「アオサキさん、あの、この書類……ちょっとどうまとめたらいいのか分からなくて」
ファルネ・アオサキのデスクに、髪の毛がくるくると巻いた愛くるしい女性社員がおずおずとやってきた。ファルネは眼鏡越しに視線だけを上げて、少し首を傾げる。
「……分からなくて?」
「その。手伝ってもらえないかなって、私、これから用事があって。アオサキさん、いつも定時で帰ってるでしょう?」
「……そうね」
ファルネはため息をひとつ吐くと、興味を失ったように視線を自分の端末に移した。その様子に、一瞬女性社員の顔が舌打ちしそうに歪んだが、すぐに困惑したような表情に戻した。
「あの、少し直してもらえるだけで…」
ファルネは静かに端末を操作し、確定のキーを押す。じれたように女性社員が声を高くした。
「ねえ、アオサキさん、お願い!」
それを聞いているのか居ないのか、端末から薄い記憶カードが出てきてファルネはそれを手に取り、女性社員に渡した。視線は女性社員を見ておらず、少し下を向いている。
「あなたがやってるプロジェクトに似た過去の参考資料。これ確認すれば、どんな人でも30分ほどで修正できると思う」
「え…」
「その資料の提出は明後日に延びてた。ついさっきメッセージが来てたけど、読み飛ばしたの?」
「……」
それ以上ファルネは言及せずに、自分の端末に向かってまた仕事を再開し始めた。その様子を見て、苦々しい表情で女性社員は唇を噛む。記憶カードを持ったまま、ふい…ときびすを返して自分のデスクへと戻っていった。
「…なんなのあの態度…」
「何、アオサキのこと?」
「ちょっとお願いしたいだけだったのに…あんな言い方しなくても…」
「でも、助けてくれたんだろ?」
「そうだけど」
女性社員の隣に座っている男性社員が興味深そうにファルネを見て、苦笑した。
ファルネ・アオサキ。
ジャパン第13都市トキオ・シナガワにあるシナガワエリアオフィスに勤めている。いつも俯きがちで必要なこと以外はほとんど話さない。社員同士の飲み会などに参加したことは無いし、仕事が終わればすぐに帰宅。茶色い艶のある黒い髪は、いつも簪でひとつにまとめていて面白みが無い。零れる横髪と前髪が俯き気味の顔を隠している上に眼鏡を掛けているため、表情も顔の造作もあまり分からない。地味だが仕事はできるため上司の受けはいいが、愛想が無い。そのため、他の社員に助けを頼まれ、的確に指示をだしても、先ほどのように愛想が無いため、あまり感謝されないのだった。だが、本人はそれを特に気に留める風でもなく、いつも静かに仕事をしている。
「何が楽しいのかしら、あの人」
「呆れたな言い草だな。助けてもらったんだろ?」
男性社員の言いように、女性社員は口を閉ざした。あの人に頼めば、手助けしてくれる。見返りも求めない。便利な女…などと言われていたから、自分も少しばかり利用させてもらおう、そう思っただけだ。それなのに、あの愛想の無さは思ったよりも女性社員の自尊心を傷つけたようだった。
そんな女性社員の心中を知ってか知らずか、ファルネは仕事を終えて立ち上がった。立ち上がりながら、端末のシャットダウンを行う。眼鏡を掛け直すと、荷物をまとめてオフィスを早足で出て行った。やはり俯き気味で、挨拶をする相手など居ない彼女は、静かにエレベータのボタンを押す。
ファルネは時計をちらりと見た。時計の針が示すのは18時。19時には家に着いておきたいところだ。充分間に合うだろう。
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シナガワは、丁度会社帰りの人間が多いのだろう。人が多く、みな早足だ。ファルネも同様に、足早に歩いている。雑踏の中、時折、誰からともなく雑談が聞こえてきた。
「ってかさ、今日からじゃね、エクスのクローズドα開始」
「お前、募集したんだろ? どうだったんだよ」
「バーカ、当選してたって言うかよ」
その会話はファルネの耳にも入ってきたが、ちらりと眼鏡越しに視線を動かしただけで、すぐに興味無さそうに俯いた。カツカツと歩いていたが、とある店の前でファルネはスピードを緩めた。足を止めて、自分の横にある店が貼っているポスターに目を向ける。そこには、今、一番売れているロールプレイングゲームのヒーローが、テンション高く笑いながら立っている絵があった。ヴァーチャルリアリティでのロールプレイングが規制されていても、ゲームの素材として剣と魔法は廃れない。どこがどうなっているのか分からない鎧と、色の鮮やかなマント。腰には何か魔法の力でも帯びていそうな剣を吊るしていて、頭にはサークレット。いつの時代も、ゲームのヒーローのイメージは変わらないらしい。
タタ…と、誰かがその横を駆けていく。
どうやら15歳程度の男の子のようだ。自然、その男の子が駆けていくほうにファルネが視線を向けると、その先には荷物を搬出している店があった。数人、職業も年齢も性別もばらばらな人間が、搬出の脇を縫うように店を出入りしている。恐らく、差し押さえをされているのだろう。人も物質も全ての入れ替わりが激しいトキオでは、珍しくない光景だ。男の子はどうやらその差し押さえの現場に混ざるつもりらしい。
ファルネはしばらくその光景を見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外して俯き、トキオの公共交通機関であるレールの乗り場に足を向けた。
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「ルリカ」
12、3歳のほっそりとした少女が、車椅子に乗って外を眺めている。ルリカ、と呼ばれて少女は振り向いた。肩のすぐ上で切りそろえられた真っ直ぐな髪は、綺麗な金色。瞳の色は控えめな淡褐色。振り向いた表情は冴えなかった。肌の色は白いが、それは人種的なもの…というよりも、どちらかというと彼女が長い病床にあることを示している。少し悪い顔色と、精彩を欠いた瞳の色をしていた。
その車椅子の側にやってきたのは、細身の紳士だ。先ほど名前を呼んだのも、彼だろう。
「明日から検査が始まるね」
「……」
「ルリカ、つらければ…」
ふる…と、ルリカは頭を振った。その金髪を紳士は撫でると、車椅子に手を掛けてゆっくりと押し始めた。
車椅子は自動で操作することもできる。だが、ルリカはこうして、車椅子を押してもらうのが好きだった。自分では、一緒に居る人の歩調に合わせることは出来ない。機械で動かしたら一緒に居る人が歩調を合わせてくれるが、こうして押してもらっていると、その人の歩調と一緒になる。まるで一緒に歩いているような気持ちになるのだ。
ジャパン第13都市トキオ・シロガネ・ビレッジは、総合医療区画となっている。トキオにいくつかある、あらゆる部門の医療施設が集合している地域のひとつだ。シロガネは、外科医療、サイボーグ技術が特に高名だ。
ルリカは、そのシロガネ・ビレッジの特定検査対象患者…となっている。通常の患者と異なり、特殊な治療と設備の利用が許可され、他の患者よりも金銭的にも医療的にも制約を受けない自由が許される。特に、金銭的…という面が大きい。端的に言うと、VIP待遇というわけだ。
「お父さん。あの話は?」
ルリカから「お父さん」と呼ばれた紳士は歩みを止めた。車椅子も止まる。彼はルリカを見下ろして、もう一度その頭を撫でた。
「お前が、望むなら。許可は出たよ」
「本当に?」
「ただし数値や統計は採取させて欲しい、ということだ」
「うん」
「どちらにしても、取られるのだろうけれどね」
「そういうのは関係ないの。ごめん」
「知ってる」
「ただ、やってみたいだけなの。」
「ああ。お母さんも、いいと言っていた」
「しぶしぶ?」
「しぶしぶ」
ルリカは少しだけ笑う。…だが、その微笑みもすぐに消して、再び中庭に視線を向けた。
父は、ルリカの車椅子を押して病棟へ戻っていく。
ルリカは生まれてこの方、走ったことが無い子供だ。
自分のこの足は、自分の意思で自由に動かなかった。
しかし、もうじき、足の中にバイオニクスタイプの間接と人工骨を埋める手術を行う予定になっている。この手術により、脳からの命令で足を動かすことができるようになるという。ルリカにも詳しいことは分からなかった。
そもそも、足を動かす…というのは、どういうものなのか。ルリカは知らない。ルリカはそんな少女だった。