エクスのクローズドテストが始まった。
テストプレイヤーには守秘義務が課せられ、その内容は明かされていない。だが、そういった類がどれほど守られるのか。表立って騒ぎにはなっていないが、多少きなくさい情報サイトにアクセスすれば、「憶測」という形で様々な情報が飛び交っている。
それによると、このエクスの世界はテストプレイヤー全員が1つの同じ世界を共有しているわけではない…ということだった。1つの世界を共有している人数は異常に少ないらしく、多くて10人程度らしい。エクスのIDに番号が割り振られているが、その前4桁が世界の番号を示しているのではないか…という勝手な予測まで現れた。それによれば、世界の数は。
「…0512?」
自分に与えられた小さな部屋で端末の画面を覗き込んでいたアンリは、ふーん…と溜息を付いた。椅子の背もたれに身体を預けて、画面をもう一度見る。そこには、若干いかがわしい類の情報サイトのレイアウトが表示されていて、話題はもっぱら「エクス」についてだった。
自分のエクスID…便宜上、そう呼ばれている…の上4桁が0512。情報サイトによれば、それが世界の番号を示している…という。それならば、最低でも512個もの世界が交錯していることになる。
「いくらなんでも多くねーか?…どういう仕組みになってんだよ」
もちろん、アンリ自身もエクスのテストプレイヤーだ。誰もが羨むその権利を孤児院に住む15歳の悪ガキが得ていると知れば、抽選から外れた者はどれほど悔しがるだろうか。それを思うだけで、アンリの口元に皮肉な笑みが浮かぶ。それは15歳という年齢にしては大人びた笑みだったが、アンリはすぐにそれを引っ込めた。扉の外に人の気配がしたのだ。端末の画面を別のサイトのものにして振り向く。
ノックの音がした。
返事をして促すと、扉が開いてコーチョーが顔を出した。
「なんだ、コーチョーかよ」
「なんだ、とはなんですか。なんだとは」
「ん。…どうかした? コーチョー」
「アンリ…、時計の金具ですが、どうも簡単には直らないようです」
「えっ…? んあー、どっか修理に出さなきゃだめ?」
少しだけアンリの表情が沈んだ。孤児の自分には、時計の金具を縮める程度の修理に出すお金は無い。その様子にコーチョーは苦笑して、首を振った。
「まあ、今のアンリに合わないだけですから無理に直す必要も無いかと思いましてね」
「あ、そっか」
「でも、まあ、時計を見るようになるのはよいことです。あの懐中時計は持っていてかまいませんよ」
「マジで? ありがとうな」
ニカッと笑って頷く。
アンリの住んでいる孤児院の経営を引き受けているのは老いた紳士で、子供達からは「コーチョー」と呼ばれている。雰囲気や風貌、口調などがまるで「校長先生」のようだ、という意味で、「コーチョー」だ。コーチョーはアンリが机に座っている様子を見て、穏やかな眼差しで首をかしげた。
「珍しいですね、アンリが端末に向かっているとは」
「なんだそれ。俺だって勉強するときくらいあーりーまーす」
「勉強していたのですか?」
「べっつに。なあ、コーチョー」
「はい?」
「コーチョーって、ヴァーチャルリアリティ技術とか研究してたって言ったろ?」
コーチョーの得意分野は「人工現実」や「複合現実」といったような、人間が感じる仮想の現実世界の構築について…だったと聞いたことがある。
「正確には、人の感じる知覚情報を研究していましたが、それが何か?」
アンリは、「んー」…と腕を組んで、再び背もたれに深く身体を預ける。古い椅子はギシ…と音を立てて斜めに傾いだ。こうして、アンリの背もたれ癖がついていくのだ。アンリはそんな姿勢のまま、言葉を選んだ。
「人工現実で、相当大量の世界を作るのって効率悪い?」
その言葉にコーチョーは僅かに瞳を見開いて、出来の悪い生徒が急に賢いことを言い出したような表情を浮かべた。その表情をゆっくりと、老いた穏やかな笑みに変えて首を振る。
「いいえ、それほど効率の悪いことではありません」
「なんで?」
「それぞれに見える景色を変えてやれば、理論上はいくつでも世界の構築は可能です」
「同じ空間に居ても、人によって見えてるものが違うってこと?」
「そう。互いに見えませんから、認識出来ません」
「ふーん」
アンリが分かったような分からないような微妙な顔になる。もともと勉強が好きな方ではない。その様子に苦笑しながら、コーチョーは締めくくった。
「ですが、普通はしませんね」
「なんで?」
「誰に何が見えるか…という、個人単位の厳密な管理が必要ですから」
「少人数なら可能ってこと?」
「人数と世界の広さと…それから、目的によりますね」
「目的…?」
「その世界で何をさせたいか…という、目的です。例えば、大量の人数をサービスに参加させつつ、人数が少ない状況で活動させるとか」
アンリはその言葉には何も返さず、再び「ふーん」とだけ言った。コーチョーがアンリのこげ茶色の髪をクシャ…と撫でて、軽く叩く。
「ほどほどになさい」
「何が…?」
その質問には答えずにコーチョーはアンリの部屋を出た。頭をなでられたのが子ども扱いされたような気がして癪に障ったが、すぐに視線を画面に戻した。だが、もともと見ていた画面は開かず、唇を尖らせて考え事をする。
世界で何をさせたいか…か。
何をするか、ではなく、何をさせたいか…?
一瞬、アンリの喉の奥に何かが引っ掛かったような気がしたが、それが何かは分からなかった。
****
「知ってるか? エクスの世界。今分かってるだけで、700あるんだってよ」
「ああ、あのIDの前4桁ってやつ? ほんとかねえ」
「でも、同じ世界にログインできてるやつって、10人前後なんだろ。異常に少なくねーか?」
ファルネ・アオサキの勤めるオフィスの休憩所で、男性社員がそのような会話を繰り広げている。その会話を耳に挟みながら、ファルネはエレベータのボタンを押した。待つ間、携帯の端末を操作してちらりとその画面を覗く。
エクスの世界の情報は、このような携帯端末でアクセスできるレベルの情報サイトにも掲載されるようになった。守秘義務とは一体何ぞや…という状態だが、それも今の時代ではいたし方の無いことなのかもしれない。守秘義務は課せられているが、規約上、社会的制裁は無く、人の口に鍵は掛けられないのだ。
誰かが後ろに立つ気配がして、ファルネはさりげなく端末の画面を消してケースに入れた。瞳を伏せて、先ほど耳に入ってきたエクスの世界の話題に、少しだけ意識を傾ける。
世界に10人前後。
…世界がどれほどの広さで、どのような位置にログインしたのかにもよるが、たまたまあの世界で誰かに会えた…というのは運がよかったのだろう。触れた感触も話した感じも、それは人との接触以外の何者でもなかった。
0512…というのが、彼女のプレイヤーIDの前4桁である。
「よう、アオサキ。今日定時帰り?」
男性社員に話しかけられて、ファルネは俯いた顔を僅かに上げた。声を掛けてきたのは、確かファルネの同期だ。名前は
「ナガセ君?」
だったっけ。…と言いそうになって、かろうじて押し留まる。同期といってもあまり深く付き合ったことが無く、社員の名前と顔が一致しないのだ。どのような人かもよく分からない。かろうじて、少し軽そうな雰囲気だったな…と覚えているくらいだ。呼ばれたナガセは、人懐っこそうな笑みを浮かべてファルネの顔を覗き込んだ。その視線から逃れるように、僅かに身を退いて瞳を伏せる。
「そのつもりだけど」
「だったらさ、今日飲み行かね? うちらの部署の若手で、行こうぜって話になってんだけど」
ファルネは少しだけ顔を上げて、怪訝そうに首を傾げた。眼鏡の下からナガセの表情をちらりと見上げ、再び俯いて首を振る。
「折角だけど、ごめんなさい。用事があって」
「あー、そっか。んじゃ、また誘う」
その言葉には返答せずにいると、エレベータがやってきた。ナガセが先に入ろうとしたが、ファルネの方が一歩早かった。開くボタンを押して、ナガセを待つ。先を越された風な微妙なナガセの表情には気付かず、ファルネは少しだけ顔を上げた。
「40階?」
「ああ」
2人並んで、40階に到着するのを待つ。その間、硝子越しの外に視線を向けているファルネにナガセが話しかけた。
「なあ、アオサキもエクスって知ってる?」
世間話のつもりなのだろう。思いがけずに出たその話題だったが、ファルネは表情を変えずに少しだけ顔を上げた。
「ええ。名前くらいなら」
「有名だもんな」
「どうかしたの?」
「いや、別に。俺はああいうのやらねーからよく分からないんだが、何が面白いのかなーって」
ファルネは顔を上げたまま、眼鏡越しの視線をナガセに止めた。初めて合った視線に、世間話の風から少しだけ身体を傾けてナガセもファルネを見る。少しだけ視線を移ろわせて、ファルネは言葉を選んだ。
「たとえば、…どうしてもこちらでは出来ないことをしたい、とか、こちらでは見られないものを見たい…とか、そういう動機なんじゃない?」
軽薄なナガセの雰囲気が、少し真面目なものになってまじまじとファルネを見た。余計なことを言った…という風に苦い顔になったファルネが、その視線から逃れるようにまた俯く。ナガセが追いかけるように、言葉を繋いだ。
「ああいうの、やったことあるのか?」
「あー…。えっと、弟が興味あって、好きだったから」
「アオサキ、弟いたんだ」
「ええ」
少し言葉を交わして和らいだ雰囲気がまた頑ななものになり、いつものファルネの様相になった。ナガセもそれ以上は言葉を掛けず、沈黙する。エレベータの中は、目的地を待つ独特の、余所余所しい空気になってやがて40階に辿りついた。
今度は、ナガセが「開く」のボタンを押す。視線で先に行け…とファルネを促した。
ファルネもナガセもオフィスに入り、いつもと変わらぬ仕事に戻っていく。