aix story

009.outside:カフェテラス・孤児院

シナガワエリアオフィスの1階のカフェテラスで、定時後、ファルネ・アオサキは小さな端末を開いて何事かを操作している。時折忙しなくキーを叩き、叩いては画面を見つめる。折角の綺麗な庭にも背を向けて、眼鏡の下の表情を時折真剣に揺らしていた。

運ばれてきた紅茶に手を伸ばし、喉を潤す。

端末に表示されているのは、エクスの世界について騒がれている掲示板だ。あれからログイン可能な世界は半分にまで減った。どのような基準かは分からないが、運よく自分がログインしている世界はまだ残っているらしい。世界が減る…ということは、必然的にプレイ可能な人数も減るということだ。だが、掲示板などの情報の発信源は規模の縮小は見せなかった。現役プレイヤーとかつてのプレイヤー、そして、それらを見守るギャラリーとで、今後のサービスの予測や、現在世界で何が行われているか……などの情報交換が活発だ。

現在目立っている話題は、「洞窟の存在」である。

言うまでもない、あの洞窟のことだろう。

出回っている情報によれば、既にあの奥にいるモンスターを倒した…というプレイヤーもいるようだ。どんな戦法を取るべきか、そもそもどのようなモンスターなのか、調べてみようと思ったが世界によってバラバラらしい。巨大な虫であったり、石で出来た怪物であったり、いろいろだ。共通するのは、エンカウントしたプレイヤー全員がその討伐に成功していること、そして、モンスターを倒した後、アイテムが取得できるらしい、ということだった。

「アイテムね……」

ファルネは画面から目を離して、眼鏡を外した。カタンとそれをテーブルにおいて、瞳を伏せ、眉間をぐりぐりと揉み解す。恐らくモンスターとやらは倒せるだろう。アイテムというのが気になるけれど、それは今日ログインすれば分かるはずだ。

「アオサキ」

急に呼ばれて、ファルネは瞳を上げた。眼鏡を外しているから、誰に呼ばれたのかよく分からない。きょろ……と周囲を見渡してから、首を傾げて眼鏡を掛けようとしたら目の前に誰かが座った。

「あー、ストップストップ」

「ナガセくん?」

「あたり。眼鏡掛けるのちょっと待った」

「……」

ファルネが眼鏡を掛けようとするのを止める声が聞こえる。一瞬手を止めたが、小さく息を吐いてファルネは眼鏡を掛け直した。眼鏡ごしに目の前の同僚を眺めると、残念そうな表情を大袈裟に浮かべるナガセがいた。

「何か用?」

「待ったって言ったのに」

「眼鏡を掛けないと何も見えないのよ」

用件を聞く声を軽く無視されて、ファルネは困ったようにため息を付いた。

目の前に居る同僚はナガセといって、ファルネの同期だ。よく知らない。だが、先日エレベーターでいっしょになってからというもの、何かと声を掛けてくるようになった。理由はよく分からない。正直、人と話すのも関わるのも苦手なファルネの、さらに苦手とするタイプだ。大袈裟な表情、快活な声、誰とでも仲良くなれる言葉の選び方。何もかもがファルネと異なるし、親しげな口調は距離感を図りかねる。

あの人といる時とは全く違う。

ふとそんなことを思って、馬鹿げたことをと苦笑した。

違うなどと当たり前だ。「あの人」は、エクスの世界でだけしか会うことの無い、言ってみれば実体の無い存在だ。今この時に思い出すなどバカバカしい。

ファルネは俯いて紅茶のカップに口を付けた。沈黙が続く。向こうから何かを言ってくれなければ、何を話せばいいのか分からない。

「掛けない方が、美人なのに」

しかしナガセは沈黙など気にしない様子で、しばらく、じ……とファルネを見ていたが、当たり前のようにさらりと言った。こういう台詞を詰まらずに言えるところが、ナガセらしい。ファルネは言われた言葉よりもナガセの人物を評して、盛大に怪訝な顔をした。

「ナガセ君が眼鏡掛けたほうがいいんじゃない?」

「何それ。別に俺、嘘は言ってないぞ?」

「何か用?」

言われた言葉にうろたえるでもなく、ありがとうと微笑むでもなく、皮肉で答える自分は可愛くないなと、心の中でファルネは苦笑した。だが、表向きの表情には何も浮かべず、困ったように首を傾げただけだ。

「用が無ければ話しかけちゃいけないのかよ」

やっぱり対応に困る。

困ったような表情を浮かべるファルネをまじまじと見ると、ナガセが口元を緩めた。

「なあ、今夜は暇?」

「暇じゃない。今日はもう帰らなきゃ」

「あー……いっつも忙しいんだな」

ナガセはいかにも、残念という風に身体を逸らして背もたれに体重を掛けた。動きがいちいちオーバーで分かりやすい。世の中の大半の人は、こうなのだろうか。ファルネは帰宅の意図を明確にでもするかのように、端末を畳んだ。その動きを目で追いかけながら、僅かにナガセが身を乗り出す。

「じゃあさ、いつなら大丈夫?」

「どうして?」

「どうしてって……アオサキと飲みに行ったこと無いだろ? 折角同期なのに」

「同期は他にもいるでしょう。別に私が行かなくても……」

「いーから。俺、しつっこく聞くから。また考えといて」

悪戯を仕掛ける前みたいな子供っぽい表情を浮かべて、ナガセは席を立った。立ち去るナガセの背を見送りながら、ファルネは今度こそ深く溜息を付く。はっきりいって、面倒だ。どうして放っておいてくれないんだろう。

ファルネは少しだけ物思いにふけるように瞳を伏せたが、すぐに顔を上げる。仕舞い支度をして席を立った。今日は帰宅前に寄らなければならないところがあるのだ。

****

「今日は本をありがとう、ファルネ」

「いえ……。あっても保管が難しいからと、購入してもすぐに手放す施設が多くて……」

「そのように聞くね。もったいないことだ」

「本当は一気にたくさん持ってこられればよいのですけど」

「そんなことを気に病む必要は無いんだよ。こうして訪ねてきてくれるだけでうれしいからね」

ファルネは出された紅茶に気持ちばかりの口を付けて、カップを置いた。目の前の人物から掛けられる優しい言葉に瞳を伏せる。ファルネが勤めているオフィスでは、今ではあまり取扱の無い紙媒体の書籍も扱っている。そうした紙媒体の書籍をさまざまな施設に卸しているが、電子的な書籍が揃っている今では、懐古主義的に購入したがる顧客しか居ない。そのような顧客も、保管場所に困ってすぐに手放してしまう。

ファルネは、こうして顧客が手放した書籍を、自分が世話になった施設に寄贈する橋渡しを行っていた。子供には実際に触れられる紙の手触りと絵柄は受けるらしく好評だ。ただ、何度も読まれて落書きされたりもしているらしく、それについては別段気にしていない。傷むのは悲しいが、楽しく読まれるのに越したことは無いのだから。

「もう丁度10年になるか」

「コーチョーはお変わりありませんね」

「年寄りは、それだけが取り柄だからね」

「そんなことはないでしょう。私も10年、まるで変われていません」

ここはコーチョーの経営する孤児院で、実は10年程前にファルネも短い時間だったが世話になったことがある。世話になったことがある、ということは、ここがどのような子供たちが集まっているかを知っているということだ。コーチョーは老いた眼差しを優しく細めて、ゆったりとファルネを眺める。

「まあ、無理に変わる必要もないでしょう。でも、あまり自分を傷つけるのはよくない」

「分かっています」

ファルネがそれだけを言うと、心地よい沈黙が落ちた。ナガセと話しているときの…いや、同僚と話しているときの沈黙は苦痛だったが、ここにいるとそんなことは微塵も感じない。相手がこちらに踏み込んでこないことを知っているからだ。信用の問題なのだろうか。いや、単に合わないだけだろう。ファルネが合わせようとしないだけだ。それができれば、もっと器用に生きられるだろうに。

思い出したように、ファルネが顔を上げた。

「そういえば、コーチョーはルーノ研究所にいらしたことがありましたね」

「もう15年も前の話だ。ここの施設を任される前のことだからね」

「最近話題になっている、ヴァーチャルリアリティサービスをご存知ですか?」

「ああ。この老人の耳にも入ってきている位だから、随分話題になっているようだ」

軽く頷きながら、コーチョーが答える。
世間話のついでに振った話題だ。ファルネは姿勢を僅かに正した。

「これは、そのサービスの掲示板で話題になっていた事なのですが……」

わずかに嘘をつく。

だが、それを表情に出さないままファルネは訊ねた。

「人工現実の世界で感じる時間と、通常感じる時間と、時間の進み方が違う……というのは当然のことなのでしょうか」

****

「なあ、コーチョー! ちょっと聞きてーことがあるんだけど」

アンリはコーチョーが執務室にしている部屋の扉を元気よく開けた。部屋に入ると同時に、一気に畳み掛ける。

「アンリ」

「ヴァーチャルリアリティのフィードバックのことなんだけど……って、わり。気付かなかった」

たしなめるようなコーチョーの声と、驚いたように戸口を振り返ったもう1人の人物にアンリはすぐに気が付き、言葉を止める。まずった、客がいたか。がり……と頭を掻いて、部屋を出て行こうとすると、その客人が立ち上がった。女性のようだ。眼鏡を掛けていて、少し俯き気味の表情をしている。その女性が、アンリのほうを見ると、ごく自然に笑った。その表情を見て面食らう。いつも相手にしているのは自分よりも随分と年下のガキくさい女子ばかりで、こうした落ち着いた年齢の女性に接触する機会は少なく、要するにどう反応していいのか分からないのだ。少しだけ頬をそめて、どうも……と軽く会釈する。出ていくにも出ていけず、なんとなくその場にとどまる。

女性がコーチョーに向き直り、一礼した。

「お話していただきありがとうございました。またいくつか集まったら持ってきます」

「ああ、よろしく頼むよ。そうだ、紹介しておこう。アンリ」

コーチョーがアンリを手招きした。面倒くさげに仏頂面をしてみせて、アンリがコーチョーの横に並ぶ。

「ファルネは見たこと無いだろう。ここの施設で一番年上の、アンリだ。アンリ、ファルネさんはここにいつも君たちが読んでいる本を持ってきてくれているんだ」

コーチョーが施設の人間を誰かに紹介するのは珍しいことだ。アンリもファルネも同じことを思ったのだろう。気持ちが通じ合ったわけではないものの、2人同時に首を傾げてコーチョーを見た。遠慮がちにファルネが瞳を上げて、アンリに頷く。

「そう。よろしく、アンリ君」

「お、おう」

アンリから見ても、ファルネはそれほど積極的な女性には見えなかった。さきほど笑いかけた表情は今はなく、少し戸惑ったような消極的な顔をしていた。それだけに、最初の笑顔が妙に印象に残る。ファルネはコーチョーに再び一礼して、アンリにもまた小さく礼をした。

「では、コーチョー。また来ますね」

「ああ、元気で」

「はい。アンリ君も、またね」

話しかけられたアンリも頷いて、出て行くファルネに道を空ける。パタンと閉ざされた執務室の扉を見送って、うながされてソファに座った。

「あー、わりぃ。お客さん来てたんだな」

「いいんですよ。アンリ。それで、聞きたいこと……というのは?」

「ん。あのさ、あー…。」

言葉に窮しているアンリを待つように、コーチョーがソファを立ち、ファルネに出していた紅茶のカップを下げる。その後姿を追いかけながら、ポツリと言った。

「ヴァーチャルリアリティの世界に居て、向こうで感じる時間とこっちで進んでる時間が、すごーく違う……ってこと、よくあることなのかな?」

コーチョーが不思議そうに振り返り、やさしい眼差しになった。つい先ほど、ファルネからも似たようなことを問われたばかりだった。最近一番話題になっていることなのかもしれない。コーチョーは相変わらず、生徒を見守るような瞳だ。少し考えて、ふむ……と唸った。

「気がついたら3時間過ぎていた、ということは、ヴァーチャルリアリティの世界でなくても、頻繁に起こりうることでしょう」

「え、ああ、うーん。そういう感覚じゃなくて」

「例えば?」

「向こうの3時間が、こっちの10年だった……とか。それくらいの」

「ふむ」

再び唸って、じっとアンリを眺めた。

「出来なくも無いでしょうが、それくらい逸脱した感覚になると危険ですね」

「危険?」

コーチョーが口元から穏やかな笑みを消して、僅かに眉をひそめる。息を吐きながら、珍しく苦い声になった。

「戻って来れなくなる」

「え?」

「[death due to sensory feedback]を起こします」

アンリの目が驚いたように見開かれた。くらくらと、焦ったように首を振る。

「だって、あれはフィードバックすることによって死ぬ……んだろ。フィードバック出来なくて、戻って来れなくなるとか、それは……」

「アンリの言うとおりです。人工現実におけるフィードバックというのは、もともと感覚が肉体に戻ってくる、という意味です。そして、それは戻ってきた感覚によって死ぬだけでなく」

コーチョーは一度そこで言葉を切った。アンリの表情を少し伺い、瞳を伏せる。

「感覚が戻って来れなくなることによって、死ぬ場合もあるのですよ。私たちは、それらも含めて[death due to sensory feedback]と言っていました」

[death due to sensory feedback](感覚的フィードバックによる死)と呼ばれているものは、一般的には、ヴァーチャルリアリティの世界において、死んでしまうほどの事象を体験し、その感覚が肉体にフィードバックしてしまい、現実世界においていわゆる「ショック死」をしてしまうことだと考えられている。

だが本来は、それだけでは無い。

時間感覚の違いによって、長い時間フィードバックしなくなる。現実世界の身体を放置してしまう。 当然、その身体は目覚めなくなる。そして、フィードバックが本能的なものも含めて完全に断絶してしまえば、身体を動かす機能もなくなる。機械的に動かさなければ、それは死だ。

「つまり、人工現実の世界で死ぬだけでなく、何らかの理由で戻って来れなければ、……死亡してしまう……ということですね」

その説明を聞いて、アンリが色を失なった顔で下を向いた。それを見て、コーチョーは説明をやめて名を呼んだ。

「アンリ。大丈夫ですか?」

アンリがハッと顔を上げた。今にも泣きそうな顔をしたのは一瞬で、ぶんぶんと頭を振って決まり悪そうに頭を掻く。

「あー、ああ、別に、大丈夫」

「ですが、通常はそのようなことは起こりません。人工現実の世界を構築する場合は、必ずシステムによる強制ログアウトの仕組みが付与されているはずです」

「うん……」

部屋に入ってきたときとは明らかに元気を失なった様子で、アンリは立ち上がった。

「アンリ……」

「ってか、大丈夫。気にしてないから」

「アンリ、貴方は無理に向き合おうとしなくてもかまわないのですよ」

「そういうんじゃねーって。ただ……」

アンリは奥歯をかみしめた。

向き合うとか、そうではなかった。[death due to sensory feedback]なんかどうでもいい。死因なんてそんなのはどうでもよくて、本当の本当に知りたいのは、どうして人工現実の世界……なんてものがあって、人はそこにログインしてしまうのだろうか……とか、そういうことだ。

だが、アンリはそれをコーチョーにどのように説明していいか分からなかった。

「じゃな。コーチョー。忙しいのに、ありがとな」

ヘラ…といつものふざけた笑顔にもどって、アンリは執務室を出た。パタンと閉じられた扉を見送って、残されたコーチョーは溜息をつく。

コーチョーは部屋の本棚に近付き、一冊の本を手にした。パラパラと捲って、挟んである一枚の写真を手に取る。自分を中心に、何人かの若い人間が快活な笑顔でこちらに向かって笑いかけていた。その中の数人はこの世にいない。

自身はもう現役から退いた身だ。厳しい研究の道ではなく、穏やかに見守る地位を選んだ老いた身だった。確かに、今、何かが動いているのだろう。それが健全な道であるか…あるいは、若者に健全な感覚を育めばよいのだが…と、ただ願うばかりである。