夜の帳が降りた後宮のとある御殿の、さらにとある一室……女房が住まう房の一つから男が1人、滑るような身のこなしで御簾をくぐった。
「ええ、また」
ぼそぼそと女の声が聞こえ、それをなだめるような優しい男の声が続く。男の声は優しいが、やんわりと女の声を拒絶したようだ。滲む声色は「また」と言っているが、もうこちらには「来ない」という意味だった。
どうやら女には夫があったようで、さりとて男も別段そのような存在を気にするような肝でもなかったのだが、別れるから男の女房にしてくれと取り縋られて、男はそれを断った。夫のような存在があるのならば、そちらに縋る方がよいに決まっている。面倒なことはごめんこうむる。愛の有無は関係なかろう。男と女の間に、それが関係無かったように。
しかし、面倒な事になる前に早々に退散しなければ。
女の夫は身分がそれほど高くないとはいえ、御所に勤めている。鉢合わせするのはいただけぬ。
男の名は、近衛中将源成道という。
成道はそそくさと女のもとから逃げて来た……のはよかったが、さて、今宵は明けるまでに時間があるが、どこぞで休むことは出来ぬだろうかと思案した。邸に戻ってもいいが、簡単に戻るのもつまらない。出来れば御殿のいずれかの房で、……あやよくばそこに女の肌があればよいのだが……と、ふらり、手近な房に潜り込んだ。
「どなた」
「おや、誰もいないと思うておりましたが。……貴女は現? それともこれは夢の続きか」
ふ、と灯りが消えた。
闇に包まれ成道は苦笑する。貴族の子息として何不自由の無い暮らしをしている男ではあったが、一通りの武道をたしなんでいる。闇に包まれたからといってたちまち動けぬようになるほど柔な者でもなく、夜目は聞かなくとも気配で女がいることは分かった。
さて、どうするか。
抱いてだまりこませてしまおうか。
それとも、一晩の宿を貸してもらうだけにいたそうか。
「……道に迷ってしまいましてね。一晩宿を貸していただけませぬか」
「人も来ぬ寂しき庵ゆえ、もてなすような用意もありませぬ。お引き取りを」
「無下な事。ほんのわずかに温かな寝床があればいいのだが」
ふ、と鼻で笑うような気配がしたのには驚いた。成道の声と香る香に、教養のある大概の女は成道のことをそれなりの身分の相手だと気付くはずだ。失礼な事など出来はしないし、取り入れば宮中に貴族という盾を得る事ができる。宮中に住まう女房……あらゆる女官達は、それくらいの立ち回りは心得ている。そうでなければ、教養の無い女か初心な娘ということか。
しかし、女側から香る香りはしっとりとまろやかな黒方だ。通常の黒方よりも少し沈香に寄る香りが、女の意思の強さを現しているかのようで、聞こえる声に怯えもなく、凛とした響きを感じさせた。
そのような女が、暗闇で成道の姿も身分も分からぬとはいえ、鼻で笑ったのだ。
「温かな寝床はありませぬ。あるのは冷たい檀ばかり」
檀……まゆみ……とは、檀紙の材料に使われている植物の名だ。少し気配を伺えば、黒方の香りに混じって、真新しい檀紙と墨の香りがした。
「おや、では目覚めれば私は檀を抱いている、ということになるのだろうか」
「ご安心を。ここでおやすみにならなければすむこと」
くっと笑って、成道は女のそばにしゃがみ込んだ。少しだけ身をひく衣擦れの音がする。……気配で大体の顔の位置は知れる。成道はじりじりと女ににじり寄り、女の持っている檜扇に触れた。
ぱたりと檜扇が落ち、女の吐息が届く。
「怖がっておられるのか?」
「いいえ。檀がなぜ恐がりなどいたしましょう」
「あくまで檀と言い張られるか」
声は震えておらず、その気配に誘われるように成道は吐息を手繰り寄せた。唇に柔らかみが触れて、何度か咥えてついばんだ。鳥の触れ合いのようなそれは短く終わり、成道は女の袷に手を掛ける。
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しかし、結局成道は檀の女の許では晩を明かさなかった。信じられないことに、あのあと耳を引っ張られて雰囲気はぶちこわし。耳を引っ張る女がいるなどと信じられず、それが檀を名乗り黒方を焚くような女の行動であることにおかしみを覚えた。
退散させられた成道は、一旦家に帰って身を調え、檀の女……檀の君をどのように探そうかと唇を舐める。
「……ん?」
着替えをさせている途中、懐が頼りない事に気が付いた。
「んん?」
「いかがいたしました、成道さま」
着替えを手伝っている女房が、不審に思って手を止める。成道は、何度か懐を叩き、裾をばさばさと払い、もう一度懐を叩き、袷を覗き込む。
「無い……」
まさか、あれを失くすとは……。
いつも冷静で飄々とした態度を崩さぬ成道の、こんなに慌てふためいた姿をみれば、頼景あたりは大いに笑うだろうか。しかし成道にはそれどころではなかった。懐に入れておいたはずの懐紙が無くなっている。そういえば昨日は頼景に手蹟を倣い、女に贈る歌を頼景に書かせようとしていて……。
失くしたのはどこだろうかと思い出せば、思いつくのは1カ所しか無い。最初の女のところから出て来た時にはあったはずだ。それならば、落としたのは……。
「おいおい、まさか」
檀の君の許に。
成道は、はあああ……と肩を落として、両手で顔を覆った。あの文が、よりによってあのような女に拾われるとは。さすがの成道も、言い様の無い風な心持ちになって頭を抱えることになった。
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そのころ、後宮のとある御殿の、さらにとある一室……女房が住まう房の一つ、真新しい檀紙と墨の香りが香る一室で、中宮に仕える女房の1人が、一枚の懐紙を開いていた。
「と、り、つそう? はし? はしのふれあう、さまを、み、て……まあ、なんて字でしょう」
女は懐紙に描かれている、美しい……とはとても言えない、というか、なんというか、随分と特徴的な字を見て首を傾げた。もしこれが貴族が書いたものならば、これを書いた者は笑い者になるだろう。けれど、女は笑わなかった。
「懸命に、書かれておりますのね」
いや、小さく笑った。
しかし、それは蔑む笑いではなく、初春の水辺に咲く小さな花を見て、まあ可愛い事と笑った時のような、そのような慎ましやかなものだった。
とりいっそう はしの触れ合うさまを見て われの思いも夜に渡りし
鳥のつがいがくちばしを触れ合わせている様子を見て、私の思いも貴方の部屋へと飛んでいきそうです。
…と。どうやら、恋文のようだが、さて。