aix story

003.login :丘陵・教会・川

美しい丘陵地帯、少し低くなった土地には少し背の高い草の生えた草原が広がり、そうした地形の合間に、土を均しただけの道が続く風景。

その道をさらに行くと、やがて草原の草がまばらになり、荒涼とした荒地が続く。

その荒地に、1人の男が立っていた。
無造作に短く刈った黒髪に切れ長の瞳の男だった。

す…と男が息を吸い込んだ。その空気を楽しむように、うっとりと瞳を細める。まるで猛獣が独り占めできる餌を前にしたかのような表情だ。

「いい気配がするじゃねえか」

ぺろりと舌なめずりをする。

腰には飾り気の無いボウイナイフを鞘に収めている。逆側には随分と古い型の拳銃を下げていた。男は首を曲げて、カキ…と骨を鳴らすと、ニヤリと笑った。

****

黒い長い髪に黒い軽鎧、黒い旅装のマントを羽織った長身の旅人が森の中を歩いていた。背には素朴だがしっかりとした作りの弓と矢筒を背負っていて、腰には細身の剣を下げている。よく見ると、黒い髪の隙間からは尖った形の耳が覘いていて、人に近いが人とは異なる造形の者だと知れた。

彼は物珍しげに森の木々を見上げながら、ゆっくりとした足取りで歩いていた。歩くたびに腐葉土が柔らかく足を受け止め、音はしない。既に誰か、先達が歩いているのだろう。彼が辿る足元に草は生えておらず、どこかに導くように一本の道になっていた。彼は警戒することなく、ぶらぶらと歩く。見上げる木々の隙間からは青い空の光が零れていて、空気は森特有の湿ったような植物の匂いでむせ返っていた。

少し視界が開け、旅人は眩しげに薄い青い色の瞳を細めて眼前を仰いだ。

そこには小さな鳩のような華奢な白い教会がある。この世界に宗教と言う概念があるかどうかは分からないが、確かにそれは教会だった。そっと静かに佇むそこには、彼と同じように、物珍しげに小さな教会の十字を見上げる女性が居た。

彼が教会の敷地らしいところに足を踏み入れると、気配に気付いたその女性が振り向く。簡素な灰色のドレスと、やはり旅装のマントは灰色。手には十字のついた細い錫杖を持っていて彼女が聖職者であることが知れる。

女性は軽く頭を下げた。

「はじめまして」

「はじめまして」

どちらからともなく、2人は挨拶を一言。黒を基調とした男がゆっくりと問いかける。

「ここは、初めてなんです」

「そう、私もです」

やや緊張気味の男に、女が小さく笑った。その微笑を見て、男の方が少しうろたえる。

「今笑いました?」

「いいえ、ごめんなさい。…なんだかとても、緊張してしまって」

「ああ、そうですね。こういうのは、初めてで」

「こういうの」…という男の言葉を聞いて、再び「そう」…と女が頷く。

「あなたはエルフね?」

自分より背の高い男を見上げて、女が首をかしげた。
男の髪から覘く尖った耳は、古いおとぎ話に出てくる「エルフ」と呼ばれる種族の特徴だ。もとより、妖精などと呼ばれる伝承上の種族ではあったが、この世界では細身で美しい外見と、高い魔法の力が特徴の種族だ。ただ、エルフにしては少し背が高い。彼は女の言葉に頷き、少し首をかしげた。

「おかしいかな」

「いいえ。ごめんなさい。…ああ、そうだわ。名前を教えてもらっても?」

エルフの男は少し考えて、「ラズ」…と答えた。ラズは同じことを問いかける。

「君は?」

「私は、ユリアナ」

「よろしく、ユリアナ」

ラズは左手を差し出した。ユリアナはそれを握る。
人の温度に身構えた、と同時に手に温度が伝わる。

確かにそれは、人の温度だ。

なんだかとても不思議だった。

****

森を抜け、見上げる景色が緑から青に変わった。ずっと聞こえてきたせせらぎの正体が見えて、感嘆のため息を思わず零す。

少年の目の前に、川が流れている。

その少年の頭にはサークレットが付いていた。肩を覆うマントに、時折不思議な艶を見せる素材で出来た胸当てを身に付け、腰には少し幅広の剣が吊り下げられていた。剣の素材も、胸当てと同じような色を帯びている。剣士とも騎士とも旅人ともつかない、言ってみれば、おとぎ話の勇者のような姿は少年によく似合っていた。

「すげ…。…これ、本物じゃないのかよ」

少年は川に程近くなるほど多くなっていく地面の大きな石に、足を取られないように慎重に進む。水際まで来て、少年はそっと水に触れてみる。そのとき初めて自分が革の手袋を身に着けていることに気付き、それを外した。今度こそ素手で触れてみる。

「冷たっ…!」

少し水に手を付けて、弾かれたように離す。川の水であれば冷たいのは当たり前だ。それなのに、少年は怪訝そうに自分の掌を見た。水が滴る皮膚と感触、冷たい…という認識。

「フィードバックは全部切り離してるってわけじゃないのか?」

まあ、川の水に触れた時の感触程度なら命に関わりそうでもないし、フィードバックする感覚としない感覚の区別はあるんだろう。そういえば、服を着ている感覚や地面を蹴っている感覚はある。

なら、他のプレイヤーからの干渉はどうなのだろう。まだ自分以外のものに出会ったことが無いから分からない。

ぶつぶつと独り言をつぶやき、手の雫をひらひらと落としながら周囲を確認する。

ガサ。

…茂みが揺れ、葉擦れの音がかすかに聞こえた。少年がそちらに意識を向ける。少年は顔をそちらに向けたまま、視線を落として自分の剣を見た。そしてもう一度、茂みを見る。そっと剣の柄に手を触れ、刃を少しばかり覗かせる。

ガサ…!

何かが飛び出して、その瞬間剣を、…少年は抜けなかった。かろうじて、その何かを認識した瞬間、剣を抜いてはダメだ…!と判断し、その判断に身体が従ったのだ。脳内の判断に身体の動きが一瞬遅れたような気がしたが、実際の時間軸的にはそれは同時のようだった。

少年の前に現れたのは、綺麗な金色の髪の巻き毛と褐色の瞳の10歳程度の少女だった。ブルーのワンピースを着ていて、腰には申し訳程度の小さなナイフを下げている。つんとした生意気そうな表情でその眼差しはとても強いが、肌の色は白くてか弱そうだ。巻き毛から、尖った耳の先端が覗いている。その耳の形を少年は知っていた。確か「エルフ」という種族だ。

「エルフ?」

「あなた誰?」

少年の疑問符には答えず、小さな唇を尖らせて少女は瞳を細めた。その表情は挑戦的で、10歳程度の少女の表情とはとても思えない。少年はむっとしてみせる。

「お前こそ、誰だよ」

「女の子に名乗る時は男の子から自己紹介なさいって、習わなかった?…それに、その物騒なものから手を離して。気分がいいものじゃないわ」

言われて、少年は自分が剣の柄を握ったままだったことに気付いた。舌打ちして手を離して背を伸ばすと、唇を舌で濡らす。

「ヴァーツ」

「ヴァーツ?」

「ああ。名乗っただろ。お前は?」

「私は、」

ヴァーツの名乗りに楽しそうな表情になった少女が、自分の名前を舌に乗せようとしたときだ。

グルル…。

低い獣の唸り声が聞こえる。少女が出てきた茂みと、少し位置のずれたところで葉が揺れた。少女もそれに気付き、はっと身を竦める。茂みとヴァーツと少女の距離はそれぞれ2mほど。足場は石が多く、後ろは浅い川。一気に緊張感の高まった空気に、ヴァーツがそっと少女に手を伸ばす。

「おい、こっちへこい。…静かに」

唸る声の主を刺激しないよう、ヴァーツは声を落とす。雰囲気を察したのか、少女もゆっくりとヴァーツに向かって手を伸ばした。その、瞬間。

「きゃ…っ」

カラ…と少女の足元の石が崩れ、少女の身体が揺らいで地面に落ちる。
いや、落ちなかった。

2歩3歩と近付いたヴァーツの腕が少女の身体の下に入り、そのまま地面にぶつからないようにそっと落とす。少年が伏せた格好の少女と茂みの間に立った…と、同時に、茂みから黒い影が跳躍する。

今度こそ、ヴァーツは剣を抜いた。抜剣した勢いに任せて、武器を横様に振るう。

キャンッ…!

鳴き声は、犬のように聞こえる。だが身体の大きさは犬のそれではない。既に絶滅されたと認識されている狼かもしれない。そこまでヴァーツの思考が飛び、同時に息を吐く。

「なんだよ、この動き」

つぶやいたのは当然、狼に対してではない。自分の動きだ。脳内に浮かべたのは、いつだったか映画か何かで見た勇者の姿。現実にはあり得ない動きと、筋肉の反射。だが、映画の勇者と違ってその剣筋は狼を致命的に捕らえるまでは至らず、僅かに耳を掠めただけのようだ。

傷つけられた手負いの獣は、鼻面に皺を寄せて威嚇の唸り声を大きくする。再び跳躍した先は、武器を持ったヴァーツではない。

「…!」

あまりの恐怖に声が出なかったのか。うつ伏せからいつの間にか身体を起こしていたエルフの少女は、声にならぬ声と共に両手で顔を覆った。そこに跳躍する黒い影。だが、その前にはヴァーツがいる。狼の顔面に噛ませるように、剣を持つ腕を振った。

眼前に来た獲物に本能的に食らい付こうとした獣の牙が、自分の腕に貫通する…だろうと認識する直前、牙が皮膚に触れる前にヴァーツは腕を引いた。狼の歯に剣が触れ、そのまま喉の奥へと刃が滑っていく。頭が飛ぶ…と思ったが、剣には何の感触も無い。確かに刃が狼の頭に食い込んだように見えたが、血の一滴も流れることなく、光の屑となって狼の身体は消えていった。

「倒した…?」

ヴァーツは眉をひそめた。奇妙に現実味の無い戦闘だ。脳で自分の動きを選択すると身体が反応する。一拍遅れているように感じても、実際の動きは一瞬。自分の動きではないようだが、選んだ動作は自分のものだ。皮膚の下の筋肉も神経も、通っている気がするのに。

「…ヴァーツ」

一連の動きを反芻していたヴァーツは、少女の声に我に返った。エルフの少女は褐色の瞳に涙を滲ませていたが、しっかりとした声でヴァーツを見返している。

「ああ、起きられるか」

「大丈夫よ。あなた、強いのね」

「強い…?」

「私の名前を言っていなかったわね。私の名前はフウカ」

「フウカ…」

「ええ、よろしく、ヴァーツ」

ヴァーツの手を借りながら立ち上がったフウカは、少年の瞳を見上げて笑った。自分より年下に見えるが、まるで年下の気がしない。フウカのませた笑みに、ああ…とだけ返事をして、ヴァーツは息を吐いた。

****

荒野に凍りつくような風が吹いた。
肌を引きつらせるその風は、冷気を伴って鋭く走っていく。

ギャッ!

耳障りな鳴き声が響いて、小さなトカゲにも見える生物が跳ねて落ちた。

紺色のフードを被り長いマントに身を包んだ…人影が、ゆっくりとそれに近付く。どうやら冷気を放ったのは、その人物であるようだ。その人物が落ちたトカゲに近づき、身体を低くして手を伸ばすと、それが触れる前にさらさらと光の雫になって消えた。

「消滅…」

ふむ…と顎に手を当てて首を傾げたが、瞳はフードに隠れて見えない。身体を起こすと、その背後でざくりと音がした。

「…へえ、魔道士、ってやつか。名前は?」

低い声が聞こえ、カキ…と骨を鳴らす音が重なる。振り向くと、腰に拳銃とナイフを提げた鋭い気配の人物が居て、無造作に問うた。

「ルイス」

ルイスというその人間もまた、問われたほうを見ずに無造作に名乗った。ルイスは、消えていく光の雫に手を沈めてそれを揺らしている。名乗った相手に興味は無いらしく、じっと消えていく光を見つめていた。やがてルイスの隣に人影が並ぶ。

「俺はセタ」

相手が名乗って、初めてルイスはその顔を見返した。セタが、ニッ…と笑って肩を竦めた。ルイスの方に身体を向け、向き合うように相対すると大げさに首を傾げてみせる。

「何だ、カリカリしてんな」

「別に、カリカリはしてない」

「ああ、そうかい」

セタの手が腰の拳銃へと伸び、剣呑な動きでそれを持ち上げた。顔には笑みを浮かべたまま、ルイスの方へ銃口を向ける。随分と古い型の銃のようだ。セタが撃鉄を引き起こすと、ガチリと音がした。

ルイスは動かない。
その様子に、ふっ…と笑って、セタが引き金を引く。

低く重い銃声が響いて、ギャッ…!…という、鳴き声がルイスの斜め後ろで聞こえた。ルイスが僅かに後ろに顔を傾けると、先ほど氷の矢で撃ったトカゲと同じ種類らしい小さな生物がびくん…と最期の一跳ねを迎えたところだった。

「つまらねえな」

「何が」

「避けない」

「脅かしたつもりか?」

「別に」

セタは楽しげに笑って、拳銃を腰に収めた。顎を撫でながら、撃ったトカゲの元に歩くルイスの背を追いかける。きらきらと光の粒になって消えていくトカゲの側にしゃがみ、興味深そうにそれを見守っているルイスの様子を、さらに興味深そうにセタが見守った。

「消滅、するんだな」

「あ?」

「敵。…モンスター?」

「グロテスクに再現されるよりはいいんだろ」

「攻撃してきたけれど」

「ああ」

「避けようと思えば避けられた」

「避けなかったのか?」

「いや、避けた」

トカゲに襲われたとき、ルイスは普通に避け、空気中の水蒸気を凍らせるイメージを脳内に浮かべ、それを矢の形にしてトカゲを狙ったのだ。それらが発生したのは一瞬で、どのように動いたか…という詳細は、ルイスには分からなかった。それを説明すると、セタは「ああ」と虚空を眺める。何かしら考えてから、ルイスの深く被ったフードを見下ろした。

「避けて怪我しなかったんなら、別にいいだろ?」

「…なるほど」

ルイスは、ふむ…と小さく唸って考え込んだようだ。それを見ながら、再び楽しげにセタが笑う。「それなら…」と続けた。

「それなら、俺とやってみるか」

「やらない」

即答だ。セタは初めて機嫌を悪くしたようで、顔をしかめてむっとした。

「なんだ、つまんねえな」

「戦闘をしに来たわけではないし、」

ルイスが自分の背後を軽く振り向いた。それにつられてセタも視線をルイスの後ろに向ける。その顔に、再びニッ…と笑みを佩いて腰から拳銃を抜き、銃身で己の肩をトントンと叩いた。もう片方の手はルイスの肩を掴んで後ろに退かせる。ルイスはそれに従って後ろに下がり、代わりにセタが前に出る。ルイスは後衛の位置を取りながら、言葉の続きを言い切る。

「…したいならば、いくらでもいるだろう」

「なるほどねえ」

2人の視線の先には、どこから現れたのか群れを為したトカゲ達が居た。ギュルギュルと鳴きながら、爬虫類特有の細い瞳孔を向けている。

「それじゃ、お手並み拝見といきますか」

セタが銃を構えて、ルイスが杖を持ち上げる。
片方は楽しげに、片方は特に何の表情も浮かべずに、こちらに向かってくる敵と対峙した。