後日談:潮風に乗って

002.触れられない女

その日は随分と遅くまで仕事をして、ラザフォードは家に帰った。<ちいさな海猫亭>のすぐ側にあるこじんまりとした一軒家で、狭いが庭もあってミチルも気に入ってくれている。

家の中のものは2人が心地よく生活する為にミチルと一緒に選んだものばかりで、結婚して1ヶ月であるのにすっかり居心地がよい。今まで長い間兵舎で生活して来たラザフォードにとって、温かくて満たされる我が家だ。隣にミチルが居るというだけで心が安らぐ。

家には灯りが点いている。しかし起きてはいないだろう。ミチルは夜に眠る時は必ず灯りを点けて眠る。

ミチルはアストンという男に襲われた事がある。その時の心の傷がまだ残っているのか、夜の一人寝をとても嫌がる。常にミチルの側に付いていてやりたいが、ラザフォードも夜番で時折一晩留守にすることがあり、ミチルはかなり努力をして、今では灯りを点けていれば何とか1人でも眠れるようになった。

もっとも夜ミチルを1人にするのは何かと心配で、そういう日は<ちいさな海猫亭>に泊まれと言って訊かせているのだが、ミチルはなぜか頑として聞かない。仕方なくラザフォードは扉の錠前を増やしている。

そんな愛しいミチルとの新婚生活だったが、2人は今、ほんの少し……いや、かなり重大な問題事を抱えていた。

暗い居間を通り抜けて夫婦の部屋へと入る。マントと制服を脱いで掛けて楽な服装になると、寝室の扉をそっと開けた。

やはり灯りは点いているが、ミチルは眠っているようだった。寝台に近付き、ミチルの顔を覗き込む。

「ミチル……」

自身の妻で誰よりも愛しい存在のはずなのに、今はどこか遠い。

****

1ヶ月前のことだ。

<ちいさな海猫亭>の常連客や、多くの兵士達に祝福された2人は、本当の意味での初めての夜を迎えた。

クーロン国では婚前の関係を持つことはそれほど非難される事ではない。だがラザフォードは、眠れぬミチルと何度も共に夜を過ごしていたにも関わらず、手を握ったり抱きしめたり唇を重ねたりしているだけだった。そうした状況は年頃の男であるラザフォードには辛かったが、一度怖い思いをしているはずのミチルに無体を強いる事はできない。それにミチル自身に心の準備が出来ているかどうか、確認できるほどラザフォードは器用な男ではなかった。

しかし夫婦ともなれば話は別だ。互いが互いと触れ合うことを覚悟して、そうして迎えた夜。

ぎゅうと寝台の上で抱きしめたミチルの身体の、薄い夜着ごしに伝わる肌の柔らかさ……そして、肌から香る香りに眩暈を覚える。目の前にいる女は、気持ちが通じ合っているのに一度も手を出した事のない恋人であり、妻になった女である。抱きたくて、交じり合いたくて、理性を飛ばしそうになりながら、それでも優しくせねばと決意する。

心臓の音がミチルに届いてしまうのではないかと思うほど、ラザフォードは緊張していた。

何度も重ねた唇に触れる。
何度も絡めた長い舌で濡れた感触を確かめる。

手首を掴んで、寝台に押し倒した。

その時、わずかにミチルが顔をしかめたのだ。眉を寄せ、何かを堪えるような表情でぎゅっと目を閉じている。その表情の変化に気が付いたラザフォードは我に返った。見ると、ミチルの首筋に赤い引っ掻き傷ができていた。引っ掻き傷というほどではなく、少し赤い筋になっていただけだったが、ミチルの白い首筋にそれは痛々しく目立った。

焦り、慌てる。

動きを止めたラザフォードを怪訝に思ったのだろう。ミチルが閉ざしていた目を開いて、そっとラザフォードの鱗の頬に手を伸ばした。

手のひらのふっくらと柔らかな感触は、自分のそれとは全く異なった。知っていたことだし、覚悟していたことだ。唇同士の触れ合いは何度も交わし、抱き締めたりも撫でたりもしていたのだから。

だが、実際に素肌同士で触れ合おうとすると訳が違った。2人の肌の感触はあまりに違っているように、その時のラザフォードには思えた。ミチルの肌は白くて柔らかい。二の腕も胸元も首筋も……、おそらくラザフォードの並んだ歯や鱗の硬い部分が触れれば、容易に傷が付くだろう。

試しに、恐る恐る手の甲の硬い鱗で二の腕の柔らかい部分を撫でてみる。

するとそこには、軽く引っ掻いたような赤い筋が残った。

なんて柔らかくて弱いのだろう。ミチルの肌を傷つけてしまったらどうすればいいのか。そう思うと同時に、ミチルの肌の上に残った赤い痕に奇妙な満足感もまた覚えた。

庇護欲と同時にそんな満足感を覚えてしまった自分にひどく狼狽する。

生まれて初めて見つけた愛する女は人間で、その女に対する衝動をラザフォードは抑えきれない。しかし今、ここで衝動のままにミチルを手に入れたら、彼女を傷つけるかもしれない。ただでさえ、ミチルはアストンという男に襲われたという過去があるのに。

大切にしたかった。

傷付けずに、怖がらせずに、大切にしたいのに、自分が欲望のままに触れると傷付けてしまう。

ミチルに触れると自身の欲望の証が熱くなった。今もそれは張り詰めて痛いほどに感じる。

しかし、それは他の種族とは全く異なるものだ。きっと凶暴で、このまま押し付ければ、ミチルを怖がらせてしまうだろう。

このまま触れてはいけない。せめて、自身の欲望と衝動を理性で抑えられるようにしなければ。ミチルを傷付けてしまうこと、それに何よりミチルに自分のことを怖がられることが、ラザフォードには怖かった。

その日、ラザフォードはミチルをそっと抱き締めて眠った。正確には、眠ったフリをした。眠れるはずがなかった。

以後、ミチルと同衾するときは子供をあやすように、やんわりと抱き寄せるだけに留めて眠っている。

本当は、同じ寝台で眠るのは辛い。だが、ミチルに触れる事の出来ないのはもっと辛くて矛盾していた。

上掛けをめくってミチルの隣に並ぶ。

「ミチル」

どうやって触れたらミチルを傷付けないのだろう。

もちろん、男と女がどうすればいいのか分からないという訳ではない。ラザフォードは兵士であり、兵士仲間からそうした類の話は多く聞かされてきた。しかし、話だけだ。人間の女はおろか同種の女とも経験の無いラザフォードには難しい問題で、かといってこのままやり過ごす事も出来ない。

「ラズ……」

「ミチル?」

ミチルの頬に恐る恐る手を近付けると、寝ぼけたミチルがそれをきゅっと握った。

****

エティエンヌの夫マリオンは、クーロン国の兵に物資を供給する資格を持つ大型商人タームカンである。したがって、その業務上ラザフォードは関わりを持つことが多い。

ミチルもマリオンに家族のように可愛がられている様子だ。今日も港で兵士達と共に荷の点検をしていると、マリオンに頼まれたのだろう、部下の船員達に昼食を届けに来ているのが見えた。

「あ、ミチルさん、お疲れ様です!」

「お疲れ様です。これ、お弁当です」

「わ、重かったでしょう? 持ちますよ」

若い船員が狙いすましたようにミチルの側に駆け寄る。それにミチルもまた笑顔を返していた。そんな2人の様子を見て、ラザフォードは心臓を焼かれたような心地を覚えた。ミチルの隣に並ぶ若い男はミチルと同じ人間族で、それが更に苛立たせる。じっとしては居られなかった。

「ミチル」

ラザフォードは部下にその場を任せると、早足にミチルと船員に近付き声を掛けた。自分でも思いがけないほど、低い声が出てしまう。

「あ、ラザフォード」

それなのに、ミチルはぱっと顔を上げて、先ほど船員に見せていたのとは全く違う素直な喜びの表情をラザフォードに向けた。その表情を見てホッとし、直後に罪悪感を覚える。ミチルに触れる事すら出来ない臆病者のくせに、嫉妬だけは激しい。

しかも、今はミチルの笑顔をいいことに何も知らない船員を睨みつけるような態度になってしまった。

ラザフォードは迷わずミチルに近付いて、その足元に尻尾を巻き付ける。それなのに、ミチルはラザフォードの激しい嫉妬など気付かないかのように、嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、自分の馬鹿馬鹿しい嫉妬心が驚くほど凪いでいく。

しかし、もちろん男である若い船員はラザフォードの剥き出しの警戒心に気が付いたようだ。慌てたように、ミチルから身体を離した。

そうした攻防を見ていたのだろう。背後から、のっそのっそと尋常ならざる気配が近づいてくる。もちろんラザフォードは、後ろを振り向くことなくその気配に気が付いた。

若い船員が、マリオンの迫力に身体を硬くした。

「船長!」

「ミチルがどうかしたのか」

「い、いえあの、昼食を受け取ったところで……」

「ならさっさと配らねえか、野郎共が腹ァ空かせてるだろうが」

「は、はいっっ」

若い船員は、多少なりともミチルに下心があったのだろう。慌てて居住まいを正すと、昼食の入った大きなカゴを持って船の方に走っていった。

マリオンは並んでいるミチルとラザフォードに視線を滑らせると、やんわりとした声を作ってミチルの頭をもふもふと撫でた。

「よーう、ミチル、昼食持ってきてくれてありがとよう。うちの若いもんが何かしなかったか?」

「うん、大丈夫よ。あの、ラザフォードと一緒に仕事してるのね?」

後半の言葉はラザフォードの方に向いて、ミチルは首を傾げた。マリオンが返事をする前に、ミチルに「ああ」と答える。

仕事の邪魔をしてはいけないと思ったのか、ミチルは「うん」と頷いた。

「じゃあ、私お店に戻ります」

本音を言えばもう少しだけミチルと一緒に居たかったがそういうわけにもいかず、ラザフォードも再び「ああ」とだけ返事をする。

そんなラザフォードの愛想の無さに気づいたのだろうか、ミチルがわずかに眉を下げて見るからに寂しげな表情になった。

最近の自分の態度が、ミチルに対して褒められたものではないと分かっていた。あまり優しくすると、理性が飛んでいきそうで身体が強張るように距離を取ってしまっているのだ。ミチルだって気付いているはずだ。

ミチルがここ最近ラザフォードに何かを言いたげにしていては、切なげな表情を浮かべているのは自分のせいなのだろう。人間族は獣人に比べて、感情を面に出しやすいからすぐに分かる。

しかし、それを今すぐどうこうする言葉もなく、ましてや今の状態でミチルを欲するわけにもいかず、ラザフォードは立ち竦んだ。

「ミチル……」

「ん、ラズ?」

離れようとした時に思わず呼び止めると、たったそれだけなのに嬉しそうにするミチルがいじらしくてたまらない。

「いや……今日は」

「どうしたの、今日も遅くなる?」

言葉に詰まるラザフォードを心配したり、覗き込んだりしている。そんなミチルを捕まえたくて尻尾が揺れていると、今まで黙り込んでいたしゃがれ声が邪魔をした。

「ミッチルー」

マリオンは子供をあやすように身体を低くした。

「そーかそーか、新婚なのに旦那は夜遅いのか、かわいそうになー」

「……マリオン?」

聞き捨てられないのはラザフォードだ。ラザフォードは声に怒りを滲ませ、それを隠そうともせずに声を低くする。

しかし、そんなラザフォードの声色など気にすることもない風にマリオンはどんどん話を進めた。

「なら一人じゃあ物騒だろう。今日は俺んとこ泊まるか。エティもいるし、晩飯も食っていけばいい」

「おい待て、マリオン、そんな勝手な……」

「勝手じゃねえよ。な、ミチル。ミチルのとこの旦那が忙しいのは言ってみりゃ俺らの荷のせいだからな。これでも仕事を増やして悪かったと思っているんだぜ?」

反論の余地を許すことなくマリオンはまくし立て、言葉とは裏腹にぎろりと恐ろしい形相でラザフォードを見下ろした。

「なあに、心配することはねえよ。なんなら隊長さんの仕事が終わったら迎えにくりゃいい」

なあ、ミチル? と勝手に話がまとまり、最後に夫婦2人の判断を待った。

マリオンのことはどうかわからないが、ミチルとエティエンヌの仲の良さはラザフォードも知っていることだ。無下にも出来ず、ミチルを振り向く。

「ミチルは、どうしたい?」

「えっと……」

ミチルは視線を彷徨わせ、明らかに迷っている風だった。そして、遠慮がちにラザフォードを見上げる。

「……ラズは、今日も遅いの?」

「いや……」

正直に言えば、今日は帰りが深夜になるということはないだろう。しかし、たった今の自分に自信が無いのも確かだった。自信……というのはもちろん、ミチルを傷つけないという自信である。

僅かに躊躇っていると、言葉に詰まった様子をどのように解釈したのかミチルがにっこりと笑った。

「ん。じゃあ、今日はエティエンヌさんのところに行くよ」

「ミチル?」

「久しぶりに、エティエンヌさんと女同士でおしゃべりするのも楽しいかも」

「……そうか」

「だから心配しないで、無理しないでね?」

分かったとも、気をつけろとも言うことが出来ず、ラザフォードは黙って頷いた。

「それじゃあ、マリオンさん、後でお邪魔しますね」

「おう、楽しみにしてらあ」

ミチルが振り向いて、ちょこんとお辞儀した。それに相好を崩したマリオンがくふふと笑って返事を返す。何故かそうした2人のやり取りに疎外感を覚えて、ラザフォードはミチルの腕を掴んだ。

「ミチル」

そうしてミチルが何かを言う前に引き寄せて、こつんと額を合わせた。

「遅くなっても迎えに行く」

それを聞いて、きょとんとして……ここ最近でもっとも嬉しそうな笑顔で頷いた。その笑顔を見て、自身のくだらぬ意気地の無さが身に沁みた。そしてどれほど自分がミチルに飢えていたかも思い知る。

「じゃあ、ラズの仕事が終わるまで、エティエンヌさんのところで待ってる」

まるで出会ったばかりの頃のようなはにかんだ愛らしい笑顔で答えて、ミチルが駆けて行った。その背中を見送りながらラザフォードもほっと息を吐く。

気が緩んだ時、ラザフォードの身体が灰色に翳った。

「さあて、ミチルの旦那よう。ミチルがどうしてあんな訳分かんねえ顔をしてたのか、とっくと説明してもらおうじゃあないか」

恐ろしく低い声のマリオンが、ラザフォードの肩にぽむと手を置いた。