サティの前に、小さな金色の毛皮のネズミが倒れている。
あんなに元気に動いていた耳も今は萎れ、髭も揺れていない。
ピウニー……!
綺麗な薄い金色の毛並み、黒に近い濃い茶色の瞳、まるくて小さな耳、ぴくぴくといつも楽しげに揺れている髭、Yの字の口元、小さな前足、短い後ろ足、ほとんど無い尻尾、ぴくぴくといつも揺れている髭(2回目)、Yの字の口元(2回目)。……もう動かないの?
サティの耳がしょんぼりと寝てしまった。大きなグリーンの瞳からポロリと涙が零れ落ちる。
「ピウニー……ピウニー……、ごめんね。人参取られたくらいで拗ねたりしないから。小さいってバカにしたりしないから。ほほ袋に食べ物入れてみせてよーってからかわないから。足短いって笑ったりしないから。お腹が太ましいとか、洋ナシ体型とか、言わないから。……だから……」
すんすんと、サティが鼻を鳴らして、ピウニー卿の小さな身体にそっと顔を寄せた。
「だからお願い。……もう一度私のことをサティって呼んで」
ピウニー卿の口元にサティの口元が触れ、ぺろりと舐めた。
「腹が太ましいとはどういうことだ、サティ」
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「え、ピウニー……?……生きてるの!?」
「私がアレくらいで死ぬものか」
「……ああ!……ピウ、よかった……!貴方が死んだら、私どうしようかと……!」
サティは、両手でピウニー卿の首に抱きついた。大きく息を付いて、ペロンとその首筋を舐める。
しょっぱ。
ん?
両手で?
首筋を?
舐める?
しょっぱい?
妙な違和感に、サティが眉をひそめる。……眉を、ひそめるって。猫に眉あったっけ?
「お、おい……サティ、待て、離れろ……サ」
「え?」
気がつくと、サティの下には鍛え抜かれた男の身体があった。全裸で。
抱きついているのは、男のものとしか言いようのないしっかりとした作りの首で、確かさっき、サティがそこを舐めたはずだ。いや、はずだ、ではなくて確実に舐めた。だってしょっぱかったし。
そして眼前には薄い金色の髪と、それより少し濃い色合の無精髭を生やした精悍な男の顔。凛々しいこげ茶色の瞳は、今は落ち着かなさげに泳いでいる。
「え、待って、ちょっと、なにこの、」
「サティ、頼むから、動くな」
ピウニー卿は、一言一言区切るように、ゆっくりと言った。
ピウニー卿の上には、華奢だが細すぎるというわけでもない、まろやかな女の身体があった。全裸で。
抱きついているのは、女のものとしか言いようのないあまり筋肉のついていない腕で、自分の鍛えた胸の上には当然のように柔らかな双丘が当たっている。視線を落せば見えるはずだ。いや、はずだ、ではなくて、今ちらっと見えた。見てはない。見えた。
そして顔を少しずらすと、こちらを見ている大きなグリーンの瞳と目が合った。さらさらと自分の身体の上に零れ落ちるセピア色の髪が、肌を撫ぜてくすぐったい。
「ちょっと、今何見」
「いやいやいやいや、サティ、……だから、今、身体を離すな、見える!」
「見えるって、見ないでよ変態!」
「見えただけだ、不可抗力だろう。人聞きの悪いことを言うな、密着するな!」
「離れるのかくっつくのかどっちよ!」
「いやすまん、ちょっといろいろ事情があって、くっついても離れても男の事情がだな。……とにかく、今は、離れるな」
「……あ、やだ、ちょ、と、腕、回さないで」
「支えないと落ちるだろう!」
「誰がよ!」
「サティが、だ! 落ちたら地面だぞ、お前の身体が泥で汚れる」
「なっ……」
2人の間に沈黙が下りた。思いがけないピウニー卿の言葉に、サティの顔が熱くなる。
「地面には石も転がっているし何があるか分からん。お前の肌が傷つく。だから……」
「ピウニー……」
「だから、少し落ち着け……サティ」
そう言いながら、ピウニー卿の逞しい腕にさらに力が籠もった。腕に絡みつくように落ちるセピア色の長い髪は絹のような手触りで、猫の時のサティの毛並みを思い出させた。男の腕が女の背を撫で、長い髪をゆっくりと梳いていく。それはサティの心を落ち着かせていくようで、落ち着かせて……
「って、この状況で落ち着くかっ!」
「ここは落ち着くところだろう!」
「大体、なんで裸にベルトなのよ!」
ピウニー卿は全裸に帯剣用のベルトのみ着用という姿だった。ベルトも剣に合わせてきちんと大きさが変わっているのがいじらしい。まあ、逞しい身体のいい歳の男が全裸にベルトに帯剣しているのだから、なんとも言いようのない空気であることは否めない。ネズミのときも言ってみれば全裸でベルトしていたから、当然といえば当然だが。
「知らん!……私が聞きた……」
「だって、だ……、」
2人の言い合いが同時に止み、サティの形のよい眉が歪む。それに気付いたピウニー卿は何故か目を逸らした。
「ピウニー」
「気にするな」
「気になる。変なとこに何か触ってる」
「分かっている。とりあえず下手に動くな。生理現象だから気にするな」
生理現象、という言葉に、サティはなぜかカチンと来た。
「ふーん。生理現象なんだ」
「なぜそこで機嫌が悪くなる」
「別に」
「おい、サティ。何に怒ってる」
ピウニー卿の腕から逃れようと、サティがガサゴソと動き始めた。
「お。おい、動くな」
「離してよ」
「待て。話を聞け。足を動かすな……っ、ど、どこに触っ……」
「どこにも触ってないわよ。なにこれもういやちょっとまたナニかしっかりしてきたし……。もううううう、ピウニーちょっと落ち着きなさいよ!」
「ぐっ、私は何もしていない、サティが動くからであろう!……そもそも、魔法使いなら、服とか出せんのか!」
「召喚魔法は杖が無いと無理……」
サティの動きがぴたりと止まった。待てよ。杖無しで出来る、召喚魔法が1つあったはずだ。
「ああ!」
今、気付いた……という風に、サティががばっと身体を起こした。起こした途端、髪と身体がふるんと揺れる。ああ……、実にいい眺めだ、大きすぎず小さすぎず適度な大きさで形が。って、おい!
「サティ、身体を起こ」
「うわああああああ、見るなあああああああ」
「見せるな!」
「見せてない!」
「見えるんだ!」
「もう分かったからちょっと黙ってよ、目ぇ閉じてよ!!」
「ああ、そうか!」
その手があったか。
「杖の召喚は杖無しで出来るから、杖さえあればどうとでもできるはずよ!」
サティは、身体を起こしたままぐっと拳を作った。ピウニー卿の目には滑らかな曲線美が写る。長い髪の毛がいい具合に胸の膨らみを隠しており、段差の部分だけがちらりと見える。そんなチラ見えもまた一興。よしきた。
「よしきた、サティ、それでいこう」
「だから、ピウニー目ぇ閉じてってば!」
「あ、ああ、すまん」
チラ見えから我に返ったピウニー卿が目を閉じたのを確認すると、サティは呪文を唱えた。
<イノトゥーモ・サティ・オ・イェート!>
(サティの杖よ来い!)
……沈黙。
「ピウニー」
「どうだ」
「残念なお知らせがあります」
「……」
杖召喚の魔法は、残念ながら反応しなかった。召喚用の魔法は作動したが、なぜか自分の元に対象物がやってこない。他の呪文も唱えてみるが、結果は同じだ。
「よく試したのか」
「試したわよ。杖以外にも、念のため服も本も道具もいろいろ! 全部! でもダメだった。……ねえ、私達このまま歩く羞恥プレイのまま過ごさないといけないの!? せっかく戻れたのに全裸だなんて……同じ全裸ならまだ猫とネズミの方がマシよ……」
「おいサティ……おい、泣くな」
元来、男というの生き物は女に泣かれるのが苦手だ。ピウニー卿も例外ではない。いつも元気に尻尾をゆらゆらさせているサティが、今、自分の身体の上で泣いている。困り果てたピウニー卿は、がばーっと自分の胸板に突っ伏したサティの髪を恐る恐る撫で、その柔らかな身体が落ちないように気を使いながら自分の半身を起こした。裸の身体を抱き寄せながら、出来る限り優しく囁く。
「お師匠の賢者殿に連絡は出来ないのか」
「ああ!」
ふたたび、サティががばっと顔を上げた。ゴンッ!
「いだっ! 急に顔を上げるんじゃない!」
抱き寄せられていたため、顔を上げた途端ピウニー卿の顎にサティの額がクリーンヒットした。サティもそこそこダメージを食らう。顔がどんな位置にあったら、額と顎がぶつかるんだ。サティが額をさすりながら顔を上げると、そこには顎をしょりしょりとさすっているピウニー卿の精悍な顔があった。ちっか! ものすごく近! しかも、しょりしょりって何! あんなにかわいかったぴくぴく動く髭が、今はむさくるしい無精髭になっているなんて……あー、うん? 割と嫌いじゃない。いや違う、そうじゃない。
しかも今気付いたのだが、何気にお膝の上にお姫様抱っこ状態になっている。全裸で。
「もう……なんで……なんでこんな状況なのよ!」
「それは……って、動くな。まて、」
「だって、見えるし見ないで!」
「見てないというのに!」
露になったあらゆるところをせめて隠そうと、サティは思わずピウニー卿の方に身体を反転させた。落ちないように慌ててピウニー卿はその身体を支えて、視線をサティから思いっきり逸らす。
改めて考えると、何なんなのこの状況。助けて師匠!
それにまた、何か変な物体があたってる!
「もう、ピウニーまた目ぇ開けてるし!話進まないし!あたってるし!……師匠!ししょーーーーー!!」
『はいはい。久しぶりじゃのう、サティや。死霊使いとの戦いぶりじゃないかのう』
サティの声に応じたのか、2人の眼前に、デザートを食べている白い長い髭をたたえた優しげな瞳の老人の姿が、ぼんやりと浮かび上がった。
『かわいい弟子の呼び出しに応じるのはやぶさかではないんじゃが、食後のデザートの時間は避けて欲しかったのう。それに、時と場所を考えねばならんぞ、サティや。わしじゃからまだしも、杖の賢者や剣の賢者あたりが呼び出されたら、大騒ぎじゃろうて。ふぉふぉふぉ……』
第三者から見れば、2人は、全裸の男の上に全裸の女がお姫様抱っこ状態にしか見えない。
師匠である理の賢者から微妙な指摘をされたサティは、身体が見えないようにピウニー卿に抱きついた。
「この格好には突っ込まないでください」
『サティよ、まずその格好に突っ込まずして、何に突っ込むのじゃ』
「おい、ちょっとサティ、それ以上くっつくな!」
「だって、こうしないと見えるし!ピウが変な格好させるからでしょう!」
「馬乗りの方が問題あるだろうが。……くっ、だから動くな、それ以上……っ」
「やだー、ナニかあたってるってばーーーー!」
『ふぉふぉふぉ……馬乗りとはまた盛んじゃのう。わしもあと200年ばかり若かったら……』
「いやいや、これは、違います賢者殿!」
『かまわんかまわん。多少おなごが積極的なほうが』
「だから違うんだって、師匠聞いて!」
夜もすっかり更けていた。