後日談

やさしい駆け引き

最初は自分の手から取っていった餌をほおばる様子や、ちょこちょこと愛らしい動きを見せてくれるだけで満足していたのに、いつからか自分の顔も覗き込んでもらいたいとか、その柔らかいぬくもりに触れてみたいと思うようになった。

警戒心丸出しでこちらの様子を窺っているかと思えば、ふと気が付くと驚くほど近くに来ていることもある。それなのに触れようとしてみれば、微かな手触りだけを残してふわりと逃げてしまう。手を出すと恐る恐るちょっとだけ触れて、また遠くの方から窺う。怯えさせないだろうか、手を出しても大丈夫だろうか。それでも触りたい。そっと撫でて、どれだけ温かいか確かめたいのに。

仔リスみたいな小動物との駆け引きは、いつだって夢中になった方に分が悪いのだ。

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「森に、薬草を……?」

「はい。午後から特に何もなければ、行って見てみたいのですが」

スフィルがシリルエテルにそう頼んだのは、昼食の時間が終わってすぐのころだった。

北の辺境の地には、領主が住まいにしてある砦のすぐ近くに森林地帯があり、そこにはこの北の地特有の薬草種が生えているという。図鑑や本だけでしか見たことのないそれらを探し、株を持ち帰ろうと思っていたのだ。

砦の中庭には、シリルエテルが調合に使う薬草がたくさん植わっている。全てこの近隣で取れたものだが、珍しく無いものばかりだ。本当は森の内部に少し進んで株を採集し、この北の地にしかない薬草を増やして研究してみたいのだが、なかなかその時間が取れていない。

他の者に頼もうにも、薬草の知識が豊富なのはシリルエテルだし、シリルエテルは将軍の奥方であるから砦での務めも多く、1人でふらふら森の中に入り込むわけにもいかない。そもそもそのようなこと、ジオリールがいっしょでなければ許可の出ようもない。そこで、午後から休みを貰ってスフィルが下見をしてきたい……と申し出た。

しかし、シリルエテルはいい顔をしなかった。

「いけません。いくら砦に近いとはいっても、森の中は魔物モンスターが居ります。行くのであれば、ジオリールにお願いしますから傭兵を連れて行きなさい」

「……でも……」

シリルエテルの言い分はもっともだが、それもどうかとスフィルは渋った。傭兵達は嫌いではないが騒がしい。かといって、ノイル侯爵のところに居たような、ぴくりとも動かない護衛が側に張り付くのも落ち着かない。俯いたスフィルにシリルエテルは優しく笑う。

「狭い森で炎や風の魔法を使うわけにはいかないし、1人だと……もしものときに慌ててしまうものよ。……もうすぐジオリールがこちらに戻ってきます。ラクタム殿が同行できないか、聞いてみましょう」

「……ラクタム様、ですか?」

確かにラクタムならばスフィルの邪魔はしないだろうが、ジオリールの副官はどう考えたって暇ではないはずだ。どうしてここでその名前が出てくるのだろうと首を傾げると、ちょうど部屋の扉がノックされた。

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「これが、麻痺に効く薬草で、……こちらが毒に効くもの。こちらは塗っても飲んでも効果がありますわ」

「毒に効くものならば、中庭にも植えてあるのではありませんか? 別の種類?」

北の領地を守るケテン砦の周辺には人の手の入っていない多くの森林地帯があり、その中でも最も砦に近い場所に、ラクタムとスフィルはやってきていた。スフィルが薬草を採りに来るというので、ラクタムはその護衛として着いてきていたのだ。護衛……といっても大袈裟なものではなく、あくまでも2人、午後の仕事が空いているから……という名目だ。

森の奥を道に迷わないように歩いていると、少し開けた場所があり、スフィルが望むような薬草がたくさん植わっていたようだ。いくつかを持ち帰って、中庭に植えるという。中庭に作った薬草園は見事なもので、時折スフィルやシリルエテルが世話をしているときにラクタムも手伝ったりしている。

ラクタムは幼いころはホーエン侯爵の孫という上位貴族の一員として育ったからか、剣だけではない、いわゆる貴族教育も受けている。一通りの知識・学問を詰め込まれていて、ラクタム自身もそうしたことを学ぶのは苦ではなかったため、スフィルやシリルエテルが調合する薬草や魔物の一部を使った薬酒や塗り薬は興味深かった。

「確かに中庭にも、毒に効くものは植えてあるのですけど、これは……よい香りがするんです」

そう言って、隣に並ぶスフィルが先ほど採ったばかりの薬草の株を持ち上げた。促されるようにラクタムが顔を下ろして鼻を近づけると、爽やかでよい香りがする。

「ああ、いい香りがしますね」

「そうでしょう?」

笑みを含んだ声でスフィルが答え、自分も薬草の香りを利く様に不意に顔を寄せた。突然距離が近付いて、ラクタムが近くにあるスフィルの顔を意識する。
ぱちぱちと上下する睫、その度に気になる淡褐色の大きな瞳。赤金色の髪は邪魔にならないようにくるりと巻いて、ひとつにまとめて大きなスカーフで留めてある。「……ね?」と首を傾げるようにスフィルがラクタムを覗き込んだ。口元がきゅ……と上がっていて、笑みを象っている。

なんとまあ、無防備なことだろう。

いつもぴりぴりと警戒しているくせに、ふとした瞬間、防衛本能などどこにやったと言わんばかりの隙だらけの表情で、スフィルはラクタムの近くに飛び込んでくる。こちらは触れてみたくて我慢しているというのに。

それでも手を伸ばして逃げられるといささか傷つく。ラクタムは自分の理性を超えた部分が妙な動きをしないように気をつけて、努めて静かに笑った。

「本当に。これならば、塗るのも飲むのも楽そうだ」

あまりに顔が近かったからか、スフィルがはっと気が付いたように頬を染めて顔を離した。

「そうなんです、変な香りがするのは嫌でしょう? だから、こうしたものを使うのもいいかと思って」

スフィルはそっぽを向いてぶつぶつ言いながら、足を速めた。どうやら照れているらしいスフィルのその様子に、じわじわとラクタムの頬も熱くなる。不味い。顔が緩む。口元を押さえ、けほんと1つ咳払いすると顔を引き締めた。……傭兵将軍の副官ともあろう自分が、スフィルの前だとどうしたってこうなってしまうのだ。

ラクタムという男は正式には傭兵ではない。傭兵将軍……ジオリール・グレゴル伯爵の副官という官位を持った立場の男だ。粗野な傭兵らに混じっているにしては細面で、隊の一員になったころは随分と他の傭兵達にバカにされたものだ。しかし、祖父……ジオリールの養父であるアシュラル卿の血をわずかながらでも引いたのか、学者風の容貌であっても剣のセンスは抜群で、他の傭兵達に勝るとも劣らない腕前だった。教養と剣の腕前というバランスをジオリールに認められ、その副官になっている。

この傭兵隊は、先代アシュラル卿と今代ジオリールを慕う者達で構成されている。そのような中で、アシュラル卿の孫……という立ち位置は、実力で剣の腕を示すのに邪魔をした。どのように努力したとて「アシュラル卿の孫だから」といわれ、己の実力が認められていないような気がしてならなかったのだ。だからわざと粗野な風に振舞ったりもした。

もっとも、そのようにひねくれていたのは若いころで……とはいっても、ジオリールに比べればラクタムは数段若いのだが……今では、貴族としての教育を受けた自分も傭兵達に叩き上げられた自分も、両方を利用して生きている。どちらの顔も使い分けてきた。傭兵将軍の副官として控えているときは官に相応しく振る舞い、傭兵達に混じるときは遠慮を無くして声を張る。

ジオリールの側に仕えるのは、言葉が悪いがとても楽だった。貴族然とした言葉遣いになってしまっても、傭兵らに声を張って指示を出していても、どちらの自分もジオリールは大して気にしていない。ジオリールにとってラクタムがアシュラル卿の孫であるとか、侯爵家の人間であるとか、それでいながら傭兵仲間の1人であるとか……そういったものはほとんど関係ないのだろう。

だからこそ……というべきか、実のところラクタムは、ジオリールの副官という立場を離れると、途端に気疲れしてしまう。一体どのような自分で居ればいいのか距離感を計りかねる。……こうした理屈っぽいところが、ラクタムの本来の性格なのだ。

ところが、ここのところ気疲れしない時間がもうひとつあることに気付いた。それが、ジオリールの奥方シリルエテルの侍女であり弟子である、スフィルと共に居るときだ。北の領地までの旅程を過ごしているときも気になっていた。くるくると忙しなく動く瞳、つんとした態度のくせに不意に気を緩める仕草、決して懐かないくせに頼りない様子。それらを見ているだけで楽しかった。そして徐々に、構いたくて仕方がなくなってくる。ちょっかいをかけたらどのような顔をするだろう。笑うだろうか、怒るだろうか。

あれやこれやと気を引いて、スフィルが楽しそうな顔をするとラクタムも妙に気持ちが浮つくようになった。もっと距離を縮めるにはどうすればいいかと、考えてしまう。

少し早足になってしまったスフィルをあわてて追いかけ、隣に並ぶ。

「スフィル殿、あまり早く歩くと……」

「きゃっ……!」

いわんこっちゃない。

いくら慣れているといっても、森の獣道は女の足には歩き難いはずだ。案の定つまづいてしまったスフィルの身体に腕を回し、転倒してしまうのを防ぐ。完全に足を取られたらしく、全ての体重がラクタムの腕に掛かる。

「す、みません、ラクタム様!」

「大丈夫です。私に気にせずこちらに掴まって……」

慌てたスフィルがじたばたと暴れ、ラクタムがそれを支えようとすると余計に体勢を崩す。抱き寄せる腕がつい深くなってしまい、ますますスフィルがバランスを崩した。

「スフィル殿、こっちへ……!」

バサバサと音を立てて手に持っていた籠が落ち、足元に薬草の株が散らばる。スフィルの身体が大きな樹にぶつかりそうになり、その衝撃から守るためにラクタムが背中に腕を回した。

「ラ……」

腕の中でスフィルが息を飲む。ラクタムは背中に回した腕を赤金色の髪まで持ち上げ、そのままスフィルの小さな頭を自分の胸にぐっと引き寄せた。

****

ラクタムに急に抱き寄せられるような格好になり、思わずスフィルは身体を強張らせた。

近づいた距離に妙に慌ててしまい、慌てると足元がおぼつかなくなり、歩きにくい森の道に足をとられてしまったのだ。ふらりと転倒しそうになる身体をラクタムの腕が抱える。他の傭兵と比べて体格はそれほど大きくなく頑強なイメージは無かったのに、支えてくれた腕の硬さに驚く。そんな風に驚いた自分に驚き、恥ずかしくなって余計に暴れてしまった。

倒れそうになった身体が樹にぶつかる……そう思って、ぎゅ……と目をつぶったら、思っていた衝撃は来なかった。それどころか、ふわりとお日様のような匂いがして目の前が真っ暗になる。頭を抱えられ、身を低くするようにラクタムの胸に押し付けられている……と気付いた瞬間、シュリン……ッ……と刃を抜く音が響いた。

そのままドス……ッ……と重い音と背中に軽い衝撃があって、重なった身体が揺れる。

しん……と静まり返った。

「ラ……ラクタム様……?」

スフィルが自分を抱えている腕の中から、恐る恐るラクタムを呼ばわる。「はい」……と掠れたような安堵したような声が頭の上から聞こえた。そちらを見ようとしたが、逆に抱えられる腕に力が入ってきつく抱き締められる。ラクタムの片方の肩ががくんと揺れて、何かを振り下ろしたのが分かった。

ドサッ……と土の上に何かが落ちた音がして、やっとラクタムの腕がゆるくなる。

「何が……」

ゆるくなったものの、ラクタムはまだスフィルの腰に手を回したまま離そうとしない。それでも開かれた視界から覗きこむと、地面には腹にナイフを突き立てられた、大人の腕ほどの太さはあるだろう胴回りの蛇が転がっていた。その口が、クワッ……と大きく開かれたままになっているのを見て、スフィルの意識が急に冷える。

「ラクタム様……!」

「スフィル殿、大丈夫ですか?」

「私は、だ……」

見ればラクタムはスフィルを抱いていない方の腕をだらりと下ろしていた。今日は篭手を付けていない、その腕から手の甲へと……つ……と赤い筋が見えた。咄嗟にスフィルはラクタムの二の腕を掴む。

「……つっ……!」

「ラクタム様! 腕を……」

「大丈夫です、これくらいは。城に戻って治療すれば……」

「ダメ! ここで治療します。当たり前でしょう?」

「スフィル殿……」

確かに、有能な魔導師が自分の目の前にいるのだ。この場で処置するのが当然といえる。思わず「大丈夫です」と言ってしまったラクタムは苦笑して、スフィルに頷いた。

「そうですね。……お願いしてもよいですか?」

「はい。最初からそうおっしゃってくれればよいのです。そりゃあ……シリルエテル様ほど綺麗に治療は出来ないかもしれませんけど……」

しゅん……と肩を落としたものの、ラクタムの腕は強く掴んだままだ。ラクタムは慌てて首を振る。

「そ、ういう意味ではないのです。つい……あまり迷惑をかけたくない……と」

「迷惑なんて、そんなわけないではないですか」

「そうですね……つい、いつものくせで。大丈夫、と言ってしまう」

戦いの場ではすぐに治療を受けられるとは限らない。怪我が軽ければなおさらだ。傷の大きさや命に関わるまでの長さを計り、誰を先にするか、誰を後回しにするかを計算にいれなければならない。……だから、つい「この程度……」と判断してしまったのだ。

納得していないスフィルに促されるように、ラクタムはその場に座り込んだ。スフィルもすぐ側に座り、ラクタムの服の袖を緩める。

肘の下辺りを噛まれたようで、袖を捲くってあらわにした傷口にスフィルが浄化の魔法を掛けていく。

「少し痛いかもしれないので、ちょっと我慢してください」

「この程度の痛みなら平気ですよ」

それは本当のことだ。これでもラクタムは傭兵将軍の副官として何度も戦場に出ているし、魔物にも相対してきた。怪我の程度でいえば、この程度はどうということもない。そもそも蛇ごときに噛まれるなど、今回のことのほうが失態なのだ。蛇の姿を認めた瞬間、それがスフィルのほうに行かないようにナイフで胴体を樹に突き立てた。そのとき、今際の際の勢いで首をよじった蛇に噛まれてしまったのだ。頭を落すかスフィルを突き飛ばすかすれば、噛まれなかったかもしれない。

少し毒が入ったのか、傷の大きさにしては痛みがひどい。スフィルも気付いたのだろう。傍らに落ちてしまった薬草の株から数枚葉を千切り、口に含んで少し噛んだ後、手のひらにとって浄化の魔法を唱えた。じっと見つめているラクタムの視線に、スフィルが頬を染めて首を振る。

「き、汚くないですから、ちゃんと、浄化の魔法を……」

「大丈夫です。分かってます、スフィル殿。それに汚いなんて思ってないですよ」

くすくすと笑いながら、ラクタムはスフィルの額に片方の手を伸ばしてみた。汗で張り付いてしまった前髪に触れて、少し払う。スフィルが顔を上げると、ラクタムの琥珀色の瞳と目があった。再びスフィルの頬が赤くなる。怒られるだろうか……と反省し、「失礼」とラクタムが手を下ろすと、スフィルがぐい……と怪我をしている方の腕を取った。

「お怪我をしているのに、何をなさっているのです!」

「……怪我をしている方の手ではないから、大丈夫ですよ……っ」

スフィルが傷口に潰した薬草をあてがった。香りは悪くないが、随分と染みる。そう思っていたら、ぎゅう……と止血の要領で患部を押さえられた。これは痛い……と思わず眉をしかめると、スフィルが拗ねたような顔でラクタムを覗き込んだ。

「これは罰です」

「なんのですか?」

「すぐに治療を受けなかったことと、その……」

ああ、顔に触れたことを言っているのかもしれない。言葉を濁すスフィルに、小さく笑って頷いた。

「仕方ありませんね。甘んじてお受けしましょう。魔導師殿」

「ラクタム様……! からかわないで」

「からかってなどないですよ」

スフィルが言い負かされたように、むう……と俯いた。機嫌をそこねたか……と思ったが、どうやらそうではないらしく、不意に真面目な表情になって短く呪文を唱える。薬草を当てられて染みた患部がほんわりと温かくなり、傷口が閉じていくのを感じる。一通り傷口を塞ぐまで魔力を通すと、髪をまとめていたスカーフを外して薬草ごと腕を巻いた。

少しクセのある赤金色の髪がふわりと肩に落ちる。急に雰囲気が変わって、ラクタムの心臓がどきりと跳ね上がった。そのような自分のうろたえぶりを気付かれないように、別の話題を慌てて選ぶ。

「そういえば……毒消しは、魔法では行わないのですね」

「行わない……というわけではありませんが、魔法に頼ってしまうと、よほど綿密に作った呪文で無ければ体内のいいものも一緒に損なってしまうのです。だから、あまりに酷い時や緊急の時以外は、できるだけその土地の薬草を使うようにしています」

真摯な横顔はいつもの愛くるしい表情とまた異なっていて、可愛い、ではなく、綺麗だな……と思う。取られて治療されている腕に感じるスフィルの体温が心地よい。治療の間だけ……と遠慮なく見惚れていると、視線に気付いたスフィルがまたしても頬を染めてうつむき、ぽつりと言った。

「あの……助けていただいて、ありがとうございます」

「いえ。こっちこそ。あの程度で怪我をしてしまうなど、不覚を取りました」

「そんな……っ。私を抱えてなければ、怪我などしなかったのではありませんか? 突き飛ばしてくださってもよかったのに……」

「スフィル殿」

それが出来なかったから、不覚……と言ったのだ。……だが、そう思った途端、このリスみたいな愛らしい女性に怪我が無くてよかった……と安堵して、思わずラクタムはスフィルの肩に手を伸ばして抱き寄せた。

****

「ラクタムさ、ま?」

「嫌なら、振りほどいて」

座り込んだ姿勢で抱き寄せられたものだから、むぎゅぅ……と全ての体重がラクタムの胸に掛かる。鎧を着ていない服越しにぶつかった身体は、見た目の印象よりもはるかに鍛えられているようで、思っていたよりも広かった。

背中に腕がまわされている。それほどきつく抱き締められているだけではない。そっと背中に手が掛けられている程度だった。それなのに、振りほどいてと言われても、なぜかスフィルには振りほどく事ができない。

「あ、の……あの……」

「スフィル殿。貴女に怪我が無くてよかった」

ため息を吐くように告げた声が自分の髪を揺らすのが分かり、その熱を受け取ってしまってスフィルもますます熱くなる。なぜか息が苦しくなるくらい心臓が音をたてはじめた。……聞かれるかもしれないから、離れようと思うのだが、なぜだか縫い付けられたかのようにラクタムから離れられないのだ。

居心地がいいような、悪いような。すごく落ち着くのに、落ち着かないような……。そわそわとしているとラクタムの腕が上がって、そっとスフィルの髪を撫でた。優しい手の動きにつられるように、スフィルの顔が持ち上がる。

ラクタムの琥珀色の瞳が、真剣にスフィルを覗きこんでいた。

「ラクタムさ……」

名前は最後まで呼べなかった。

まったく強引ではなく、そっと唇が重なったからだ。

触れた肌の香りの心地よさに、スフィルが思わず瞳を閉じる。それを合図に、あくまでもゆっくりと、ラクタムの唇が啄むように動いた。

時々角度を変えながら、柔らかくなぞる感触が温かくて離れ難い。その心地よさにスフィルの心臓が少しずつ収まって、身体の力が抜けていく。抜けていくスフィルの力に呼応するように、抱き寄せるラクタムの腕が少し強くなった。性急ではない穏やかな口付けは短いようで長く感じ、……最後に一瞬だけラクタムの舌が重なり合った部分を舐めて、離れた。

咄嗟に反応できなくて、スフィルはきょとんと瞳を開ける。

その様子に、ラクタムが笑った。

「薬草の味がしますね。いい香りだ」

唇が離れただけで顔はほとんど離れていない。吐息を感じる至近距離でそんな風にささやかれると、少しでも動いたらまた触れてしまいそうだ。スフィルは二の句が告げられないまま真っ赤になった。こつん……と互いの額が掠めて、そっと身体が離れる。

「行きましょうか」

徐々に現実に戻っていく中、ラクタムの声が聞こえた。言いながらもいまだに手は背中に回されたまま、周辺を窺っている気配がする。スフィルもまた身体を動かせないまま、困ったように頷いた。ラクタムはもう一度だけ、ゆっくりと赤金色の柔らかい髪を撫でると、名残惜しげに立ち上がる。

ラクタムがスフィルの腰に手を回して、立ち上がるのを支えてくれた。意を決して、スフィルはラクタムの腕に自分の身体を預けて立ち上がる。

ようやく落ち着いて、自分達の周りに目を向ける。スフィルがきょろきょろと周囲を見渡していると、側にラクタムが膝を付いた。気が付けば、足元に籠と落ちた薬草の株が転がっている。スフィルも慌てて同じようにしゃがみこむ。

落とした薬草をひとつずつ集めて、2人して籠に入れ直した。

「落としてしまいましたね。ダメになったでしょうか」

「……」

スフィルはしばらく薬草を見つめ、ひとつの株をそっと手に採ってみた。少し視線を上げると、申し訳なさそうなラクタムの表情にぶつかる。さっきまでとても緊張していたのに、優しげなその表情になぜか安心して、ふるふると首を振った。

「大丈夫です。葉っぱの部分は使えますし、植えられなかったら、また採りに来ればいいだけのことですから」

「ならば、そのときはまたご一緒しましょう」

「え?」

「頼りないですか?」

ためしにそう言って、仔リスのような瞳を覗きこむ。仔リスの淡褐色の瞳がみるみる大きくなって、あどけないともいえる表情でラクタムを見つめ、また大きく頭を振った。

「いえ、いいえ……お願いします。また、その、一緒に……」

「はい。ぜひ」

ああ、参ったな。こんな無防備な大きな丸い瞳でこちらを見つめてくるから、思わず構いたくなってしまうのではないか。もう一度口付けたくなる衝動を今は抑えてラクタムは再び立ち上がり、紳士が淑女にするように、スフィルに手を差し出した。

今日の駆け引きはここまでだ。

受け止めたスフィルの手は、土や草に触ったからか、ほんのりと湿っている。柔らかで繊細な毛皮に初めて包まったような優しい高揚感を味わいながら、ラクタムは満足げに息を吐いた。

明日はきっと物足りなくなるに、ちがいないのだけれど。