とあるペットショップの片隅に、今は空の水槽が寂しげに置かれている。そのペットショップは小さいながらも珍しい種類の動物を多く扱っていて、個体の世話も顧客へのサービスも誠実で丁寧なことで有名だった。そのショップで働いているベテランの店員が、空の水槽を見ながらため息を吐く。
「こいつ……ほんと、どこ行っちゃったんでしょうね」
「ん?」
「ミチルちゃんが可愛がってたオニプレートですよ。売れなくて、ミチルちゃんが正社員になった記念に連れて帰ろうかなーって言ってた」
「……ああ」
言われて店長が、水槽を感慨深げに眺める。
空の水槽の中には流木が置かれ床材なども敷かれており、天板にはヒーターも設置されている。だが、そのヒーターも今はスイッチが入っておらず、何も入っていない水槽は暗いままだ。ここには、以前オニプレートトカゲという種類の小型のトカゲが飼育されていた。そのトカゲは愛らしい姿にもかかわらず、何故か売れないままだった。
この売れないトカゲは、あるバイトの女の子に大層懐いていた。他の店員や客が水槽を覗いても見向きもしないが、その女の子が水槽を覗きこむと必ずガラスに擦り寄ってくるのだ。バイトの女の子も爬虫類が好きなようで、このトカゲを可愛がっていた。
彼女は動物の……特に愛玩系の動物の世話をする仕事をしたかったらしく、女性にしては珍しく爬虫類好きということもあり、そうした動物を多く扱うこの店でバイトをしてくれていた子だ。仕事ぶりも真面目で、他の動物たちも彼女にはよく慣れた。この4月で、正式に正社員として採用する予定だった。
採用を決めたとき彼女は相当喜び、その喜びを売れないトカゲに報告していたほどだった。彼女は正社員になった記念に売れないトカゲを買い取りたいと申し出たので、店長はそれならば就職祝いに……と譲ることにしていたのだ。
しかし、それは叶わなかった。
彼女は正社員として出勤する最初の日に交差点で交通事故に遭い、……どういう訳か行方不明になったのだ。その場には、飛ばされた鞄だけが残されていた。目撃者の誰もが彼女は避けられずに確実に激突したはずだ……と言っていたが、トラックにも道路にもそうした類の痕跡は見つからず、今も謎のままだ。
女の子が消え、店に来なくなってから数日してトカゲに異変が起きた。
「こいつ、ミチルちゃんが来なくなってから餌にも見向きもしなくなるし、ガラスに体当たりし始めるし……」
普通は餌を食べなくなっても何日か生きる事ができるが、このトカゲはみるみる弱っていった。ガラスへの体当たりもじきにしなくなり、水槽の隅で目を閉じる事が多くなり、ある日とうとうピクリとも動かなくなった。そうして仕方なく水槽から出そうと思っていたら、居なくなっていたのだ。
生きていたのかと思ったが水槽は開いておらず、逃げた形跡は全く無かった。警察にも届けて近所にも警告し、ほうぼう探したがとうとう見つからず、結局はどこかで死んでしまったのではないか……誰かに盗まれたのか、そんな風に思っていた。
あるいは、……消えてしまったあの、若い女の子……ミチルと同じようにトカゲもまた消えてしまったのだろうか。
「もしかして、ミチルちゃんと一緒に神隠しにでもあったんですかね……なんて。すみません、不謹慎ですね」
「いや……」
店長は首を振って、もう一度何もいなくなった水槽を眺めた。なぜかその水槽を見るたびに、胸が痛くなるのだ。店員の言葉が不謹慎だとも思えなかった。
****
月が細い夜。丘の上でミチルが星空を指差した。
「……だから、星を見るときに、もしかしたら同じ星がないかなって……探してしまうんです」
「グリマルディではない別の世界か……」
ミチルはラザフォードに、全てを話す事にした。自分がグリマルディの人間ではないこと。宿屋の主人夫妻に拾われてよくしてもらっていること。こちらに来てまだ1年しか経っていないこと。自分達の世界には、獣人のような者はおらず、周囲は人間ばかりだったということ。
そして、星も月も太陽も、元居た世界と同じに見えて少しだけ違うこと。
だから、星を見るときについ自分の知っている星を探してしまって、少しだけがっかりしてしまうこと。
「元の世界に帰りたいか?」
聞かれたミチルはじ……とラザフォードの瞳を見上げ、ふるふると頭を振った。
「私、多分、グリマルディに来ないであのままあの場所に立っていたら、きっと死んでました」
「ミチル……」
「だから、……もしグリマルディに本当に神様がいるんだとしたら、もう一度生きなよって機会をくれたんじゃないかなーって思うことにしたんです。それが神様の気まぐれだったとしても。グリマルディって、神様がいるんでしょう?」
だから、神棚への挨拶はかかさないんですよ、とミチルは胸を張った。その様子に、ラザフォードが愛しそうにミチルの頭を撫でる。
「そうか……」
しばらくの間、そうしてミチルの頭を撫でていた手を止め、ふむ……とラザフォードが考え込んだ。
「それならば、ミチルは神の御許から遣わされた娘だったんだな」
「ええっ!? いやいやいやいや。そんな大袈裟なもんじゃないですって。神様とか会ってないし」
「そうか?……だがミチルのような者のことを、こちらではそういう風に言うんだ」
「あの……ラズ」
「ん?」
「嫌いになる? 嫌じゃない?」
背の高いラザフォードに視線を合わせるように、ミチルがうんと背伸びをしている。ラザフォードは人間よりも背が高いし、ミチルは平均よりも少し小さいからかなりの身長差があるのだ。ラザフォードは背を曲げてミチルを引き寄せると、黒い髪に顔を埋めた。
「そんなわけがないだろう。どうしてそういうことになるんだ」
低い甘い声で、くすくすと笑う気配がミチルの頭に降り注ぎ、とても気持ちのよいくすぐったさを感じる。
あれから1ヶ月ほどが過ぎた。
丁度よいタイミングで戻ってきたハイトラー男爵にアストンは助けを求めたが、当然それは聞き入れられなかった。アストンはしばらくの間ゼルニケの牢に入れられていたが、正式に罪人として王都に送られ地下牢に封ぜられた後、労働力として鉱山か石切り場のいずれかに送られるらしい。自分の息子ながら淡々とそうした事務手続きを済ませたハイトラー男爵は、さすがにゼルニケを仕切っているだけあると思わせる手並みだった。
ラザフォードも無事に駐留隊の隊長として着任し、商人らの意見も取り入れながら街の治安維持のために打つ手を模索しているようだ。
ミチルとラザフォードの仲は宿屋の主人夫妻にも常連客にも認められることになり、大方の客がひやかし半分祝福し、何人かの客が悔し涙を飲んだ。
ラザフォードは今はまだ、<ちいさな海猫亭>に逗留している。兵舎に宿舎もあるのだが、ミチルのそばがいいのだと譲らなかった。目隠しされた上に襲われかけたショックは大きかったようで、ミチルはしばらくの間1人で暗い中眠れなかったのだ。そんなとき、ラザフォードはミチルが寝るまでそばについていた。ただそばにいるだけだから男としてそれが辛い時もあるが、そんなものはミチルのショックに比べれば可愛いものだ。
今日はラザフォードが非番の日だ。ゼルニケから少し郊外にある、港街が一望できる見晴らしのいい高台に来て、2人で星を見上げていた。フィーロン号から見える星もよかったが、街の雑踏から離れた場所で静かに見上げる星も美しかった。星を見上げるミチルの顔はまだ寂しそうだったが、ラザフォードは何も言わずただ後ろから抱き締める。
そうやってしていると、ミチルの顔から寂しさが消えて、うふふ……と瞳を細めた。ねえ……とミチルが身をよじる。
「そういえば、ずっと聞きたかったんだけど……」
「ん?」
「ラズは、どうしてゼルニケに来たの? 自分から志願したんでしょう」
「ああ……」
ラザフォードは少しだけ腕を緩めて、どう言おうか迷っているようだ。抱き寄せられて背中に当たっているラザフォードの胸の広さが気持ちよくて、ミチルが頭をぐいぐい押し付けて遊んでいると、はあ……とため息が聞こえた。
「夢で」
「夢?」
「ああ。夢で、見たんだ。黒い髪で黒い瞳の女を」
遊びをやめて瞳を丸くしたミチルが、ラザフォードを注視している。ひとつひとつ言葉を選ぶように、そしてどことなく決まり悪げにラザフォードは説明した。
蜥蜴族の戦士として生まれたラザフォードは、小さいころからよく見ている夢があった。黒い髪に黒い瞳の女が、優しく自分を覗き込んでいるだけの短い夢だ。夢の中でラザフォードはその女に触れたいと手を伸ばすのだが、絶対に触れられなかった。触れられなくて切なく思っていると、その女は自分に背を向けてどこかへ消えてしまう。自分はずっと待っているのに、2度と会えない。……そんな夢だった。
夢から覚めると、その女の顔は思い出せなかった。ただ髪の色と瞳の色だけが印象に残っていた。女がなぜ自分を覗き込んでいるのか、どうして2度と会えないと思うのかも分からない。
「バカみたいだろ。……夢で女を見るなんて」
その夢の影響で……というわけではないだろうが、ラザフォードは成人してもあまり女に興味を持つ事が出来なかった。同族の女にも食指は伸びず、もっと広い世界を見たくて一族の集落を出た。出たとて他種族の女にも興味も沸かず、 かといって同性が趣味というわけでもない。そうした女を買う場所にも行ったことはあったが、結局はその気になれなかった。その頃には周囲は兵士仲間の男連中ばかりだったから、変な知識ばかりは身に付いたけれども。
そんな頃に、ゼルニケから王都に戻ってきた兵士の話を偶然に聞いたのだ。
「話?」
「ああ。ミチルの居る<ちいさな海猫亭>の評判だ」
ちいさいながらも兵士達が多く馴染みにしている宿屋兼食堂。王都帰りの主人が作る美味しい料理に、気風のいい女将さんの様子、それに……
「小柄で可愛い、黒い髪に黒い瞳の、元気な娘がいると」
その話を聞いて、ゼルニケという街に興味を持った。丁度ゼルニケの駐留隊で隊長が1人引退し、新しい兵士を何人か派遣する必要があるという。上司だった王兄ラングミュアが王都に戻ってきていた偶然も重なって、自分をゼルニケに派遣して欲しいと志願したのだ。
もちろん、ゼルニケに行くからといって、その噂の娘をどうこうしたいと思ったわけではない。黒い髪に黒い瞳の女ならばたくさんいるし、ラザフォードにとって人間の女はどれもあまり変わらない。ただ、王都ではない別の場所にしばらく滞在するのもいいか……と思っていた時に心の琴線に引っかかった、その程度だった。
王兄ラングミュアは腕のいい部下が離れてしまうのを残念がったが、ラザフォードが隊長職に着任するなら……という条件で許可をくれた。
「そうしたらミチルに会った」
奇跡だと思ったと、真剣な瞳でラザフォードはミチルを抱く腕に力を込める。ミチルを一目見て、自分が他人に対してこうした感情を持つ事があるのだと初めて思い知らされた。未経験の感情だったが、これが恐らく恋慕とか愛情とか、そういうものなのだろうとすぐに分かった。疼く感情が余りにも激しくて、最初は容易にミチルに近づけなかったほどだ。
「夢の女の人に、似てるの?」
「いいや、似ていない」
ミチルが複雑な顔をした。ラザフォードは瞳を細くしてミチルの表情を見ていたが、指でミチルの頬をつついた。弾力のある頬に沈みこんだ指は、少し先が太くて長い。
「ミチルの方が、もっと表情がゆたかで可愛い。こうして触れることができるし、温かいし、甘い」
夢の中の女は触れる事が出来なかった。だがミチルは触れられる。ミチルはどんな生き物よりも可愛いし、くるくると動く表情は想像していたよりもずっとラザフォードの心を騒がせるし、抱き寄せることができるし、時々ぺろりと舐めるとうっとりするほど甘いのだ。
「それに、ミチルに会ってからあの女の夢は見ない」
一目惚れは事実だが、それだけだ。そこで生まれた狂おしい感情は、ずっとラザフォードに渦巻いている。もうミチルを手放すことなど考えられなかった。自分にも存在すると知ってしまった愛しい相手を、どうしてこの手から離す事ができるだろう。
ラザフォードは照れてもじもじしているミチルをひょいと横抱きにすると、すぐ近くにあった大きな木に背を預けて座った。自分の膝の上にミチルを乗せて、厚めのマントの中に包み込む。頬を寄せるとミチルもくったりと体重を預けてきた。
こうして触れる自分とは異なる肌の感触が、ミチルもラザフォードもとても好きだった。触れた心地よさに身を寄せ合うと、遠慮がちにラザフォードの顔が降りてくる。
ちろりちろりとラザフォードの舌がミチルの頬に触れる。
味わうように耳元をくすぐり、頬を這い、唇に触れる。ミチルが少し唇を開いてそれを受け入れると、しっとりと絡まりあった。
今日のラザフォードはミチルを喜ばせるとっておきの情報を持っている。ラザフォードはここ最近、宿屋の主人夫妻に相談していることがあった。それは<ちいさな海猫亭>の近くに自分の家を持つことだ。ちょうどよい物件がやっとラザフォードの手に入りそうなのだ。これで心置きなくミチルを迎えに行ける。顔を離してミチルの耳元でそれを甘くささやくと、頬が染まって花が開いたように笑った。
「ミチル……」
―――― 貴女を連れて帰ろうか。
蜥蜴族の兵士がゼルニケに家を持ち、宿屋で働く人間族の娘がその妻に迎えられる日はもうすぐだ。
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六つの界を取り巻く無数の世界のはざまで、女神はそれを見つけました。
それは生まれるべき世界を違えたゆえに、恋を知らぬまま消えようとしていたひとりの娘でした。恋も愛も知らぬその娘を憐れに思った女神は、娘が消える直前に引き寄せて、娘があるべき世界へあるべき姿で送り届けたのでした。
そうした出来事の、すぐあとの事です。
娘がもといた世界のかたすみで、ちいさな生き物のちいさな心臓が、ゆっくりと止まりました。ちいさな生き物はちいさな身体にまっすぐな愛とおおきな悲しみを抱えておりましたので、女神はその魂の存在に気付いたのでした。
女神はその魂をしずかにすくいあげました。
『死に往くちいさなトカゲよ。そのまっすぐな愛ゆえに、次行く世界を選ばせてあげましょう』
ちいさな生き物はちいさなトカゲでした。ちいさなトカゲは女神の言葉に悲しげに魂をゆらして答えます。
『いらない。あの人がいない世界など、どこに行っても意味がない』
『ならば、あの人がいる世界に生まれるとよいではありませんか』
ちいさなトカゲは、魂を震わせました。
『ほんとうに?』
『ほんとうに』
……ただし、と女神はやさしい声で付け加えます。
『もう死んでしまったあなたの魂を元に戻すことはできません。あなたはあの人の居る世界に新しい命として生れ落ち、同じ言葉を話し、別の命と交わり、恋や愛を知って生きていくことができるでしょう。ですが、それは今のあなたとはまったく異なる次の人生です。あなたはあの人に会えるとは限りません。もし奇跡が起きて会ったとて、ちいさなトカゲの面影をなくしたあなたにあの人が気付くことはありませんし、あなたもあの人に気付くことは決してないのです』
なぜならば、今のトカゲが持っている全てのものを手放して、全く違う者として次の世界に生まれるからです。あの人を愛しく思う気持ちも消え、あの人の顔も手も声も何もかもすべてを忘れて、あたらしい命として生まれるからです。
それでも、あの人と同じ世界に生きたいですか……? と、女神は静かに問いました。
『いきたい』
小さなトカゲは躊躇うことなく答えます。
『あの人と同じ世界に生きることが出来るなら、それだけでかまわない。もう自分の命は終わったのだから、自分の存在も、自分の持つ何もかも、消えるのはしかたのないことだと分かっている』
『それなのに、あの人と同じ世界に生まれる意味があるのですか?』
『ある』
ちいさなトカゲの魂は、頷きました。
『この魂が消える直前に、希望を持つ事ができる』
悲しみに満ちて消えていくよりも、次の生があの人と同じ時、同じ世界にあるのだと、希望に満ちて消えていきたい。それで胸が一杯になって、自分は満ち足りて消えていく事ができるだろう。
『そう』
女神はトカゲの答えに満足そうにうなずくと、ちいさなトカゲの魂を両手に閉じ込めて、ふう……と息を吹きかけました。すると、あっというまにその命はやわらかな満ち足りた光を放って消えたのです。女神が両手を開くとそこから別の新しい命の輝きがうまれて、女神がかつて作り出した世界へと吸い込まれていきました。
ちいさなトカゲを送り届ける時間軸を、女神はほんのすこしずらしました。女神からの2人への贈り物です。
あの2つの魂が出会い、いつか同じ星を見上げることが出来るように……という、それはわずかな希望でした。