ゼルニケの港は多くの船の出入りによって常に賑わっている。人を運ぶ船、荷を運ぶ船、様々な船が発着する。船を動かす男たちは気のいい者ばかりではなく荒くれ者も多いから、ゼルニケは平和そうに見えても小競り合いの多い街だ。当然、国内外からの人の出入りも激しいので、怪しげな人間がうろつくことも少なくはない。
こうした者たちから街を守っているのが駐在している国の兵士たちの役目で、特に船着場に船が着く時間は兵士の見回りも多い。
丁度昼の時間に見張りの時間割にあたってしまった兵士2人が、到着した船の荷下ろしの始末を見ながらふああと欠伸をした。荒くれ者が多いが、今は丁度喧騒に一段落着いたところで、いい具合に緊張感が緩んだところだ。
「もうすぐ休憩か。ちーと遅いが海猫亭にでも行くか」
「おお、いいですねえ。今の時期ならエトテルですかね」
「ああ、いいなあエトテル。俺、フライにしよう」
エトテルというのは夏に獲れる小さな青魚だ。たくさん獲れるが、新鮮なうちに調理しないと味が落ちるので、こうした港街でこそ美味しく味わうことの出来る魚である。値段も安いとあって庶民にも人気で、兵士が話している<ちいさな海猫亭>という料理宿でも、いろいろな調理法で出されていた。
「だけどさー、ちょっと楽しみ、減っちゃいましたよね」
「ん?」
「いや、今でも楽しみっちゃー楽しみなんですけど」
「ああ、ミチルのことか」
「そうそう。あのミチルちゃんが、人妻ですもん」
などと話しながらも、どこか気楽な感じである。
ゼルニケの港街を守る兵士達の、今一番熱い……いや暑い、いや、やっぱり熱い……話題が、これであった。つい先日、<ちいさな海猫亭>の看板娘ミチルが、ゼルニケ方面の兵士達を束ねている隊長と結婚したのだ。
「まあ、しょうがですかね。隊長、俺らから見てもかっこいいですもん」
「ミチルがなんだって?」
ステキなあの子と我らが隊長、そんな2人を見守る兵士達の「ちょっといい話」。面白半分、やっかみ半分で話している兵士2人に、あらぬ方向から質問が飛んだ。
「んん? だーかーらー、ミチルが隊長と結婚……」
「ミチルが……結婚だとう?」
兵士2人の身体がぬうんと翳った。聞いたこともないような低いしゃがれ声が、兵士達の頭の遥か上から問いかける。ぎょっとして、兵士2人が振り向いて、さらに腰を抜かしかけた。
眼前に、高さ3mほどの灰色の塊……いや、壁がそびえたっていたのだ。
若い方の兵士が、かはぁ……と喉から変な音を出して、目を白黒させる。ふらついた身体をもう1人の兵士が支え、その兵士は搾り出すように声を出した。
「マママ……マリオンさんっ!?」
兵士の前にいるのは、熊族の獣人。その中でも超大型とされるデッフェン族……マリオン・デッフェン。ゼルニケの街に出入りする商人の中でも数人しかいない、国家の兵に物資を供給することの出来る大型商人の1人だ。
「か、帰ってきてたんですかっ……!?」
「船ぇ見りゃ、分かるだろうがよ」
マリオンと呼ばれた熊族が、ぐい……灰色毛皮の顎をしゃくって港の一画を示す。質実剛健を船にしたようなフォルムのマリオンの商船、エティエンヌ号がそこにあった。
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「はーあ……」
「何ため息なんか吐いてんだ、新婚さんよう、悩み事か?」
「エティエンヌさぁん……」
「お、なんだなんだ、マジで悩み事か?」
ゼルニケの宿屋兼食堂<ちいさな海猫亭>は、丁度昼の喧騒が収まっている。ようやく昼休憩を取ることが出来た熊の獣人エティエンヌは、やはり昼休憩を貰ったミチルと共に向かい合わせの席に座って、エトテルの唐揚げフィネソースをつついていた。
ミチルは、ちょうど一ヶ月ほど前にゼルニケの駐留隊の隊長と結婚したばかりだ。つまりは糖度も密度も絶好調の新婚なのである。
もちろんどちらとも親しいエティエンヌは、この新婚夫婦がどれほど仲が良いかも知っている。ラザフォードが非番の日は市場に並んで買い物に行く姿を見かけるが、ぴたりとくっついて尻尾で巻き取らんばかりだ。
そんな新婚夫婦の2人に悩みがあるのだという。
うっひ、と笑ってエティエンヌがのそりと身を乗り出した。
「どした、何が悩みだ。女の匂いでも付けて来たか?」
「え、ちがうもん……でも……」
冗談で言ったつもりなのにミチルの顔が曇った。おいおい、あのミチル命な蜥蜴が浮気なんざするわけなかろうがとエティエンヌは苦笑して、謝ろうとした時だ。
「ミチルゥォァァァォア!」
破壊的な音と共に食堂の扉が開き、室内が暗くなった。
「は、はひっ!?」
「ああ?」
室内をビリビリと震わせる大音響にミチルが飛び上がって立ち上がった。エティエンヌも立ち上がり、すぐさまミチルの方に回り込もうと身構える。
しかしその声の主を見て、エティエンヌが動きを止める。
扉を非常に大きな灰色の商人用コートが塞いでいた。暑いのか腕まくりをしていて、その腕は分厚い灰色毛皮に覆われているようだ。そうした服を着た灰色の毛皮が扉を抜けようとしていた。
むっちりと分厚い毛皮が扉に引っ掛かると一度細くなって、通り抜けるとまた膨らんで元の毛皮に戻る。その塊はぬんぬんと中に入ってきた。
「あ!」
ミチルがその姿形を認識したと同時に、もふっ! と、何かに包み込まれた。
「ミチル! 結婚したって本当かああああ!」
「ま、ま、マリオンさん、むひっ!?」
ミチルの姿が灰色の毛皮に隠れて見えなくなる。<ちいさな海猫亭>のあまり大きくはない食堂スペースは、黒い熊の獣人と、灰色の毛皮の塊で満杯だ。
チィィッ……! と世にも恐ろしい舌打ちが聞こえた。
「ミチルを離さんか、全く、あんたという男はあああ!!」
エティエンヌが思い切る腕を振りかぶると、次の瞬間には小型斧の柄の部分が、灰色の塊の頭らしき部分にめり込んでいた。
****
「全く、本当に反省してんのかい、あんたは」
「だから悪かったって言ってるだろ……エティ」
「止めろそのエティっていうの」
「そんな事言うなよう! ……ひっさしぶりにミチルに会うから、つい手がこう、わきわきーっと動いちまったんだよ。なー、ミチルー」
再び、チッ……! と舌打ちして、ミチルを膝の上に乗せた灰色熊の獣人マリオンを呆れたように見遣った。エティエンヌとマリオンの毛皮を交互に見て、ミチルは「ええっと」と言葉に困る。
灰色熊の商人マリオンは、何を隠そう熊の兵士エティエンヌの夫である。このゼルニケでも知らぬ人の居ない大型商人で、ゼルニケを仕切る貴族ハイトラー男爵とも親しい男だ。そして、なぜかミチルを猫かわいがりするのである。エティエンヌいわく、「小さくて可愛いもんが好きなんだと」
もちろん、マリオンはこーんな小さな子熊の頃からエティエンヌ一筋で、同じ熊族とはいえ、異なる部族の集落に顔を出してはエティエンヌを口説き落とし、当時険悪だった灰色の超大型熊族と黒熊族の和平工作まで行ったのだ。
そんなマリオンのことをミチルもよく知っている。もちろん、初めて会った時はエティエンヌを見た時よりもさらに大きい灰色熊に吃驚した。「アレが旦那だ」とエティエンヌが教えてくれたのは、港で鉈を腰に佩いて部下達を叱咤する巨大な熊の姿で、それまでにエティエンヌを含めて何人か獣人を見て慣れていると思っていたのに、死んだ振りを本気で練習しようかと思ってたほどだ。
しかしマリオンは、少なくともミチルに対しては全く怖くあたりはしなかった。むしろエティエンヌが呆れるほど甘い。どうやらマリオンは小さなミチルを、子供か何かのように思っていたらしい。実際、マリオンはなぜか孤児院の人気者だったりする。
さては子供扱いかと思ったが、どうやらそういう基準でもないらしく、恐らく、他の人間族に比べて背が低いから……というだけの理由のようだ。なにしろマリオンは、腰の曲がったお婆さんにはとても紳士的である。
「しっかし、ほんとにミチル、結婚しちまったのか? そいつあフェーランも面白くねえだろうなあ!」
「マリオン、お前なあ、帰ってきた早々、何店ぇ占領してんだ、ああ?」
「よう、フェーラン。お前、ミチルが嫁に行って寂しくて泣いてんじゃねえのか?」
「うるせえよ!」
フェーランというのは<ちいさな海猫亭>の旦那さんで、ミチルのゼルニケでの養父である。客がいないとはいえまだ開けている店でわいわいと騒ぐマリオンを、苦虫を噛んだような表情でたしなめに出てきたのだ。反撃を食らってしまったが。
その後ろから、ふっくらとふくよかな愛らしい女将さんが出て来た。
「あら。聞き覚えのある声が聞こえたと思ったら。マリオンさん、いらっしゃいな」
「ルーリィ! 今日も綺麗だな、エティエンヌの次に!」
マリオンと女将さん夫婦は旧知の友人でもある。マリオンは親しげに名前を呼んで女将さんを褒めたところで、エティエンヌに愛を示すことも忘れない。ベタだが直情的なマリオンの様子に、ミチルが小さく笑う。エティエンヌと女将さんは内心はどう思っているのか、呆れた空気のままだ。
「はいはい、ありがとうね。ミチル! エトテルのオルアノ炒めが出来てるよ」
「はーい、マリオンさん退いて!」
ミチルがマリオンのふかふかの二の腕から逃れて膝から下りると、旦那さんと一緒に厨房へと駆けて行く。そんな後姿をむっふと瞳を細めて見ながら、喉の毛皮の深いところをがしがしと掻いた。
「ちぇ、フェーランもルーリィもエティも、ミチルのことになったらケチだな」
「あんたが、ミチルミチルってうるさいんだろうよ。ったく」
エティエンヌが大きなマグカップに出された蜂蜜入り珈琲を煽る。
「でも、なーんか最近ミチルの顔が浮かないんだよな」
「ああ!? なんだそりゃ、旦那がおかしなやつなのか!」
ドン! とマリオンがテーブルを叩いた時だ。
カランと扉が開く音がして、1人の背の高い男が入って来た。
全員が一瞬黙って扉に注視する。見知ったその人物にエティエンヌが声を掛けようとしたちょうどその時、厨房からミチルがエステル料理を持って出てきた。
「あ、ラズ……」
「ミチル」
低くて甘い声はミチルの夫、ゼルニケ方面駐留部隊隊長のラザフォードだ。つるりとした黒銀色の鱗の下の金色の瞳がミチルを捉え、優しく細くなる。だが、次の瞬間にはどことなく緊張感を孕んで、料理をテーブルに置いて駆け寄るミチルを抱きとめようと手を伸ばした。
が、
その手はミチルの肩に触れるか触れないかの辺りでびくりと不自然に止まり、代わりに頭をポンと撫でる。その仕草にミチルが泣きそうな顔になったが、すぐに視線を逸らした。
ラザフォードがくるりと店の中を見渡す。
いつもの面々、それに加えて尋常ではない気配と大きさの灰色熊の獣人がいることに気がついたようだ。
「よう、あんたがミチルの旦那か」
グルル……と何故か、威嚇するような低いしゃがれ声でマリオンが先制した。ピリリと空気が変わり、ラザフォードもまた硬い声で応じる。
「いかにも、ゼルニケ方面駐留隊隊長ラザフォードだ。貴公が大型商人マリオン殿だな」
「ほう、名前を知ってもらっているたあ、光栄なこった。んで……そのラザフォードさんがお仕事中に何故ここに? 新妻の顔でも見に来たか? ああ?」
あからさまにからかわれて、俯いていたミチルが顔を上げる。ラザフォードはミチルの眼差しをじっと見つめていたが、蜥蜴の表情はよく分からない。そして、また不意に逸らしてマリオンの方を向く。
「そういうわけではない。隊に納品する武器の一覧を相談したい。後で隊の方に来て欲しい」
「そういうことなら、後で行くつもりだったぜ」
ラザフォードは頷き、傍らで傷ついたように自分を見上げているミチルに視線を戻した。
「ミチル……」
何かを言いたげにラザフォードの尾が揺れる。
その髪に触れようとして手を持ち上げたが、色っぽい動きではなくあやすように肩をポンポンと叩いて頷く。
「今日は遅くなりそうだから、先に寝ていろ」
「ラザフォード、あの……」
「起きて待っていなくてもいい。灯りもつけておいていいからな」
声はいつものように、……いや、いつもラザフォードがミチルと接しているよりももっともっと優しいが、どこかよそよそしく遠慮がちだった。そして有無を言わさない。
ミチルも「はい」……と、渋々と言った風に返事をした。
何か言いたげなミチルからラザフォードがそそくさと視線を外すと、こちらを伺っている女将さんと旦那さんに小さく礼を取って踵を返す。
「あの、あ、あの、ラズ、お仕事頑張ってね、無理しないでね」
「ああ、ありがとうミチル」
そうやって言う言葉は優しいのに、どこか2人の間には緊張感が漂っていて、それを見ながらエティエンヌはふうんと顎を撫でた。