aix story

018.past  :弟・姉・男

寝台の上でゴーグルを付けたファルネはゆっくりと覚醒した。探るようにゴーグルを外して脇に置くと、すう…と瞳を開く。

右頬に手を充てた。

そこには明るいところで見ると、うっすらと細い傷がある。ちょうど、あの時セタに切られた傷のようだ。だが、その傷はもっと年数が経っていた。昔の傷だ。

「セタ…」

目が覚めたファルネは、ログアウトの直前に見た男の名前を口にした。

気怠さを奮って起き上がると、軽く頭を振る。時計を見ると、23時5分を示していた。この5分が誤差なのか、意図的なものかは分からない。

考えることが多すぎた。

それでも、まとまらない頭で呆然と考える。

先に行ってしまったユリアナ、ラズ、そしてヴァーツ。ルイスを井戸から助けてくれたセタ、そのセタと一緒にいるところにやってきたフウカ。

突然、フウカがセタを「おにいさま」と呼び、ルイスのことを「あばずれ」と罵った。女のファルネには、あの時に見たフウカの感情をはっきりと理解できる。あれは嫉妬だ。フウカの言っていることが正しいのであれば、セタはフウカの「兄」であり、恐らく兄と2人きりで居たルイスを排除しようとしたのだ。嫉妬からくる憎しみゆえに。

セタはあの時、ルイスの腰に挿さっていた短剣をフウカに向かって投擲した。

その後、フウカは2人に分かれた。…今まで自分達が見ていたのと変わらない様子の水色のドレスのフウカと、セタを兄と呼びルイスを憎む黒いドレスのフウカの2人だ。そして黒いドレスのフウカは、なぜかセタを操ることが出来た……?

いや、セタだけではない。

黒いドレスのフウカはあの時「ジェー」という者に対して、恐らくもう1人のフウカの殺害を命じていて、いつもログアウトを促している電子音がそれに答えた。ということは、システムを操っているか、システムに対して何らかの権限を持っていることになる。

実際に自分達の知っているフウカが死んでしまったかは分からない。いや、それよりも「死」という概念があるのだろうか。そもそも、フウカは何者なのだ。まず普通のプレイヤーではあり得ない。

あり得ないとするならば、黒いフウカの命で動いたセタはどうなのだろうか。もしフウカが無差別に世界に干渉できるならば、ルイスを操ることも可能なはずだ。だが離れなさいと言われても、ルイスに対して強制力は感じ取れなかった。

「分からない、セタ……」

キッチンに行って冷たい水を飲み、頭を冷やす。いや、頭はとうに冷えていた。今はただ混乱している。

明日ログインすれば、何か分かるだろうか。

こんな混乱した状況で、次はセタに殺されるかもしれない。それなのにまだログインしようとしている、自分はどうしようもない思いを抱えている。胸の痛みを堪えながら、ファルネは寝台に戻った。

****

ファルネの弟は誰にでも好かれる天真爛漫な子だった。

ゲームが好きで、ファンタジーが好きで、物語が好きで、好きが高じて将来はそうした方向へ進みたいとぼんやり考えていたようだった。特に大好きなのがヴァーチャルな世界を体験しながらファンタジーを楽しむ事の出来るゲームだったが、当時既に[death due to sensory feedback]のために人工現実の技術が抑制されていることを、とても残念がっていた。いつか安全に楽しむ事の出来るゲームとお話を作りたいと、無邪気に笑っていた。

ファルネの家族は仲がよくて、ファルネ自身ももちろん家族の事が大好きだった。ただ、ほんの少し弟のことをうらやましいと思う時もあった。

弟よりもファルネは3つも年上で姉であるのに、自分はいまだに進みたい道もやりたいことも明確な趣味もない。ファルネは行く先々で「しっかり者ね」とか「大人しくていい子ね」と言われていたが、弟は「楽しい子ね」とか「明るくていい子ね」と評価される。それはもっともなことだと思って居た。けれど、ファルネと弟が一緒にいるときファルネがそそうをすれば「おねえちゃんなのに」とか「そそっかしい」と怒られるのに、弟が失敗すると「仕方が無いわね」とか「まだ遊びたいさかりだから」と頭を撫でられるのには、心のどこかがいつも痛んだ。ファルネがいいことをすれば「おねえちゃんだから当たり前ね」と言われ、弟がいいことをすれば「したの子なのにえらいわね」などと褒められる。そういった外側の評価が、ファルネは嫌いだった。

せめてもの救いは母と父だけはそのような評価をしなかったことだろうか。

家族といるときだけはファルネは安心して、弟と遊ぶ事が出来た。家族だけはファルネのことを分かってくれている。外に出ると弟の事が憎らしくなってしまい、そんな自分がとても嫌だったが、家族といれば弟のことは可愛くて大好きだとちゃんと思えた。だからファルネはどんどん内向的になっていった。

その事故が起こったのは、ファルネが16歳の時だ。

どうしても嫌だったが、家族で父方の祖父母に会いに行かなければならない時があった。その日は弟の誕生日で、ことさら弟を可愛がっていた祖父母がどうしても食事に招きたいと言ったのだ。一番ファルネと弟を差別するのがこの父方の祖父母で、ファルネはこの祖父母に会うのがとても嫌だった。父も母もなんとか断ろうとしてくれていたが、既に何度か訪問を断っていた経緯もあって無下には出来ず、結局は出かける事になった。

ファルネと弟とを差別する祖父母の言動はとても巧妙で、ファルネを心底貶めるわけではない。そのことが余計にファルネを傷つける。

それで、帰宅前に些細な事で喧嘩をしてしまった。

弟が祖父母に将来行きたい学校のことを話すと、応援すると褒めてくれたと、例の天真爛漫な笑顔でファルネに言ってきたのだ。ファルネに対しては「女の子だから普通のところでいいのよ」と……希望のところすら興味なさそうだったのに。

「資料を集めてきてくれるって、おじいちゃんの知り合いがいるんだって!」

「ふうん」

はしゃぐ弟に両親は苦笑して、いつもの祖父母のおせっかいを嗜めていたけれど、まだその学校へ弟が通うには5年も待たなければならなかったし、それほど意識してはいなかったのだろう。ファルネだけが険悪な気分になって、父の運転する車の後部座席で弟の話を適当に聞き流していた。

「ルーノを辞めちゃったのは残念だけど、俺、進学したら絶対、プロフェッサー・アキツのところに弟子入りしたい!」

「好きにすれば」

ルーノ研究所という弟が憧れていたヴァーチャルリアリティの研究所があり、プロフェッサー・アキツというのはその研究所の創立にも携わった人物である。この頃は既に引退していたが、ヴァーチャルリアリティという人工現実や感覚体験研究者の、第一人者といわれた人だ。

弟が話しはじめると、抑制が効かない。

「なあ。姉ちゃん聞いてる? 剣とか弓とかもかっこいいけどさ、俺が力入れたいのは魔法の設定なんだよね。それから架空の動物」

呪文の設定や縛り、詠唱は実際に口にした方が面白いかなとか、スキル方式にしてコマンド入力を簡素化するとか…夢中になって自分の夢を語る弟に、ファルネはいつになくイライラが募った。

「うるさいわね、そんなの叶うわけないじゃない! リアルなヴァーチャルなんて人を死なせるだけで、実現できるわけないでしょ!」

「……なんだよそれ!」

弟は膨れて黙り込んだ。ファルネも黙って、窓の外に視線を向ける。前に座っている両親が苦笑して「喧嘩はやめなさい」などと優しく言う。

どれほど重苦しい時間が流れたか。

ファルネは、そろそろ弟にあんな八つ当りめいた返事をしたことを後悔し始めていた。今日は家に帰ったら、一緒にオフラインのゲームをやろうと約束していたのに気まずいままなのはよくないし、出来れば仲直りをしたかった。ごめんねって、一言謝ろう。それでまた、元の通り仲の良い姉弟に戻る事が出来るはずだ。

それなのに、突然だった。

謝ろうと顔を上げた瞬間ブレーキの音が響き、ファルネの視界は光で真っ白になった。

母親の悲鳴が聞こえる。
父親がファルネと弟を呼ぶ。
悲鳴に何かが掻き消される。

悲鳴
悲鳴

悲鳴

ぐしゃりと何かが潰れる、生々しい音。

「おとうさん、おかあさん!!」

必死で叫んだ。でも叫んだ自分の声すら、聞こえない。

弟の名前も叫んだ。叫んで、叫んで……。

「…ルイス……ルイスッ!」

叫んだ瞬間、喉が裂けたかと思った。しかし裂けたのは喉ではなかった。眩暈がするほどの痛みを全身に感じて、ファルネの世界はそこで閉じたのだ。

****

どれだけ眠っていたのだろう。

セタやフウカのことがあってとても眠れないと思っていたのに、寝台に横になっていたらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。よほど寝入りの気分が悪かったのだろう。いちばん見たくない、いちばん大嫌いな夢を見た。

あれは10年前にファルネとファルネの家族に降りかかった事故だ。
父と母と弟のルイスが死んだ。

相手は飲酒による居眠り運転の大型貨物の車両だった。対向車線とは頑強な境界で区切られていたのに、それを突っ切って反対車線に突っ込んできてしまうほどのスピードと馬力と重量で、ファルネらの乗っていた車を吹き飛ばしたのだ。ファルネの乗っていた車は道路の障壁と大型車両に、斜めに挟まれるように潰された。

斜めの角度の開いたところにいたファルネだけが運よく……いや、とても運よくなどとは思えなかったが、ともかく助かった。ただ、右の足と右の頬をひどく怪我した。右足は膝下を挟まれ、右頬は飛んできた破片でざっくりと切った。

事故当初は他人の同情という名の好奇に晒され、まだ16歳だったファルネは精神的に参っていた。そんな中、父方の祖父母がファルネを引き取ろうとしたがファルネは断った。かといって1人でやっていくという自信も無く、治療を受けていたシロガネ・ビレッジという病院で相談して施設を紹介されたのだ。

いくつかあった施設の中から、アキツという紳士が所長を勤めている孤児院が目に止まった。ルイスが憧れていたあのプロフェッサー・アキツのことであるらしい。アキツはルーノ研究所を引退してから後、孤児院を経営していたとのことだった。ファルネは高等教育課程を卒業するまでの期間、そこに世話になった。

もともと内向的だったファルネは、当然のことながら事故後、さらに内にこもるようになった。誰に会いたいとも思わず、何をしたいとも思えない。治療が途中の時は、まだまだ不自由な足に慣れずにひきずってしまうし、学校では運動は禁じられている。頬の傷を興味本意で覗きこまれるのも嫌で、ファルネは横髪を伸ばして俯くようになった。

そんなファルネにアキツは……当時からすでに「コーチョー」と呼ばれていた男は、同情や哀れみの態度は一切見せなかった。ただ気遣いの態度は見せた。ファルネが一日中泣いても、一日中お墓の前に座っていても何も言わずに守ってくれた。コーチョーに応対することによって、ファルネは少しずつ他人と会話することを覚え、社会に復帰できるようになった。

ただ、どうしても内向的な性格は直せなかった。

足はなんとか治り、日常生活では走りさえしなければ周囲に気付かれることは無い。頬の傷も痕がうっすらと残りはしたが、化粧をすれば分からないほどになっている。それでも俯きクセは直らなかったし、誰かと深く関わる事ができなくなっていた。仲違いしたままルイスが死んでしまい、自分が生きている事がうらめしかった。もう2度と謝る事の出来ない事実が、怖くて辛かった。

ぼんやり考え事をしていると他人は放っておいてくれない。
楽しんでいる時に、ふと罪悪感を感じてしまう。その時に表情が翳るのだろう、「つまらなかった?」と聞かれて、どう答えていいのか分からない。
だから、他人を遠ざけた。

しかし、こんな自分であっても、「一緒に居ると楽しくない」なんて言われると一人前に傷付くのだ。わざわざ言って離れて欲しくなかった。離れるのなら、ただ黙って離れて行ってほしかった。それが出来ないなら近付かないで欲しい。

自分は本当に馬鹿だなと思う。そんな顔をしているのは自分自身だと自覚しているのに、他人との関わり合いを避けているのに、つまらない女と言われて悲しいのだ。

1人でいたいのに、孤独を持て余している。
放って置いて欲しいのに、誰かにすがりつきたくてたまらない。

原因がファルネにあることも自分自身が知っていた。いつか前向きにならなければならないということにも気づいている。悲劇のヒロインを気取っているのかもしれない。けれど足が竦む。……ここから立ち直る事だけは、どうしても出来なかった。コーチョーにもその心を打ち明けて何度も話し合ったが、結局は自分自身で立ち上がるしかない。けれど10年経った今でも、ファルネはそれが出来ないで居た。

そうした思いを抱えていた時に、ファルネは「エクス」のテストプレイヤー公募を知る。フィードバックによる危険が少なく、安全性の高い、それでいてリアルな世界観を実現するというシステムは、弟のルイスが実現したいと夢見ていたことだ。

それはどんな世界なのだろう。

もし弟が生きていれば、絶対に自分の目で確かめたに違いない。

弟が夢見た世界がそこにあって、弟の代わりにそれを見る。その世界がどんなものか確かめたら、自分はルイスに囚われた自分から抜け出すことが出来るだろうか。

……弟を許せなかった自分を許すことが出来るだろうか。

****

ログインしたルイスの目の前には井戸があり、その井戸の縁に背を預けてセタが座っていた。気配を感じたのだろう、セタが顔を上げてニヤリと笑う。

その瞳に、あの時のような殺気は無い。

「よう、ルイス。…なんで来たんだ、バカな女だな」

「作り直された?」

「いいや、まだだ」

やっと気が付く。

セタはいつもルイス達よりも前に、必ずそこに「居た」。彼が一時でも遅れた事は無い。少し前ならば偶然と考えていただろうが、今はそんな風には考えられない。もしかしたら、セタはログインもログアウトもしていない、そんな存在なのではないか。

「セタ……。セタの攻撃を私は避けることが出来なかった。何故?」

「俺が、普通のプレイヤーじゃないからだろ」

「システム、だから?」

セタの攻撃をルイスは避ける…と認識する事が出来なかった。通常ならばプレイヤーもしくはモンスターの攻撃は、避けるか否かを選択する思考を与えられるのに、それが無い。

ルイスの静かな声を聞いて、セタが立ち上がる。

フウカは言っていた。

―――― 再現率が5%だなんて失敗作もいいところだわ。

「セタ、……貴方は、何から『再現』されたんだ」

セタが黙ってルイスを見て、その頬に手を伸ばした。そこには傷の痕があった。昨日の今日だがすでに傷は治っていて、丁度……ファルネの頬に残っている程度の傷痕になっていた。セタの指が、撫でるように傷痕に触れる。

いつもこうして、セタは触れる。ルイスの頬に髪に首筋に……。最初に荒野で出会ってからずっとだ。ルイスの女の声を聞いて楽しげに笑い、男の名前だとからかい、顔を見せろと茶化してくる。そのくせ時々真面目な顔をして、仲間のいないところで、そのローブをそっと外して顔を見る。他の仲間にローブの中のルイスの顔を見せないように、とても密かな行為だった。セタはきっと、ルイスが……いや、ファルネが、俯いて顔を隠す代わりにローブで顔を隠しているのを知っていたのだ。

エクスの世界で、姿形はほぼ自分のままで、自分作りをゼロから始めるのは清々しくて居心地がよかった。顔を隠していても、男言葉を使っていても、それが崩れてしまっても、黙っていても、話していても、誰も何も言わない。

セタといるときには、特にそれを感じた。自分が緊張していようが心を許していようが、演技をしていようが自然体でいようが、何も言わないし何も変わらない。いつもゆるぎなくて、それを感じるといつも安堵した。

男の腕が女を抱き寄せる。

「傷が、残ったな」

「残した」

「なぜ?」

「隠すほどの事ではない、と、思ったんだ」

「そうか……そうだな」

言いながら、セタはルイスのローブをいつものように掛けてくれた。そうして、言葉を続ける。

「俺は、……お前らのようなプレイヤーじゃない。俺は、恐らくシステムから、生まれた」

その言葉に、ルイスが唇を噛みしめる。エクスの世界のプレイヤーは、トキオのどこかで生きている人間だ。だからセタだってそうなのだと、当たり前のように思っていた。それなのに、たった今感じているセタの腕の温もりが、システムが生み出した人工的なものであるなんて、考えたくもなかった。