在れど触れぬは月のごとく

在れど触れぬは月のごとく
蛍のかげに君をゆかしむ

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墨の香りのこもる房で、大の男2人が膝を付き合わせて何やら紙に文字を書き付けている。1人はすんなりと涼やかな面の男、もう1人は髭面の大きな体躯の男だ。

「おい、また集中が切れているぞ」

「そうだねえ」

「成道、真面目にやれ」

「うんうん」

成道、と呼ばれた涼やかな顔の男の方が筆を持っていて、呼んだ強面の男の方が腕を組んで成道の手を眺めている。眺める表情はしかめっ面で、まるで熊が威嚇しているように恐ろしいが、睨まれている成道の方は素知らぬ風だ。

「の、の字を適当に書くなと言っている。俺の字と全然違うじゃねえか」

「そうか?」

成道が筆を止めて首を傾げる。手元にはなにやらふにゃふにゃと文字が書かれていて、どうやら「つきのごとく」と読めそうだ。

源中将成道が友人であり手蹟の師でもある三善頼景に字を習うのはいつものことだ。成道が吟じる歌を頼景が書き、それを手本に成道が筆を追う。頼景は何種類もの手蹟を書き分けることの出来る筆の達人だが、成道の手本にさせる字は難易度のそれほど高くない普通の手蹟にしていた。それでも、幾度練習させても似ても似つかぬ文字になる。一体どういう目をしているのだ。

なかなか集中せず上達は遅いが、匙を投げないことだけは褒めてやってもいい。もっともこの内裏で貴族として渡り歩くのに手蹟の腕は必然だから、当人も当人なりにがんばっているのだろう。

ただ。

「ああー、もう疲れてしまったな。今日のぶんは止めにしないか、頼景」

「はあん? まだ二枚しか書いてないだろうが」

「二枚書けば充分だろう。それよりも」

成道は筆を投げ出すと、やれやれと笏で面をあおぎ始めた。やる気の無いことこの上ないが、今日は一際集中力に欠ける様子だ。

まあ、頼景とてわざわざ男と狭い部屋で書の練習をしたところで面白いことなど何も無い。今日のところはここまでにしておくかと頼景も筆を置くと、成道が笏で口許を隠してにじり寄る。よからぬことを考えている表情だ。

「なあ、頼景。これを文にしたためてくれないか」

「またか」

成道は頼景に書を習ってはいるが、代筆の上客でもあった。

「恋文くらい自分の手で書けよ、成道」

「おや? お前がそんなことを言うなんてね頼景。だが、今度のお代にはとてもいいものを持ってきたんだよ」

「お前がそんな顔をするときはろくなもんじゃねえんだよ」

「言うな。だが、今回はお前も飛びつくよ……なにしろ」

成道が頼景の耳元でひそひそと代筆の交渉をする。それを聞いて、頼景がふうむ……と唸った。取引の材料はとても魅力的な代物だ。

「きっと時子姫も喜ぶだろうね?」

「くそっ……時子の名前を呼ぶんじゃねえよ。分かった、書いてやる、紙を貸せ」

「ふふ。今回は一際心を込めて書いておくれよ」

時子、というのは頼景の妻である。時子と頼景を巡る夫婦のあらましにもまた、成道は関わっているのだがそれは余談だ。しかしその関わりのおかげで、成道はなぜか時子を気に入り、折りに触れて会いたがった。さらに気に喰わぬことに、成道が頼景に渡すものも時子が喜ぶようなものが多く、代筆を断れないのである。

それにしても、恋の手管に長けているはずであるのに、成道は字が下手で、己の手蹟では恋文の一つも書けぬ。成道が女に渡す文はほとんどが頼景の代筆だ。さして自由が利くとも思えぬのに、この宮中で一体どのように恋の評判を伸ばしているのかといえば、他の男のように軽々しく歌の文を届けぬところがよいらしい。それも下手に流麗でなく真面目な手蹟で、遊び慣れている風に見えるのに、思い入れのある女のところにしか届けぬ。文をもらった女は、貴重な成道の手紙にすっかり心を奪われるという。とはいえ、その文のほとんどを頼景が代筆しているのだから、こちらの思いは複雑だ。

そんな代筆の話もここ最近減って来たと思っていた。女遊びの噂も少しは治まっていると思っていたのだが。

頼景は墨を取り、成道に渡された紙に筆を置く。

心を込めてなど書いてやるかと思いつつ、成道の代筆として用意している手蹟をなぞって文をしたため始めた。

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暑くなって来たとはいえ、日が暮れれば肌寒さすら感じられる。涼しい格好のままで寝殿をうろうろすれば、やはり女の肌が恋しかろうというものだ。

そんな初夏の月の無い夜、成道は覚えのある房にやってきていた。

人の気配を伺えば周囲には誰もおらず、ただ、目的の房に恐らく目的のひとの気配を感じるだけだ。向こうもまた、こちらの気配を感じているのだろう。パサリ……と紙を畳む音がした。

まゆみはもう仕舞われたのかな」

檀……というのは、檀紙の基となる植物の名前である。そうして、成道が追いかけている者の手がかりでもあり、言葉遊びでもあった。

「仕舞うも何も。ここには檀と墨しかありませぬ」

「そうか、ならば入ってもかまわぬかな」

「人も来ぬ寂しき庵ゆえ」

「なれば、ちょうどよい」

その言葉の続きを聞くか聞かぬかのうちに、成道はするりと房の中に身体を滑り込ませた。

覚えのある懐紙と墨の匂い、そして女が使っているであろう黒方の香。揺れる灯火がふっと消えて、いつかのように完全に闇になったかと思われた。しかし少し開けた格子から溢れる星の灯りに、ほんの僅か、流れる髪の女の影が見えるようだ。

****

あれはいつだったか。

成道がこの辺りのいずれかの房に住まう女房から逃げた時のことだ。このまま帰るのもつまらぬと、手近な房に潜り込んだ際、1人の不思議な女房に見えたことがあった。正確に言えば顔を見ることは無く、ただ口付けを交わしただけの女だった。いつもの成道ならば、女房を黙らせるためにこうした手段に出ることはよくあることで、別段気にもとめぬのだ。いつもと違ったのは、その女に耳を引っ張られて拒まれたことと、……そしてなにより、成道の書を女のもとに忘れて来てしまったことだ。

向こうが己のことを近衛中将だと気付いていたとて、あの手蹟と己が結びつくことはあるまいが、そもそもあんなものを女のところにいつまでも置いておくのも分が悪い。あの後すぐに同じ場所を訪ねてみたが、どうやら女は頻繁に房を変わるらしく、そこには誰もいなかった。探しても見つからず、かといって表だって探せば近衛中将が女を探してると噂になるから大事にも出来ず、手を打ちかねていた。

さて、早くあの書を取り戻さねばと気が逸る一方で、あの女を探す理由は別にあった。成道はあの時から何やら女遊びにも身が入らぬ。そしてなぜかつまらぬ歌を思いついて頼景に書かせては、そのいずれも女に贈ること文箱にしまっていた。

まったく、このような物思いに煩わされるのは初めてのことだ。しいて言えば、頼影の妻である時子に興味を持ったときくらいであろうか。あの時も時子をどうしても見てみたいと興味津々で、頼影を出し抜いてやったのはよい思い出だ。

そうして折りに触れて、成道は、用もないのにかつて女が現れた房の辺りをうろうろするようになったのだが、そんなときに声が聞こえてきたのだ。女の声で、しかも人の少ない場所であったから、思わず聞き耳を立てる。声は複数で、どうやら女房が数人、集まっておしゃべりを楽しんでいるらしい。

そんな女房達とは少し距離を置いた場所から、凛とした声が響いた。

『ほたるが……』

一言ではあったが、聞き覚えのある声だとすぐに分かった。女の声などどれも変わらぬと思っていたのに、不思議に何の隔たりも無く成道の耳に響く。もう少し聞けば確実に聞き分けることができると思ったが、残念なことに他の女房達のおしゃべりの声に混じってしまう。

成道は僅かに思案をし、女房達に声をかけられる前に足早に退散する。

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「ようやく見つけたが、やはり顔は見せてはくれぬのですね」

消えた明かりに苦笑しながら、成道は女の横に並んで腰を下ろした。女の衣擦れの気配がするが離れてはいないようだ。思いがけず近い距離から、困ったような溜め息が聞こえた。

「また道に迷われましたの?」

ささやき声に空気が混じり、芯が通って爽やかであるにも関わらず、どこか色めいた重みのある声でもあった。やや呆れたような声に成道は己が手にした笏を懐にしまう。

「いつぞや手にした檀の心地が忘れられず、彷徨い歩いていましたら迷い込んでしまいました」

「覚えるほどの心地でも無いでしょうに」

以前と少しも変わらぬ揺るぎのない冷静な声は、揺れることなどないのだろうか。成道とて、気の無い女など放っておけばよいのに、その声色が自分に依って慌てるのを聞きたくて、つい追いつめてみたくなる。

少し距離を寄せて声を低くする。潜めた声が少し掠れた。

「檀の君」

「……どなたのこと」

「檀の精霊なのでしょう、貴女は」

少し身を退く気配を離したくなく、成道はさらににじり寄った。体温が近づく独特の気配は、意外にも心地が良い。ここで離れられるのは心もとなかった。

成道は内緒の悪戯話でもするかのように顔を近付け、傍らに置いた小さな箱のようなものを取り出した。

「これを」

火などどこにも無いはずなのに、小さな小さな灯りがぽつりと灯った。女の気配が動き、こちらに向いたのが分かる。成道は微かに笑って、自分も少し顔を寄せた。

「……まあ」

それは2匹の蛍で、女の感嘆の声が聞こえた。

細やかで小さな竹細工の虫かごに閉じ込めた灯りは、ゆらゆらと不規則に揺れている。

「月の光で貴女の顔を見ることは出来ませんが、蛍ならば、哀れな男の望みも叶えてくれるかと思いまして」

「……」

女の顔がある方に視線を向ける。蛍の光が微かに女の首筋を照らしているように見えたが、顔の造作まではさすがに分からない。その気配を察知したのか、扇が持ち上がり、どうやら顔をさらに隠したようだ。暗闇で見えはしないのに。

しかし隠されれば暴きたくなるというもの。

成道はそっと扇を持つ女の手に触れた。手の甲を撫ぜ、滑らかさを確認し、一本一本の指を重ね合わせ絡めあうように触れる。

「どうせ見えぬのですから、つまらぬへだたりなど無くして……いたたっ……!」

しかし女はつれなく、成道の手の甲をぎゅっとつねった。すっと手を離して、離れる気配がする。成道は慌てて、追いかけるように膝を寄せた。つねられた手をぷらぷらと振る。

「檀が噛みつくなど聞いたこともない」

「ならば今お知りになりましたわね」

「まったくだ。初めて聞いた」

それからは少しの間、沈黙が落ちた。こうして静かにしてみれば、外からは虫の声がシンシンと聞こえ、時折別の房からコトンと物音が聞こえたりしている。

隣の気配と沈黙、そして黒方の香りが心地よい。触れそうで触れない距離だったが、体温をはっきりと感じた。

「もう一度、蛍を見せていただけますか?」

「え?」

隣の気配に惚れながら長い沈黙が続いた後、ぽつりと愛らしい声が聞こえた。これまでの会話のような賢しげな取引や、やり取りではない、女の素直な言葉に、虚を突かれたように間抜けな声を出してしまった。

しかし女は別段気にしている風でもなく、成道が持ち上げた虫かごをそっと覗き込んで来た。

成道もまた同じように覗き込んで、再び2人の顔が近付く。

「きれい」

女が小さく笑った唇の動きが、蛍の光に浮かぶ。

「でもこんな狭いところにいるのは可哀想だわ」

そんな風に言って蛍の窮屈さを哀れに思う口許と、薄く柔らかそうな唇の膨らみ。すんなりと細い顎と首筋。

「逃がして……」

「蛍のことは哀れに思うのに、私のことは哀れに思っては下さらぬか」

言って、成道は女の顎に触れ、唇を軽く押さえた。覚えのある柔らかみだ。……姿も見えぬのに、その空気に惚れて間抜けな声を出してしまった自分を誤摩化すように、成道はいつもの自分を取り戻した。

「お離しになって」

「いやだと言ったら、今度は耳に噛み付きますか?」

「噛み付かれたことがおありなの?」

「さて」

身を捩ろうとする女の動きを感じ取って、成道はやや強引に細い身体を抱き寄せた。女はくつろいでいたからだろう、袿を何枚か重ねているだけのようだ。腕の中にやすやすと女の身体を閉じ込めて、突っ張る手も動かせぬようにしてしまう。

「蛍を逃がして差し上げましょう」

「え?」

「ただし、一晩の宿を。檀の枕を貸していただけませぬか」

返事を聞く前に、成道は女の唇をやんわり塞ぐ。軽く触れ合わせた後、すぐに離し、唇が掠めるほどの距離で笑ってみせた。

「見てご覧なさい」

女を抱き寄せていない方の手で虫かごの蓋を開ける。音も無く、そよそよと蛍が2匹宙に浮き、成道と女の周囲をゆっくりと飛ぶ。腕の中の女が身じろぎをして、蛍の飛ぶ方向に視線を向けた。成道は膝に挟むようにして女の身体を背中から抱き直すと、自分も蛍を眺める。

暗くて互いの身体も顔も見えないが、女の手が持ち上がったのを感じた。戯れる蛍に思わず手を伸ばしたようだった。

「あ」

静かに飛ぶ2匹のうちの1匹が、女の指先にちょこんと乗る。

「これはよくない。浮気者の蛍のようだ」

そう言って成道が女の手を握ると、止まった蛍がひょいと飛び立った。

「まあ」

飛び立った蛍は、もう一匹と共にしばらく宙を舞っていたが、やがて開けられた格子の隙間から逃げて行ってしまった。

「やれやれ、星に混じって分からなくなってしまった」

「きっと仲がよいのだわ」

「その割に、貴女に浮気をしようとしていた」

「妬いていらっしゃるの?」

「ええ。お分かりですか」

そんなわけがないでしょう、とでも返答が来ると思っていたのか、成道の答えに女が黙り込んだ。まだ女の身体は成道の腕の中にあり、互いの顔が見えぬ程真っ暗だ。

「一晩の宿をお借りしても?」

「人も来ぬ寂しき庵ゆえ」

「ならば、冷たい檀を抱いて、1人で寝ることにいたしましょう」

腕に女を抱いたまま。言ってごろりと横になった。女はしばらく身じろぎをしていたようだが、やがて諦めたようだ。

「触れればまた噛み付くかもしれませぬ」

「では、慎重に、触れぬようにしておこう」

女を抱いて……文字通りただ抱いて、眠ることがあるとは思わなかった。嫌がるでもなく、断るでもなく、かといって決して受け入れぬ女の様子に、惑うような惹かれるような、不思議で心地よい気分になって成道は目を閉じる。

そっと女の髪を撫でてみるとそれは驚くほどの触れ心地で、幸いなことに噛み付かれはしなかった。

****

しかし、失態だった。

すっかり心地よく眠ってしまい、朝目が覚めると腕の中に女はいなかったのだ。

「しまった……」

二度目の失態である。しかもようやく会えた女に有頂天になって、一度目の失態も取り返していない。

苦虫を噛んだような表情になりながら、成道は衣を調えると、改めて房の中を確認してみる。

さほど広くない室内には、品の良い調度品と大量の檀紙、そして筆の道具が置いてあった。本来ならば遠慮するところだろうが、成道は悪びれることもなく、傍らの文箱の中を探った。しかし、そこには新しい檀紙が置かれているだけで、何かを書き付けたものは入っていない。……当然、例の文もそこには無かった。

ただ、文台の上には何かを書き付けた檀紙が一枚乗っている。

どうやらそれは文のようだ。

「……」

そこには、流麗な文字でこのように書かれていた。

しんげつにとりのいっそうとぶらはず
ほたるのかげにとはずかたらず

新月の闇に紛れて(いつぞやの)鳥のつがいも訪ねてくることも無く
ただ、蛍の光に紛れて、(あなたは)問いもせず、語りもしないのですね

「……くっそ……」

成道には珍しく、まるで頼景のような悪態をついてしまった。もちろん女に、ではなく、自分にである。つまりあの女は……檀の君は、やはり例の落とし物のことを知っていたのだ。

しかしそうだとして、知っていて……黙っていた、ということになる。昨日の会話の中でそれらしいほのめかしは無かったはずだ。何故黙っていたのだろう。取るに足らないと思っていたのか、しかしそれならば、わざわざ自分が「あの書を持っている」と感じさせる歌を残す必要も無いだろうに。

本当は、明け方にこっそり探して、あやよくば取り戻そうと思っていたのだが、そもそも寝過ごしてしまったのもよろしくなかった。文のことを知っていたのなら、どこかに持っていってしまったか、最初からここにはなかったのだろうか。まるでまやかしにでもかかったように、すっかり気持ちよく、眠ってしまった。
書を手に取ってみる。まだ墨の香りが残っていて、乾いてもいない。

腕にもまだ重みが残っていて、抱いて眠った檀の君の黒方も香るようだ。

「つい先ほどまでここにいたはずなのに、残っているのは檀のみか……いや」

檀の君の手蹟……残された書を手に取ると、成道は立ち上がった。

そうして

……少し逡巡して、懐に入れてあった文を代わりに置いた。

****

「文……?」

女房が1人、とある房に文箱を持って戻って来て、愛らしい文台の上におかれている書を手に取った。空になった虫かごの傍ら、律儀に折り畳まれたそれを開くと、やはり律儀に書かれた真面目な文字が書かれている。

その手蹟に視線を滑らせ、女は長い睫毛を瞬かせる。

薄く柔らかな唇を微かに動かし、書かれた歌……いや、文をなぞる。

在れど触れぬは月のごとく
蛍のかげに君をゆかしむ

そこにあるのに触れられないのは、まるで月の光のようです
蛍のひかりがあれば、あなたを見ることができるのでしょうか

「歌はとても綺麗。文字もとても綺麗。でも……」

女は小さく苦笑する。

「まるで手蹟のお手本のようだこと」

だが、女はそれを丁寧に折り畳んで、大事に持ってきた文箱に仕舞った。もともとあった文箱とは別の箱だ。女はその文箱の底から、また別の文を取り出した。それをゆっくりと開いて、残念そうに瞳を伏せる。

「ならば、とりの君の本当は、……一体どちらにいらっしゃるのかしら」




「わあ」

三善頼景の邸宅の一室で、頼景とその妻の時子が2人、小さな虫かごを手に仲睦まじく過ごしている。

「これを、成道さまが?」

「まあな。……俺が、あいつの世話をしてやったから、その礼だよ」

「お礼? お礼をいただくようなことを、頼景さまがなさったの?」

「ああ」

時子が虫かごを持ち上げて覗き込む。そこには小さな蛍が2匹、仲良さげにふわふわと飛んでいた。

「これ、お庭の池に逃がしたら、夫婦になるかしら」

「なるかもしれんな」

虫かごを持って渡殿に行き、蓋を開けた時子の身体を頼景の大きな身体が抱き締める。ふわふわと蛍が2人の回りをしばらく舞って、やがて水の香りのする方へと飛んで行く。

頼景は行儀悪く渡殿に胡座に座り、時子を膝の上に乗せた。時子は「頼景さまったら、お行儀が悪いですわ!」とひとしきり暴れたが、やがて蛍の光がチラチラ遠くに見え始めると、おとなしくなって夫に身を任せる。

来年は、この庭にも蛍が飛び交うだろうか。