「もう! もうもうもうもう! エティエンヌさん、聞いてっ」
非番のエティエンヌが1人大きな熊の手でカップを持って、ちみちみとはちみつ入り珈琲を飲んでいるところに、丁度仕事の手が空いたミチルがやってきた。エティエンヌは座っていると背中がまん丸だ。他にお客さんもいなかったので、ミチルはエティエンヌのもふもふした腕の毛皮に額を押し付け、じたばたと暴れた。
「へえへえ、分かった。分かったから離せっつーの、飲んでる途中だから」
「あ、ごめん。美味しいでしょ、これ。珈琲にはちみつ入れてみようって言ったの私なんだー」
「うまいうまい。好み好み。んで、なんだって?」
「あのね、ラザフォードさんがね、……今夜、船に連れてってくれるって」
「へえ。フィーロン号か?」
「そうそう。星が見えるらしいですよって言ったら、行くか? って。今夜! どうしよう、私どうしよう!」
「ああ? 何が心配なんだ、服か? 貞操か?」
「ていそう……!? 何いってんのエティエンヌさん、私そそそそそんなつもりじゃ!」
「じゃあ、どんなつもりなんだい、んんー?」
もっしもっしと熊の手の片方で、エティエンヌがミチルの頭を撫でた。そのふかふかの毛皮を堪能しながら、ミチルはラザフォードと交わした約束を幸せな気分で思いだす。
ラザフォードがミチルの働いている宿屋に滞在して、2週間ほどが経った。ラザフォードはクーロン国の国境に種の一族を構える蜥蜴族の男で、王都に滞在したこともあるのだそうだ。剣と槍を持っているので、戦うことを生業にしている人だというのは一目瞭然だった。だが素性は知れない。はっきりとは言わないから、ミチルも深く聞きはしなかった。ミチルだって素性は怪しいことこの上ないのだからお互い様だ。そんなラザフォードとミチルは、この2週間の間にずいぶんと仲良くなった。
言葉は少ないが、自分を見守ってくれているような優しい空気がミチルを甘やかす。
ミチルが買い物に行く時にラザフォードの手が空いていたら一緒に行ってくれるし、街中で見かけたら声を掛けてくれる。ミチルは仕事を終えるとよく夜に散歩に行くのだが、夜中の女性の一人歩きは止めなさい……と言って、一緒に歩いてくれたりした。フィーロン号に連れて行ってくれる……という約束をしたのも、昨日の晩、一緒に歩いた時だ。
フィーロン号というのは、ゼルニケの街が所有している今は使われていない船で、港に係留させて公園のような使い方をされている。波音を聞きながらこの船の上から見る星はとても綺麗だと評判で、ゼルニケの恋人達の憩いの場なのだ。つまり、超有名なデートスポットなのである。今まで好きな人など居なかったミチルはこうしたロマンチックなデートスポットなど興味も無かったが、今は年頃の女性達が真剣にこうした場所に行きたがる気持ちが分かる気がした。
実を言うと、ミチルは今までほとんど恋愛らしいものをしたことがない。もちろん男と付き合った事は何度かある。だが、いつも男から告白されて、好きでもないが嫌いでもないのでなんとなくOKして、なんとなく一緒に居る……ということばかりだった。そのせいか深い仲になる気にもなれず、そうなってくると男も焦れてミチルから離れていく。それを辛いと思ったこともない。そんな恋愛とも言えないような男女の付き合いしかしてこなかったから、ミチルは知識はあっても男は知らないままだ。
自分がまともな恋愛が出来なかった理由がずっと分からなかった。しかし、なぜかラザフォードの事だけは気になって仕方がないのだ。
ミチルは、日本で生きていた頃から爬虫類が大好きだった。
基本的に動物は好きだ。犬や猫などの愛玩動物だけではなく、動物園にいるような象、キリン、馬、鷹、ふくろう、亀……生きて動いているものならばなんでも好き。でも殊更魅力的だと思ったのは爬虫類だった。
何を考えているのかちょっと見ただけでは分からない顔と、ゆっくり動いていたくせに餌を見せると途端に機敏に動く、あのギャップがたまらなかった。
もちろん、ラザフォードはミチルの知っている爬虫類とは全然違う。獣人なのだから当然だが、ミチルをエスコートする手も守ってくれる身体の動きも、人の行動とほとんど変わらない。しかし、だからこそ、惹かれる心を止めることができないのだ。お分かりだろうか。
思い出すだけでも胸がふわふわして、息が詰まりそうだ。細すぎないゴツめの口元。ほどよくギザギザでワイルドな顔の造形。それでいながらなめらかな艶感。少し小さいがまん丸の眼。愛嬌があるように見えるが、油断ならない金色の瞳の真ん中には、刃物のような琥珀色の瞳孔が縦に入っていて眼光が鋭い。そこがなんともクールで男らしい。あの眼光の鋭さと丸眼の愛らしさが生み出すアンバランスな具合。つるりぺかりとした黒い綺麗な鱗を持った身体。それが自分と同じ2足歩行で歩いているのだ。しかも、蜥蜴の肉厚さと……、肉厚のくせにスレンダーなところはそのままに、触れるとほのかに温かい体温はミチルよりは少し低くて……手なんか触ると鱗の感触がつるりとざらりの中間で、硬いんだけど柔らかくて。尻尾がひょろんひょろんと動いたりなんかして。
しかも声が低くて甘くて少しだけ掠れてて、話しかけられるとお腹をぎゅっと抱き締められているような気がする。
まずい……こんなことばっかり考えてるなんて、自分は変態かもしれない。誰かを好きになると、みんなこういう風になるものなのだろうか。
ラザフォードを一目見たときからミチルはこんな風だった。だから最初に会ったときは緊張で声が出なかったのだ。偶然触れ合った鱗の手のざらりとした感触にドキドキしてしまい、掛けられた声に心臓が跳ねる。本当は顔を見たくて仕方ないが、いざ見ると恥ずかしくて直視できない。この挙動不審のせいで、ラザフォードはミチルが怯えているのではないかと心配したほどだ。
「んで、夜の船の上でいちゃいちゃといい雰囲気になった後は貞操の危機……と。下着か。下着の心配か」
「ちがう! ちがってば! そんなんじゃないってば!」
「じゃあ、どんなんなんだ」
「どんなのって……ラザフォードさんは……その……でも」
ラザフォードの話になると、ミチルは毎度この調子だ。
「ミチル」
「ラザひぉっード……!」
突然声を掛けられ、その声がまさに今しがた妄想していた大好きな声だったために、ミチルの肺から空気が漏れて変な声が流れた。エティエンヌのもふもふ毛皮から顔を上げて慌てて後ろを振り向くと、宿の2階からラザフォードが降りてきたところだ。
「……っと、失礼。取り込み中だったか……」
「え? いえ、全然!」
「しかし、エティエンヌと話していたのでは?」
「んあ?」
ラザフォードはミチルとエティエンヌの姿を交互に見て、瞳を細めた。下瞼を持ち上げると眼光が鋭くなり、チリチリ……と謎の緊張が走る。その視線に気付いたエティエンヌは首を傾げると腕を離して、ミチルのお尻を押してラザフォードの方へとやった。
「ちょっとエティエンヌさん、変なとこさわらないでよ!」
「ああ、悪い悪い。どこに肉があるのか分からなかった」
「うるさい、エティエンヌさん、うるさいっ」
「……変なところ……?」
その会話を聞いていたラザフォードはかなり不機嫌なようで、ごほんごほんと咳き込んだ。じろりとエティエンヌを睨みつけると、それに気付いたエティエンヌがぬふんと笑って肩をすくめる。その反応にさらにラザフォードが不機嫌になる。いつもと異なるラザフォードの様子に、ミチルが心配そうに覗き込んだ。
「ラ……ラザフォード?」
「ミチル、今日は……」
「え?」
どこか逡巡しているような表情でラザフォードは見下ろしていたが、いや……と首を振って、ミチルの頭にそっと手を置いた。
「暖かくして来い。夜は冷えるからな」
「は、い」
かああ……とミチルの頬が染まり、その反応を見たエティエンヌがくふふ……と肩を震わせた。