地下の入り口の鉄格子はヴァーツがログアウトした時と同じように存在し、同じようにあっけなく開いた。下りて行くと徐々に暗くなっていき、ルイスが手をかざして魔法の灯りを点す。
魔法の灯りを頼りに歩く地下道は、上……ヴァーツが落ちてきた時と同じ材質のようで、コツコツと硬い足音が響いた。
「なあ、ルイス。セタが……ログイン、するなって」
「ん?」
「その、もう会えないのか、な」
「ログインしなければ、会えないだろうな」
「え?」
暗くて顔はよく分からなかったが、小さく笑う気配がする。ルイスも変わっていると、ヴァーツは思った。飄々としている……というならば、ルイスだって随分だ。明るくてもローブに隠れた顔の造詣はよく見えず、黙っていれば男か女か分からなかっただろう。ただ声はどう聞いても女のものなのだ。そのくせ言葉遣いは男らしくて、つかみどころが無い。
そのルイスが笑みを含んだまま、だが少し寂しげに言った。
「ラズとユリアナに合流したらログインしない方がいい。理屈はそうだと思う」
「理屈?」
「ああ。基本的にログインしなければ、この世界に来る事が出来ない。この世界に来なければ、もうあの2人とは関わらなくて済むだろう」
「そう、だけど」
「あの2人だけじゃない。この世界は…明らかにおかしい。フィードバックを止めているから安全などという謳い文句も、怪しい……というのは分かるか?」
「うん。……フィードバックを止めることが出来るなら、それを操作することも出来るって……」
「それは、誰が?」
いまやシステムが世界を動かし、プレイヤーの運命を決めている。それはルイスも危惧していたことだったが、ヴァーツがフィードバックの可能性を考えていたのは意外だった。ヴァーツは「意外」と思われたのが不満だったのだろう。「なんだよ」と少しむくれたような口調になる。
「……誰が、って。俺だよ、悪い?」
「いや……すまない。フィードバックを操るか。なるほど、それは……」
ルイスは素直に謝って、深刻だな……と考え込んだ。本当はヴァーツに教えてくれたのはコーチョーだったが、それは黙っておいた。その口ぶりを聞いてルイスは素直に感嘆し、続きを口にする。
「つまり、ログインしなければこの危険な世界に関わる必要が無い」
「ラズと、ユリアナを連れて?」
「そのことだが……」
そう。ラズとユリアナを連れて。だが、もしもセタの忠告が最悪の形になれば、ラズか、ユリアナのいずれかを連れてになるだろう。セタの話に寄れば、2人のどちらかが仲間たちを離れ離れにした裏切り者なのだ。
「ヴァーツ。システムがフィードバックを操っているのならば、ログアウトできるとは限らない」
「……そ、れは」
「だから安全にログアウトできたら、もう2度とログインしない方がいい。……そういうことをセタは言ったんだろう」
「そんな、そんなの……」
それはもう、仲間たちと会えないことを意味する。こんな状況でいまだそれを望むのは愚かしいことだが、ヴァーツはこのままで終わらせたくなかった。冒険も、仲間も、ラズもユリアナもルイスも、セタも、フウカのことも……だ。ルイスはどう思っているのだろうか。相変わらず確たる口調の魔法使いに、ヴァーツはぽつりとこぼす。
「ルイスは?」
「……ん」
「ルイスは、いいのか。このまま、ログインしなくても」
「いいや」
ふるふると首を振る気配がした。隣を伺うと、ローブの中の瞳は見えなかったが、視線は魔法の灯りが照らす道の先を真っ直ぐに見据えているのが分かる。
「私は、もう一度セタに会う」
「……え?」
「セタに会いたいんだ。だから、またログインするよ、私は」
「そうか。そうだな」
「ヴァーツ?」
「よし」
ヴァーツは、パン! と拳を手の平に打ち付けた。ルイスが既に決めていたように、ヴァーツも心を決めたのだ。このまま何もかもを知らないまま放っておくのは後味が悪過ぎる。セタにだけフウカを任せるのも薄情だし、誰かが裏切ったなんて考えたくないし、その正体を見極めなければならないし、……それに、死んでしまった方のフウカの敵だってとってやりたい。
「そもそも、このまま合流できずにログアウト…っていう可能性もあるし、ラズとユリアナにちゃんと聞かなきゃ放っておけねえよ」
「そうだな」
女性らしい、空気の混じるような笑んだ声が聞こえて、ヴァーツは少し頬が熱くなった。それを誤魔化すように、大きく頷く。訳の分からない状況は相変わらずだったが、少しずつ解決していかなければならない。今はとりあえずラズとユリアナに合流することを考える。そして、セタの言っていたことの真実を見極めるのだ。
****
ラズはゆらゆらと揺らぐ頭を懸命に振り起こして、懸命に起きようと努力した。だが、誰かに殴られたように頭が痛くて重くて身体を起こすことが出来ない。
それでも瞼をこじ開ける。頬に当たっているのは柔らかな寝具で、自分はどうやらかなり上等な寝台に寝かされているのだと分かった。
「……ここ、どこ」
そう口にしたつもりだったが、喉が掠れて言葉も出ない。おかしい。喉が掠れる……なんていう感覚、こちらの世界来てからあっただろうか。
……こちらの世界?
今がどちらに居るのか、判然としない。ラズはぎゅうと一度瞼を閉じた。硬く硬くそれを閉じて、顔の造作を中央に寄せるようにむう……としかめて、ふっと緩める。顔の筋肉をほぐして、もう一度瞼を開けた。ぷい……と横を向いて見ると、小さな部屋のようだった。温かみのある壁紙の色に窓が見えて、窓には薄いレースのカーテンが掛かっている。そよそよとそれが揺れていて、窓の側には小さな花の生けてある花瓶が置かれていた。
すぐ側のサイドテーブルには水差しと、クマのぬいぐるみが置かれてある。
まるで女の子の部屋みたいだ。
そう思って、くすくすと笑って、そして思い出す。
「フウカ、は……?」
徐々に戻ってくる記憶。血濡れのフウカに止めを刺した銃声と、セタを追いかけていくヴァーツ。自分を止めたユリアナと、床が崩れて落ちてしまったヴァーツ。その後、どうしたっけ……。
そうだ、あの後すぐにログアウトを促すいつもの機械音が流れて、それで。
自分は。
「あ……」
思い出した。いや正確に言えば、ログインしたことを思い出せなかったのだ。ログアウトしたような気がしたのは覚えている。意識が少し遠くなって、目の前が暗転して、気が付いたら……今だ。つまり、本来ならば戻ってくるはずの意識が戻って来なかった。自分が果たしてログアウトしたのか、そうだとすればどのようにログインしたのか分からない。ログアウトせずに意識を失っていた……というのが近い気がする。
「もしかしてログアウト……出来なかったの?」
恐ろしい事実に、意識がはっきりと戻った。今までこんなことは無かったはずだ。ログアウトしなかったとしたら、向こうの自分はどうなったのだろう。
ラズは自分の顔が青ざめるのが分かった。飛び起きて、本格的にきょろきょろと周囲を見渡す。だが混乱のためか視線を巡らせただけで意味を為さず、そこに置いてある調度品は意識に入って来ない。
「嘘、うそ……みんなは?」
皆はどうなったのだろう。きちんとログアウトできたのだろうか。一緒に居たはずのユリアナと、フウカはどこに行ったのだろう。どうして自分だけが、こんな部屋で横になっているのか。一体自分の身に何が起こったのだろう。疑問は次々に沸いてきて、どうすることも出来ないそれはじわじわと恐怖になっていく。
「ユリアナ?」
「ラズ、目が覚めたのね」
思ったよりもすぐ近くで返事がして、ラズはびくりと肩を震わせた。声の聞こえた方に首を向けると、いつの間に来たのかユリアナが佇んでいる。ユリアナはいつもの優しい微笑を浮かべて、ラズに向かって首を傾げた。
「ずっと寝ていたから、お腹が空いたでしょう。何か持ってきましょうか」
「……ユリアナ……」
「そうそう、あなたはシュークリームが好きだったわよね。クッキー生地ではなくて、柔らかい生地の」
「ユリアナ、ねえ」
「珈琲ではなく、紅茶。ミルクをたっぷり入れて持ってきましょうね」
「ユリアナ! ねえ、答えて!」
ラズは自分に掛けてある上掛けを剥ぎ取って、珍しく強い口調でユリアナを見た。いつも優しいユリアナの態度だったが今はどう考えても違和感があり、その違和感が恐ろしい。そしてその恐ろしさは、嫌な予感を産む。
気丈に声を荒げたラズを見ると、ユリアナは「あらあら」と困った風にまた笑った。
「そんな風に怒らないで、ラズ。大丈夫、不自由はさせないから」
「そんなことを聞きたいんじゃないよ、ユリアナ、これはどういうこと? 何か知っているの?」
一気に言い切ると、ラズは黙ってユリアナの言葉を待った。今、ラズの目の前にいるユリアナは、いつものユリアナに見えるがまるで別人のように得体が知れない。とても味方には思えなかった。
だが、ユリアナはラズをじっと見つめているだけで答えない。沈黙に焦れて、恐る恐る質問を変えた。
「君は、ユリアナなのでしょう?」
その言葉には、ユリアナはにっこりと反応した。柔らかに頷き、口元は相変わらず弧を描いている。
「ええ、そうよ。ラズ」
「ここは、どこなの?」
「エクスの世界よ」
「……ログアウトした記憶がないよ」
「ログアウト、していないもの」
「みんなは……?」
「無事にログアウトしているわ」
「……フウカ、は」
「難しい質問ね」
フウカの名前を聞いて、ユリアナの瞳は一瞬鋭くなったが、ふっといつのも穏やかなものになった。以前までは優しいと思っていた表情も、今思うとまるで無表情と同じだ。これは本当にあの優しかったユリアナなのだろうか。口調は優しいのに、その裏側が優しいとはとても思えない。
「フウカは、死んで……そして、生きているわ」
「どういう意味?」
「復活したのよ」
死んで、生きて、復活?
ラズはぷるぷると頭を振った。死んだなんて信じたくなかったし、復活したという響きが特殊すぎて不吉な予感がする。
「死んでしまったの?」
「さあ。でも、あなた次第よラズ」
「え……?」
コンコンとノックの音が聞こえる。
ユリアナの表情がすう……と消えた。
ラズの居る寝台から身体を離すと、扉の方へとノックの主を出迎えに行く。扉を開くとそこには、ラズの見知った人物が立っていた。ラズの両目が驚愕に見開かれる。その驚きの顔を満足そうに眺めながら、悠然とその男は寝台の側にやってくる。
そして、あの時と同じように丁寧で紳士的な笑みを浮かべたのだ。
「やあ、私を覚えているかな。お嬢さん」
ラズを…この世界では男でありエルフのラズを「お嬢さん」と呼ぶ男。ラズはその男を知っている。
「……アルキス、さん」
「よく覚えていたね、ラズ。……いや、ルリカ・ダルトワ」
初めて挨拶を交わした時と、まるで変わらない笑顔で礼を取るように頷いた男はジェイ・アルキス。
……このエクスの世界を生み出した、メロヴィング・カンパニーの社長、その人だった。
****
「ど、うして、アルキスさんが、ここに」
「驚くのも無理は無い。だが、悪いようにはしない。どうか私の話を聞いてくれないか?」
ラズは控えているユリアナを、助けを乞うように視線を向けたが、彼女は信じ難いほど何の表情も浮かべていなかった。
アルキスは寝台の側に椅子を引き寄せて腰掛けた。その様子をどこか他人事のように見ながら、ラズはいよいよ自分が追い詰められているように感じたが、それをどうにかするには年齢的な意味でも、人格的な意味でも経験が足らず、ただ甘受するしかない。
それでも、癇癪を起こしそうな感情を堪えてアルキスを見る。
その視線を受け止めて、アルキスは口を開いた。
「フウカを知っているね、お嬢さん」
もちろん知っている。ラズは慎重に頷いた。
「そのフウカが、今、とても危ないことになっているんだよ」
「撃たれた、から……?」
「そう。それに、仲間の1人に短剣で胸を刺されていたね」
その言葉には頷かず、先を待つ。
「フウカはね、君と同じように身体が弱くて、外に出ることの叶わない身体だったんだ」
「え?」
「いつもフウカは外の世界に憧れていて、兄弟仲良く遊んだり、自然に触れたりすることを望んでいた。君なら分かるだろう?」
ラズは眉をひそめ、少しだけ視線を伏せる。
外の世界に憧れていた。確かにラズ、いやルリカにも分かる気持ちだった。だが、その話とラズが今ここに居る事と一体何がどう関係するのだろう。怪訝そうにラズがアルキスに視線を戻すと、心に浮かんだ疑問に答えた。
「私はフウカを助けたい。そのために、君の力が必要なんだ」
「だったら、私は何をすればいいんですか」
「簡単だよ」
ふ……とアルキスが優しく笑った。本当に本当に優しい笑顔だった。そうして懐に手を入れて、小さな銃を取り出した。ラズが思わず身構えるが、その様子を見てもアルキスは動じない。銃はセタが持っているものよりも小さくて、どこか今風だ。
「君はただ、眠っているだけでいい。全てが終わったあと、この世界は君のものになり、君の身体は……」
フウカのものになる。
躊躇いも前触れも、何もなかった。ただ、おもちゃの銃声のような音がして、ラズの身体の何処かに衝撃が走って意識が遠のく。それはあの時聞いた音と同じ、フウカが撃たれた時に聞いた音と同じだった。よく考えてみれば、セタがいつも撃っている銃とは全く音が違う。……ということは、フウカを撃ったのはきっとセタじゃない。あの短剣だって、きっと、ちがうんだ。
不思議なことに、衝撃はあったが痛みは無かった。それでもラズ…いや、ルリカは、自分の身体が、「死」と表現するものに向かって投げ捨てられたように感じた。