ラザフォードとエティエンヌは兵士の1人を兵舎に向かわせた。2人でフィーロン号へと駆ける途中、エティエンヌは手短にラザフォードへと伝える。
「あんたがミチルに近付いたのは、この捕り物のためかい?」
「……違う! そんなはずがないっ」
「だろうな。なら、それをミチルに言ってやんな」
「ミチルはそんな誤解を……?」
「あの船に連れて行ってもらえたのが、よほどうれしかったんだろ」
「くそ……っ」
そのやり取りだけで、ミチルが一体何を誤解したのかを理解したのだろう。ラザフォードの声は泣いているようだとエティエンヌは思った。だがたった今、本当に泣いているのはミチルのはずだ。
フィーロン号は今は閉じられている。普段ならば何組かいるはずの一般客は居らず、数人の男達がうろうろとしていた。中にどれほどいるのかは分からないが、少なくとも表向きはそれほどの人数ではないようだ。正面から行って行けないことはなさそうだが、確実に騒ぎにはなるだろう。それを危惧してエティエンヌがラザフォードを振り返る。
「騒ぎは起こしてもいいのか?」
「もうここまで来たら一気に捕縛する。後で正式に兵士達が来るはずだ。罪人受け入れの準備もしてある。……さっき兵舎にやった兵士に、その権限証を持たせているからな」
ラザフォードはフードを外し、数本の小剣を確認しながらエティエンヌに答えた。平然と「権限」を口にしたラザフォードに、エティエンヌが訝しげに鼻面に皺を寄せる。
「……権限ね……」
だがラザフォードはエティエンヌには答えず、大きな体躯にちらりと眼をやると、再びフィーロン号へと視線を戻した。表向きは冷静な様子が見て取れたが、エティエンヌには「ありゃあ相当怒ってるな」と分かっていた。
「入り口は1つだ。正面から行こう」
「あんたなら脇から行けるんじゃないか?」
「行けるが、潜入するわけじゃない。突破だ。一気に突っ込む」
「増援のタイミングは?」
「突破したらすぐに来るはずだ」
「そいつは大胆……っておい!!」
エティエンヌを放ってラザフォードが身を低くして一気に駆け出した。慌ててエティエンヌもその後ろから距離を詰める。しなやかな体躯は音も無く滑るように一気にフィーロン号の桟橋に近付いたが、その場に居た私兵らしい男が気付いたのは大きくて黒いエティエンヌのほうだった。
「なんだてめえ……ここは出入り禁止……」
エティエンヌに気を取られた男は、ひゅうと跳躍したラザフォードに気付かなかった。静かに飛び込んだラザフォードは、男が剣を抜く前に顔面を掴んでそのまま床へ叩きつける。近くに居た男が異変に気付いて剣を抜きざま駆けてくる。エティエンヌが半身を開いてそれをやり過ごすと、手に構えていた小型の斧で襲ってきた剣の刃を叩き落した。ガキィン!と音がして相手は剣を取り落とし、そのまま首筋の後ろに熊の肘鉄が入り床に沈む。
一方、床にたたきつけた男の身体をラザフォードは引っ張りあげて、振り向きざまに後ろから掴みかかろうとする男に向かって放り投げる。背の刀槍をするりと自分の身体の正面に回すと、脇から飛びかかってきた男の剣にそれを絡める。1,2度刃を受け止め、相手が踏み込んできたタイミングで槍を引くと、鞭がしなるように尾と足を翻して勢いよく相手の腹に蹴りを入れた。相手の身体がくの字に折れて吹っ飛ぶ。
獣人というのは、人間に比べると、強靭な身体能力を持っている者が多い。熊の獣人ならばその体躯から繰り出される怪力、蜥蜴の獣人ならばしなやかさと素早さなどはそのほんの一部だ。ましてや2人は戦いを生業としている。アストンらの取り巻きもそれなりの人間なのだろうが、相手が悪すぎた。
ラザフォードが倒した男の喉を刀槍の柄で押さえつけた。
「……アストンとミチルはどこだ」
勢い余って強かに打ちつけた後頭部の痛みと低い声の迫力に、男はあっさりと白状した。それほど忠義な者達が集まっているわけではないらしい。船長室の奥の寝室に早々連れ込んだと聞かされ、ラザフォードが再び風のように駆け出す。まとわりつく敵を払うとエティエンヌも後を追う。
その迫力に目の前に立っていられる者は誰もいなかった。
****
ミチルの首筋に生温かい風が吹き付けられた。それがアストンの吐いた息だと分かると、背筋にものすごい悪寒が走って身体がぶるぶると震える。だがどうやらアストンは、その反応を別のものに解釈したようだ。
「はあん。反応してんじゃねーか、ミチル」
下品な笑い声を響かせると、アストンの手がスカートを大胆にまくりあげ、下半身がミチルの太腿の上を動き始めた。足を割りいれて、開かせようとしてくる。ゾッとした。懸命に足を閉じ、身体をひねって抵抗するが、その抵抗が逆に男を煽るようだ。焦れたアストンが、いよいよミチルの肩を押さえつける。
怖い。
怖い怖い怖い。
こんな手に触れられるのは嫌だ。
怖い。
助けて。
助けて、ラザフォード。
ミチルの頭の中がアストンへの恐怖で一杯になった時、どこからかものすごい轟音が響いた。何人かの男の悲鳴が聞こえたが、それにアストンが身構えるのよりも先に、扉を尋常ではない力で破壊した音がする。さらに、雷が空を割いたような鋭い咆哮がそこに加わる。その咆哮がミチルの上を横切り、「ぎゃあ」という声が飛んでいくと、不愉快な重みが消えて身体が軽くなった。
「貴様……キサマ、ミチルに何をした……っ!!」
咆哮に混じってそんな叫び声が聞こえて、ガシャンと何かが割れる音が聞こえる。2回、3回と何かを打ち付けて壊す音がしたが、そこに大きな声が重なった。
「ラザフォード、そんな汚ねえもんよりミチルが先だ!」
「ミチル……!」
切羽詰ったような搾り出すような苦しい声が聞こえて、再びミチルの上に何かが乗った。だが今度は何故だか怖くなかった。上に乗った何かの腕が、労わるようにミチルの背に回って身体を起こしてくれる。その背中に触れられた手の感触に、ミチルは泣きそうになった。間違えるはずがない、ラザフォードだ。
「ミチル、ミチル、……すまない……くそっ……」
だが、今にも泣きそうな懇願するような声を出したのはラザフォードだった。ミチルの猿くつわに手が掛けられ、唇が自由になる。
「ラ、ラザフォ、ド」
「ああ」
「ラズ……ラズ……」
「ミチル。大丈夫か、身体は、どこも何もされていないか?」
開いた唇で必死にラザフォードを呼んでいると、目隠しも取り払われた。鱗の手をおでこに感じて、前髪を払うように撫でられる。その手につられたように瞼を開くと、黒い綺麗な鱗のラザフォードの顔が自分を覗きこんでいた。
その顔を見たら、今まで張り詰めていた何もかもがぷつんと切れた。
「っ……ふ、う……ラズ、ラザフォードぉ……、ふええぇ……」
手を戒めていた縄が外れると、ミチルはすぐさまラザフォードの背中に回す。ラザフォードもそれに応えてミチルを抱き締めてくれた。ぎゅ……と包み込まれた安心感に、堰を切ったように涙がぽろぽろと零れ始め、感じていた恐怖や混乱や、それを上塗りする安堵や恋しさや温かさが一気に押し寄せて、胸が痛い。
後から思い出したら恥ずかしさで死ねるほど、ミチルは、子供のようにわんわんと声をあげて泣いたのだった。
****
目隠しをされていたのが幸いだったのか、下半身丸出しのまま一撃でラザフォードに殺されかけ、その後エティエンヌの頭突きとパンチでぼこぼこにされたアストンの姿は、最後までミチルの視界に入ることはなかった。
船に乗り込んでいたアストンの部下達も、後続の兵士達に追い詰められて大方が投降したようだった。
「ミチル、どこも痛いところはないか?」
ラザフォードが、声を落としてミチルに問うた。自分達が乗り込んだときのミチルの状況を思い出すと、腸が煮え返るように怒りが沸く。ミチルは問いかけたラザフォードにしがみついたまま、腕の中でふるふると震えるように頭を振った。
「何、もっ、されてな、い、ラザフォード」
「そうか……」
「何も」
「うん」
「ラズぅ……」
「ミチル、分かった。分かってる。大丈夫だ」
自分にしがみついてひっくひっくと喉を傷めて泣いているミチルの姿に、ラザフォードの心までが痛む。
同時に「何も」という意味を必死で言い募るミチルに、一瞬「何か」されたのではないかと疑い、それをどのように扱えばいいのか分からない自分の機微に腹が立つ。何もされていない様子に馬鹿みたいに安心し、そのくせ、たった今ミチルの身体の隅々まで確認して、アストンが触れたところに自分を上書きしたいという欲望が膨れ上がる。浅ましい自分を殴りたい。
ぐずぐずに崩れそうな理性を、ミチルの声が止める。
「怖かった」
「ああ……ごめんな」
「怖かったよう」
いいながら、再びミチルがぎゅう……とラザフォードに抱きついてきた。
ミチルが離れようとしなかったので、ラザフォードは自分のマントでミチルをぐるぐる巻きに包み込んで横抱きにして運んだ。今はエティエンヌにも任せたくは無かった。他の兵士達に事態の収拾を頼むと、エティエンヌとともに<ちいさな海猫亭>へと戻る。
裏口からひっそり入って宿屋の主人と女将に無事を伝える。
「ミチル! ……ああ、無事でよかった。大丈夫だったかい? お腹は空いてない?」
「うん。女将さん、旦那さん、心配かけてごめんね」
「いいんだよ。あんたが無事で。ああ、……疲れたろう」
「ん」
ラザフォードの腕の中で宿屋の主人夫妻に覗き込まれて受け答えをしていると、ミチルの心の中に、やっと「ああ帰ってきたんだ」……という実感が沸いた。思わずほっとして眼を閉じたら、そのまま眠ってしまったらしい。気が付けば、ミチルは自分の私室の寝台の上だった。慣れた寝具の匂いにホッとして視線を動かすと、眼を閉じているラザフォードが見えた。ラザフォードはミチルの寝台にぴったりと椅子を寄せて座っていて、片方の手の指をミチルが握っている。
そういえば、寝ている間に怖くて何度も意識が浮上したのだった。目を閉じると目隠しをされていたときの不安が戻ってきて涙が零れ、今度はそれをなだめるようにラザフォードが瞼に手をあててくれる。その手の鱗がざらざらと心地よくて頬を寄せると、心が緩まって意識が遠のく。それをずっと繰り返していたような気がした。
「ミチル?」
眼を閉じているラザフォードの顔が可愛いなあ……と思いながら、ぼーっと見ていたら、瞳がそっと開いて細長い瞳孔がきょろりとミチルを見下ろす。ラザフォードは静かに額を撫でてくれた。
「ラザフォード。ずっといてくれたの?」
「ああ。……おはよう、ミチル」
「おはよう……ラズ」
口をついて出てきたのは間抜けな挨拶だったが、答えてくれるラザフォードが居ることにミチルは何度目かの安堵を覚えた。