いつか、同じ星を

006.聞いてしまった女

ミチルは洗濯を頼まれたお客さんの服にアイロンを掛けながら、ぼんやりとしていた。

フィーロン号に出かけた日から1週間ほどが経った。あの時、星を見ながらラザフォードとの距離が縮まり、抱き寄せられ(たような気がした)、キスされ(たような気がした)、ミチルは帰ってからごろごろと悶絶した。ただラザフォードがあのあと、少しピリピリとした雰囲気になったことや、何か言いたげにしていたけれど結局話を打ち切られたことが気になる。

星を見て寂しそうな顔をしている……と指摘されたとき、いっそ自分が異世界の人間だということを言ってしまおうかとも思ったのだ。だが言えなかった。宿屋の主人夫妻には、ミチルの素性については秘密にしておいた方がいいと言われていたし、ミチル自身もそう思っている。ミチルは、宿屋の主人夫妻の遠縁……ということになっているのだ。両親を亡くしたから、故郷を出てきたのだということにしてあった。それもあって、情に厚い常連客はミチルを可愛がってくれている。

クーロン国王の神様の贈り物の話も聞いたことはあったが、あれはお城の片隅に降りてくる……という話だったし、そもそもそれとミチルとが関係あるとは思えない。もしミチルが神様の御許から遣わされた娘なのなら、あたしたち夫婦への贈り物だったのさ、……なんて主人夫妻は笑ってくれる。もしそうなら、ミチルは本当にうれしい。

でもこのことをラザフォードに言ってしまったらどうなるのだろう。手に負えないと投げ出すだろうか。……そこまで考えて、自分は別にラザフォードの恋人でもなければ妻でもないのに、バカなことを想像したものだと苦笑した。

初めて胸が切なくなった相手は蜥蜴だったとか、ミチルを知ってる日本むこうの人達に言ったら笑われるかな、それともミチルらしいって言われるかな。笑う時にきゅ……と下瞼が閉じて優しく細くなる瞳の、キレイな艶の黒い鱗の男性ひと。日本に置いてきた思い出が浮かんで胸が痛くなったが、それと同時にこちらで生きていることも、自分の気持ちも、ラザフォードとの関係も、少しずつ大事にしたいと思った。

しかし、ラザフォードは宿屋に逗留しているだけの旅の人だ。

先日宿帳を確認していて愕然とした。ラザフォードが宿を取っているのは30日。もうあと10日ほどしたら、宿屋から出て行ってしまうことに気付いたのだ。

ラザフォードはここ2日ほど、夕食の時にしか姿を見せていない。そのときは他のお客さんもいるから忙しくてあまり話すことが出来ないし、夕食が終わるすぐにどこかへ出掛けて行く。なんだか無性に話をしたかったけれど、ラザフォードに会って何を話せばいいのかもよく分からない。

「ミチル!アイロン!アイロンから煙吹いてるよ!」

「えっ、あ。熱っ」

「ちょっと大丈夫かい?」

「あ、お客様の服! ……は、だいじょうぶ……」

「違うよ、お客さんの服も大事だけどね、あんたの手だよ」

「あ……」

「見せてみな」

ぼんやりしていてアイロンが進む方向に手を置いてしまっていた。女将さんはミチルの赤くなった手を取って顔をしかめる。

「まったく。最近ぽーっとしてるね」

「ごめんなさい……」

「ラザフォードさんのこと?」

図星を突かれて、ミチルの頬が赤くなる。女将さんは、ふう……とため息を吐いて、台所から桶に水を汲んできてくれた。その中に、ミチルの手を浸す。火傷はたいしたこと無いが、じりじりと熱かった皮膚が冷えてきて心地がよい。

そうして手を拭いてくれて、擦れて痛まないように綺麗な布を巻いてくれた。

「あんたがね、あたしたちのところに来てくれて1年経っただろ。こっちにも馴染んでくれた……っていうのは、あたしらの勝手な願望かもしれないけど、少なくともちょっとは慣れてもらえたかなって思っているんだよ」

「女将さん……」

「だから次はね、いいひとでも見つけてくれりゃあいいなって思ってたのさ」

女将さんは、ミチルの手に布を巻き終わると、にんまりと笑った。

「……まあ、あんたがどんな男を選ぼうとあたしらはかまわないさ。本当は、ゼルニケに落ち着いてる真面目な男衆がよかったけどね」

「ラザフォード……やっぱり宿屋の逗留期間が終わったら、出て行くのかな」

「どうだろうね。それはあんたが聞いてみるべきなんじゃないのかい?」

「うん……でも……」

聞いてどうするというのだろう。もしゼルニケを離れるとして、どこにだってついて行くとでも言えばいいのだろうか。だけど、そんなことが出来るはずが無かった。そもそもラザフォードが何者なのかも、何のためにゼルニケにいて、次にどこに行くかもしれない。おまけにミチルはただの宿屋の娘で、外の世界など知らないのだ。

「私、知らないことばっかりすぎる……」

「ミチル」

女将が子供をあやすように、ぽんぽん……とミチルの頭を軽く叩いた。

「知らなきゃ聞きゃいいじゃないか。あんたはまずラザフォードさんと話をする必要があるんじゃないのかい?」

「うん」

「……今日、夕食のときにでも聞いてごらんよ。手伝いは免除してあげるから。ね」

「ありがとう、女将さん」

「いいんだよ。あんたはあたしの可愛い娘だもの。さて、そうと決まったら少しお使いをたのんでいいかい?」

「はい」

可愛い娘……と言われてくすぐったくて、ミチルは困ったような笑みを浮かべて返事をした。女将の心遣いが嬉しかったし、何をすべきかも分かった。

だが返事をしたものの、ミチルはラザフォードに何を聞けばいいのか分からない。「聞けばいい」ことは分かったけれど、ミチルには酷く難しく感じる。今まで通り話をするだけなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。

どうしよう……とミチルは思う。ラザフォードが優しいから、自分はきっと期待してしまうのだ。

****

ゼルニケ方面駐留隊の兵士が駐留している兵舎に、遅いランチを持っていく……というのが女将さんに言付けられたお使いだ。昼中の休憩時間が取れない者も多いので、お腹を空かせた兵士達が食料の配達をよく頼む。今日もエティエンヌの分含めて5人分、サンドイッチのようなものをぎゅうぎゅうに詰め合わせて届けに来たのだ。

兵舎まで徒歩で15分ほどだ。取次ぎを頼むと大きな熊の身体をのっしりと揺らしながらエティエンヌが出てきてくれた。

「おう。よく来たミチル。お茶淹れてくれよお茶。男らが淹れると不味くてな」

「いいよ。そのつもりでお茶の道具も持ってきたから」

ミチルがランチを届けに来たときは、大体兵士達にお茶を振舞う。ミチル自身はさほど意識していないが、ほぼ男所帯のむさくるしいところに年頃の娘がやってきてお茶を振舞ってくれるのだ。これがなかなか好評で、ランチを注文していない兵士達も居合わせれば休んでもらって、新規顧客の獲得にも繋がっている。

店の常連客にはミチルを好く思っている男らもいるが、兵舎を往来するときは熊のエティエンヌが護衛よろしく付き従っているので、誰もミチルには手を出せない。

今日もお茶を淹れて一通り味わってもらった後、兵舎の外までエティエンヌに送ってもらった。器やバスケットは後で誰かに持って来てもらう手筈にしたからてぶらだ。帰りに果物を売っているお店によって、ラザフォードが好きそうなものを買って行こうかな……などと考えていると、エティエンヌがのっすのっすとミチルの頭を撫でた。

「ミチル、手ぇどうした?」

「あ、うん。今日、ぼーっとしちゃって、アイロン掛けちゃった」

「ぼーっと? ミチルなあ。気をつけろよ」

「うん」

クーロン兵士の紋章を着け、きっちりと兵服を着込んだ熊のエティエンヌと並んで歩いていると、声のトーンを落としてぽつりと問われた。

「最近、ほんっとぼーっとしてるけどな、もしかしてラザフォードのことか?」

「え、あー……」

「最近お前ら忙しそうにしてるけど、ちゃんと話せてんのか?」

「なにを……話せばいいのかわかんなくて……」

「なにをって今更……なんでもいいから話せよ」

自分らのことだろう……と言い掛けたとき、ミチルが足を止めた。少し扉の開いた小さな武器庫の前で、怪訝そうな顔をしている。

「おいミチル……?」

しい……とミチルは人差し指を唇に当てて、扉にそっと近づいた。エティエンヌもつられて気配を消し、扉に近づいて聞き耳を立てる。中からは「ラザフォード」という名前が聞こえてきた。

どうやら人間の兵士2人が話しているようだった。つい最近ゼルニケに駐在になった兵士達である。エティエンヌが「あいつら……なんでだ?」と、喉の奥を響かせた。兵士2人はどうやら休憩中のようで、こちらには気付かず話を続けている。

『ラザフォード殿もなかなかやるな。さすがは王兄殿下の部下だっただけのことはある。こんな短期間で……』

『ああ、ハイトラー男爵家だからって調べてなかったらしいが、アストンか……』

改めて聞こえてきた「ラザフォード」の名前に、ミチルがこくんと息を飲む。王兄殿下の部下……というのはどういうことだろう?……それに、「アストン」の名前がどうしてここに?

『……ミチルって娘のおかげで、足がつくのが早かった……』

『ああ、ラザフォード殿がミチル嬢といてくれてよかったよ。あれでアストンが焦ったからな……』

ミチルのおかげで足が付く……焦るというのは何の事なのだろう。……ミチルの心臓が息苦しいほどドキドキし始める。兵士達の話す内容が、どういう意味なのかは分からなかった。ただ、心が悪いほうに想像するのを止める事ができない。よい風に解釈するには情報が足りなかったし、判断を保留にするほどミチルは恋愛に慣れていなかった。……もしかしたら、ラザフォードがミチルと一緒に居てくれたのは、自分の仕事のためだったのだろうか。だから、ラザフォードはミチルに優しかったのだろうか。

それならフィーロン号に連れて行ってくれたのも、その一環だったというのだろうか。あの時優しい体温を感じたのも、少しだけ近付いた感じがしたのも、みんな……。

エティエンヌがミチルのことを心配そうに覗きこんでいる気配がする。だが、ミチルは怖くて顔が上げられなかったし、かといって盗み聞きを止めることもできなかった。

『あの日にミチル嬢を連れてフィーロン号に居てくれたのが決定打になったな。……あれでアストンの目的が分かった』

「……っ!!」

びくん……とミチルの肩が震える。両手で口元を押さえた。喉から不安が迫上がってずきずきと痛んで、何かが飛び出しそうだったからだ。思わず一歩退いた身体が、がたんと音を立てて揺らぐ。

「おい、ミチルっ!」

「誰かそこにいるのか?」

エティエンヌが倒れそうになったミチルに腕を伸ばしたが、それをすり抜ける。ミチルはエティエンヌに向けて笑うと、「大丈夫。私、宿屋に帰ってるね」と言って駆け出した。追いかけようとしたところに、部屋で話をしていた兵士2人が立ち上がる気配がする。エティエンヌは「くそっ」と毒付くと、扉を開けた兵士2人をじろりと睨んで、ぐううう……と喉の奥を鳴らした。

「……どういうことか説明してもらおうか。……ミチルが、なんだって?」

「エ……エティエンヌさん……」

縦も横も人間族の2周りは大きい武装した熊族に睨まれて、2人の兵士は縮み上がった。