ジオリールはまだかしら」
ここでもたもたしているとジオリールがやってきて、やれ一緒に入るだの身体を流せだの言ってくるのだ。却下である。
……というのも、一度ジオリールと一緒にシリルエテルが浴室に入り、ひどくのぼせてしまったことがあったのだ。ジオリールもそのときは反省したが、反省を踏まえて改良を行っているらしく、何回かに1回はスフィルの眼を盗んでシリルエテルを浴室に連れて行く。以降、のぼせるようなことは無いが、それでも気が気ではない。
そもそも浴室は湯浴みをするところであって、夫婦がいちゃつくところではないのだ。
「ジオリール様がお戻りになる前に、先にお使いになってはいかがですか?」
そう言ってスフィルはシリルエテルを浴室へと向かわせ、その間に冷たい飲み物を用意する。仕方が無いので、ジオリールが好んで飲む酒も切れていないかどうかを確認して、柔らかな拭き布の用意、寝台の用意などを他の使用人と共に整えていると、仕事を終えたジオリールが戻ってきた。思ったより早い様子に、スフィルは思い切り顔をしかめた。
その表情を見て見ぬ振りをしたジオリールが、上着を脱ぎながら室内をきょろきょろと見渡し、誰にともなく問いかける。
「シリルエテルは?」
「湯浴みをなさっておいでです」
「ああん……?」
ジオリールが片方の眉をぴくりと上げて、面白くなさそうな顔でスフィルに視線を止めた。「先に入りやがったのか……」などと、ぶつぶつ言っており、スフィルは作戦が成功したことに内心ほくそ笑んだ。
……が。
「まあいい」
す……と、ジオリールがスフィルの横を通り過ぎようとしたので、負けじとその通路を塞ぐ。
「邪魔だ」
「ジオリール様」
「ああ?」
「どちらへ?」
「風呂だ。決まってんだろうが」
「あらまあ、まだシリルエテル様がお使いになっておりますわ」
わざとらしい顔でにっこりと笑うスフィルをジロリとジオリールが睨むが、この仔リスは傭兵達を怖がらせる将軍の視線にもまったく動じない。ジオリールは、ふん……と鼻を鳴らして、再びスフィルの横を通り過ぎようとする。だが、再び、すすす……とスフィルがその動線を塞いだ。
「聞こえませんでしたか? ……シリルエテル様が、お使いに、なって、おります」
「……聞こえてる。だから……」
「ジオリール、お戻りに?」
ジオリールとスフィルが互いに反復横跳びをしていると、湯を使ったばかりのまったりとしたシリルエテルの声が聞こえた。スフィルが振り向くと、まだ濡れている髪を前に垂らし、シンプルな夜着に大判のショールを巻きつけたシリルエテルが姿を現す。
「おう。……今戻った」
ジオリールがシリルエテルにつまらなさそうに答えたが、気付かれないようにスフィルに向かって舌打ちする。それを受けたスフィルは、してやったり顔でジオリールを一瞥した。シリルエテルがジオリールの側に来て、首をかしげる。
「申し訳ありません。先に使ってしまいました。……ジオリールもこちらでお入りになりますか?」
「……ああ」
「では、その間に何か冷たいものを用意してまいりましょう。スフィル」
「はい!」
シリルエテルにやんわりと浴室へと追い立てられ、ジオリールは渋々1人で湯浴みをしに行った。
スフィルは、昼間シリルエテルをジオリールに取られていたことに対してほんの少し溜飲を下げ、魔法で冷たくした水の準備に取り掛かった。民から差し入れのあった果物は、シリルエテルの好きなもの。お茶はホーエン侯爵からいただいたシリルエテルの好きなもの。それを冷たく冷やして、シリルエテルの好きな甘いお酒を少し淹れる。完璧だ。ジオリールの分の酒は、とりあえず出しておけばいいだろう。
そうこうしているうちに、ジオリールが湯浴みを終えて居間へと姿を現した。
シリルエテルの腰を抱いて仲良くソファに座ったのを見届けて、スフィルは一礼して居室を下がる。
……まあ。ここから先は、しょうがない。夫婦仲がいいのは、いいことだ。
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翌朝。
いつものようにシリルエテルの寝室をノックしたときに出てきたのは、大好きな女主人ではなく、その夫だった。ジオリールは忠義な仔リスを気だるげに見下ろして、ニヤリと笑う。
「シリルはまだ起きてねえから、朝食は居間の方に持ってきておけ。後で俺がこっちに運ぶ」
ぴく……とスフィルの目付きが悪くなった。それを面白そうに眺めながら、ジオリールは髭の伸びた顎をさりさりと撫でた。
「今日は丁度、シリルエテルも仕事が無いだろうが。もう少しゆっくりさせてやれ」
……シリルエテルの休日を引き合いに出されると、スフィルも引かざるを得ない。そのタイミングでジオリールが「……んで、他になんか用か?」……と問い直す。勝ち誇ったような主人の夫を、ぎりぎり……と睨みつけると、スフィルは扉を掴んだ。
「……朝食、かしこまり、ましたっ!!」
「かしこまり」……のところで振りかぶり、「ました」のところでバーン!と扉を叩きつける。
つまり、今日は敗北だった。