結局、ルイスとヴァーツはあの日闇雲に歩いただけで終わってしまった。無理も無いかもしれない。世界はシステムが握っているのだし、フウカの様子から見てもフウカ自身がある程度システムを操れるのは明白だ。…ということは、フウカが自分達のフィードバックを、ひいては命を握っている、ということだろうか。
いずれにしろ、ラズとユリアナを発見出来なかったルイスとヴァーツは、再びログインすることを約束してログアウトした。どこかまだ、これはゲームなのだという意識が強いのだろうか。次は無事にログアウトできるという確証など無いし、ログアウト出来なかった場合に何が起こるか明白なはずなのに、再びログインしようとしている。
寝台の上で、ファルネは目を開けた。ゴーグルを外し、頭を振る。
次ログインすればこちらに戻れないかもしれない。それはファルネの弱い心に昏い希望を灯した。灯してしまった。
もう二度と、置いていかれたくなかった。
****
あと2,3日で決着が着くのではないか、という予感があった。事態の大きさも計り知れず、いや、大して大きな事態ではないかもしれない。その証拠にファルネの周囲はいつもと同じように出勤し、いつもと同じように仕事をしている大人たちで溢れている。
「アオサキ、今日は夜、暇?」
いつものナガセの声に、ファルネは顔を上げた。何かを決意したわけではないが、ファルネの中で何かが変わっていたのも事実だった。ファルネは首を振って、ナガセが残念そうにそれに答える前に、困ったように小さく笑う。
「夜はダメだけれど、ランチなら」
「え?」
ナガセがぎょっとして、ぽかんと口を開けた。一拍、二拍、遅れて、「あ、ああ」と返事をする。何度か頷きながら、慌てたようにファルネの顔を覗きこむ。
「ランチ、そっか、ランチ… あ! 近くに美味いパスタ屋があるけど」
「分かった、そこにしましょう」
ファルネは初めて、眼鏡越しではあるけれど、まっすぐにナガセの瞳を覗きこんだ。目が合って、驚いたような顔のナガセが瞬きしている。すぐに視線を外して、時計を見た。昼休みが始まる、丁度5分前だ。
「ナガセ君は、午前中の仕事は終わったの?」
「うん、もうすぐにでも出られる」
「まだ就業時間よ」
ナガセは、小さく笑ったファルネを珍しいものでも見るような顔で見つめた。その視線にファルネが首を傾げる。不思議そうなファルネの顔に、すぐに自分を取り戻したナガセがいつもの朗らかな笑いを浮かべた。
「いや、…アオサキと通勤以外で外出るの、初めてだよなって思って」
「そうね」
一言二言、そんな風に言葉を交わしていると丁度昼休みのベルが鳴った。端末の電源を落としたファルネは立ち上がり、ナガセも身を退いて出る準備をする。
他愛も無い雑談と共にナガセと並んで街の雑踏を歩きながら、ファルネは自分の心境の変化を探る。2度とログアウトできないかもしれない世界に、自分はログインしようとしている。だからだろうか。そうした特殊な事情に酔っているのかも知れず、これで最後かもしれない……などという馬鹿げた妄想で自分を盛り上げているのかもしれなかった。
ランチタイムは和やかに終わった。基本的には仕事の話で、合間に休みの日は何をしているのかとか、どんな本やどんな映画を観るのかとか、そういう普通の話に終始した。ビジネスマンのランチタイム向けだからか店員の動きもすばやく、1時間の昼休みに間に合うように食後の珈琲まで楽しむ。その時、だいぶ気安い雰囲気になったファルネにナガセが問うた。
「アオサキは、1人暮らし?」
「うん」
「そっか、弟さんは? いるんだろ?」
何気なく聞かれた風のその質問は、完全に他意の無いものだった。不思議だな…とファルネは思う。以前はこの手の質問に答えるのが、面倒でわずらわしくて仕方が無かった。質問をする相手が悪いわけでもないのに、そうしたことを聞く相手のことを不愉快に思ったりもした。本当に自分勝手だった。
しかし結局のところ、どのような表情で何と答えるのが正しいのだろうか。いまだにファルネには分からない。
「弟は、亡くなってるの。事故で」
「え?」
「でも10年も前の話だから」
「そ、か」
気まずそうな沈黙が落ちて、いたたまれない気持ちになる。けれど、かつては嫌いだったこうした沈黙も、相手を気遣ってどういう言葉を選ぼうかと葛藤しているものだと思えば、それほど苦痛ではなかったと思う。今更気づいても遅いのかもしれない。逃してきた人間関係も、たくさんあるかもしれない。
「変なこと聞いて、悪い」
「どうして? 別に変なことだとは思わないわ」
「そうか。事故は、アオサキも?」
「うん、一緒だった」
息を飲む気配が伝わる。一緒じゃないとか、平気だとか、そういう嘘を付くこともできたが、なぜか今はそういう気分にはなれなかった。気遣うような瞳になって、ナガセがファルネを見た。その顔がとても真剣で真っ直ぐで、今度はファルネが少し驚く。
「ナガセ君?」
「アオサキは、大丈夫だったのか?」
「頬と足を怪我したけど、ゆっくり歩けば、今は大丈夫」
「そうか…痕は?」
「頬には少し残ってるけど、今は気にしては…」
いない、と答えそうになって、それは嘘だと思いなおす。気にしていないわけではなく目を逸らしているだけで、それは気にしているのと同じだろう。だから言い直した。
「昔はすごく気にしてて、今もそのクセが残ってるの」
「そうか」
もっと困った顔をされるかと思っていたが、ファルネの予想に反してナガセは真面目な顔をしていた。その顔にファルネも何故か安心して、ほっとため息を吐く。それが合図になって、どちらからともなく席を立った。
「アオサキ、ひとつだけ、いい?」
「うん?」
「ご両親は?」
「弟と一緒に、そのときに亡くなったわ。家族で車に乗っていたの」
「そうか、聞いて、悪かった」
「別に悪いことじゃないってば」
お勘定はナガセが払うと聞かなかったので、その言葉に甘えることにした。美味しいパスタで、今度はデザートを食べたいとファルネが言う。当然のように、それならまた今度は休みの日に来ればいい……とナガセが続けて、そうね、と返事をした。
ビルの合間から見える空は青くて、話題が無くなったからといって当たり障りなく天気の話をするのもそう悪いことではない。今、一緒に歩いているのはナガセだが、これがセタだったらどんな話をするだろう。どんな顔でご飯を食べて、デザートを食べたいって言ったらどんな風に返すのだろう。どんな風にエスコートして、互いをどんな風に気遣うのだろう。
そこまで考えて、人が異性に対して抱く当たり前の感情に気が付いた。そして自分の昏い希望の灯火が、確固たるものになったことを知る。
なんて、不毛な。
さっきよりは少しゆっくり目に歩くナガセの声に相槌を打ちながら、ファルネは泣かないように気をつける。
午後の就業は休暇にした。
****
その日の午後、ファルネはコーチョーと向き合っていた。
「コーチョーは、確かルーノ研究所の所長をなさってたことがありましたよね」
「もう随分昔のことですがね」
「10年前に傷害事件があったのをご存知ですか?」
「もちろん、知っていますとも」
「……では、現在のメロヴィング・カンパニーの…社長のことは?」
「知っていますよ。共に仕事をしたことはありませんが、私の次の所長の、片腕だった優秀な研究員です」
どこか確信めいた口調で、コーチョーは祈るように手を組んでそこに顎を乗せた。
ファルネは会社を午後から休み、コーチョーを訪ねてきたのだ。あれからファルネなりに調べてみた。システムの全責任者はメロヴィングの社長のはずで、それならば現状を知らないはずは無い。社長の経歴を調べてみると、隠すことなく堂々と「ルーノ研究所の出身」と掲載されていた。ルーノ研究所のことを調べるならば、コーチョー……プロフェッサー・アキツに問い合わせるのが最も早い。
「次の所長?」
「フウカ・ダルトワといいます。例の傷害事件のときに…」
「フウカ……!?」
声を荒げたファルネをコーチョーは少し怪訝そうに見遣り首を傾げたが、言葉を続けた。
「フウカ嬢には怪我はありませんでしたが、彼女の護衛を勤めていた兄がそれを庇いました」
「護衛、兄?……あ、名前は……」
こくんとファルネが喉を鳴らして、空気が緊張を孕む。コーチョーは眉を少しだけ寄せた。ファルネが何故ここまで表情を動かすのか、いぶかしんでいるようだ。
「ショウ、……ショウ・ダルトワ、といいます」
「ショウ……」
ファルネが止めていた息を吐いたように肩を落として、緊張感が緩んだ。「セタ」ではない。「ショウ」……別人だろうか? けれどもすぐさまそんな考えも霧散する。そもそもあの世界は、人工現実の世界なのだ。そこで動くプレイヤー達は、本名も素性も性別も実際のところは分からない者ばかりで、名前の一致不一致で別人か本人かを量る事は出来ない。ましてセタはこちらの世界の人間ではない、人間ですらないのだ。……いや、それも果たして正しいかは分からない。
「ショウ・ダルトワは、死んだ、の、ですか?」
セタは人工現実の世界にだけ生きている、システムの生み出したプレイヤーだと思っていた。だが、本当にフウカの兄として実在しているのであれば、こちらの世界にいるはずだ。
コーチョーは難しい顔をした。
「正式には死んだとされていますね。葬儀も行いました」
そして、言う。
「1ヵ月後に死亡したフウカ・ダルトワと共に」
****
フウカ・ダルトワと、ショウ・ダルトワは死んだ。死んでいる。…その事実に、ファルネはさほど衝撃は受けなかった。フウカ・ダルトワ、その兄ショウ・ダルトワ……、いくつかの断片的な情報は、あまりに断片的過ぎて、余計な事ばかり考えてしまう。
ショウとセタは、恐らく繋がるのだろう。死んだショウの情報から作られたのがセタだとして、フウカもまたセタと同じくシステムが作り出したノンプレイヤーキャラクターなのだろうか。2人とも死亡しているのだから、そうとしか考えられないが、死んでなお人工現実の世界で生きていられる……などということがありえるのだろうか。
そもそも、セタには記憶が無いといっていた。しかしフウカは違うように見受けられる。
何を知ればラズとユリアナに辿りつくのだろう。
考え込んだファルネに、コーチョーが声を掛ける。
「ファルネ、ダルトワやルーノがどうかしたのですか?」
「え?」
「もしや……」
その時、突然ノックの音が響いて、コーチョーがそれに返答をする間もなく扉が開く。開いた瞬間、中に人がいたことにびっくりしたのだろう。何かを落としてしまったようだ。
「コーチョー! ……あっ」
いつだったか、ファルネがコーチョーと話していたときに突然部屋に入ってきた少年だ。今度はノックしたにも関わらず返事を聞かずに扉を開けてしまったようだ。コーチョーがやれやれ……と言った顔になって、たしなめる。
「こら、アンリ」
「っと、ごめんなさい」
「いいえ、アンリ君、だっけ? 何か落ちて……」
ファルネが席を立って、床に落ちた何かを拾おうと手を伸ばした。それは小さな懐中時計で、伸ばした指が思わず止まった。アンリという少年に、先に拾われてしまう。
「それ……」
「え?」
身体を起こしながらつぶやくと、入ってきた少年が顔を上げた。やはり一度コーチョーに紹介してもらった少年だ。何か物言いたげなファルネの様子にアンリはコーチョーとファルネを見比べていたが、ファルネが言葉を失っているのを見ると、やがて意を決したようにコーチョーに懐中時計を差し出した。
「あのさ、コーチョー、これ」
「ん?」
ファルネという来客があるにも関わらず、コーチョーはアンリの用件を聞くようだ。ファルネもまた、何故か懐中時計から眼を離せずにいて、2人の会話を見守っている。
「いじってたら、裏が開いちゃって」
「ああ」
「戻したら、今度は開かなくなって……気になるんだ。どうやって開けるんだ?」
「貸して御覧なさい」
どうやらいじっていたら、懐中時計の裏蓋が開いてしまったらしい。アンリはコーチョーに懐中時計を差し出して、手の中を覗きこむ。懐中時計……という小物に惹かれて、ファルネもまたコーチョーの手元を覗き込んだ。
「これは、隠し蓋になっていて……上のボタンとこの部分を同時に押すと開くんですよ」
穏やかな声でコーチョーが動かして見せると、パカリと裏蓋が跳ね上がった。薄いガラスに閉じ込められた時計の歯車が、カチカチと静かに時を刻んでいるのが見える。中には何も入っていなかったが、少し幅のある裏蓋の様子からすると、蓋を閉めたときの空間には何かが入りそうだった。
「これは、……そう、ルーノ研究所に私が勤めていたころ、記念に作ったものです」
「ルーノ研究所の……記念?」
ふとファルネの頭の中に、セタからもらった懐中時計の事が浮かぶ。同時に、似たような表情で顔を上げたアンリと視線がぶつかった。