「う、ん……。ピウ……ひーげ、ひげくすぐったい」
「サティ、身体を、腕を離せ……」
「だって、ピウの毛皮がもふもふでー……」
いや、違う。
全然もふもふしていない。
サティのグリーンの瞳が眠たげに開く。眼前にあるのは少し硬めの色の薄い金髪で、鎖骨辺りに触れているのはしょりしょりした肌触り。そしてサティはふかふかの繊細な毛皮ではなく、妙にがっしりした硬い肩を抱え込んでいた。ちょっと待て。なんで私はこんなものを腕に抱え込んでいるんだっけ。そもそも何このしょりしょり。
我に返った。
「ピウニー!……な、なんで、にんげ、にに、人間に」
「いい加減、落ち着けサティ、ちょっと離れ……」
言われてサティは身体を離す。離れるとサティの身体の曲線がピウニー卿の視界に入った。視界に入れたのではない。入ったのである。
「いや違う、今は離すな、見える」
「見ないでってば!」
「見てはいない!」
「もう、ちょっと朝っぱらから何か、あた、あたってるから! ピウの変態ーーー!!」
「おいちょっと待て、そんな格好で人を抱き寄せておいて変態は無……」
「別に抱き寄せてないし!」
「いや完全に抱き寄せていただろう。それに今は朝で、男なんだから仕方が……」
「そっちの言い訳はいいからまず最初に目ぇ閉じてーーーーー!」
「あああああ、そうだったすまん」
騎士の名に誓って見たのではない。あくまでも、見えたのだ。そもそも人の気配に目が覚めたら、こういう状態だった。それにアレとかソレとかは不可抗力。起き抜けなんだから仕方が無い。これ以上のいわれのない疑惑を防ぐために、ピウニー卿はおとなしく目を閉じた。
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「いい天気だな、サティ」
「そうね、ほんっとーにいい天気ね」
街道をセピア色の毛並みの猫が歩いていた。首には綺麗なグリーンの石が付いた首輪をしている。その背の上には、薄い金色の毛並みのネズミが乗っていて、小さなベルトに剣を挿していた。ピウニー卿の口元が、不満げにぴくぴくと動く。
「まだ機嫌が悪いな……。寝てる途中で元に戻ったくらいでそんなに怒らなくてもよかろう」
「怒るわよ。1回呪いが解けたらしばらく戻れないし、戻ってもすぐには人間になれないんだから。もっと計画的に利用しないと困るでしょ! それに、起きたらはだ……はだ……」
「はだ……、なんだ」
「なんでもない!ピウニー、それ以上言うと落すわよ」
「落すわよ」というサティの声に、ピウニー卿が先制を切ってすとんと降りた。髭をゆらゆらと揺らしながらサティの横を歩き始める。背中から重みが無くなったサティは、ピウニー卿の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩いた。怒っているならさっさと先に行けばいいのに、ピウニー卿が降りて歩いているときは、必ずサティは歩幅を合わせてゆっくり歩くのだ。その様子を見ると、ピウニー卿はとてもご機嫌な気持ちになるのだが、言葉にするとサティが怒るので、ただ髭を揺らすだけに留める。
2人が賢者と別れて1週間。こんなやり取りも、もう3回目だ。早い話が、2日に1度、こんなことをやっている。せっかく呪いが解けたと思ったとたん、再び猫とネズミに戻ってしまった2人は、こうして変身を繰り返す度に徐々にその法則性が分かってきた。
1.人間に戻るのは、2人の口元ペロリ……もとい、キスがきっかけ。
2.一度戻ると、1日のうち3分の1(8時間)だけ人間で居ることができる。
3.8時間経過で突然猫とネズミに戻る。
4.猫とネズミに戻ったあと、1日のうち3分の2(16時間)は人間に戻れない。
補足.1日の3分の1しか人間でいられないのは、自分達の体内に魔力が3分の1しか残っていないからだと推測。
自分達の状況を確認していたサティはしょんぼりと耳を寝かせた。調子に乗って人間になれば8時間経過で、どんな状況かなど関係なく猫とネズミに戻ってしまうし、16時間経ってうっかり口元ペロリしてしまうと人間に戻ってしまう。当然のことながら、全裸で、だ。
「大体、あれは私のせいではないだろう。朝、寝ぼけてサティが私の顔を舐めたから……」
「ああもう、ピウニーしつこい」
「本当のことではないか」
「そっちだってこの間私の口元に頭突きしてきたじゃない」
「あ……あれは、寝返りをうっただけだ。それに頭突いてはないから頭突きではない」
「頭突きじゃなかったら何なのよ」
「たまたま口元が当たっただけだ」
ピウニー卿の髭がぴーんと張って、そのあと上下にさわさわ動く。サティはふーんと半眼になった。ピウニー卿は勝手に動いてしまう髭を前足で撫でる。本当は、サティからだけではなく、自分から口元ペロリとしてみても人間に戻れるのかどうかを試したのだが、そんなことサティに言えるわけがない。ちなみに、結果は正、だった。
「む。なんだ」
「別に」
サティは前足で自分の顔を洗った。
2人ともこうして出会うまで、たった1人の放浪の旅だった。ピウニー卿は身体が小さいためにそれほどの距離を稼ぐことができず、グラネク山を降りるのすら、かなりの時間が掛かった。サティは王都の地下水路に逃げ込み、激しく道に迷った挙句に王都外れの森に出て街道を歩いているところを人間に拾われた。だが、話すことができる……というのがバレて、海の向こうの商人に売られそうになって逃げ出して以来、ずっと普通の猫のフリをしてきたのである。様々な人に拾われては逃げ出し、逃げ出しては拾われて、を繰り返していた。
つまりお互いこの姿になってから2人旅というのは初めてなのだ。理の賢者に会う……という、はっきりとした目標と、互いの身の上を理解し合う道連れが出来たのはありがたかった。眠るときだって、相手の毛皮があるから寒くない。起き抜けに全裸になるのは困ったものだが。
あれから、2人はひとまず王都を目指して歩いていた。理の賢者の住まいへ向かうのが最終目標だ。だが、途中、杖の賢者の住まいにも寄らなければならず、そもそも猫とネズミのまま歩いていてはいつまで経っても着きそうにない。そこで、馬か何かの手配をするために王都へ入り、事情を話せそうな人物に会うことになった。
だが、ピウニー卿は既に故人になってしまっているし、姿を現せたとしても1日8時間まで。あまり軽々しく生きている……と知られるわけにもいかない。さて……一体誰に相談するか。そこは、ピウニー卿に心当たりがあった。さすがオリアーブ国で王の信頼も厚い騎士をやっていただけある。
それはピウニー卿の弟妹だ。ピウニー卿……本名はピウニーア・アルザス……という。由緒正しい武家、アルザス家の長子だった彼は魔竜退治に出かける前に、覚悟の意味で相続権を放棄した。それに合わせて両親は隠遁し、ピウニー卿の弟、パヴェニーア・アルザスが家督を継いでいる。さらに、ペルセニーアという末の妹も居る。彼女もまた、王宮に勤める騎士だ。アルザス家に戻って彼らに接触すれば、話を聞いてくれるだろうということだった。
「弟さんと妹さんか。どんな人なの?」
「弟は恐れ多くも白翼の騎士団長を務めていて、既に結婚している。私が家を出たとき、妹はまだ結婚しておらんかったな」
「えっ、騎士団長っ!? すごくない?」
「恐れ多くも……と言っただろう。……そうはいっても、弟は兄の私から見ても、実力は確かだ。それに白翼は若い人間が集まっているからな。騎士団長も若い人間が選ばれたのだ」
「そんなに若いの?」
「私より2つほど下だ」
「……そんなに若いの?」
2回聞いた。
「どういう意味だ」
別にどういう意味でもないです。
それにしても……とサティは視線を逸らす。視線を逸らすと同時に、耳も逸れた。ネズミと猫の気安さですっかり忘れていたが、ピウニー卿はサティですらその物語を知っている程の偉い騎士様だ。その弟が白翼の騎士団長をやっていても、別におかしくはない。よく考えるとサティにはなじみの無い人種である。こういうことでもなければ関わることもなかった人なのか……などと思うと、なんとなく面白くなかった。普段は憎まれ口を叩いているが、そういう態度を取ったら本当は失礼にあたる人なのかもしれない。でも今更態度を改めるのも違う気がして、サティは「ふーん」とだけ言っておいた。
ピウニー卿はサティのそんな思いには特に気付かず、全く別のことを口にした。
「そうだ、サティ。弟のパヴェニーアには、気をつけろ」
「気をつけるって何に」
「今では落ち着いているとは思うが……」
「だから、何が?」
「むう……まあ、会えば分かる」
ピウニー卿が珍しく言葉を濁し、髭がなんとなく警戒するようにゆらゆら跳ねていた。