衣擦れの音と色めいた溜息が聞こえて、腕に抱いている温もりが身じろぎをした。窓の外の明るさを確認している気配と、細い指がゆっくりと自分の頬をなぞる感触。その温もりが自分から離れて本格的に身体を起こそうとしたとき、ジオリールは抱えていた片方の腕に力をこめて、自分の胸に引き寄せた。
「ジオリール?」
喉元から心地よい声が聞こえているが、わざとジオリールは返答しない。目を閉ざしたまま、もう片方の腕を寝台と声の主の身体の間に差し入れ、本格的に抱き締める。
「ジオ、起きているのですか?」
ジオリールが腕を緩めてやると、再び細い手が頬を撫でた。今まで腰に這わせていた手を持ち上げ、頭を抱えるように撫でて黒い髪の感触を楽しむ。
「シリルエテル……」
低い声で自分の妻の名前を呼ぶ。ゆっくりと瞳を開くと、自分を見上げる黒い瞳が微笑むように細くなった。
「おはようございます、ジオリール」
「……おう」
空気交じりの少し掠れた声は、夜の情事が明けた後の独特の心地よい気だるさを感じさせた。何度聞いても耳に心地よい澄んだ声が、ジオリールに触れる距離で空気を震わせる。しっとりとした雰囲気に誘われて、もう少し触れていようかと足を絡めてみたが、シリルエテルは夫の返事に満足したのかジオリールから離れようとした。生意気な……と思って、ジオリールが少しきつめに抱き寄せるが、困ったようにシリルエテルは腕から逃れる。
「……ね、ジオ、起きなければ。侍女達が来ますわ」
「分かってる。だがもう少し……」
ちゅ……とシリルエテルの耳に口付けながら、薄い夜着越しに太ももを撫でさするが、「ぁぅん……」と小さな喘ぎ声と吐息でジオリールを煽るだけ煽って、さらに、夫の頬に軽く口付けて止めを刺して身体を離した。
「ジオリール、起きて」
いつもの丁寧な言葉が、少し崩れる瞬間がジオリールは好きだ。
ジオリールは手を伸ばしてシリルエテルの髪を少し払った。そこに小さく付いた赤い痣を認め、指で触れる。目立つところに付けるとシリルエテルは怒って、触れられるところは治癒してしまう。それがつまらないジオリールは、シリルエテルが乱れて前後不覚な時を狙って、背中や首筋にこっそりと付けるのだ。
耳の下辺りにつけたそれは、シリルエテルが髪を下ろすと見えなくなる。けれど少し払うとちらりと見える。我ながら絶妙な位置だ。どうやらシリルエテルは気付いてないらしく、それに満足したジオリールは大人しく手を離す。
外に意識を向ければ、カチャカチャと居住区を調えている使用人達の気配がする。今日は午前中に護衛や傭兵達の訓練に付き合わなければならないからのんびり寝過ごすわけにもいかず、仕方なくジオリールも身体を起こした。ジオリールの腕からすばやく逃れたシリルエテルは、早々に寝台から降りて、顔を洗いに行ってしまった。ジオリールはその後姿を見ながら身体を起こすと、大きく欠伸をする。しばらく待って身体を軽く流したシリルエテルが着替えを始める頃に、ジオリールも寝台から降りた。
****
午後を過ぎて執務も一段落着いた頃に、ジオリールはシリルエテルを呼んだ。城に引くとシリルエテルが張り切っている温泉について、図面を見聞するためだ。
執務室に家令のバーニルを呼び、副官のラクタムと共に一通りの説明を聞く。築城についてはシリルエテルはもちろん詳しくなく、ジオリール自身も詳しいわけではない。間取りや材料などの詳細を調査するためにも、城の手入れを請け負っている技師達に相談しなければならない。手入れする専用の人員も必要だ。信頼のできる人間を何人か集めなければならないだろう。バーニルとはそうした事務的な手続きや取り決めを行い、ラクタムとは源泉近くに魔物避けを設置する段取りを決める。
城の図面に細かく書かれた魔法の言葉はジオリールには分からないものだったが、間取りと位置などに時折修正を加えながら指示を出す。
シリルエテルやスフィルの腕によって、この砦と領内の主要な施設は、魔導師を得ている裕福な領主や王都の施設並に充実させる。赴任して来て早々、そうした計画を始めたグレゴル伯爵夫妻の動きに興味を持った領民達もいて、勉強したい……と申し出る者も出てきていた。王都の手前それほど目立つことはできないが、時間をかければシリルエテルばかりの腕に頼らなくとも、領内の生活を豊かに維持することは可能だろう。
バーニルが一通りの流れを確認し、何度か頷いた。
「城に勤める兵士達の身体を休めるのによい施設になりますな」
「ああ。この辺りは他の領地よりも魔物が多いから、実戦も多くなる。こういうのがあるのに、越したこたあないだろう」
「……では、早速、信頼のできる人員に手配をいたしましょう。ホーエン侯爵の手も借りようかと思いますが、よろしいですかな?」
「なら、一筆書いておいてやる」
一礼して、執務室を下がる。バーニルはホーエン侯爵の五男で、ジオリールが領地を引き継ぐ前からこの地を管理してきた。元々、グレゴル伯爵の代理……という意識が強かったことと、ジオリールとも面識があったことから領地の引継ぎは問題なく行った。以降、家令としてジオリールの傍らで領政を行っている。やっと領主が戻ってきたのに、やっている仕事は昔と変わらない上に楽にならない……とぶつぶつ言っているが、信用のできる人物だ。
その後姿を見送りながら、ラクタムが一度図面に視線を落とした。何かを考え込んでいたが、顔を上げてシリルエテルに向き合う。
「スフィル殿も術には関わるのですか?」
「ええ。補強系の術の一部は、スフィルにも術式を作ってもらっていますよ」
「そうですか。詳しく話を聞いてみてもよろしいでしょうか」
「興味がおありですのね。私も参りましょうか?」
「いえいえ、そこまでお手を煩わせるほどではありませんよ。折角のお茶の時間ですから、シリルエテル様はこちらでお過ごしになってください」
そう言って立ち上がると、丁寧に一礼する。「それでは」と言い残して、乱れの無い所作で部屋を出て行った。
扉が閉まり、シリルエテルも立ち上がる。
「お茶を淹れ直しましょう」
「ああ」
ジオリールはソファに深く腰掛け、視線を図面に落としたまま返事をした。その様子にシリルエテルは邪魔をしないように、静かに執務室の傍らでお湯を使う。その背中に、ジオリールが言葉を掛ける。
「……こういう魔法も知ってるとは、たいしたもんだな」
「実際に使ったことは無いので、少し実験はしてみなければなりませんが」
「砦の間取りと設置できる場所をもう少し考えなきゃなんねえが、温泉を引くのに問題はなさそうだ」
「はい。すぐ近くに源泉があってよかった。あまり遠いと、実現できませんでしたし」
一度シリルエテルと行ったことのある源泉は少し遠かったのだが、その場所を管理する湯宿の主人に聞いてみたところ、方角的には砦の近くにもあるのではないか……とのことだった。周辺の住人の協力も得て、すんなりと見つかった。温かい地熱に惹かれたのか大人しい魔物が何匹か集まっていたのだ。
そういえば……と、思い出す。
「また行くか」
「どちらへ?」
お茶を淹れたシリルエテルが、カップをジオリールの前に置いて隣に座った。ジオリールは図面を置いて、ソファの背もたれに腕を回すようにシリルエテルに近付く。
「あんときお前を連れて行ってやったろう。あの宿だ。主人がえらく喜んでた」
赴任したばかりの頃、2人で温泉の湯番所を訪ねた事があった。宿を兼ねたそこにお忍びやってきたジオリールとその妻を、宿の主人は大層もてなしてくれた。素朴な田舎料理も美味しく、何日かの滞在は心地よかった。まあ、何よりも、部屋で誰にも邪魔されずにゆっくり風呂だの寝台だのと、戯れる事が出来たことが一番よかったのだが。
「そうですわね。魔法を構築する前に、もう一度お湯の質を見ておきたいのです」
しかし、シリルエテルからの返答は実に色気が無い。だから、その分ジオリールが色めいた雰囲気で、シリルエテルを抱き寄せた。
「そうか。それじゃあ、また今度連れて行ってやるよ」
ソファに沈めている腰をぐ……と自分の方に深く引き寄せると、バランスを失った身体がジオリールの腕の中に倒れ込む。「ジオリール!」と焦ったシリルエテルが、慌てて身体を起こそうとしている。暴れる身体をやすやすと支えたまま、ジオリールはうなじの髪を掻き分けて、首筋の後ろを確認した。むむむ……と顔をしかめる。
痕が綺麗に治っていた。
「ジオリール? 離してくださいませ」
「ああ、ちょっとこっちに来な、シリルエテル」
「何を……あっ!」
ジオリールはシリルエテルの身体を抱き起こして自分の太腿の上に乗せると、髪の毛を綺麗に払って首筋に唇をつける。何をしようとしているのか分かったのだろう、シリルエテルがジオリールの身体から逃れようと動いたが、もちろんそう簡単にジオリールの腕が外れるはずもない。
「……ジオ! やっぱり貴方でしたのね?」
「……やっぱり? ああ、やっぱりあの仔リスか」
自分で見える位置ではない。大方仔リスが見つけて治癒魔法を掛けたのだろう。ふん……と鼻で笑って、痕を付けた場所を軽く咥えて舌を這わせる。その感触に、シリルエテルの身体がぴくんと動いた。痕がつかない程度に歯を立ててみると、あふ……と、くぐもった吐息が零れる。
「ん……もう、ちょっと……ジオリール、ここは仕事の……」
「痕は付けねえよ。それに、ちったぁ休憩させろ」
シリルエテルを自分のほうに向かせると、懸命に手で胸を押して抵抗してきた。なんとも可愛らしい抵抗は、唇を重ね合わせると戸惑ったように緩くなる。舌を押し込んで口腔内を探りながら、その手首を掴んで自分の首に回させた。
息継ぎで唇が離れると、困ったような潤んだ瞳でシリルエテルがジオリールを見つめている。
「ジオリール。ここは執務室ですよ、このような……」
「いいから、少し静かにしろ。外に声が聞こえるぞ」
「ジオっ、待って……」
「待たねぇ」
再び唇を重ね合わせてそのままソファに押し倒した。服の上から柔らかい膨らみを探っていると、すがるものを探すようにシリルエテルの手がジオリールの服を掴む。まろやかな肌の香りが男を誘い、昼間からゆるゆるとシリルエテルを陥落させるのは、妙に背徳的な悦びを感じる。
口付けだけで済まそうと思っていたのに、結局それだけでは済まなかった。
****
……が、執務室での情交は中途半端に終わった。執務室の仮眠室にシリルエテルを運ぼうとしたところで、夕食の時間だと呼びつけられたのである。
「……くそっ、あのままソファで……」
「ジオリール。休憩時間だったのでしょう? 全然お休みになれていないではありませんか」
仕方なく居住区へと足を向ける道すがら、ぶつぶつと機嫌の悪いジオリールをシリルエテルがたしなめている。その言葉にジオリールが足を止め、シリルエテルの顎を掴んだ。そのままさわさわと細い顎のラインを撫でながら、ニヤリと笑う。
「ああするのが一番休まるんだよ。いつも言ってるだろうが」
シリルエテルが一瞬頬を染め、すぐに呆れたような表情に改めてジオリールの手をそっと取った。
「もう、早く行きましょう。ジオリール」
「運んでやろうか」
「自分で歩けます」
少し拗ねたような声色で言って、シリルエテルが夫の手を引いて先を歩き始める。どうやら照れている顔を見られたくないようだ。
事が及ばず、ほっとしている様子のシリルエテルだったが、それでも艶めいた雰囲気を隠せるものではない。さて……夜はどうしてやろうかと思案したジオリールは、夕食をとった後、追加で仕事を行った。明日の分に回そうと思っていた書類を夜に済ませたのだ。明日は傭兵達の相手をすることもない。これで、明日の午前中はゆっくりと過ごすことが出来る。
真面目に仕事をすれば疲れるというものだ。嫌いな書類仕事であればなおのこと。さっさと疲れを癒したい。
そろそろシリルエテルは湯浴みをしようか……という時間だろう。ここはひとつ嫁と風呂でも入るか……とうきうきして部屋に戻ったら、門番よろしく浴室への続き間を守っているスフィルに出くわした。
「……」
ジオリールは、機嫌の悪い表情を隠すことも無く仔リスを見下ろす。どうやらシリルエテルは先に湯浴みをしているらしい。
ジオリールはシリルエテルと一緒に、浴室で戯れたり、身体を流させたりするのが好きなのだが……というか男なら誰でも好きだろうが、一度シリルエテルがのぼせてしまったときがあり、厳重注意を喰らった。それ以来、あの仔リスの目が光っている間は、シリルエテルを担いで浴室に入る事が出来なくなったのである。隙あらば……というところだが、シリルエテルも「浴室はそのようなことをする場所ではありません」……とお堅いことを言って全くつまらない。
それでも、身体を流したりは妻の役割……と変に心得ているようで、抱えて連れ込めばこちらのものだ。先に入っているのなら尚更都合がよい。一緒の浴室に入ってしまえば、出さないようにするのは簡単なのだから。
そんなわけでさっさとジオリールは湯浴みの間へと向かうが、仔リスがその動線に立ちふさがった。退けと言っても退かず、睨みつけてもどこ吹く風。目の前をちょろちょろするスフィルは非常に邪魔だ。
「どけと言ってるだろう」
「あら、でもジオリール様。シリルエテル様が入っておりますもの」
ジオリールが右に行くと、スフィルも右に動く。
「いつものことだろうが」
「いつもお1人で入ってらっしゃいますわね」
すっとジオリールが左に行くと見せかけて右に行く。隙を突かれたスフィルが駆けるくらいの勢いでジオリールの前に立つ。ぜぇはぁしているくせにスフィルは澄ました顔を崩そうとしない。ジオリールはむっつりとその顔を見下ろして身体を止めた。あきらめたと思ったのか、スフィルがふふんと笑う。
「お飲み物でもお出ししましょうか?」
「いらねえ」
そう言って、ダダッ!と左に向かうと、ずさーーーとスフィルが回り込んだ。再び睨み合う。
「ジオリール?」
2人して室内をうろうろしているうちにシリルエテルが出てきてしまった。見れば、濡れ髪が匂い立つように色っぽいシリルエテルが、2人で何をしているのか……と問いたげに立っている。湯上りにしか味わえない、石鹸の香りがする温かな肌に触れたかったのに……。実に悔しかったが、結局、湯浴みは1人でやれ……と浴室へ追い出された。
しかし、あれほどしつこく湯浴みを邪魔したくせに、ジオリールが湯から出てきてシリルエテルの身体を抱き寄せれば、仔リスは一礼して下がっていくのだ。引き際は、心得ているらしい。
湯上りの後に少し冷えた妻の身体を深く抱き寄せ、温めるように二の腕を撫でていると、ジオリールの肩にシリルエテルが身体を預け、顔を覗きこんできた。
「……ジオリール。スフィルと何をバタバタしておりましたの?」
「別に。バタバタなんざしてねえさ」
「ずいぶんと、仲良くなりましたのね」
にっこりと嬉しそうにシリルエテルが微笑む。その顔と言葉に、ジオリールの顔がぎょっとした。
「何だそりゃ。誰が誰と仲良くなったって?」
「ジオリールと、ス……」
「ああ、もういいシリルエテル。来い」
シリルエテルが何かを言おうとしたが、その答えを聞かずに強引に唇を重ね合わせた。どこか性急に舌を割り入れて大胆にまさぐると、今度はシリルエテルが答えてくる。互いの濡れた感触を味わいながら、ジオリールの手がシリルエテルの身体を這い登る。
時間を気にすることなく、ようやく2人きりだ。
****
今朝もまた、腕の中でシリルエテルの愛しい吐息が聞こえる。だが先に起きたのはジオリールだ。
「ジオリール……も、起き……? ……あっ」
「……ん? やっと起きたか、シリルエテル」
目が覚めたシリルエテルの言葉を黙らせて、早速ジオリールが後ろから細い身体を抱く。朝の仕事を昨日の内に終わらせていたため、ゆっくりとシリルエテルの身体を愛でることができるのだ。
「……シリル……なあ、ちょっとこっちを向け」
「は、あ、……ジオ……また……っ」
夜着を着せる暇も与えず、直に味わう肌の心地はなんともいえない。汗ばんで吸い付く感触に引き寄せられて抱いていると、不埒な手の動きになるのをやめられず、そうなってくると理性も朝もやの中に隠れてしまう。ジオリールは夜に散々味わった身体を、再び探り始めた。
いつもよりも優しく、長い時間を掛けてじっくりとシリルエテルの身体を溶かし、濡れた場所へと沈み込む。焦らすようにゆっくりと揺さぶっていると、吐息だけが空気を震わせ、いつまでもこうしていたい気分だった。
もう起きないと……などという言葉は、今日は言わせるつもりはない。