「んで、ミチルんとこはどーなってんだよ、あの隊長さんとよお」
「どうもこうも……エティエンヌさぁん……」
むー……とうなだれて、ミチルは広い浴槽の縁に腕と顎を乗せた。濡れた髪はお湯につかないようにアップにしていて、浴槽の中はもちろん素っ裸だ。
「へえへえ、男共には聞かせられないようなことなんだろ、何だ、早速子供でも出来たか?」
一方エティエンヌはミチルとは反対側の縁に背中を預けている。黒い毛皮はひたひたに濡れそぼっていて、いつものふかふか感は無い。
「こ、子供……っ」
「ああ?」
急に泣きそうな顔になったミチルを見やりながら、エティエンヌは頭に乗せた拭き布でごしごしと顔を拭いた。落ち込んでいるミチルをまじまじと見る。どうやら、ここの夫婦の問題は思ったよりも深刻らしい。
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ゼルニケには大きく2つの公衆浴場が設置されており、1つは人間族用で、もう1つは獣人との共用だ。これは人間との種族的な確執によって分けられている訳ではなく、種族的な差異により分けられている。金額も同じで、設備もほぼ変わりが無い。これは、獣人と人間との交わりを善き事としているクーロンというお国柄で、そうした種族的な差異によって施設を分けたほうがよいとみなされる場合は、どのような街でも必ず獣人用と人間族用と2つ、同列の施設が造られる。種族的な差異、というのは、たとえば抜け毛や身体の大きさ、体温調節の機能や尻尾の有無などが問題になりそうな場合だ。
したがって入浴施設も2つに分かれていた。獣人はどうしても毛皮や鱗の手入れの必要があるため、排水や湯温などをそれなりに設計した浴場になっている。ちなみに獣人用の風呂は人間族も利用できる。こうした施設において、クーロン国民の間で揉め事が起こった事は無い。
ミチルは仕事が終わった後、エティエンヌの家を訪ねた。その時にエティエンヌに誘われて、公共浴場にやってきたのだ。クーロンでは一般家庭にも浴室はあるが、よほどの金持ちでなければ湯船に浸かるほどの贅沢は出来ない。たっぷりのお湯を溜める形式ではなく、浅い湯船から少しずつお湯を使うタイプのものだ。こうして足を伸ばしてゆっくりと湯に浸かる事の出来る公衆浴場は、ミチルもエティエンヌもよく利用する施設だった。
夜も割と遅い時間で、客は自分達2人だけ。
他に客が居ない浴槽でぬるめのお湯に浸かりながら、ミチルはエティエンヌに夫婦の悩み事を打ち明けようとしていた。何しろ、このようなことを相談出来るのはエティエンヌしかいない。抱えている悩みは、海猫亭の旦那さんや女将さんに相談するにはあけすけ過ぎる。
「子供なんて……出来ないもん」
「出来ない? どういうことだよ。どっか悪いのか?」
「ちがう、……ちがう、多分」
「じゃあ、何でだよ。人間っていうのは、どんな種族との間にも子供が出来るんだぞ、知らねえのか?」
「それは、聞いたことある、けど」
「けど、何だよ」
子供など、出来るはずが無い。もちろん、結婚してまだ1ヶ月だからとかそういう問題でもなければ、種族間的な問題でもない。このグリマルディでは、人間族というのは他種族に比べて突出した能力は無いが、極めて繁殖力が強いという種としての強みを持っている。さらに、他の種族との間に子供を作りやすいのだ。
だが、そもそも何もしていなければ子供など出来はしない。ミチルはラザフォードと結婚して1ヶ月。ただ仲良く寝台で抱き合って一緒に眠るだけで、夫婦が行うべきことをしていないのだ。さすがにミチルも子供ではない、経験は無くとも何をすべきかくらいは知っている。
もごもごとそうした意味のことを言うと、エティエンヌがおっそろしい声を出した。
「あんだと? おまえら新婚だろ?」
「でも、……その、そういうこと、してない」
「どういうことかは、知ってんのか?」
「し、知ってるわよ流石に!……は、は、初めてだけど……」
小さくなっていく語尾に、呆気に取られたのはエティエンヌだ。ラザフォードとミチルの仲のよさは、エティエンヌもよく知るところである。他にはまったく堅そうなラザフォードが、ミチルにだけは砂糖が口から出るほど甘い声を出し、見ているこっちがうんざりするほど尾を絡めている。あのラザフォードがミチルとそうしたことを望まないはずが無い。
エティエンヌも生物学上は女である。女心もラザフォードよりは分かろうというものだ。
つまり結婚したというのにそうした夫婦の睦事が無いことに、ミチルは不安を覚えているのだ。愛している旦那との触れ合いに心が安らぐのは当たり前だろうに。
「それで、嫁は不安、というわけか」
「……私、魅力無いのかも」
「はああ?」
「獣人の人って、みんな、その、胸とか大きいでしょ。私、全然ないし」
「いや。想像していたよりは割りとあったぞ?」
「うそ。エティエンヌさんの方が大きいし!」
「そりゃお前、比較対象が間違ってるだろうが。大体そんなもん、揉みゃあ大きくなるんだよ」
「でも、も、揉んでももらえないんだもん」
さすがにエティエンヌが口ごもると、ミチルが「うー」と唸りながら顎を半分ほどお湯に浸からせた。
「やっぱり私の身体なんて触りたくないんだ……」
「いや、それは違うと思うが……」
「じゃあ何で!?」
エティエンヌは大体の事情を察した。あのラザフォードがミチルに手を出せないとすれば、思い当る理由は一つしかない。ほうっておけばそのうちラザフォードの方の箍が外れそうだが、そうなったらそうなったで、やり過ぎて動けなくなったミチルを前にラザフォードの落ち込む姿が目に見えるようだ。ミチルの身体はとても小さいし、比べてラザフォードは身体能力も高く、上背もあるし身体つきもしなやかだ。当然のことながら、ラザフォードが本気になればミチルなどひとたまりもないだろう。
それでラザフォードは遠慮しているのか。馬鹿なやつめ。
とは思うものの、ミチルはアストンに強姦されかけたこともある。幸いなことに未遂に終わったが、あの時は本当に危機一髪だった。ミチル自身がそうしたことを怖がったとしても決しておかしくは無い。それを思ってラザフォードもミチルに手が出せないのだろう。大事にしすぎるのも考え物である。しかしミチルの胸糞悪い記憶は、ラザフォードが上書きしてやらねばならないだろうに。
「ったく、○○○野郎め」
「え?」
割りと下品な言葉をエティエンヌがぼそりとつぶやいたが、人間の聴覚にそれは届かなかった。
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……が、
人間の聴覚よりも獣人の聴覚というのは非常に良いものである。
それこそ、壁を隔てて隣の女湯で繰り広げられている会話が、男湯に居ても聞き取れるくらいには。
すなわち、エティエンヌに「○○○野郎」と言われたことも、ミチルの胸が存外大きいということも、そして……ミチルが何に悩んでいるのかも、全て聞き及んでしまったのだった。
深刻な顔をした男2人。正確に言えば、大きな灰色熊の獣人(肩まで浸かれないので先ほどまでだらんと浴槽に身を沈めて頭だけを出していた)と、黒銀色の蜥蜴の獣人は、沈黙していた。
エティエンヌとミチルが一緒に浴場に来た事を知ったマリオンは、あれからラザフォードを半ば無理やり引っ張って、自分らも浴場にやってきたのだった。
壁の向こうでは会話も終息したようで、ちゃぷちゃぷざばーんと激しい水音が聞こえている。
『そろそろあがるか』
『うん』
『落ち込むなよ、ほら、冷やし果汁おごってやるから』
『ん……』
『やっぱお前、意外といい身体じゃね? 一応くびれもあるし』
『一応って何、一応って!』
『おうおう、まっぱで突っかかるな、まっぱで』
心なしかエティエンヌの声がこっちを向いているような気がする。あれは絶対にわざとだ。ラザフォードとマリオンが男湯にいることを知っていて、わざと煽るようなことを言っているのだ。向こうの会話が聞こえているということは、こちらの会話も聞こえていたはずなのだ。ミチル以外は。
そんな女2人の会話が遠ざかっていくのを聞きながら、マリオンがはーあと盛大なため息をついた。ラザフォードは渋い表情をしている。
沈黙を破ったのは、マリオンだった。
「お前、ダッセぇなあ」
「うるさいな」
「好きな女に手ぇ出せないとか、どんなちいせえ野郎だよ」
「うるさい」
「……だがまあ、気持ちは分からんでもないわな。ミチルはちっせぇ。エティエンヌもいつも言ってらあ。何食べたらあんなちっこい人間が出来るんだってな」
「……」
ミチルが人間族の中でも小さい部類なのには理由がある。それは、ミチルがグリマルディ以外の世界から来た「神からの贈り物」だからだ。しかし、ミチルのような造作の人間族がグリマルディに産まれない訳ではない。恐らくミチルのように、何かの力や意図によってこちらにやって来たものは確実にいるのだろう。さらには、そうした存在を血族に持つものが。もちろん、マリオンは知らぬことだろうが。
しかし、そうした「神からの贈り物」と称される小さな人間族が、種族的にこちらの人間族と同様の身体能力を持っているかは分からない。人間族と蜥蜴族の違いに焦りを覚えたラザフォードだったが、こちらの人間族に比べてもミチルはとてもか弱そうに見える。
「寝台の上で触れた時」
「あ?」
ぽつりと言ったラザフォードの声があまりに掠れていて、マリオンは真面目な顔で視線をやった。
「首に赤い筋が出来た。怪我まではいかなかったが、あれを付けたのが俺の歯か鱗だと思うと……」
「ああ」
「それに、俺の、は、他の種族と全然形が違う。ミチルは、多分驚くだろう」
「……そりゃあよう。種族が違うなら形は違うだろうが」
「それはそうだが……」
再び沈黙。当然のことだが、クーロンでは異種族婚は禁止されているわけではない。そもそも歴代の王が異種族婚だ。しかし種族の身体的な違いというのは、実はかなり深刻な問題だった。同じ生物なのだから根本的な作法は違わないが、種族によっては形状も持続力も性癖も異なる。
ふうむと、マリオンは唸った。
マリオンはエティエンヌ一筋だが当然ラザフォードよりは経験も豊富で、様々な地域で交渉しているためそうした知識も仕入れる機会が多い。顎をわしわしと撫でながら、ひとつ案が浮かんだ。
「なら、勉強でもしにいくか」
「は?」
怪訝そうな顔で振り向いたラザフォードに、ニヤリと笑ってみせると、灰色熊の凶悪な顔がさらに凶悪になった。
****
お風呂上がりにエティエンヌと並んで歩く。エティエンヌは何事かぶつぶつと不機嫌そうで、ミチルは首をかしげた。だが、洗いたてで乾かしたての黒い毛皮はいつになくふかふかで、思わず脇腹に抱きつくと、抱え込んでもっしもっしと頭を撫でてくれる。
「しゃあねえなあ」
ミチルがエティエンヌのふかふかを堪能していると、そんな言葉が頭上から聞こえた。はて、と思って見上げる。
「エティエンヌさん、どうしたの?」
「ん、ちーと寄り道して帰るぞ」
「え?」
エティエンヌはミチルを抱えるように、帰る方向とは少し外れた路地に入っていく。ミチルはあまり来たことの無い場所で、どこか物憂い空気も漂っていた。
いくつかの控えめな看板が掛かった店に、美しい居住まいの女性が品のよさそうな男性と共に消えていく。その様子にミチルの頬が染まった。
ここは娼婦達の勤める花街だ。
そこに一体何の用事があるのかと思ったが、普段来ることの出来る場所ではないので興味本意で思わずきょろきょろとしてしまう。エティエンヌの家への近道かもしれない。娼館が並ぶといっても猥雑な雰囲気は無く、どことなく落ち着いた佇まいだ。道行く人達も乱れた人は居らず、むしろ静かだと言ってもいい。
「エティエンヌさん、近道?」
「いや……」
「この辺って花街……でしょ、思ったより荒れてないんだね」
「ここらは貴人も使うような格式のところが多いからな。もう2本向こうの筋に行きゃあ、ごろつきどもがわんさと居るぞ。ミチルは近付くなよ」
「ち、ち、近付かないよ!」
ぶぶぶと頭を振るミチルはエティエンヌの肉厚の手に引っ張られながら、相変わらず物珍しげにきょろきょろしている。そんな風にしばらく歩いていると、1軒の店の扉が開いた。シャラン……と美しい鈴の音が響いて、大きな影がのそりと出てくる。
エティエンヌの動きが止まり、ぼふんとミチルがその腕の毛皮にぶつかった。「エティエンヌさん?」と鼻をさすりながら覗き込むと、大きな影と共に見覚えのある尻尾が揺れる。
ミチルが驚愕に眼を見開いて、ぎゅう……とエティエンヌの腕の毛皮を握りしめた。
「今度はちゃんと連れてきなさいな。お兄さんお1人ではつまらないわ」
「……おう、世話になったな」
「ああ……世話になった。次は、頼む」
女の人の声が1人分と、男の人の声が2人分。男の人の声の1つはしゃがれ声で、もう1つはミチルの大好きな大好きな……甘くて低い声だ。
でも、どうして、娼婦の女の人と娼館から出て来たのか。いや、どうしたもこうしたもない。娼館から娼婦と出てきたなんて、目的は1つしかないではないか。
世話になった。
次は頼む。
世話になったんだ。
次……って思うくらいだったんだ。
ミチルは頭の中が真っ白になる。ミチルに手を出さないくせに、ラザフォードはすごく高そうな娼婦の女の人と一緒にいるんだ。……きっと自分よりも綺麗な身体つきで、初めての自分よりも上手なんだろう。だから、ラザフォードはミチルに触ってくれないのだろうか。そんな思いが溢れてきて、目の奥がかあっと熱くなって、血が逆流したように感じる。
ミチルは何も言わずに、パっとエティエンヌの腕から手を離す。ラザフォード達がいる方向とは逆の方向に身を翻した。