第1章 王都へ

006.機嫌よく喉を鳴らすな

とある宿場町。その町一番の高級宿の下っ端料理人は、裏口を出て賄いを食べているときに、セピア色の綺麗な小柄な猫を見つけた。短い毛並みは艶やかで、大きな瞳は宝石のようなグリーンだ。首には、瞳と同じグリーンの石が付いた細い鎖の首輪を付けている。

「にゃーう」

「どうしたの。迷子かい?」

「にゃうう……」

料理人の問いに、猫は耳をしょぼんと落とした。

「そうか……僕は住み込みだから、飼うことは出来ないんだけど……。あ! そうだ、お腹空いてない?」

「にゃう!」

猫はまるで人間の言葉を解したように、尻尾と耳をぴんと立てた。動物好きの人間というのは、大概動物に話しかける。そして、自分の話している言葉が動物達に通じている様子を見ると嬉しく思うものだ。料理人は顔を綻ばせ、「よかったら、これをお食べ」と言って、自分の食べていた賄の皿の上から、パンに肉の切れ端を挟んだ残りをくれた。

「にゃーん……」

猫は、料理人の足元にすり……と顔を摺り寄せた。愛らしい顔で料理人を見上げると、「にゃう?」と小さく鳴いて、首を傾げてみせる。「もらってもいいの?」と言わんばかりの猫の表情を見て、料理人は思わずにへら……と微笑み、「よしよし」……と言いながら、大きな手で頭を一撫でして、首をこちょこちょしてやった。

「うなーん」

猫は瞳を細目てグルグルと喉を鳴らすと、もらったパンをかぷりと咥えて路地裏へと消えていった。

「子供でもいるのかなー。可愛い猫だったな。でも、首輪をつけていたから……だれか飼い主が探しているかもしれないな」

猫が去っていった方を見ながら、料理人は伸びをした。これから夕食時だ。もう一仕事、残っている。

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「せめてご飯食べるときくらいは人間でいたいわよね……」

「むう……。確かに。だが、先立つものが無くてはな」

「ああ……そこが問題だわ」

サティとピウニー卿は、サンドイッチの端っこを囲んでため息をついた。猫とネズミの身体であれば、確かに食べ物は少なくて済んでいる。優しそうな人を見つけてサティがおねだりすれば、大抵の人は人間が食べるものと同じものをくれるし、それをピウニー卿と分けて食べても充分な程度に食いつなげているのだ。だが、やはり元は人間。特にピウニー卿は騎士なのだ。きちんとした食事をきちんとした代価で食べたかった。

だが、今の2人には金がない。たかだか8時間ほど人間に戻ったところで、それは同じだ。今でこそ、服とシーツをしまっておける旅人必携の4次元ネックレス(理の賢者作成)があるが、それを売り払うわけには当然いかず、そもそも猫とネズミでは稼ぐ手立てが無い。王都に出向けばピウニー卿自身の財産があるから、早いところ旅路を進まなければならんなあと、ピウニー卿はパンと肉を小さくちぎってもぐもぐと頬張った。

「ところで、サティ」

「ん?」

「さっき、あの男に喉を撫でられて妙に機嫌よく鳴いていたな」

「え?」

ふん……とピウニー卿は不機嫌そうに、ほほ袋を押さえた。食べ物を租借していると、どうしてもそこに溜めてしまうらしい。

「なによそれ……。だって、噛み付くわけにはいかないでしょう」

「噛み付けとは言ってない。あまり機嫌よく喉を鳴らすな、と言っている」

「別に機嫌よく鳴らしてなんかないわよ」

む……とした口調でサティが耳をぴろんと揺らす。

猫のサティが女性に懐いているのを見ると微笑ましく思うのに、それが男になるとピウニー卿は何故だかイラっとするのだ。しかも機嫌よく喉を鳴らすなど、なんともけしからん。それが猫の処世術だとは分かっていても、ピウニー卿はなんとなく気に食わない。

「とにかくだな……淑女たろうもの……」

「ピーウ!……もう、馬車とか商隊とかの話はどうなったの? 何か分かった?」

「む、サティ、聞いてるのか?」

「聞いてません」

「聞け」

「ピウニー……」

サティは毛を膨らませると、声を低くして顔をピウニー卿に近づけた。一瞬たじろいだピウニー卿は、こほんと咳払いして前足を組む。サティが食料を(もらえそうな人を)物色している間、ピウニー卿は高級宿の厩や食堂などに入り込み、聞き耳を立てて情報収集をしていたのだ。

「明朝、王都を目指す商隊があるそうだ。1隊はヴィルレー公爵領から出ている。それに乗れば安心だろう」

「公爵家? そんなえらい人の商隊に乗っていいの?」

「よくはないが、仕方あるまい。荷も大きいだろうから、我ら2人程度、奥深くに潜れば分かるまいよ」

それに公爵家直属ともなれば、それなりにしっかりとした警備体制のはずだ。食べ物だけはこっそりと盗まなければならないのが気が引けるが、ここから王都まで馬車で行けば3日もあれば着く。その間、猫とネズミの分の食べ物くらい、拝借しても罰は当たらない……と思いたい。

「公爵様って、ピウも知っている人?」

「いや。知り合いというわけではない。見かけたことがあるくらいだな。私は王宮にはほとんど居なかったし……。野心の無い穏やかな人物だとは聞いている。まだ若いが、宮廷のまつりごとからは一歩退いて、今は王太子の教育係だとか、そういった職についていたはずだ」

サティ自身はオリアーブの魔法研究所によく出向いていたので、王都に行ったことがないわけではない。もっとも、魔法師団に所属しているのではなく、あくまでも理の賢者の使いとして協力していただけだ。世間話や噂程度なら知っているが、宮廷や騎士団に関わったことがあるはずがなく、ありていに言えば興味が無かったため、さほど宮廷事情に詳しいわけではなかった。

公爵の名前は、ヴィルレー公爵という。サティも、名前程度なら聞いたことがあった。

オリアーブ国は現在、国王のジェレシス・オリアーブによって統治されている。白翼・黒翼という2翼からなる屈強な騎士団と魔法師団で構成された平和な国だ。三方が山、一方が海という立地に恵まれ、他国から侵略の危機に晒されることもあまり無い。もっとも、近年増加した凶悪な魔物の存在によって戦争どころではない……という一面もある。国同士の小競り合いは無いが、騎士団は魔物の討伐に派遣され、魔法師団は有効な魔法剣や術式を開発するために忙しかった。

国内で魔物が出現してもよく統治された騎士団がすぐに駆けつけ、魔法師団の協力によって効果的に魔物を討伐している。先王から仕えている宰相の手腕により、それまで付かず離れずだった騎士団と魔法師団の協力体制が敷かれ、互いに交流しその技術を役立てるようになった。

それに1年前、ピウニー卿の退治した魔竜がグラネク山の麓の村や町を襲った記憶はまだ新しい。あの事件により一層騎士団と魔法師団の結束は固くなり、各地の守りは強固なものになっている。

そのオリアーブ国の現国王の従兄弟に当たるのが、ヴィルレー公爵だ。彼は非常に穏健な人物で国王からの信頼も厚い。歳の頃は40にも満たず、宮廷に入ってもこれからという若さだったが、妻を亡くしてからというもの、政は宰相に任せて、再婚もせずに静かな生活を送っていた。それでも、国王に請われて領地には戻らず王都に邸宅を構え、国王の息子……ジョシュ・オリアーブの教育指南役という地位に着き、王子付きの教師団を取り仕切っている。王族といえど学校に通い、同じ年頃の子らと共に勉学に勤しむのが本来なのだが、現在国王の息子は病がちで王宮に臥せっているという。このため、ヴィルレー公爵が各方面の信頼の置ける教師を手配し、王子の教育を行っているのだ。

「その馬車に乗っていけば、恐らく王都の公爵宅まで行けるはずだ。王宮にも近いだろう」

「王宮に近くていいの? ピウの家は?」

「私の家も遠くはない。武家といえど、一応伯爵の地位をいただいているからな」

「え」

「なんだ」

「世が世なら、ピウニー卿は伯爵様だったの……?」

サティの頭の毛が逆立ち、耳が警戒するように後ろを向いた。

「それがなんだ」

確かに、竜の討伐がなければ、ピウニー卿が家督を継ぎ、アルザス伯爵となっていたに違いない。だが、ピウニー卿は竜の討伐が決まってから、弟に家督の相続権を譲っているし、自分が伯爵の地位に就いたことはない。身分的には一介の騎士に過ぎない。今更サティに貴族様扱いされて、2人の距離が開くのも気に食わない。ピウニー卿の耳も後ろにぺたりと寝てしまった。だが、サティは何故かフ……と鼻で笑ってぼそりと呟いた。

「裸で抱きついてくるくせに貴族様とか……」

ぴこーんと2人の耳が同時に前を向いた。

「……だーかーらっ、それは今は関係なかろう!……ともかく、家督はパヴェニーアが継いでいて、私は伯爵なんぞではないのだ」

ピウニー卿はサティの眼前で短い前足を組んだ。

「そもそも人間になったときに裸なのはお互い様だろう。第一いつも抱きついてきておるのは、サティではないか」

その言葉に、サティはつーんと顔を逸らす。長い尻尾がきょろきょろと動いて地面を叩いた。

「別に抱きついてないもん」

「抱きついておる」

「抱きついてません」

「ほほう。まあいい。じゃあ、そういうことにしておいてやろう」

「なによそれ」

「別になんでもないが?」

何故かご満悦のピウニー卿に、サティはなんだか敗北したような気分を味わった。誤魔化すように頭をふるふると振り、座っていた身体を起こして伸びをする。

「もう、こんなこと言ってる場合じゃないでしょ。早く馬車のところに行くわよ。その馬車どこ?」

ピウニー卿はサティとの変わらぬやり取りに、満足げに髭を揺らしていたが、さっさと歩き始めたサティを追いかけるとその歩幅が緩まった。相変わらず、自分の歩幅に合わせて歩くサティを見るのは、何故か心が浮き足立つピウニー卿だった。