いつか、同じ星を

005.自惚れてしまう男

たぷたぷと船の側面に波が当たる音が聞こえる。海の上ではあるが、波音はあまり近くには感じられない。ラザフォードは民の憩いのために港に係留しているフィーロン号の甲板を、ミチルと2人で歩いていた。

「ちょっと寒いですね」

「暖かくしてこいといっただろう」

「これでも暖かくしてきたつもりなんですけど……」

ミチルが困ったように笑った。ラザフォードは風を避けるためにミチルをかばって少し後ろに立ち、「転ぶぞ」などという下手な言い訳を口にしてマントでミチルの肩を抱くように覆う。柔らかな肩に自分の硬い鱗の手が触れて、びくりと震えたのはラザフォードの手だったのかミチルの肩だったのか。だが、ミチルがそっとラザフォードに擦り寄って来た様に感じて、身体を支える名目でそのまま手を添える。

甲板の縁まで来るとミチルは上を見上げた。釣られてラザフォードも見上げる。

満天の星空だった。少し西寄りの月は細くて空は暗く、それだけに星が多く見える。ラザフォードは風雅が分かる男ではないが、宝石を粉々に砕いて撒いたような夜空は清冽で美しいと思った。

ふ……と、この星空のことを教えてくれたミチルの横顔を伺う。

ラザフォードが部屋を借りている宿屋の娘だというミチルは、その見た目から人間の……特に女からは敬遠されがちな蜥蜴族の自分にも、臆すること無く接してくる。人間の女がここまで明確な意思を持って近づいてくるのは、王都で獣人専用の娼婦が客引きに近づいてきたときくらいだった。仲間に誘われて行ってみたが、全く興が乗らずに引き剥がした。結局何もせずに出てきてしまい、金を捨てたみたいなもんだと笑われた。

ミチルはあのときの女とは全く異なる。無邪気さと、親しみと、程よい好奇心、そして少しだけ男を自惚れさせる潤んだ瞳。この潤んだ瞳に見つめられると、それが自分だけに向けられている……という風に見えてラザフォードの男の部分がいい気になってしまう。

……いや、ひとりだけ居た。ミチルが心を許している様子の熊族ウルダの獣人。……ミチルは獣人だろうが、人間だろうが、変わりなく接するのだろう。だからこそ、蜥蜴族と同じくらい人と接しにくいと言われている熊族にも臆することはないに違いない。ラザフォードは、宿の食堂でいつもミチルと楽しげに戯れているエティエンヌの姿を苦々しく思い出した。

ミチルは一体何を考えているのだろうか。

ラザフォードを自惚れさせて、このような星空の下に誘い出して、そのくせエティエンヌの腕に心地よさげに抱えられて。ミチルにとっては気まぐれなのだろうか……とも思ったが、それにしても、いつだってミチルの眼差しは真剣で、目が離せなくなるのだ。

ミチルは星を見上げている。その横顔に、なぜかラザフォードは胸が痛くなった。

「ミチル」

「え?」

少し力強く、ミチルの肩を抱き寄せた。ミチルの身体が震える。その震えを感じて、慌てて力を緩めた。

「……あ、すまない、怖がらせ……」

「怖くない!」

「ミチル?」

「えっと、怖くないです。……その、あの、えっと……」

このまま……と、ぼそぼそつぶやいたミチルの様子に、ラザフォードはたまらないものを覚えた。引き寄せたのは、ミチルが美しい星を見ているにしては、あまりにも悲しげな顔をしていたからだ。……いや、悲しげというよりも、寂しげと言った方がよいかもしれない。

「ミチルは……」

「え?」

「星を見る時に、いつも寂しそうな顔をするんだな」

「あ……それは……」

ミチルは夜道を散歩しているときも、夜空の星を見上げるときはどことなく寂しげな顔をしていた。まるで迷子の子供のように途方にくれているのだ。一番最初に、夜、宿の中庭を歩いているミチルを見つけたときは驚いた。食い入るように綺麗な星を見ているのに、あまりにも痛々しくて。

「言いたくないならべつにいい。おかしなことを言った」

ラザフォードへ向けられたのは、困ったような笑みだった。ミチルは「いいえ」と首を振った。

「星を、見ると」

「ああ」

「私が知っている星は何一つ無いんですけど。……でも、確かめずにはいられなくて」

「確かめる? 何をだ」

その言葉にミチルが笑みを消して、困惑したようにラザフォードを見上げる。

目の前に居るミチル。……黒い髪、黒に近い瞳、象牙色の肌……。彫りの浅い淑やかな顔。黒髪や肌の色が黄色に近い人間ならばクーロンにもいる。だが、今目の前にいるミチルは……。

「ミチルは、……クーロンの人間ではないのか?」

「……」

ミチルが、ハッとした焦った表情になった。そう言った瞬間こくんと喉が動いたのが見えて逃げられそうで、思わずもう片方の腕をミチルの背に回す。「あ」と小さな声を上げて、ミチルがラザフォードの胸に飛び込むようにバランスを崩した。

「ミチル……貴女がどのような者であれ、俺は……」

「ラ、ザ、フォードさん?」

「ラズと呼んで欲しい」

「……ラズ?」

「ミチル……」

今までどんな女にも……同種にすら沸かなかった感情が、ラザフォードの中にぐつぐつと芽生える。その未経験の感情は、今はあまりに危険なように思えた。ミチルは人間で、ラザフォードは蜥蜴族だ。蜥蜴族の皮膚は鱗に覆われ、顔にはどのような表情も映さない。一方、人間の肌は柔らかくて滑らかで、覆うものは何も無く表情はあけすけだ。ラザフォードに比べて、物理的にも感情的にも様々な意味合いで無防備で、そんな繊細な生き物に自分が触れていいものなのかと躊躇う。

象牙色の肌は柔らかすぎて、いつも自分の硬い鱗が傷つけないかと心配になってしまうのだ。

だがそう思う反面、その頬に触れてみたくて仕方がない。頬だけではない、唇も、首筋も、耳元も、胸も、腹も、全て。自分の硬い鱗とは全く異なる柔らかな肌の質感は、触れるとどのように沈み込むのだろう。自分の舌がそれに触れれば、どんな味がするのだろう。想像するだに、くらくらする。

……何を考えているんだ、自分は。変態か。

ラザフォードは、こうしたやましいことを考えてしまう自分に嫌気が差した。ミチルを前にするとこんなことばかりを考えてしまう。自分のよこしまな心の内がバレてしまうと、ミチルに嫌われてしまうだろうか。それが怖い。

だが、どうしても触れてみたかった。

「ミチル……貴女は、消えてしまわないか?」

「え?」

どういう言葉を掛けていいのか分からず、ラザフォードはミチルの頬に顔を下ろした。鱗が怖がらせないか皮膚を傷つけないか細心の注意を払って、そして、ちろりと小さく舌を出す。ほんの少しだけそれが唇を掠めて頬をくすぐると、「んひゃ!」と大袈裟なほどミチルが反応して自分の服にしがみついてきた。思わず強く抱きとめてしまう。突き放されたらどうしようかと思っていたのに逆に近付いて、ここで止めようと思っていた身体が理性に反して軋んだ。

……だが、その軋みが限界を超える手前でこちらを窺う気配を感じた。

周囲は自分達と同じように男女のカップルが多い。……にしては不自然な視線が交じり、すれ違う数人の足音に交じる一定のリズムを感じ取る。ラザフォードは舌打ちしそうになるのを堪えた。

ラザフォードはミチルから身体を離してゆるく肩を抱き直した。先ほどのようなためらいは無く、僅かに緊張した空気を感じ取ったのかミチルが心配そうにラザフォードを見上げる。ラザフォードはなだめるように、ミチルの頭を撫でた。

「ミチル、そろそろ帰ろう。身体が冷えている」

「あ、は、はい……」

そう促すとミチルは少しだけ寂しげな顔をした。それを見て、やはりラザフォードは自惚れてしまう。だが、それと同時に罪悪感も感じるのだ。

ラザフォードが歩くと……旅装の長靴ブーツがコツリと甲板を鳴らす。コツコツと歩いて、少し止まる。もう2歩歩いて、一度止まる。ミチルの歩幅にあわせるようにゆっくりと歩いて、その姿をマントの中に覆い隠した。先ほどまでミチルに触れると滾るように感じた本能のようなものも、今は理性の後ろになりをひそめてラザフォードはあくまでも紳士的だ。「寒くないか」……そう耳元で囁いてみせて、コツン……と甲板を踏んだ。

ラザフォードの背後で何者かが動く気配がする。

そしてさらに、それを窺う別の気配。

付かず離れずの2種類の気配はフィーロン号から降りると消えた。それを背後に感じながら、ラザフォードはミチルを宿屋にまで送り届ける。

ミチルがどこの誰なのか……など、ラザフォードに問う権利などは無い。そして本当は、ミチルに触れる権利すらないのだ。自分とて、ミチルに全てのことを話していないのだから。