いつか、同じ星を

003.黒銀色の鱗

アストンに絡まれていたミチルがその手を逃れ、仕事に戻っていったのを認めると、食堂にも元の雑然とした雰囲気が戻ってきた。客の興味はもっぱらミチルの態度で、それが蜥蜴族の男に向けてあからさまな様子が気になるようだ。何しろ、小柄で快活で獣人だろうが人間だろうが物怖じしないミチルは、食堂に通う若い兵士達の憧れだ。ミチルがあまり男に興味がなさそうだったことも手伝って、誰も手を出さない共有財産のような位置付けになっていたのだ。

そのミチルがあんな、初めて恋を知った乙女のような初心な顔で蜥蜴族の男に接している。客の興味を惹かない訳がなかった。

エティエンヌと顔見知りが、ひそひそと話す。

「おい、やっぱりあのミチルの態度……」

「分っかりやすいな、ミチルの奴。そうか、今までどんな男も相手にしてなかったけど、ああいうのが趣味か」

「意外だったな」

……などと、話している。食堂の誰もが、すっかりアストンのことは忘れ去っていた。

「おい、待てよ」

しかし、アストン本人はこうして放置されるのがたまらなく嫌いな男である。ミチルに案内されて女将と部屋を取る手配をしていた蜥蜴族の男が、アストンの声に顔だけを向けた。アストンは前に出ると、蜥蜴族の男をねめつけた。

「何ミチルに慣れなれしくしてんだよ。俺がミチルと話してんだ。部屋取るんなら勝手に取れよ、なあ? 蜥蜴男さんよ」

「アストン!」

ミチルがこれまでにない必死の……そして怒りを孕んだ声を張り上げた。アストンがずんずんと近寄ってきて、蜥蜴族の男の尻尾の先を踏んだのだ。ミチルが「やめなさいよ!」と声を上げて前に出る。しかし、蜥蜴族の男がミチルの肩を引き寄せて前に出るのを止めさせ、フードの下の顔をアストンの方に向けた。

「どうやら貴公の足が私の尾を踏んでいるようだが、どけてくれないだろうか」

「ああ? 聞こえねえなあ、なんだって?」

「貴公の足をどけてくれないか」

「あ? おおっと、こりゃあなんだ、あんたの尾? はあ? こいつは気付かなかったぜ、こんな鱗まみれのきっしょく悪いのはこれ、あんたの尻尾だって? へえ? そいつは……」

「やめなさいよ!」

パチャン。

ぐりぐりと蜥蜴族の男の尻尾を踏むアストンの前に、いつの間にか蜥蜴族の男の手を逃れたミチルが立っていた。空のコップを握り締め、怒りに手を震わせている。 女将が「ミチル! やめな!」と飛び出してミチルの手を掴んだが、ミチルはアストンから目を離さないままそれを強引に振り払った。

「それ以上、うちのお客さんに失礼なことしたら今度はバケツ持って来るわよ!」

水を掛けられて何が起こったのかわからない……というアストンの間抜けな面に、ミチルが一気にまくしたてた。

「貴方、何が嫌なんだって聞いたわよね。分かんない? 私、あなたのそういう失礼なところが大嫌いなの。いきなり自分の職場でお客様に迷惑かけるような男と関わりたくないのよ。当たり前でしょう? 分からない? 私はね、性格悪い人は嫌いじゃないけど、貴方みたいな常識外れは大っ嫌いなの。分かったらその足をどけて、とっとと出て行って!」

アストンが瞳を丸くして顔を赤くして青くしてもう一度赤くした。ミチルから視線を外すと、今度は女将に対して怒鳴りつける。

「てめえ……おい、女将! 客に対してこんなこと言わせていいのかよ!」

「お言葉ですが、アストン様。……貴方はお席に着かれておりませんし、本日は何も注文されておりませんから、お客様扱いはいたしかねます」

女将がいつもの砕けた口調をわざと丁寧なものにして、眼を据わらせた。下手な兵士よりも鋭い迫力で一歩踏み出すと、宿屋の主人も厨房から出刃包丁を持って顔を出す。同時に近くに座っていた常連客の何名かが、拳を鳴らしながら立ち上がった。ちなみにこの常連客達は女将や主人と同年代で、若いときから女将の取り巻きだったという噂だ。

「うちのミチルもアストン様の下で働く……というお話をはっきりとお断りしましたし、何よりも、うちのお客様に対して失礼をなさっているのはアストン様のほうだと思いますが」

「な……どいつもこいつもバカにしやがって……おい、てめぇら……」

後ろの部下に向かって声を掛け、剣を手に掛ける。その動きを見せたときに、エティエンヌが席を立ってミチルの手を引いた。もふっ……と鎧に覆われていない腕に抱えられる。さらにドスン! と大きな音が響いて、アストンがひっくり返った。

「失礼。貴公の足がなかなか退かないので。つい」

蜥蜴族の男の尻尾が、アストンの足をバシンと払ったのだ。尻尾を少し持ち上げて、男の脛を丁度よく狙ったのだろう。派手に身体が跳ね上がって、非常に間抜けな格好でひっくり返った。エティエンヌがミチルを抱えたまま口元をもごもごと動かし、「かっこわり」とつぶやく。

うぐう……と呻くアストンの回りに部下が駆け寄る。周囲の常連客で腕に覚えのある者はみな立ち上がり、アストンをすごい迫力で注視している。その迫力に気圧されたアストンは、部下の助けを借りながら立ち上がると、憎々しい顔で蜥蜴族の男とミチルを睨みつけた。

「てめえら……このままで済むと思うんじゃねえぞ……」

吐き捨てるように言うと、アストンは最後まで影の薄かった部下らに抱えられながら食堂を出て行った。エティエンヌの腕に支えられたミチルが「おとといきやがれ、バーカ!」の顔でアストンの背中を見送っていると、女将からペチンと頭を叩かれる。

「ミチル! いつまでエティエンヌさんに抱っこされてるんだい。さっさとこちらのお客様をお部屋に案内しな!」

「は、はいい!」

あわててエティエンヌの腕から離れると、ミチルは背筋を伸ばして蜥蜴族の男と向き合った。蜥蜴族の男がミチルを見下ろし「よろしく頼む」というと、再びミチルはうひゃあああああ……と口を開けてしまい、鍵を持った女将に再び拳骨を喰らう。

ういーひひひひ……という声に振り向くと、エティエンヌがいよいよテーブルに頭を伏せて背中をひくひくと震わせていた。

****

「お部屋はこちらです」

「ありがとう」

蜥蜴族の男を案内したミチルは、鍵を開けて先に部屋の中に入った。続いて入ってきた蜥蜴族の男が、ミチルの後ろで足を止めた気配がする。

「いい部屋だな」

声に振り向くと蜥蜴族の男がフードを外して顔を露にし、きょろきょろと部屋を見渡していた。その姿を、ミチルが一番最初に蜥蜴族の男を見たときと同じように、口をぽかんと開けて見上げる。ミチルの視線に気付いた蜥蜴族の男が、「ああ、すまない」と言ってフードを再び被った。

その一連の行動に、ミチルが実に悲しそうに声を上げた。

「ええええっ!?」

「え?」

「あ、いえ……」

そうして、しょんぼりとしてしまったミチルに、蜥蜴族の男が遠慮がちに首を傾げる。

「……どうした。何か気に障ってしまったか?」

トーンを落とした低い声に、慌ててミチルは頭を振った。

「い、え、いえいえ、そんなことないです。どうしてですか?」

「……ずっと貴女は、怯えている風に見える。先ほどは……その、貴女に触れてしまったし。俺はこうした身なりだから、怖がらせてしまったのならばすまない」

ミチルが再びぽかんとした。次の瞬間、顔が真っ赤になる。ぷるぷると敵に追い詰められた仔鹿のように頭を振って1歩後ずさったが、その直後に2歩踏み込んで蜥蜴族の男の両腕をがっしと掴んだ。

「ち、がいます!」

「え?」

「違うんです、怖くなんかないです。むしろ」

掴まれた腕はそのままに、前のめりになったミチルの身体が出来るだけ自分に触れないよう気を遣ったのか、蜥蜴族の男は仰け反った。その間、「むしろ、その、あのえっと、」ともごもごとミチルは真っ赤な顔のまま口ごもる。

「と、とにかく。……顔とか、全体的に全っ然怖くないですから。あの、あの、隠さないで下さい」

「あ、ああ……」

言って、じぃ……とローブの中の顔をミチルが覗きこむ。蜥蜴族の男の顔はよく見えなかったが、全体的に黒から灰色のグラデーションになっているようだった。まじまじと見詰め合ってしまい、照れた風にどちらからともなく視線を外す。

その雰囲気に、焦ったようにミチルが蜥蜴族の男から離れた。

「す、すすす、すみませんっ」

「いや。怖がらせていないのならば、かまわない」

ミチルは小さくなってうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げて蜥蜴族の男に向き合った。

「さっきは……助けていただいてありがとうございました」

「余計なことをしたのではないだろうか。店に不都合がなければいいのだが……」

「大丈夫。あんな揉め事、アストンが1人になってからしょっちゅうですから。もうすぐ男爵様も帰ってくるでしょうし、そうなったら大人しくなりますよ」

「そうか……」

「そんなことよりも、その……し、し、尻尾踏まれてて……大丈夫でしたか? ごめんなさい……」

ふたたびしょんぼりとうつむいてしまったミチルの頭の上で、ふ……と笑った気配がした。

「それは気にしなくてもいい。尾の方の鱗は硬いから、蹴られたとて向こうの足が痛むだけだろう」

「でも……」

「ミチル、本当にいいんだ。気にしないでくれ。……それに、貴女は俺をかばってくれたな。ありがとう」

ありがとう……という言葉に、ミチルが潤んだ瞳をまん丸にして顔を上げた。何かに気付いたように両手を自分の胸元で組む。

「いえ……いいえ、……あ!」

「ん?」

「名前……」

「ああ。すまない。皆が呼んでいたので、そういう名前かと」

「ちが、ちがいます。……貴方の、その……」

蜥蜴族の男が、きょとんとした風にローブの中からミチルを見つめた。やがておずおずとミチルの髪に手を伸ばそうとして、それが触れるか触れないかのところで、ハッと手を止めた。「……すまない」と何度目かの謝罪を口にして、慌てて持ち上げた手を下ろす。ミチルが金縛りにあったように動けなくなっていると、空気が混じったような少し掠れがちの低い甘い声で名乗ってくれた。

「俺は、ラザフォード……という」

「らざふぉーどさん?」

「ラザフォードでも、ラズでも、かまわない」

ラザフォードがフードを外して、ミチルを見下ろした。鼻先はつるりとしているが、頬から頭にかけてエラのような形のトゲがある。裂けた口元と大きな丸い瞳。瞳の真ん中には鋭い瞳孔が見えていて、それは確かに爬虫類のものだった。表面は綺麗な黒。喉元にかけて徐々に色が灰色になってくる。しかし、よく見れば灰色というよりも鈍い銀色のようだ。ミチルは怖がることなく、ラザフォードの顔を見上げてほっとしたように笑った。

ラザフォードもまた、丸い瞳をくう……と心地よさげに細めた。その顔を見て、ミチルが照れたようにうつむく。

蜥蜴族の男と遠い異世界の娘の間に、甘酸っぱい空気が流れるのだった。