序章 旅の始まり

004.世界の願望と夢と希望

サティとピウニー卿は、理の賢者が手配してくれた服を身に着けて、やっと落ち着くことができた。サティの呼びかけがあった箇所に座標を設定し、理の賢者が2人分の服を転送してくれたのである。改めて、自分達のこれまでの状況を説明し終わってみると、人間に戻ってから随分と時間が経っていた。

『ほう。貴殿があの竜殺しの騎士ピウニー卿とはなあ。で、どうやらサティが口元を舐めたら元の姿に戻った……と』

「はあ。恐れ入ります」

「それで……ひとまず杖を召喚しようと思ったんですけど、魔法が効かなくて」

『そりゃあそうじゃろうなあ』

お髭の賢者は、ふむふむと髭を撫でた。説明のためにしゃべり続けた2人の喉はからからだ。それを気遣ってか、賢者が送ってくれた冷たい水で喉を潤すと、2人は首を捻る。

「どういうことですか?」

『だって、サティの杖折れとるもん』

「え」

『先の、死霊使いとの戦いで折れたじゃろ』

「あ、忘れてた」

サティがぽんと手を打った。確かに、そういう覚えがあった。死霊使いの魔法を全て封じ込めたほどの魔法は、サティの限界以上の魔力を使った。杖はサティの魔力に耐え切れずに折れたのだ。その後、サティは杖無しで死霊使いの反撃を受けたため、呪いに抵抗出来なかった。

「忘れるな!」

「だって」

簡単な魔法ならば杖が無くても使うことができるが、魔法陣を伴う魔法や、自分で組んだある種の魔法は、杖で魔力のバランスを安全に取らなければ発動しない。持ち物召喚や転移の魔法は、かなり上級な魔法にあたる。あらかじめ杖に封じた魔方陣や術式が無ければ、簡単には作動させることが出来ないのだ。

「どうすれば……」

『ふむ。……サティや、とりあえずわしのところに一度帰りなさい。その呪い、詳しく見てみなければ分からんからのう。杖も作り直さんとな』

「……待ってください賢者殿。……サティと私の呪いは、解けたわけではないのですか?」

『ピウニー卿は分からんが、サティは完全には解けてはおらんみたいじゃよ? サティの魔力は、いままでの……そうじゃの、3分の1ほどしか戻っておらぬ。残りは別の魔力に封じられておるようじゃ。まあ、状況からいうてピウニー殿の呪いも解けてはおらんじゃろう』

サティの呼びかけに呼応出来たのは、3分の1とはいえ、なんとかサティの魔力が残っていたからじゃ、と賢者は付け加えた。座標を設定した際に改めてサティの身体に干渉してみると、その魔力はいつものサティの3分の1。残りは別の魔力によって押さえ込まれているという。

ピウニー卿が顎に手を充てて、眉をひそめた。

自分自身も、先ほど狼に魔法剣の魔力を放ったときは、ほとんど力が発揮できなかったのだ。かつては魔竜の鱗を傷つけたほどの魔法剣の技だが、いくら自分の身体がネズミだとしても、狼を倒すどころか、泣いて退かせる程度にしかならなかった。

「そういえば、私の魔法剣もほとんど役に立ちませんでした。その影響でしょうか」

『竜の呪いとやらがどういうものかは調べてみなければ分からんが、恐らく、そうじゃろうのう』

「猫の姿だったときは、浄化の魔法や雷撃の魔法は使えましたけれど、……魔力が封じ込められているのに、どうして使えたのでしょうか」

『わしらの場合は、魔力超過したときは体力を使うからのう。自分が組んだ呪文も魔力の消費が少ないものであれば、多少の無理は効くじゃろうて』

「ああ。確かに若干……」

疲れたかもな……と、サティが考え込んでいると、猛烈な怒りのオーラを隣から感じた。……ピウニー卿が、猫一匹程度なら視線で殺しそうなほど、睨んでいる。サティが思わずたじろいだ。どうやらその怒りのオーラは、自分に向けられているらしい。

「サティ……」

「な、なに、なに怒ってんのピウニー」

「魔力超過したときは体力使うというのはどういうことだ」

「……どういうことだも何も、その通りで……」

「サティ! 魔力が無いなら魔法を使うな!」

「なんで、そんなに怒ってるのよ」

「怒ってはいない!」

「いや、明らかにおこ」

「サティ!」

ピウニー卿はきわめて不機嫌だ。旅をしていたときは、サティはしょっちゅう浄化の魔法を使って自分たちの毛皮を綺麗に保っていたが、それだけのためにサティの体力を消費していたかもしれないと考えると、ピウニー卿はなぜか苛々した。

さらに何か言い募ろうとしたピウニー卿を遮って、サティは理の賢者へと視線を移す。

「師匠。それならば、私達はなぜ元の姿に戻ったのでしょうか」

『恐らく、3分の1は魔力が戻ったからじゃの』

「残り3分の2は?」

『戻っておらんのう』

まだ何か言いたげだったピウニー卿も、2人の会話をおとなしく聞いている。

「師匠。……それならば、呪いの魔力の3分の1が取り払われたのは何故でしょうか」

弟子の質問を受けて、理の賢者は再びふむりと髭を撫でる。

『古来より、真に元に戻って欲しいという願いと愛と真心のこもった恋人のチッスはありとあらゆる呪いを解くものじゃろうて』

「はい?」

「……」

真に元に戻って欲しいという願いと愛と真心のこもった恋人のチッス(注:キス)? それを聞いた、サティとピウニー卿の表情が微妙なものになった。ピウニー卿が、若干気まずげに咳払いをする。

「えー。理の賢者殿、それは」

「つまり……」

『元に戻るにはちょっと中途半端なチッスじゃったということじゃの』

「中途半端……」

ピウニー卿がなぜか反芻し、サティはなぜかいたたまれない気分になった。えー……っと、呪いが完全に解けなかったのは自分のせいだろうか。でも急にそんな愛とか真心とか言われても……。

「ちょっと待ってください師匠」

『なんじゃの』

「その場合、どちらがどちらに……?」

サティの質問を受けて、理の賢者は、長い髭を撫で下ろして楽しげにふぉふぉふぉと笑った。

『そりゃあ、お互いの呪いが解けたということは、どっちからもアレじゃろうアレ。若いもんはええのう!』

「どちらも……ですか?」

ピウニー卿がハッとした顔になった。真面目な表情を浮かべ、顎に手を宛てて何かを考え込んでいる。

一方、サティはブツブツと何事かを呟いている。

そもそも、逆説的に言えば、あのときの2人のあの口元ぺろり。……キスというよりも、舐めたという表現の方が当てはまる気がするが……。そのときの自分の気持ちに、真に元に戻って欲しいという願いと、愛と、真心と、恋人、この中の、何らかの要素があった……ということになる……のだろうか。え? いやいや。何それ。どうやら中途半端なキスをしてしまったらしい当のサティは、どういう反応をすればいいのかまったくもって分からない。

「それはつまり……。もう一度真に元に戻って欲しいという願いと愛と真心の籠もった恋人同士のキスをすれば呪いが解けるということでしょうか」

ピウニー卿がやや真剣な顔つきで、賢者に問うた。

その間も、やはりサティは悶々と考え込んでいた。いやいや、でもちょっと待て。確かにあの時は自分の方から積極的に口元ぺろりだった。それは認めよう。主体と対象を見据えれば、サティからピウニー卿への愛だか真心だかのどれかのベクトルがアレしていると判断できるが、サティの呪いも中途半端に解けている事態から見れば、ピウニー卿からサティへの愛だかなんだかのどれかのベクトルが、あれー?

っていうか、ピウニー卿。なにどさくさにまぎれて、その質問。どういう意味? ワンモアチャンス的な?……現実に戻ってきたサティがうさんくさそうな表情でピウニー卿を見たが、あっさりと、賢者は首を振った。

『いやいや、もう無理じゃ。変化のきっかけにはなるがのう』

「え」

「え」

『え。知らんの?』

3人が3人それぞれ、きょとんとした表情になった。賢者がごく当然のことのようにきっぱりと言う。

『だって、チッスによる呪い解除のお約束は1回じゃもん』

「なぜですか!」

『当たり前じゃよ。あれは世界の願望と夢と希望で出来た例外処理じゃし。そんな例外が何回もまかりとうとったら、わしらみたいな魔法使いいらんじゃろ。それに呪い解くのに何回もちゅっちゅちゅっちゅしてるところを見たことあるかの?……普通はそんなに何回もかからんじゃろう。1回じゃ1回。それに愛は育むもので、チャンスは1回と相場が決められておるのじゃ!』

「相場だと……。1回きりだと……。貴重なチャンスを……。くう……っ、それが世界の答えか!」

何故か、ピウニー卿が頭を抱えた。

『まあ、一度わしのところに来るがよい。詳しく見てみんことには、分からんからのう……』

がっくりと2人は気落ちする。って、がっくりじゃないし! サティは我に返った。元々そのつもりだったし、愛と真心と恋人がどうのこうのという例外処理がもう通用しないからって、そこにがっくりしてどーする!

『まあ、新婚旅行じゃと思て、ゆっくりわしのところに来るとよかろ。サティや』

「はい? って新婚旅行!?」

『自力でおいで』

「へ?……じりきで?」

『お前さんの座標分かるから迎えに行けるんじゃけど、ついでに杖の賢者のとこで修理中のわしの杖回収して、お前さんの杖作ってもらってからおいで』

「ええええ!?」

『愛に障害はつきものじゃからのう!ふぉふぉふぉふぉふぉふぉ!』

「ちょ、師匠!ししょーーー!愛って、愛ってなんですか!」

『愛。愛とは試練じゃよ。修行じゃよ。ふぉーふぉふぉふぉふぉ』

それ以上の説明が面倒になったのか、賢者は消えた。
呆然とそれを見送るサティ。
何事かを真剣に考えているピウニー卿。

やがて、ピウニー卿がぽつりと言った。

「愛、か……」

「何よピウニー」

「サティ」

隣に座っていたピウニー卿の低い渋みのある声が、すぐ耳元で聞こえた。ピウニー卿は若干引き気味のサティの腕をむんずと掴むと、ずいぶん熱の籠もった瞳で見つめてくる。もう片方の手で腰を抱き寄せ距離を詰めた。腕をつかんでいた手を離して背に這わせ、サティのセピア色の髪を梳くように頭を抱きかかえる。

「あのときのサティの口付けは……、元に戻って欲しいという願いと、愛と、真心と、恋人と、どれにあたるんだ……?」

「……は? ちょっとピウニーさん? 急にどうしました?」

「サティ、私は……」

ピウニー卿の甘い吐息がサティに降りてきた。色めいたそれはサティにも抗い難く、2人の顔が自然と近づく。

「サティ……」

「ピウニー……」

どちらからともなく互いの名前を囁くように呼んで、2人の唇が触れ合

「うきゃ!」

「おうふ!」

2人の唇が触れ合う瞬間。

ピウニー卿の身体は絹のようなさらさらのさわり心地の毛皮に沈み込み、サティの身体に小さなネズミの重みがかかった。今まで着ていた服が、中身を失ってしょんぼりと地面に崩れ落ちていく。

「え」

「え」

『あ、言い忘れたんじゃけどもね』

再び賢者が現れた。

『その洋服とシーツもろもろ、そこに落ちとるネックレスに入れて持っとけるようにしといたからの』

2人は。……いや、2匹は顔を見合わせた。

「って、師匠。ししょーーーーーーーーーーーー!!」

『ふぉふぉふぉふぉ……。愛じゃのう、青春じゃのう』

「いや、青春っていう年齢じゃないですよこの人どう見てもーーー!」

「おい、サティ、それはどういう意味だ。私とてまだまだ、」

猫とネズミを残して、今度こそ賢者は消えた。