真っ赤な胸を押さえたフウカは、見たこともないような憎しみの形相を浮かべている。そしてその憎しみの瞳は、ひたすらルイスに向けられていた。
「フウカ……?」
「ど、う、し、て、セタ……」
言いながら、ごぽりと口から朱が吐き出される。
フウカが一歩踏み出した。沈黙しているセタの、ルイスを押さえる手が強くなる。セタがルイスを守ろうとしている様子を見て、さらにフウカの憎しみの色が濃くなった。
「どうし、て、セタ、お、にい、さま」
「おにいさま……?」
聞こえた単語と自分達の状況が噛み合わない。
だが、構わずにフウカはさくりともう一歩踏み込んだ。
「どうして、そんな……女とォォォァァァァ!!」
それは獣のような叫び声で、悲しみや憎しみや絶望が混ざっていた気がした。フウカは少女とは思えない予想に反した早さと強さでトンッと地面を蹴り、一気に2人に向かって跳躍する。右手には緑色の石のついた短剣を持っていて、真っ直ぐに2人目掛けてそれを振りかざした。
2人を目掛けて……しかし、その目は一心不乱にルイスを狙っていた。
ただ短剣を振り上げて突進してくるだけの拙い攻撃だ。だが、ルイスにはそれを避けきれる自信が無かった。攻撃はいつものように認識されず、どうすればいいのか見当も付かない。憎しみそのものをぶつけられて、傷ついてしまったかのように動けなかった。
しかし、その短剣はルイスまで届かない。
当然だ、今、ルイスとフウカとの間にはもう1人……セタがいる。セタは一切の躊躇い無く身体を捻り、捻った勢いのまま長い足をフウカの腹に叩きこんだ。肉を打った鈍い音がしてフウカの小さな身体が折れて飛んで行く。
「クソガキが……なんのつもりだ」
チッと舌打ちしたセタがルイスの手を引き、倒れこんだフウカのもとに歩いていく。ピクリとも動かなくなったフウカに、先ほどまで憎しみを向けられていたことを忘れて、ルイスが前に出て駆け寄ろうとした。その肩を強く掴み、慌てたようにセタが止める。
「おい、まだ近付くな、ルイス……」
「だけど……」
今はローブを被っていない、ルイスの潤んだ唇が震えている。セタが後ろから抱き寄せてルイスを退かせようとすると、カッ……とフウカの瞳が開いた。胸にいまだルイスの短剣を刺したまま、右手には自分の短剣を持って、起き様にルイスの脇腹を狙う。
「ルイスゥゥゥ!!」
「フウカ……!」
そのままセタに抱えられるように地面に引き倒される。同時にセタは片方の手で腰から銃を抜き、指が引き金に掛かった。次に来る銃声とその反動を覚悟して、セタの腕の中でルイスが身体を強張らせたが、なぜか聞こえない。代わりに聞こえたのは、憑きものが取れたような途方に暮れた少女の声だった。
フウカは短剣の切っ先を2人向けて、手をぶるぶると震わせている。
「や、め、て。こんな、こと、したくない。……セタ……ルイス……」
セタの足がギシリと土を踏みしめ、彼が発砲をためらったことを知る。
「くそ……どういうことだ」
「フ、フウカ……?」
「ルイス……セタ……たすけ……」
泣きそうな表情を浮かべたフウカの表情に、先ほどの憎しみの表情を浮かべたフウカの顔が、壊れた映像のように重なってぶれた。次の瞬間には、引きちぎられるようにフウカが2人に分かたれ始めた。2人のフウカは片方は口汚く、もう片方は泣きじゃくるようにお互いに言い争っている。まるで一人二役の芝居を見ているようだった。
「じゃ、ま…なのよおおおおお、あんたはアァァァァァ!!」
「たすけて、たすけてぇ……」
ルイスはセタと共に立ち上がり目の前で起こっている風景に目を奪われた。
邪魔・助けて……という2つの単語が、スクラッチするレコードのように何度も何度も重なっては響く。やがて泣きじゃくるフウカが、憎しみに満ちたフウカから引きちぎられていき、ずるりと後ろへと倒れて行った。倒れていく方のフウカの胸にはルイスの短剣が刺さったままだったが、切り離していくフウカの身体には傷一つ無く、まるで脱皮をする美しい虫のようだ。
いまや完全にフウカは2人のフウカになっていた。
ルイスとセタの前に居るフウカは今までのフウカではなく、今までのフウカはルイスの短剣を胸に納めたまま死んでいこうとしている。
「……フウカ!」
「行くな、ルイス!」
セタがルイスを押さえた。短剣を刺したままの血塗れのフウカにルイスの手は届かず、やがてドサ……と地面に倒れる。倒れたままずるりと地面の中に沈みこみ、落ちて、消えてしまった。
「フウカ……?」
ぽつりとルイスがつぶやくと、残されたフウカが「はっ」……と笑った。
「あんな弱いバカ、死んでくれてせいせいしたわ」
「どういう意味だ」
「意味ぃ……?」
立ち上がっているフウカのドレスは、今は真っ黒に染まっている。憎しみにギラついた瞳はそのままに、先ほどよりは幾分落ち着いた態度で黒いドレスのフウカはニヤリと笑んだ。……いや、落ち着いているわけではないだろう。ただ、「余裕」に見える。
「意味なんてどうだっていい。……それよりセタから離れなさいよ、ルイス。殺すわよ」
「フ……」
言い返そうとしたルイスをセタの背中が隠して、吐き捨てるような口調で言う。
「……おい、クソガキが。なんの真似だ」
「セタ……ね、あんたも使えない。……再現率が5%だなんて失敗作もいいところ。やっぱり残りカスじゃそんなもんかしら」
「……ああ? どういう意味だ」
「教える前に、ルイスを殺してよ。セタ。その後で作り直してあげるわ。大丈夫よ、作り直されたら『また』何もかも忘れるから」
「作り直す……?」
言うだけ言うと、くるりとフウカは2人に背を向けた。虚空に向かって、フウカは何かを話し掛ける。
「J、聞こえる? 私から離れたフウカを殺しておいて、邪魔になるわ」
『了解しました』
その声に応えたのは、いつもログアウトを促す電子音の女性の声だ。即答に満足気に頷いたフウカは、その満足気な瞳のままルイスとセタを振り返った。少女の外見のくせに、まるで老獪な悪女のような笑みで宣言する。
「セタ。……早く殺ってちょうだい。私、ルイスの血が見たい」
そう言い残して、ふ…とフウカの姿が消えた。
****
ようやく訪れた静寂に、疲れたようにルイスがため息を吐く。ふるふると頭をゆっくり振って、背中を向けているセタを見た。
「セタ……」
「ル、イス」
「セタは何か知っているのか? フウカは、あんな、あれは……」
「……ろ、ルイス」
「え……?」
「俺から離れろルイス!!」
セタが叫ぶように言って、振り向きざまにバトルナイフを一閃した。ト、とルイスが一歩後ろに飛んでかろうじてそれを避けると、さらに手首を捻って、二撃目、三撃目がルイスの身体をかすめる。
「セタ!?」
なんとか攻撃を避けていられるのは、セタの斬撃がいつものそれより甘いからだ。セタはどんな敵を前にしても見せたことのないような、苦しげな表情を浮かべている。そして、その奥には攻撃を仕掛けている側とは思えないほどの、恐怖の感情もまたあった。
「ログアウト、しろ、ルイス」
「けれど、セタ……!」
セタが身をかがめ、ぐう…と獣が鳴くような唸り声を吐いた。ぐらぐらと瞳の奥が揺れている。一瞬ごとに変わる表情は、破壊衝動と理性とが戦っていた。ギリギリと歯を食いしばりながら、ルイスをじっと見つめている。
そんなセタを、放っておくことなど出来なかった。
「……セタ、さっきのフウカの?」
―――― ルイスを殺して
虫を殺して、とでもいうように、いとも簡単にフウカはセタに命令を下した。最初は何を言っているのだと思ったが、それは思いも掛けないほどの強制力で、今、セタを操ろうとしているらしい。それを悟ってルイスの背が冷えた。このまま放っては置けない。正気に戻って貰うには、どうすればいい。
「くそっ、身体が……ルイス、さっさと、ログアウトしろ!!」
再びセタがナイフを翻し、離れていたルイスと距離を詰めた。一度薙いで引き寄せ、避けたルイスの首筋を狙って一気に突く。斜めに一歩下がるとギリギリでそれを避け、しかし徐々に追い詰められてきた。
「ルイス!! ……た、のむからログアウトしてくれ!」
「いやだ、セタ! いや」
「くそっ……聞き分けろよ、我侭がっ!」
ルイスの足がとうとう井戸にぶつかり、後ろがなくなる。
動きが止まってしまったルイスに、セタの操られた瞳がはっきりと照準を定める。「……ルイス」 熱に浮かされたようにつぶやきながらセタはルイスの胸倉を掴み、その首筋を目掛けてバトルナイフを振り下ろした。
****
シュ、と風を切る音がして、バトルナイフに血が付着した。セタの眼前には、ぎりぎりまで引き付けて間一髪のところで避け…切れなかったルイスの頬が見える。
つう……と顎へと赤い液体が滴る。
僅かに横を向いたルイスの頬に、セタに切られた真っ直ぐな刀傷が生々しく朱を流している。黒に近い茶色い横髪がはらりと落ちて、頬の傷を隠した。
セタから殺気が消える。
代わりに、どこか焦ったような泣きそうな顔でルイスを掴んだ手を緩め、細い肩を抱き寄せた。セタのそんな表情を見た事が無かった。セタはいつも余裕で、不敵な顔をした男だったはずだ。
そのセタが、壊れ物に触れるようにルイスの傷の近くに指を伸ばした。
「……なんで、避けなかったルイス……、だからギリギリで避けるなといつも言っているんだ!」
語尾が激昂したセタの言葉を聴いて、ルイスがほっと安堵したように小さく笑う。さっきからずっとローブが脱げてしまっていて、セタにはっきりと顔を晒していた。黒い瞳は睫毛が長くセタを見つめ返していて、薄いしっとりとした唇が開く。
「血を、見たかったんだろ?」
それを聞いてセタが目を見開いた。途端に苦々しく吐き捨てる。
「だからって、お前! ……くそっ」
フウカは「ルイスの血が見たい」と言ったのだ。だから血を見せれば殺さなくても、命令を完了したことになるかもしれない。そう思って、ルイスはわざとセタのバトルナイフをギリギリで避けた。いや、避けきれないだろうことを見越して、ギリギリで避けなかったのだ。痛ましいものを見るように、セタの瞳が優しく切なげに細められた。
「女のくせに、顔に傷付けてるんじゃねえよ……」
女のくせに。
今、セタが見ている腕の中で泣き笑いの表情を浮かべている女。男の名前を名乗って、男言葉を使って、素顔を隠している。その声を聞くか、身体に触れるかしなければ女だとは分からないだろう。しかし、その顔、細い首、淑やかな声、柔らかな身体、それらは初めて会った時からずっと、女らしい女だった。何度触れても、いや、触れれば触れるほど、滑らかで柔らかくて優しい孤独な女だった。その女が、自分が乱心したせいで自分のナイフで頬を傷つけて…それなのに、笑っている。
『ログアウトの時間です』
システムの声が2人にログアウトを促し始める。その声に、ぎゅ……とルイスがセタの服を掴んで、見上げた。
「顔に傷のある女は嫌いか? セタ」
「そうじゃねえ。……そうじゃねえ、ルイス!!」
ルイスが寂しそうに苦笑した。その声に舌打ちして声を張り上げたが、重なるように、ログアウトを促す女声が聞こえる。
ルイス…と、小さくその名前を呼んで、せめて消える前に一度だけでも女の感触を確かめたくて、抱き寄せようとした時、無情にもセタの腕からルイスの温度が消えた。