ここのところ、シリルエテルは少しばかり顔色が悪かった。
別段、仕事が多かったわけではない。北の辺境の地で暮らし始めて2年と少し過ぎ、一時多かった大型の魔物の討伐も今はおさまっている。ジオリールがケテン砦を留守にすることもそれほど多くはなく、これまで以上に夫婦水入らずで過ごすことが多かった。
その日はジオリールと共に、砦の主塔で風に当たっていた。
眼下に広がる濃い緑の森林、その向こうはホーエン侯爵領だ。濃密な緑ごしに見える薄緑の草原。その奥に広がる青い空。もちろん夕焼けもすばらしいのだが、シリルエテルは昼間見えるその青いコントラストが好きだった。将軍として各地を転々としたことのあるジオリールが、あちらにはどういう街があって、どのようなことがあった……などと、とりとめもなく話す。それを聞きながら逞しい身体に背中を預け、抱えるように自分に回す太い腕に自分の手をそっと掛ける。
全てを預けると、全てを受け止めてくれる。温かな夫の体温に包み込まれて、シリルエテルはいつも安心するのだった。
「風が出てきたな。もう行くか」
「ええ」
夫がこう言ってシリルエテルが頷くと、必ず大きな手がシリルエテルの髪をそっと払い、厳つい顔が降りてくる。こんなときは寝台の上でのように荒々しい喰らいつくような口付けではなく、優しく丁寧に、なぞるように唇が重なる。唇が離れて一呼吸。……ジオリールがシリルエテルを導いて、身体を動かした。
「……シリル……?」
「……ジオ……私、……」
ただ、いつもと違うのは。
ジオリールの腕に乗せたシリルエテルの手が、するりと弱弱しく、落ちた。
「……おいっ、……シリル、シリルエテル……!?」
慌ててシリルエテルの名前を呼ぶジオリールの声が、切羽詰ったような声になる。先ほどまで温かだったはずなのに、ぎゅ……と握ったシリルエテルの指先がひどく冷たい。こんなことは初めてで、ジオリールの心臓も冷えた心地がした。焦ったのは一瞬で、一気に気を取り直したジオリールはシリルエテルの身体を横抱きにする。同時に、遠巻きに控えていた護衛と侍女が、駆け寄ってきた。
「医者を呼べ!」
怒鳴りつけるようなジオリールの声が、塔に響く。
****
シリルエテルを休ませている寝室の隣の部屋で、ジオリールはイライラと部屋を動き回っていた。医者が人払いを行って夫のジオリールまでも追い出し、そのくせスフィルや家令の夫人が呼ばれていっしょの部屋に入った。すこし年嵩の婦人と、治癒のできる女の魔導師が診察への同室を許可される……その様子にラクタムはよもや……と思い当たったのだが、焦れた猛獣のようにうろうろとするジオリールにそれを口出しするのもはばかられた。
「なんで、俺は入れねえんだ……、くそっ!」
医者が人払いをしたときのジオリールの様子を知っているラクタムは、診察がはっきりするまではそりゃあ追い出されるだろうと呆れた。「女性の魔導師と、そちらの家令殿のご夫人以外は、出て行ってください」と言われたとき、ジオリールは恐ろしい表情で医者を睨み付けた。それでも長年、砦の者の健康を守っている馴染みの医者はさすがというべきか、あくまでも冷静に、「夫は邪魔」ということを伝え、ジオリールを追い出したのである。
家令のバーニルは別の医者を呼びに行っているようで、その様子もまたジオリールの心配に拍車を掛けているようだ。
そして端的に言うと、ラクタムはこの猛獣と部屋で2人きりだった。
「……隊長、おちつ」
「これが落ち着いていられるか!!」
「……」
怒鳴られた。
腑に落ちないものを感じたが、ここはぐっと我慢する。
ジオリールを大人しくさせるのは奥方しか居ないのだ。
だが、そうは言っても、やはりジリジリと獲物を狙っている猛獣が側にいるのは落ち着かない。奥方様、どうか早く出てきてください。お願いします。……と、ラクタムが祈りを捧げかけたその時、シリルエテルの寝室の扉が開きジオリールを呼ばわった。
凄まじい勢いで、ジオリールが部屋に入る。
「おい、シリルエテルは……!」
取って食わんばかりの勢いで医者に迫った。……が、医者は静かに一礼したのみで「詳しくは奥方様からお聞き下さい。お話が終わったら、またお呼びくださいませ」とだけ言って、家令の夫人と侍女のスフィルに目配せした。全員が出て行く様子に気勢を削がれて、呆気に取られてしまった。閉じた扉とシリルエテルが横になっている寝台とを見比べる。
「ジオリール……?」
「シリルエテルっ!」
掛けられた声は弱々しかったが、存外しっかりとしていた。寝台の側に駆け寄り、身体を起こそうとするシリルエテルに手を貸す。
「お、おい、身体を起こしても大丈夫なのか!?」
「は、い。……大丈夫です」
にっこりと微笑むシリルエテルの顔色はまだ悪い。常に無く弱ったその姿に胸がぐう……と詰まり、ジオリールはシリルエテルの肩を抱き寄せて身を支えながら、枕を背中に当ててやった。寝台の脇に椅子を引き寄せ、それに座ってシリルエテルの手に自分の手を重ねる。やんわりとそこを擦りながら、ジオリールは息を吐く。
「……それで、その、医者は何と……」
「はい。……あの」
「……?」
ぽ……とシリルエテルの頬が染まる。その表情に怪訝そうに首を傾げると、シリルエテルの言葉が続いた。
「……どうやら、お腹に……子供を、授かった……と」
「……子?」
数秒、ジオリールが絶句した。
次いで、ごくりと喉を鳴らしてシリルエテルの顔を見て、腹の辺りを見て、手を見て、もう一度顔を見る。恐ろしい形相はどこかに吹き飛んだようで、口をぽかんと開けた間抜けな顔をしていた。
「子、……俺らの」
「ええ」
シリルエテルが大きく頷いて、重なっているジオリールの手に自分の手を重ね直す。
「今、バーニル様がそちらが専門のお医者様を連れてきてくださるそうで、その診断を待ってから、はっきりと…………ジオリール?」
黙ってしまったジオリールをシリルエテルが覗きこんだ。薄青色の瞳が丸く見開き、シリルエテルの漆黒を信じられないもののように見つめている。
「シリルエテル」
ジオリールの大きな手がそっとシリルエテルの両の頬を包み込んだ。口付けたい。抱き締めたい。だが、壊れそうで出来ない。そんな夫の心が分かったようにシリルエテルが小さく笑って、ジオリールの片方の手を取ってそっと自分の腹に導いた。
恐る恐る、ジオリールがシリルエテルの腹に触れる。
「……さ、触っても……」
「大丈夫。まだ大きくないので、分からないですけど」
ジオリールは片方の手でシリルエテルの背を抱き寄せ、もう片方の手でシリルエテルの腹をゆっくりと撫でた。シリルエテルの身体は温かく、この細い身体のどこにもう1人いるのだろうと不可思議な気分だった。それにまさか、自分のような男に次の命が出来るなど。
子供を……というのは確かに望んできた。だが、自分が養子だったからか、跡継ぎとしても己の子としても、それほど欲しいと思っていたわけではない。シリルエテルが子の出来にくい魔導師だということもあったし、前の夫の話も聞いている。だからこそ妻にそれを求めるつもりも全く無く、月並みではあるが、自然に任せればいいと思っていた。
……しかし、いざこうして担うべき命がもう1つ増えるということに向き合い、それが己の血を分けた子なのだといわれると、想像以上に愛しさが募った。それを宿してくれたシリルエテルにも、己の元に来てくれるかも知れぬ子供にも。
いろいろな思いが募って、搾り出すように言った。
「幸せすぎて、言葉が出ねえ」
「まあ」
夫の言葉にシリルエテルが瞳を濡らして腕を伸ばした。ジオリールの首に手を回して、そっと抱きつく。その身体にジオリールも腕を回して答えた。耳元で「私もです。ジオリール」……とささやく。ああ……とため息を吐いて、力いっぱい抱き締めたいが、どれくらいの加減が許されるのかが分からない。
そして季節が一巡りしないうちに、グレゴル伯爵領は温かな喜びに包まれることになる。
****
「ジオリール様、次はこれですな」
「バーニル……まだあるのかよ」
「ここ最近、ずっとシフラルド様にばかりかまけていらっしゃるからですよ」
「かまけたっていいだろうが、自分の息子なんだから」
「これを検分していただいたら、いくらでもかまってよろしいですから、さっさと眼をお通しください」
「くそっ……」
ぶつぶつと言いながら、ケテン砦の執務室でジオリールは領主としての仕事にかかりきりだった。出来る限り家令のバーニルが代行してくれているが、それでも最終的には領主の検分が必要な事柄は多い。赴任してきて3年ほど、慣れてきたとはいえ自分に不似合いな仕事であることは間違いない。男達と剣を振っているほうがはるかに楽で、自分向きだ。
別の理由もある。3ヶ月ほど前、ジオリールの妻シリルエテルが子を産んだのだ。「シフラルド」と名付けられた息子はやっと首がすわりはじめた時期である。生まれたてのふにゃふにゃだった頃は取扱が恐る恐るだったジオリールも、首がすわってからは抱き上げてあやすのにもやっと慣れてきた。シフラルドはこちらの呼びかけにも反応をし始め、何もしなくてもじたばたと動く。シリルエテルによく似た黒い髪と黒い瞳の小さな息子は、父親の自分をじっと見てくるし、話しかけると時々笑う。だからもう、かまいたくてかまいたくて仕方がないのだ。何よりもその反応を見ているシリルエテルの顔が優しくて愛しくて、どちらを見ているのも飽きなくて、ずっと側にいたいほどだった。
しかし、赤ん坊にかまけていると今度は仕事が溜まる。
「ですから、執務室を居住区の近くにしましょうかとご提案しましたのに」
「……余計に仕事が出来ねぇんだよ……」
ジオリールが憮然とした顔で答える。数週間ほど前、あまりに執務室と居住区の往復の回数が多かったため、ためしに居住区の一画にある書斎で執務を行ってみたのだ。すると今度は、やれ赤ん坊が泣いただの、笑っただの、おむつを変えるだの、乳をやるだの、事あるごとに使用人たちがバタバタと楽しげに動き、その騒ぎが聞こえ、気になって仕方がない。自分だってシフラルドが泣いたところや笑ったところを見たいのに、何故使用人達ばかりがそれを見て楽しんでいるのだ、腹立たしい。結果、余計に仕事が進まなくなり、元の執務室に戻ったのだ。
「よく分かっていらっしゃるではないですか。……はい、これが最後です。王都からの届け物と、宮廷からの書簡ですね。内容のご確認だけでもお願いいたします」
澄ました顔でジオリールを淡々と受け流すバーニルに、むっつりと返しながらジオリールは書簡と、それから小さな箱のようなものを受け取る。
「ああ?宮廷から?」
「ええ。書簡は宮廷から、もう1つの……箱の送り主の名は、イリド・ワズワース様ですね」
「イリド……?」
聞いた名前にジオリールが瞳を細める。かつて傭兵隊の一員としてジオリールと共に戦ったことのある、友人の名前だ。イリドは宮廷に、ジオリールは辺境の地の領主に……と道が分かたれた後は、ほぼ連絡は取っていない。寄せられてくる情報によれば、宰相の腹心として腕を奮っているらしい。別段口を出すつもりはない。あれにはあれの考えがあるのだろう。
ただ、ジオリールには思うところがあった。
妻のシリルエテルには、生き別れたという弟と妹がいる。あれは……イリドは、その関係者なのではないか……という小さな引っ掛かりだ。シリルエテルの発言とイリドの発言は似ているところがある。よくよく聞いてみると、それはシリルエテルの実家であるリーン家の教えであったり、シリルエテルがかつて弟や妹に教えた魔法のコツであったりする。魔導師ならば誰でも知っていることだといえばそれまでだ。だが、ジオリールはイリドのことを知っている。知っているからこそ、引っ掛かる。
全く無関係の赤の他人、その2人の発言が似ている……というだけで、関係者だ……と断じてしまうのは浅はかかもしれない。だが、一度そのように疑惑を持つと、合点のいくことばかりだった。むしろ、イリドはシリルエテルの弟……オルクス本人なのではないかとまで思っている。ジオリールは、何度、イリドにそのように問おうと思ったか知れない。シリルエテルに問うてみたこともある。だが、シリルエテルはイリドにそれを確認するのはよしとしなかった。もし、真実だとしても……そのように名乗らないのは訳があるのだと、変に意地を張っているのだ。頑固で、己の気持ちを上手く面に出せないところは2人とも良く似ている。
しかしジオリールも何もしなかったわけではない。シリルエテルの意向はこの時ばかりは無視して、子供が生まれたのを機に手を打った。ただ、あの男のことだ。どのような反応を示すかは、未知数だ。
そのイリドから、ジオリールに何かが届けられたのだ……という。
宮廷からの書簡はバーニルに確認するように言い付け、ジオリールはその小箱を開けた。
「……本?」
箱の中には随分と古い本が1冊入っているだけだった。古く、分厚い本だが難しいタイトルではない。『六つの魔法と聖なる賢者』という、一見すると御伽噺か何かのようなタイトルだ。その上に、「ちいさなジオリールへ」……とだけ書かれているのを見て、ジオリールは取り出そうとして、止めた。これは息子宛だ。自分が開くべきではない。箱をなぞり、危険がなさそうなことだけを確認し、蓋を閉める。呪いが掛かっていないかどうかは妻でなければ分かるまい。
「シリルエテルのところへ行く」
「しようがありませんな」
ジオリールの様子にバーニルは一礼した。宮廷からの書簡の内容を手短に伝え、それを聞いたジオリールはその書簡も本と共に抱えて、シリルエテルと愛息の元に急ぐ。
****
シリルエテルは居間で小さなシフラルドを抱き、ゆらゆらと揺らしてあやしていた。寝台に寝かせるとむずがるので、こうして抱いて寝かしつけているのだ。乳母もいるが、やはりシリルエテルの腕の中の方が安心するらしい。今はちょうどお腹もいっぱいになり、とろとろと眠り掛けているところだった。
そこにジオリールがやってきた。
「シリルエテル!」
「ジオリール」
人差し指を唇にあてると、ぎょっとした顔でジオリールが身体を小さくして口を閉ざした。その様子にくすくすと笑いながら、席を空ける。乳母がシフラルドを連れて行こうかという手を制して、使用人達を下がらせた。
「お仕事は、もう終わったのですか?」
「ああ。シフラルドは、今眠ったところか?」
「ええ」
そういってシリルエテルが腕の中のシフラルドを見せると、ジオリールがそうっと覗きこんだ。ふに……と頬をつついてみたが、起きない。眠ってしまったようだ。シリルエテルは自分がシフラルドに触れているところに夫が来ると、必ず乳母や侍女は下がらせて、親子水入らずの空間と時間を作るのだ。
ジオリールが並んで座り、その腕の中にシリルエテルがすっぽりと納まる。夫の肩に少し体重を掛けながら、なにやら彼が持ってきたらしい包みに視線を向けた。
「これは?」
「ひとつは宮廷からの書簡、ひとつは……イリドから、本が届けられた」
「……イリド、様、からですか?……本?」
ジオリールが書簡らしきものを持ってきたのが眼に止まった時、シリルエテルはシフラルドを下がらせた方がいいかと思って視線をさまよわせたが、「イリド」という名前を聞いて浮かせた腰を再び下ろした。イリド……弟につながるかもしれない、会ったことのない魔導師の名前と、……そして送られたという本。心臓がどくりと跳ね上がり、ジオリールの顔を見る。
ジオリールは黙って頷き、小さな箱の蓋を開けた。
「……どうも、シフラルド宛みたいでな。俺には魔法が掛かってるかどうかも分からねぇ。だから本には触ってない。……シリルエテル?」
じっとシリルエテルが本を見つめている。タイトルをそっとなぞって、「ああ……」とため息を吐いて、微笑んだ。思わずジオリールが、息子ごとシリルエテルを抱き寄せる。
「この、この本は。ジオリール、イリド様が、送ってくださったのですか」
「そうだ。魔法は掛かっていねぇか。……何か、」
分かったのか。
そう続けるジオリールを腕の中から見上げて、シリルエテルが静かに頷いた。その黒い瞳は、今にも雫が零れ落ちそうに濡れている。その顔を見て、ジオリールは確信を得る。そうか。イリドは。
「魔導師の家系は、子供が生まれると、……初級の魔法の本を贈るのです」
ぽつりと語るシリルエテルが、愛しげに本を撫でた。
魔導師の家系は、子供が生まれると魔法の本を贈る。その習いに漏れず、シリルエテルの実家リーン家では、生まれてきた子供が魔導師になる・ならないに関わらず、初級の魔法の本を贈る習慣があった。リーン家がそうした折に子供に贈る本は『六つの魔法と聖なる賢者』というタイトルで、誰にでも読める初級の本だ。魔導師の手習い本……というよりも、御伽噺の様相を呈している。内容は、一人にひとつずつ6つの属性の魔力を分け与えられた兄弟達が、異なる力の長所と短所を補いながら立派な魔導師になる……という物語で、御伽噺形式で魔法の初歩の初歩……理を覚えることが出来る。美しい挿絵と飾り文字で描かれた、子供には楽しい本だった。
また、こうした最初に贈られる手習い本は人の手に渡れば渡るほどよい……と言われている。
シリルエテルは長女だったため、父親が小さいころに贈ってもらった本を貰った。しかし、歳の近い弟の時は本を贈ってくれるような親戚がおらず、新しい本を購入して贈られた。
「ちょうどオルクスが5歳のころに、自分もお父様の本が欲しい……と駄々をこねて」
やっと本に書いてある内容を理解し、実践できるようになった頃の話だ。シリルエテルの本は同じ本なのに、革の表紙は何度も修復されていて古めかしく、いろいろなところに書き込みがあって、何より幼い弟には姉の持っている本の方が立派に見えたのだろう。父が持っている他の本をあげると言っても納得しなかった。
「だから、交換したのです」
本を入れ替えて、歳の近い姉と弟は一緒の本で一緒に勉強してやった。そうすると、今度は新しいページにいろいろな書き込みをする姉がうらやましくなる。オルクスの本……父の本は、もともとたくさんの書き込みがしてあって新鮮味が無い。「僕も新しいことを書きたい!」と我侭を言う弟に、それなら新しい紙に書いてページに挟んでおきましょうね……と、姉は新しい紙をページと同じくらいの大きさに切って器用に留め、新しいページを作ってやった。こうしてオルクスの本は、妙にぼこぼこと分厚く紙が足され、そこには好き勝手に絵や、子供が作った呪い言葉が書かれた本になったのだ。何度装丁を直しても、継ぎ足したページはそのままにしてあった。
シリルエテルがそっと、その本を取ってテーブルの上に置く。
「こりゃ、ずいぶんと落書きしてあるなあ」
話を聞いたジオリールが、顎を撫でて笑う。贈られてきた本にはシリルエテルの話の通りたくさんの紙が丁寧に縫いとめられていて、そこには本当に効果があるのかも分からない、子供の書いた呪い言葉や術式が書かれていた。この本こそ、シリルエテルの言うオルクスの本なのだろう。そして、これがイリドの名前でシフラルドに贈られた……ということは、自分がオルクス・リーンにつながる人間なのだ……という意思表示のようにも思えた。
「触っても大丈夫か?」
「ええ」
ジオリールがぱらぱらとページをめくっていくと、堅い何かが挟まっているページがあった。そのページを完全に開くと、金貨が1枚、挟まっている。シリルエテルが「あ」と言うのと、シフラルドが「あぶぅ」と目を覚ますのと、ジオリールがそれを手に取るのは同時だった。
「これは……」
まじまじと方向を変えながらジオリールがそれを見る。何の変哲もない金貨のように見えた。目が覚めたものの愚図りもしないシフラルドに一度頬を摺り寄せてから、シリルエテルはジオリールを覗きこんだ。
「……ジオ、その金貨、呪いがかかっておりますわ」
「……何……?」
ジオリールの声が低くなったが、金貨を取り落とさなかったのはさすがだろう。途端に険しくなった夫の手から、シリルエテルはそっと金貨を取った。表を見て、裏を見て、……縁を見てみる。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「ええ。これを見て、ジオリール」
シリルエテルが金貨の挟まっていたページの次をめくる。抱いている母が少し前かがみになったからか、シフラルドがむふうとため息を吐いた。
促されてみてみると、また小さな紙が挟まっている。子供の落書きではない。まだ新しい、美しい文字だ。そこにはこう書かれていた。
『うかつに金貨を手に取るな、と、奥方に怒られなかったか。ジオリール。』
それを見たジオリールが声を低くする。「あの野郎……」とつぶやいて、どういうことだとシリルエテルの肩に手を回して抱えるように引き寄せた。シリルエテルが抱いているシフラルドが「あー、う」と何か声を上げながら、シリルエテルの持っている金貨に手を伸ばす。
「これは、父が教えてくれた悪戯」
「お前の?」
「そう。誰かに確実に魔法を掛けるには、うっかり手に取ってしまうもので、魔法なんて掛かってないってみんなが思いこんでいるものに掛けなさい……と」
くすくすと笑って、手の中の金貨を転がす。
「お金に悪戯をしてはいけないって母には怒られましたけれど……だったら、本当に大切な人に贈るお守りにしようって」
テーブルに置かれていたらついつい手に取ってしまうもので、小さくて、いつも持てるもの。それに呪いに見せかけて、おまじないを掛ける。金貨に魔力を感じた者が掛けられた魔法を紐解くと、幸せを祈る子供用の初級のおまじないが掛けられている。そんな小さな悪戯を、父と弟がいっしょになって仕掛けて、母とシリルエテルが笑いながら嗜める。妹のハウメアが生まれた時には、2人でおまじないの術式を一生懸命考えて、父と母に相談して、お小遣いに1枚ずつだけあった小さな金貨におまじないを掛けて、ハウメアに贈る本に挟んだ。
そんな風な穏やかな時が、リーン家にもあったのだ。
ジオリールへのメッセージの下には、その時に姉弟2人で掛けたおまじないの術式が描かれていた。
「あの野郎」
話を聞いたジオリールが、再び、……今度は笑みを含んだ声でつぶやいた。
「……まったく、お前ら魔導師はややこしいことを考えやがる」
そう続けて、ジオリールは顔を寄せシリルエテルの額に唇を付ける。あうあうと何事かつぶやいているシフラルドを今は無視して、ジオリールは自分の妻に頬を寄せた。
そんなに互いを大切に思っているのならば、素直に名乗って素直に会えばいいだろうに。そう言うと、シリルエテルが寂しげに笑って頷いた。
「本当に、そうですね……。私、許してもらえていないと思っていたのです」
「許す? イリドが、お前を?」
「ええ」
前の夫に嫁いだ時、弟のオルクスは猛反対したのだ。だが結局はその反対を押し切って、オルクスに国家魔導師としての道を歩ませてしまった。もともとは、それがオルクスの夢だった。だが、こんな風に叶えたかった訳じゃないと叫ぶように訴えられたことを、シリルエテルはいまだに忘れられない。会いに来ないのは、許してくれていないからだ……と、そう思っていた。
「案外、向こうも同じことを思っているかもな」
「え?」
「突然消えちまって、姉貴に怒られちまうかもしれねえってな」
「そう、なのでしょうか」
「そうさ。あいつは、生意気なクセに周りに気を遣うやつだった。そのくせ、人付き合いが下手でな」
くっくと、ジオリールが肩を揺らす。そうして、優しくシリルエテルの髪を梳く。
「本当に、お前らは姉弟揃って頑固で意地っ張りだ」
1人で大丈夫だと胸を張っておきながら、1人は寂しいと震えている。素直に「助けて」と言えばいいのに、その声が届く前に届かなかった時のことを怯えている。そんな頑固で意地っ張りで、……強くて弱い愛しい妻をいつまでも撫でていると、やがてジオリールの胸に体重が掛かった。ジオリールがその頭を抱えて妻の零れる涙を受け止めていると、シフラルドが2人の身体で翳った隙間から「あーは」と声をあげた。いつの間にか金貨を手に持って、あぶあぶとしゃぶっている。その声に身体を離した夫妻は、息子の様子に顔を見合わせて笑った。
ジオリールが指でシフラルドの頬をつつくと、金貨からぽいっと手を離してその指をぎゅっと握った。
「おう。やっぱりイリドの金貨よりも、親父の方がいいよなあ、シフ」
「うふー」
無邪気な黒い瞳で見つめてくるシフラルドに、ジオリールが破顔した。寝起きだというのに機嫌のよさげなシフラルドを抱き上げて、ジオリールは自分の太い腕の上に乗せる。ころんと落ちた金貨をシリルエテルが拾って持たせてやると、今度はそれを握ったまま手足をぱたぱたと揺らし始めた。
ゆっさゆっさとあやしながら、ジオリールが顎で宮廷からの書簡を指す。とっておきのものを見せるように、楽しげにニヤリと笑った。
「案外、早く会えるかもしれねえぞ」
シリルエテルが促されるように書簡を手に取り、それを開く。流れるように目を通していると、再びシリルエテルの瞳から涙が落ちて書簡を濡らす。
「私……イリド様に、……オルクスに、会っても、よいのでしょうか」
「ああ?……あいつがお前のことを許さねえなんて言うんだったら、俺が一発殴ってやるさ」
「まあ、ジオリールったら……」
泣きながら、くすくすとシリルエテルが笑い始めた。腕の中の小さなシフラルドを落とさないように少しばかり気を遣いながら、ジオリールは妻の唇に口付ける。少し深くて中々離れない重なりは、ずうっと大人しかったシフラルドがぐずぐずと愚図り始めるまで続いた。
****
2ヶ月ほど前、カルバル王国主席魔導師イリドの元にジオリール・グレゴル伯爵から1通のごく私的な書簡が届けられた。
『子供が生まれた。嫁に似て可愛くてしかたがない。
てめえは見る権利がある。しかたがないから見せてやろう。』
一瞬何のことか分からなかった。
何度か読み返して、イリド……いや、オルクス・リーンの胸に、やっとじわじわと言いようのない思いが込み上げた。自分の甥が……信頼する友人と姉との間に、子供が生まれたというのだ。
思えば当たり前の成り行きだ。ジオリールに妻としてシリルエテルを預けたのはイリド自身の采配による。仲睦まじく過ごしていれば、子供も出来るというもの。そうしてその子は、望まれ、祝福され、可愛がられているに違いない。かつて自分や、妹のハウメアがリーン家でそうだったように。
実感すると、……自分がずっとわだかまっていたものがストンと取れたような気がした。
ずっと姉に合わせる顔がないと思っていた。会って悲しい顔をされるのが怖くて、こうして遠くから見守るだけだった。……けれど、本当は自分は姉や妹と別れたかったわけではなく、姉に会いたくないわけではないのだ。
一番許せないのは自分だ。国家魔導師になるのは夢だった。……だが、あんなどうしようもない男に姉をやらなければ、自分の夢も叶えられない不甲斐なさがたまらなく嫌だった。姉を売ってまであの男の力を借りなければ、国家魔導師に見合う教育も受けられない有様にも怒りを覚えた。それを叶えてくれた姉に八つ当たりをし、妹を養子にやらなければならないことを全て姉に押し付けて……。
一番許せないのはそういう情けない自分だった。
だからこそ、一度は得た国家魔導師の資格を捨てて、己の実力で戦場から這い上がったのだ。国家魔導師ではない、ただの野良魔導師から国の主席魔導師にまでなった。しかし、実際は、今でも情けないオルクス・リーンのままだ。友人に姉を任せて姉が幸せになればそれで安心だと自分に言い訳をして、姉に会おうともしない。
ただ、幸せそうな姉を見たい。子供が生まれたことを祝いたい。
それだけなのに。
イリドはもう一度、ジオリールからの書簡を見る。
姉に似ている子だという。この様子であれば、友人は……ジオリールはよほど可愛がっているに違いない。あの大男がどんな顔をして子供を抱いているのやら。しかもその子供は、自分の甥でもあるのだ。イリドは……ジオリールが姉の子を抱いてニヤニヤしている姿を想像し……今度は、何故だか妙に悔しくなった。
小さく苦笑した。……バカみたいだ。こんな風に思い悩んで、会いに行くのを躊躇って、自分がぼんやりと感傷に浸っている間にきちんと姉は幸せになっていた。幸せになってくれていた。信頼のできる友人がその一端を担い、姉もそれに寄り添って。そうして、会いに来いと言っている。
ふと、あの男はどこまで知っているのだろうかと考える。本来ならばイリドが妻の実弟だということなど、思いも付かないはずだ。だがあの男のことだ。戦士の勘などという訳の分からない感覚で、気付いているのかもしれないし、ただ自分の友人に妻と子を自慢したいだけなのかもしれない。
「……まったく、あの男は……」
一度瞑目して頭の中で算段する。これは友人と子供が贈ってくれた巡り合わせのように感じた。
旧知の友人は自分のことをバカにして笑うだろうか。
愚かなやつだと殴るだろうか。
それでもいい。たとえ殴られても。
イリドはようやく心を決めた。
****
第2王子が隣国を訪問する……という、その供として、イリドは一行に加わっていた。
隣国への行程はグレゴル伯爵領を経由していくことになった。第2王子はジオリールが伯爵位を戴くきっかけになった戦で窮地を助けられている。恩義を感じた第2王子は、ジオリールが遠方に赴任したことを大層残念がっていたから、当然、伯爵領に何日か滞在するはずだ。すでに伯爵領には宮廷より告知している。宮廷から送った書簡には、主だった同行者の名前も記載されていたはずだ。
馬上のイリドの手の中に、小さな金貨がある。イリドの元にグレゴル伯爵からの書簡が届いたのは、つい先日……一行が出立する直前だった。その内容はイリドが伯爵宛に贈った贈り物に対する正式な礼状で、何故か金貨が一枚同封されていた。
綺麗な金貨からはほんの僅かに優しい魔力を感じる。どのような術式かは書簡のどこにも書かれていなかったが、イリドにはそれで充分だ。
「姉上」
王子の一行に付いて行きながら、ひとこと、つぶやいて、ぎゅ……と金貨を握り締める。ずっと長いこと、自分は一体何を躊躇い何に怯えていたのだろう。あの姉が、自分を許さないはずがないのに。
姉からのちいさな贈り物は、イリドの手の中で温かく優しい魔力を放っている。それにはごく当たり前の、ごくシンプルな祈りがこめられていた。
『たいせつなオルクス。どうか無事で、会いましょう。』
旅の安全と再会を祈る魔力を手に、かつて友人と姉が旅した道を、今度はイリドが渡るのだ。