いつか、同じ星を

007.奔走する男

ラザフォードが<ちいさな海猫亭>に戻ってきたのは、夕食の忙しなさに雑踏が静まり家の中が賑わう時間帯だった。外はもう暗い。

カラン……とラザフォードが扉を開けると、女将と珍しく主人が厨房から出て来ていて、他の馴染み客と一緒に一斉に視線を向けた。ラザフォードのフードの下の瞳が合うと、女将がほっとしたような焦ったような顔で駆け寄ってくる。そのただならぬ雰囲気に、ラザフォードが怪訝そうに首を傾げた。

「……どうかしたのか?」

「ラザフォードさん、丁度よかった。ミチルは……? ミチルと一緒なんだよね?」

その名前を聞いた瞬間、びりりとラザフォードの鱗が逆立った気がした。切羽詰った声と食堂のただならぬ雰囲気に、ラザフォードの心臓が冷える。

「ミチルが……どうかしたのか……」

その答えに、「ああ……」と女将が額を押さえてくらりとよろめき、主人に肩を支えられる。主人が喉から搾りだすように答えた。

「ミチルが……兵舎に食事を届けに行ってから帰って来ていないんだ……今エティエンヌさん達が交代で探しているんだが……」

「……!!」

ラザフォードが弾かれたように尾を翻す。……が、その動線を大きな影が阻んだ。

「……待ちなよ、ラザフォード」

「エティエンヌ……」

一度戻ってきたエティエンヌだった。

食堂の入り口で、熊族と蜥蜴族が睨みあう。ぎしぎし……と音が聞こえそうなほどラザフォードが拳を握り締め、常の冷静で落ち着いた雰囲気をかなぐり捨てて、牙を軋ませるような低い声を出した。エティエンヌもまた大きな体躯を揺るがさず、実直な瞳でラザフォードから眼を離さない。

「……心当たりあるんだろ、ミチルの行き先に」

「……」

「聞いた、あんたが何をしてたのか」

「……誰に」

「エティエンヌさん、分かりました、フィーロン号が……っ!!……ラ、ラザフォード殿……」

2人のにらみ合いを中断させたのは、エティエンヌとミチルが立ち聞きをした兵士の2人だった。息せき切って<ちいさな海猫亭>に戻ってきた2人は、エティエンヌとラザフォードのにらみ合いに息を飲む。ラザフォードは異様に鋭い視線で2人の兵士を睨み付けた。その視線に、蛇に睨まれた蛙のように兵士らはぶるりと身体を震わせる。

「……お前ら……」

「……ラザフォード殿……」

2人の兵士は怒りに満ちたラザフォードの声に震えあがり、思わず地面に伏した。恐ろしくて顔を上げることが出来ない。

「も、も、申し訳ありませんでしたっ!!」

「……俺達……俺たちが、ミチル嬢にあんなこと聞かれなければっ……」

「ミチルに聞かれた……? どういうことだ!」

ラザフォードが土下座した兵士の1人の首根っこを掴んで引き上げる。その行動の荒々しさと声の恐ろしさに、ひぃぃ……と兵士の1人が泣きそうになっている。

「ラザフォード、説明は道中だ。おい、ミチルの場所は分かったのか?」

「フィーロン号にアストンが入ったのを確認しました……出航の用意をして……」

「それを先に言えよ! おい!」

「……こっちだ!」

ラザフォードが兵士から手を離して音も無く走りだした。エティエンヌも見た目の重々しさからは想像も付かないほど俊敏な動きで走り出す。兵士2人の内1人は追いかけ、ラザフォードから放り出された兵士は地面にへたり込んで出遅れてしまった。

「あんた、新参の子だね。どういうことか、説明してくれるかい?」

「お……女将さん……親父さん……」

つまり、<ちいさな海猫亭>の主人夫妻と、常連客の兵士らに囲まれて身を縮めることになった。

****

頭が痛くて気持ちが悪い。

地面が揺れている。……頬に触れているのは滑らかな布で、身体の沈みこみ具合からそれが寝台なのだとすぐに分かる。だが身体の揺れは寝台の揺れではない。たぷんたぷんという水音……波音も聞こえている。揺れ方はどちらかというと、波にゆられているようなそんな感覚だった。心地よいか……と言われるとそうではない。頭がずきずきと痛んで、その痛みがぐらぐらと揺れて気分が悪かった。

腕が縛られているらしく、手首がひりついて痛い。火傷したあとに巻いてもらっていた布は、いつのまにか取れてしまっていたようだ。

それだけではない。全身の節が、急に力を入れてしまったときのような筋肉の鈍い痛みに襲われていた。何よりも目隠しをされていて、口にも猿ぐつわを噛まされている。身体のどこもかしこも自由にならない異常な事態に急に頭が覚醒し、パニックになってミチルは身体をこわばらせた。

「!!」

だが声は出ずに、代わりに目隠しをされて塞がれた瞳から涙がこぼれたようだった。頭がズキンと痛み、身体が引きつって動かない。口も動かないのでがちがちと震えることも出来ない。うぐうぐと喉が動くがやはり声にならず、唇が生理的に出てきた唾液で濡れる。

身体全体は恐怖で固まってしまっているが、指先と足先が冷えて小刻みに震えた。

……真っ白になった頭はすぐには思考を正常に戻さなかった。こういう時はどうすればいい? ミチルは猿くつわをぐっと噛み、目隠しされている眼をぎゅうとつぶって、寝台に顔を伏せて息を殺す。そうやって恐怖を押し殺す。相変わらず心臓はどくどくと早く血が脳に回って眩暈がしそうだったが、ミチルはなんとかここまでに至る状況を思い出そうと必死だった。

ミチルは、あれから兵舎を走って出た。

しかしまっすぐに<ちいさな海猫亭>に戻る気持ちにもなれず、少しだけ遠回りをしたのだ。フィーロン号を見に行こうと思って、港の方に回った。

そして、あの時兵士2人が話していた内容を自分なりに懸命に頭の中で整理したのだ。……ラザフォードはクーロンの王兄殿下の部下。何か仕事をしていて、それにはアストンが関係しているらしい。そうして、ミチルの何かがアストンの悪巧みを暴くのに役立った。だからラザフォードはミチルと一緒にいたのだ。

ぼんやりとフィーロン号を見ながら、2人で甲板を歩いた時のことを思い出す。

アストンの悪巧みを調べるために、ラザフォードはフィーロン号にミチルを連れて行っただろうか。自分が「フィーロン号に行きたい」なんて言うから、これは利用できると思ったのだろうか。一体何を調べたのかは分からないが、「目的は分かった」……と言っていた。最近ラザフォードが忙しかったのは、そのせいかと思うとなぜか納得した。

仕事のためだったんだ……とため息を吐いた。

1人で浮かれていた。
自分は何も言っていないのに、心のどこかで何かを期待していたのだ。

ラザフォードに聞かなければ知りたい事は分からない。それは分かっているが、何をどうやって聞けばいいのだろう。ラザフォードがたとえミチルのことを利用したのだとしても、それをミチルが非難する権利は無いし、悲しむのはお門違いだ。勝手に「ミチルのため」だと誤解していたのは、ミチルの方なのだから。

次々に浮かぶ切ない考えが止められず、フィーロン号がぼんやりとかすんで、涙がこぼれたことを知った。まさか自分が恋愛のことで泣くなんて思わなかった。恋で悩む人達は、みんなこんな思いをしてるなんてすごいな……と、そんな風に思う。

ぼんやりとしていたから、ミチルは自分に近付いてくる荷車の存在に気が付かなかった。

帰ろう……とつぶやいて、踵を返したその時。がらがらと運ばれていく荷車の荷の影から手が伸びて、ミチルの口を塞いでそのまま幌の中に引っ張り込まれた。何がなんだか分からない状況のまま、首筋にちくりと何か痛みを感じて……ミチルの記憶はそこで途絶えている。

思い出す作業はミチルを少しだけ冷静にさせた。港街で自分は誰かにさらわれた。首筋に覚えた痛みは今は無い。眠らせる薬だったのかもしれない。頭がずきずき痛むのは、きっとそのせいだろうと考える。とりあえず逃げないと、でもどうやって。考えながら少しずつ収まってきた鼓動だったが、ガチャリと開いた扉の音と同時に聞こえた声に、奮い起こしかけた心が一気に萎えた。

「やっと起きたかあ、ミチル」

聞き覚えのある声が聞こえて、ミチルが転がされている寝台の片方がミシリと沈んだ。誰かが登ってきたらしい。その誰かはいとも簡単にミチルの肩をつかんで、うずくまっていた身体をひっくり返した。目隠しの布は黒く、布の折り目の向こうはほとんど見えない。だが乱暴な気配を漂わせている者の正体は誰か分かった。

気味の悪い猫撫で声の主はアストンだ。

心臓が再びばくばくと煩いほど鳴り始める。

何も思い浮かばない。もちろん声も出ない。うーうーと、幼児のような情けないくぐもった音が喉から出てくるだけだ。その様子に、くく……とアストンが笑った気配がした。

「へえ。手が縛られてて目隠しされてて声も出ない女が身をよじる姿はそそるねえ」

アストンの気配がミチルの足元に重なる。太腿が動かないように馬乗りになっているようだ。かちゃかちゃと金属の音が響き、衣擦れの音が聞こえ始めた。ミチルの動きが止まり、血の気が引いた。心臓が異様に鼓動を打っているが、それとは逆に身体が冷たく冷えていく。アストンが何をしようとしているのかが分かって、気持ちが悪くて吐き気を覚える。

「あのくそうぜえ兄貴と親父がいなくなったと思ったら、目障りな鱗野郎が現れやがって……なあミチル」

男の手がミチルの少し長いスカートの中に入り、もったいぶるように太腿の肌に直接触れる。その手の感触に我に返り激しく首を振って暴れると、太腿に痛みが走る。爪が立てられたようだ。さらに苛立ったようなアストンの声がミチルを怒鳴りつけた。

「暴れんな! あの鱗野郎のは咥えてんだろうが、あいつに出来て人間の俺様に出来ないのはなんでだよ。ああ!?」

痛みと怒鳴りつけられた恐怖にミチルがびくりと身をすくめると、再び猫撫で声に戻って先ほど爪を立てたところを撫でさすられた。

「怖がんなって。あの鱗野郎とはたっぷりヤってんだろ? そこに俺が増えたって大して変わらねえよ」

情緒不安定気味なアストンは、今度はヘラヘラと笑った。目が見えないというのは相当な恐怖だ。手足が震えて使い物にならないから、せめて睨み付けるとか罵るとか叫ぶとかしたいのに、それが出来ない。

「俺が紳士でよかったなあ。意識のないてめえを犯ってもよかったけど、それじゃあ面白くないだろ」

よくこういうときに「嫌なら暴れろ」とか「大人しくしてたってことは和姦だろ」とかいう下卑た話を聞くが、そんなものではない。腰も足も暴れようと思えば暴れられるのに、身体は恐怖で思うように動かなかった。

「そうそう。そうやって大人しくしときゃいいんだ、どっちにしろさっさと終わらせるつもりはないんだからよ」

身体の上に気色の悪い重みが重なる。見せ付けるように太腿に生々しい何かが触れて、ミチルは悲鳴にならない悲鳴を上げた。