「なにそれ、惚気?」
「違うわよ! …けど考える余裕が無くて…。」
「それにしても、…あんなにクールに見える八尾課長が。意外。」
目の前に座っている芹沢が、くすくす笑う。困ったような顔で葉月がため息を吐いた。あれから5日間が経ち、葉月の気持ちはいまだに整理がつかない。正しくは、素直に事態を受け止められていない。そこで、芹沢に思い切って相談してみたのだ。もちろん、八尾の魔王やら魔界やらの話は省いている。ただ、八尾にしては強引に口説かれた…ということだけを話した。魔族云々の悩みもあるがそれはひとまず置いておいて、それだけを聞けば確かに困ることなど何もない。しかし、このまま押されて付き合ってもいいのだろうか…という疑問が残る。芹沢などに言わせれば、そんな風に始まる恋愛なんて普通にあるのだから、ひとまずお付き合いしてみたら…? などと言うが、八尾に「ひとまず」などという理論が通用するだろうか。
「ほーら、ため息。」
「だって。」
芹沢が楽しげに同期の表情を観察している。入社したての時は合コンでも愛想を振りまかず、同年代の女性が大概好きそうな男の話題にもあまり食いつかない、面白味の無い人だなと思っていた。だが、じっくりと話してみると一言一言が可愛い。それが楽しくて仲良くなった。感情豊かではないが、フラットな表情は話をしていると落ち着く。
その葉月が心底困った顔をして、なんと恋人の惚気話をしているのだ。葉月としては惚気ではなく唐突に口説かれたことを相談したのだが、芹沢にはそうは見えなかった。
「八尾課長、そんなに悪い人なの?」
「そんなことない。」
かぶさるように言って、葉月が首を振る。
「でも、急に口説いて葉月を困らせてるんじゃない?」
「困ってないわ。」
「仕事に影響出るかもしれないし。」
「課長は全然、影響出してない。普通よ。」
むしろ普通すぎて、あんなに熱心に口説かれたのはいったいなんだったのだろうと思うほどだ。八尾はあれから、常の冷静な態度を全く崩すことなく業務をこなしている。葉月が1人混乱している風で落ち着かないが、やはり八尾は仕事のできる男なのだろう。公私を区別している姿はさすがといえた。
「ふうん。」
芹沢が柔らかく笑んだ。その表情を見て、居心地悪そうに葉月が身じろぎをする。「なに?」と小さく聞いて、首をかしげた。
「葉月は八尾課長のこと、全然悪く言わないじゃない。困ってる風には見えないけどな。」
「そ…」
「葉月が男の人のことを、そんな顔で話すなんて初めて見た。」
葉月の頬が赤く染まった。うつむいて、ポツリとつぶやく。
「分かってるわよ。」
「うん?」
葉月にだって、分かっている。「意識してしまう」という気持ちに気づいたあの時点で、勝敗は決まっていたのだ。八尾の仕事ぶり。仕事のできるいい男のクセに、時々見られるおかしな行動。強引すぎるし引き際が分からないくせに、葉月が困った顔をすると一緒に困った顔をするところ。率直で、嘘が無くて…。
気持ちを向ける、表情が気になる。理由はどうあれ、その積み重ねは想いを積み重ねることだ。嫌いでない相手ならば、なおさら募る。普通はその通過点を楽しむものなのだろう。だが、葉月は楽しみ方が分からなくてつい逃げをうってしまうのだ。
「何か変な性癖でもあったの?」
「な、無いわよ!」
おやおや…と芹沢はおかしく思う。葉月は気づいていないが、これでは一線を越えたと言っている様なものだ。本当に、葉月にしては珍しい取り乱しようだ。これはきっと本気で、「自分」に困っているのだろう。
「ま、今日の夜、詳しく聞くわよ。何なら、祝杯あげる?」
「亜紀…!」
昼休み終了10分前のチャイムに、亜紀…芹沢が席を立った。つられて葉月も席を立つ。2人は今日の夜に一緒に食事をしようと約束していた。時々開催する、いわゆる女子会というやつである。
「すごく楽しみにしてる。…夜は、大丈夫なの。」
「何が…?」
「もうー…課長よ、八尾課長。」
「遅くなるって言ってるから、だいじょ…」
そこまで言って、さすがの葉月も気づいたのだろう。八尾と夜、約束をしているに違いない。あはは…と芹沢が笑って、困った…という顔をしてみせた。
「祝杯も惚気も歓迎よ。でもあんまり遅くならないようにしないと、課長に恨まれそうね。…仕事、定時に上がるんでしょ? またメールして。ロビーで待ってる。」
何か反論しようとしたが、諦めて頷く。「分かった。つきあってくれて、感謝してる。」そう言って、葉月も小さく笑った。
****
八尾と三羽、そして一尋が廊下を歩いている。夕方、近くの顧客先に足を運んでいて帰社したのだ。外面はキリッとしているが、内面は葉月に会いたくてそわそわしている八尾は、今にも本性を現しそうなほどに魔力を放出していた。
公私の区別の付いた態度はさすがだと葉月に思わせている八尾だったが、一尋や三羽から言わせれば「葉月成分が足りない」…という。葉月に触りたくてたまらないが、会社という場でところかまわず葉月に触れれば絶対に嫌われる。だが、一度知ってしまった好いた女の肌と味は、あまりにも甘くて知る前には戻れない。つまり我慢を強いられているのだが、可愛い葉月が(部下なので)目の前をうろうろしていて、いろいろ限界なのだった。
一尋が疲れたようにため息を吐いて、恨みがましい一瞥を投げる。
「ルーちゃん、ずーーーっと不機嫌だよね。魔力垂れ流しすぎだよ。ほんっと、何? 欲求不満?」
「レヴィ、うるさい。」
「坂野と会っていないようですが、どうかなさったのですか。」
「うるさいと言っている。」
「葉月ちゃんに、僕らの正体もバラしちゃったんでしょ? …の割りに、普通に接してくるよね。」
「それは自慢か。」
じろ…と冷たい魔力を発して、八尾が一尋を見下ろした。
自分達の序列としては八尾の下が三羽と一尋で、その部下が葉月や山下ということになるため、仕事の話は、まず部下2人を通すことが多い。2人と話すなら自分と話せと思うが、葉月の態度はいつもと変わらないように見える。少々困惑したように八尾を見上げるのが煽ってくるが、それ以外は…この5日間は必要以上のことは話していなかった。
いつもは軽口を叩く一尋だが、相手は魔王。本気の魔力に一尋などの存在がかなうはずも無い。見下ろされた一尋は、ぞ…と背筋を冷やして慌てたように頭を振った。
「ちょっと、やめてよそんな魔力を僕に向けるの。違うし! 自慢じゃないし!」
不機嫌そうに、八尾が一尋から視線を外す。
そもそも、なかなか目を合わせられない。自重した結果だ。目を合わせると襲い掛かりそうだ。かなり切羽詰っている。寝台の上で葉月を味わった時の、戸惑ったような表情が徐々に恍惚としたものに変わっていく様は例えようが無く綺麗で、葉月の振る舞いを見ているだけでその様をかなり詳細に思い出せるようになってきた。末期だ。
八尾のため息に、三羽が問う。
「…今宵、坂野に会うのでは?」
ぴた…と八尾の歩みが止まった。冷たい魔力は納めたが、悶々としているのは変わりない。く…と拳を握り、ため息を吐いた。
「…少し遅くなる…と。」
「週末まで会わないとか、葉月ちゃん、律儀だね。」
「これを律儀というのか…。だが、俺は会いたい。早く葉月と…(セッ)」
「定時に会社出ますって言ってたね。用事が終わったら迎えに行くの?」
「ああ。」
そう。今日は定時になったらすぐに葉月は会社を出ると言っていた。今は定時を過ぎているから、おそらく居ないだろう。いつも、フロアに戻ってきたら葉月の顔を見て、「おかえりなさい、課長」と言ってくれる。それが楽しみなのに、待つのがこれほど辛いとは思わなかった。追いかけていた時よりも遥かに辛い。葉月も自分に会いたいと思ってくれているのだろうか…。それでも、今日の夜になれば会えるのだし、土日もずっと一緒に過ごして構わないと言ってくれていた。少なくとも、一緒の時間を過ごしてもよい…という風には感じてくれているのだろう。
「あ、おかえりなさい、課長。」
「ああ。」
山下のおかえりなさいが聞きたいわけではない。上司としてはあるまじき八つ当たりに近い感情を抱きながら、生返事を返して席へと戻る。葉月のいないフロアなど、居たって意味が無い。今日は自分もさっさと部屋に戻り、葉月から連絡があるのを待とう。パソコンも起動させず、書類を傍らに置いて荷物をまとめる。念のために携帯端末を確認してみるが、葉月からの連絡は無かった。少しだけ首を傾げる。先に社を出るメールがあってもいいのに…と残念に思ったが、いずれにしても今日の夜までの辛抱だ。
フロアの外から足早に歩く音が聞こえた。しかし葉月の気配ではなく、すぐに興を失う。
「あれ、芹沢さん。」
山下が椅子の背もたれから身体を起こして、明るい声を上げた。ちらりと意識を向けると、確か葉月の同期の芹沢…という社員だ。山下も知り合いなのか、親しげに声を掛けている。だが、芹沢はきょろきょろとフロアを見渡し、山下の声には上の空だ。怪訝そうに八尾が眉をひそめた。一尋も三羽も同様に、それとなく意識を向けている。
「…あ、もしかして坂野さんっすか?」
「うん。もう帰った?」
「定時前に第3期のチームに呼ばれてて、たいした用事じゃないから行ってくるって。そのまま帰るって言ってましたけど、会えなかったんですか?」
「第3期…?」
八尾の声が低くなった。小さいがよく通る声で、山下と芹沢をこちらに向けさせるにはいい効果だった。八尾が芹沢と山下に近付き、瞳を細める。眼鏡を直す姿は厳しく、山下と芹沢が少し身を竦めた。
「芹沢…だったか。はづ…坂野と約束を?」
「は、はい。…定時後、食事に行く約束をしていて、1階のロビーで待ち合わせをしたんですけど来なくて…。メールも電話も繋がらないし、まだフロアにいるのかなって来てみたんですけど…。」
「長引いてるのかな? …10分位で済みそうだから行ってくるって…。」
山下が首を捻る。誰とも無くフロアの時計を見てみると、既に18時30分を過ぎていた。長引いているだけ…という可能性も無いことは無いだろうが、連絡の1本も入れていないのは葉月らしくない行動だ。一尋と三羽も側に来て、八尾の表情を窺った。一瞬、八尾は瞑目する。社内には存在しているようだ。フロアはこの階上。場所は…。
「用件は何だったの?」
一尋の声に山下が顔を向ける。
「第1期の紙媒体の資料が見たいって。電話で何回も説明してたんですけど、場所が分からないらしくて…面倒だから直接行くって。」
それなら10分もかからない。階上の資料庫からファイルをひとつ取り出して運んで、終わりのはずだ。
八尾が動いた。
「あ、八尾課長…!」
山下が呼びとめようとしたが、一尋が遮る。三羽と顔を見合わせて軽く頷き、三羽は八尾を追って出て行く。
「山下クン。…今日の仕事はもう終わり?」
「え、…はい。でも、」
「坂野さんは、第3期のことでてこずってるのかもね。課長に何とかしてもらおう。何事も無ければいいし、場合によっては第3期のリーダー〆ないと。」
「し、〆るって…。」
一尋が、若干童顔に見える綺麗な顔に、にっこりと笑みを浮かべた。ただし、目は笑っていない。可愛い顔が笑顔で吐いた物騒な言葉のギャップは、芹沢と山下の背を冷やした。一尋が、そのままの笑顔で芹沢に声を掛ける。
「芹沢さん、だっけ? …どこかお店予約とかしているの?」
「え、…あ。はい。…あの。」
気圧されつつも頷く芹沢を見ていた一尋は、さらに山下を軽く見下ろす。
「山下クン、今日暇?」
「一尋さん?」
戸惑ったように山下が席を立ち上がった。立ち上がる山下に場所を譲るように一尋が一歩下がり、再びにっこりと笑う。
「芹沢さんのこと、頼むね。」
「え?」
「食事、予約しているんでしょう。2人で行っておいで。坂野さんのことは、任せて。」
「でも…」
芹沢が一尋に食い下がった。その姿を眩しげに見下ろしながら、一尋の表情が…今度は、物騒な笑みではなくて安心させるような柔らかいものになる。
「心配な気持ちは分かるけど、こういう始末をつけるのも自分達の仕事だから。…ちゃんと坂野さんに連絡させるから、後は任せて? 山下クン、頼んだね。」
もう一度、にこ…と笑って一尋も八尾と三羽の後を追う。
フロアに残された芹沢と山下は、困惑と心配が綯い交ぜになった表情で顔を見合わせた。
****
第3期のチームリーダーから電話が掛かってきたのは、定時30分ほど前の頃合だった。第1期の頃の資料が欲しいから場所を教えてくれ…という。どこの棚のどのあたり…というところまで教えて、さあ仕事をあがる準備をしようとしたところで「資料が無い」…という電話。他に思い当たるところをいくつか教えたが、また「無い」…という。そもそも、頻繁に参照されるわけではないだろうし、持ち出すとしても第3期のメンバーしか居ないはずだ。訝しく思ったが、何せ古い資料だからどこか奥の方にあるのかもしれない。
電話で言い合いをしていても始まらない。思いついたところを確認して、無かったら帰ろう。八尾は外に出ていて相談出来なかったが、資料を一つ取ってくる程度であれば、問題ないはずだ。そう思って、フロアを出た。
普段働いているフロアの一つ上の階に資料庫がある。社員用のICカードで扉を開けて部屋に入ると少し気温が低く、古い紙の乾いた匂いが鼻腔をくすぐった。もちろんデジタルの資料もあるが紙でしか残っていない資料や、レポートなども多い。それ以外にも、印刷して保管しておく必要のあるものなどを保存しておく、ここはそういった部屋だ。
目星の付いている棚を調べてみる。…それらしい資料は並んであるが、欲しい箇所だけ抜けていた。
「誰かが持ち出してるのかしら。」
見つからないのも当然だ。それならば、持ち出し簿を調べれば分かるだろう。時計をちらりと確認して、もうすぐ定時だということを知る。持ち出し簿を調べろ…とだけ伝えて、さっさと会社を出よう。そう思って、何冊か出していた資料を戻そうと棚に向かった。
シュン…と扉の開く音がする。振り向くと、第3期のチームリーダー那田…という男だ、…が立っていた。那田が室内に入ると、再びシュン…と音がして扉が閉まったことが知れる。葉月に資料の依頼をしてきたのもこの男だ。八尾が海外から帰ってきた時期と同じ時期に、第3期のチームリーダーになったが、引継ぎなど必要ない…と意気込み、状況を知らぬままリーダーを背負って第3期のプロジェクトを転倒させた男である。…にも関わらず、尊大な態度で責任を微塵も感じず、全く関係の無い葉月を使うのも至極当然…といった態度が鼻についた。それでも手助けしたのは、クライアントに迷惑をかけないため…それだけである。
「坂野、資料はあったか?」
「那田リーダー。…いえ、資料は誰かが持ち出したようです。来週、持ち出し簿を調べて、持ち出した方に連絡をしてみてください。」
「ああ、持ち出しね。」
言いながら、棚に資料を戻す背後に那田が近づいた。
「坂野。」
「はい?」
振り向くと、思ったよりも近くに那田が居る。その気配に怪訝そうに身を引いた。
「資料はこれだろう?」
那田が手に持ったファイルを、ひらりと葉月の前で振って見せた。葉月が眉を寄せる。
「…持ってらっしゃったのですか…?」
「ああ、君が電話で場所を教えてくれたからね。」
「そうですか。…見つかって何よりです。」
ならばなぜ、無かったと言い張ったのか。…そう聞くべきだろうが、葉月は敢えて知らぬ振りを決めた。軽く一礼して、那田の隣を通り過ぎる。だが、不意に肩を掴まれて引き戻された。ぐ…と痛いほど二の腕を掴まれたまま、見下ろされる。
「それだけか? …待てよ。」
那田の声が低くなった。