「おい……。また変な声が聞こえなかったか?」
「気のせいだろう。これは由緒正しいヴィルレー公爵の商隊だぞ? 幽霊なんぞ憑いているわけが……」
野営をしていたヴィルレー公爵付きの商隊の見張りの兵士は、この2日ほど、夜中になると商隊の荷から女の声が聞こえてくるという噂にびくびくしていた。この兵士は、お化けとか幽霊とかそういった話が苦手なのである。今日は最後の夜。幸いなことにいまだに噂の女の声は聞いていない。それなのに、さっきから相方の兵士が聞こえただのなんだのと、恐怖心を煽るようなことばっかり言っているのだ。あーあーあーあーあ。あれは、ただの噂。きっと気のせい。前立ち寄った町までは、そんな噂は出てこなかったし。
だが。
「ほら、また……おい、ヤバいんじゃねーのか……」
相方の兵士が、隣で緊張する気配が分かる。
「だから、気のせいだって、俺には聞こえな……」
『……うぅ、ん……』
兵士の耳にも今度は確かに聞こえた。微かだが、若い女のため息のような切なげな声だ。相方が、びくっと肩を震わせ後ずさりする。
「お、……おい、お前ちょっと見てこいよ」
「……は? なんで俺が?」
「いいから見て来いって……!」
「嫌だよ! お前行けよ」
「……くっそ、じゃあ一緒に……」
相方は嫌がる兵士を引っ張って、高級な荷物が置いてある幌の帳をそっと開く。
『……ピウー……』
何、今の!
ピウーってどういう意味!? 擬音? 鳴き声?
果たして言葉なんだかよく分からない声が聞こえ、2人は顔を見合わせた。
『……わたしはへんたいではない……』
今度ははっきりとした言葉だ。だが、先ほどの女の声とは違い、低く渋い声だった。重低音の響きは只者の声とは到底思えない。
兵士は思わず「はいぃ! 変態ではありません! 変態ではないですから許してください!」……と平伏しそうになるのを堪え、2人抱き合ってがたがた震えていると、
コン。
小さな小さな音が響いた。その後、パタンパタンと何かが倒れる音が近づいてくる。公爵の荷馬車といってもそれほど大きいものではない。その音はすぐに2人の側まで来た。その眼前に、どさりと小さな塊が倒れこむ。
「デターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
2人の目の前にかくんと現れたのは、どうやら綺麗な人形だった。平常時なら愛くるしいその姿。だが今はスカートが荷に引っかかって逆さ吊りで、寝かせれば眼が閉じるという(余計な)仕掛けが施されているせいか、逆さまの状態では何故か白目を剥いていた。
****
3日ほど馬車に揺られると、ピウニー卿とサティは無事に王都に到着した。
その間、2人は実におとなしくしていた。隊員の食料を置いている幌に潜めば食べ物にも事欠かず、寝るときは運んでいる荷物の中でも一番高級な荷に移ると、ほとんど手も出されない。身分の高い家の商隊だけあって、安全な場所も通り護衛もばっちり。休憩も十分に取り、強行軍ということもなかった。寝ぼけて口元ペロリが無いように、お互い離れて眠っていたことも功を奏して、思いがけない場所で人間に戻ってしまう……ということもなかった。途中、見張りが何か恐ろしいものを見たらしく、出たとか出ないとかいう叫び声で眼が覚めたことがあったが、見張りの人の見間違いということで処理されたようだ。
「何か怖いものでも見たのかしら……」とサティが首を捻ってると、「ううむ。私はそういうものは見ない性質だから分からんな……」とピウニー卿は髭を撫でた。
****
「荷物が届いたのね!……人形も届けたって。どんな人形かしら」
「こら、悪戯をしてはいけないよ、セラフィーナ」
「もちろん分かっているわ、お父様!」
ヴィルレー公爵の邸宅に商隊の馬車が着いたのはその日の午後だ。領地からの交易用の荷はそれなりの場所に送られたが、1台だけ公爵の個人的な荷などが載せられた馬車があり、それは直接公爵の王都邸宅の敷地に乗り入れられた。ピウニー卿とサティは、その馬車に乗っていたのだ。一番高価な荷物が入っているから、恐らくこれで間違いないだろうというピウニー卿の判断による。
息を潜めて外をうかがっていると、小さな女の子の声と爽やかな男性の声が聞こえた。恐らくヴィルレー公爵とその令嬢だろう。幌の布に頭を突っ込み、隙間からそっと外を覗いてみると、そこには薄い赤金色の髪にグレーの瞳を輝かせた少女と、端正な顔に優しい微笑を浮かべた男が荷物を迎えていた。男の方がヴィルレー公爵だろう。彼は、女の子……セラフィーナと呼ばれていた……に目を配りつつ、商隊長からの簡単な報告を受けている。
「幽霊……?」
「ええ。昨日の晩になりますが、女の声と男の声が聞こえたとかで……」
「この荷から?」
「はい」
ヴィルレー公爵は、怪訝そうに馬車の幌に目を向けた。ピウニー卿達の視界からセラフィーナが消える。
「こら、フィーナ! 幌に入ってはダメだ、何があるか分からないから……!」
ピウニー卿とサティは思わず顔を見合わせた。それとほぼ同時に、不規則な小さな足音が聞こえてくる。
「まずい、サティ……隠れ」
ピウニー卿は、身体の大きさを上手く生かして荷物の隙間に忍び込んだ。サティも荷物の影に隠れようと頭を下げる。そのときだ。「きゃあ!」という可愛らしい声が聞こえて、サティの身体がふわりと浮いた。
「フィーナ!」
すぐさま、大きな足音が続く。サティを抱き上げたのは公爵令嬢だったらしい。セラフィーナの横に身を低くしたヴィルレー公爵がやってきて、少女の肩を抱き寄せた。サティは、荷物の隙間からこちらを伺うピウニー卿にふるふると首を振る。こんな小さな女の子に、爪だの牙だの立てられるはずがない。
「サティ、私がそちらに行く」
「にゃう。にゃーーーう」
ピウニー卿の声が周囲に聞こえないように、サティは鳴き声を上げた。それを聞いてピウニー卿は頷き返し、荷の隙間に戻っていく。
一方、ヴィルレー公爵は腕の中の娘を確認した。自分の方を振り向いた娘の顔は期待に満ちて輝いている。その小さな腕の中では、セピア色の綺麗な小柄な猫が毛を逆立てて、緊張したように四肢を突っ張っていた。
****
「ねえ、お父様! この子、飼ってもいいでしょう?」
「いや……こんな綺麗な猫……?しかも、首輪をしているし……」
セラフィーナとヴィルレー公爵は既に幌から降りている。セラフィーナの腕の中で、猫は相変わらず四肢をピンと伸ばしたままだ。大きなグリーンの瞳はまん丸で、瞳孔は開きっぱなし。相当緊張しているのだろう。だが、暴れてはいない。ヴィルレー公爵は恐る恐る手を伸ばしてみる。「旦那様!」執事が咎める声が聞こえたが、猫一匹のことだ、大人1人が引っ掻かれたとてそれほどのものではないだろう。ヴィルレー公爵が手に取ったのは、猫の首にかかった金色の鎖だ。首輪のようにかかっているそれには、見たことも無い綺麗な、……猫の瞳によく似たグリーンの石がぶらさがっていた。毛並みも美しいし、到底野良猫ではないだろう。だが、野良猫ではないとしたら、誰かの飼い猫ということになる。しかも、一般庶民ではない、恐らく富裕層が飼っている猫なのではないかと思われた。
「猫?……どこから入り込んだんでしょうか」
いつのまにか商隊長が近くまで来て、首をかしげている。ヴィルレー公爵、執事、商隊長。大人3人が猫を見て頭を悩ませている様子に、セラフィーナは猫の脇腹を持って手を伸ばした。
「とってもいい子よ、この子! 大人しいもの」
確かに猫は大人しかった。それでも、いつ爪や牙が娘に引っ掛かるかもしれない。ヴィルレー公爵は猫を捕らえようと手を伸ばした。途端に猫の毛がぶわわと逆立ち、それを見たセラフィーナが、ぷいと他所を向く。
「ダメ!この子、お父様のこと怖がってるわ」
「フィーナ、待ちなさい。その子は他所の家の猫かもしれない。きっと飼い主が探している」
ヴィルレー公爵が言った途端、セラフィーナが迷ったように父親を見上げた。
「その子も飼い主のことを探しているかもしれないだろう。返さないと」
「だったら……だったら、見つかるまでフィーナがこの子のママになってあげるわ!」
「ママになる」という言葉に、ヴィルレー公爵の手が躊躇った。その隙に、セラフィーナがたたたと駆けていく。ヴィルレー公爵は執事へと頷く。執事も心得たように頷いて、セラフィーナの後を追った。
「かまいませんので?」
「あれほどの猫だ。……別の飼い主が探しているというのは間違いないだろう」
「そのことですが……」
商隊長が少し考え込んだように言葉を続ける。荷の確認は常に行っているが、荷を全て一度降ろした確認は3日前に立ち寄った大きな宿場町でのことだ。そのときには、猫の姿はどこにもなかった。あのような猫が街道の途中で迷い込むということはないだろうし、恐らくその宿場町で迷い込んだのではないだろうか、と。
話を聞いたヴィルレー公爵は、ふむ……と考え込んだ。
「なるほどな……。仕方が無い。その宿場町に連絡をして、こういった猫を探している飼い主はいないかと聞いてみてくれないか? もし飼い主が見つかれば、今度の商隊が出かけるときに連れて行ってくれ。もしいなければ、……セラフィーナが気に入っているようだし、うちで世話をしても構わないだろう」
「……わかりました」
指示を出したヴィルレー公爵は苦笑して、セラフィーナが走っていった方に目を向けた。
「それにしても、……ママになる……か」
ヴィルレー公爵が妻を亡くして6年になる。セラフィーナはほとんど母親の姿を覚えていない。公爵家という恵まれた環境で、良き家人に囲まれてもいる。我侭に育ってもおかしくはなかったが、ああ見えて聡い。何故自分に母はいないのかという子供ながらの素朴な疑問も、空気を読んで言わないようになってしまった。その娘が「ママになる」と言った言葉は、何故かヴィルレー公爵の胸に深く残った。
こうして、ヴィルレー公爵家に商隊の馬車が到着したのだが、小さな金色の毛並みのネズミがセラフィーナを追って家の中に入ったのを、見咎めるものは誰も居なかった。
****
「ねえ、君はなんていう名前なの?」
「にゃ……にゃーん……」
サティはセラフィーナという公爵令嬢の部屋で、毛並みを撫でられていた。爪を立てればあの場は逃れられたのだろうが、この小さな少女にそんな粗相はできなかった。思わず大人しく連れてこられてしまったが、……ピウニー卿は大丈夫だろうか。隙を見て探しに行かなければ。そう思うのだが、セラフィーナはぎゅっと自分を抱きしめたまま、なかなか離してくれない。
毛皮を撫でられていたサティは、セラフィーナに顔をむに……と両手で挟まれた。セラフィーナはサティのグリーンの綺麗な瞳を覗き込み、うっとりと微笑む。
「綺麗なグリーンの瞳! 貴方のことはグレンって呼ぶわ」
「にゃ……にゃー……」
「グレン? 喉が渇いた? お腹すいた?……何か持ってきてあげるわ、いい子で待っていて!」
セラフィーナはサティをソファに置くと立ち上がり、執事の名前を呼びながら部屋を出て行った。サティはほっと一息つく。だが、すぐさまソファから立ち上がり、床に降り立った。そっと扉に駆け寄り、ぐいと扉を押してみる。幸いなことに、きちんと閉ざされていなかった扉は開いた。柔らかな肢体を隙間にくぐらせ、サティはゆっくりと廊下を見回した。
さすがに公爵家の邸宅となれば広い。ピウニー卿は、「私がそちらに行く」と言っていた。サティは頭をきょろきょろとさせた後、身を低くした。ピウニー卿の姿を探す。いつもは憎まれ口を叩いているが、旅路の間ずっと一緒に居た。その小さな身体が見えなくなるのは、妙に不安だった。
「……サティ……こっちだ」
サティの耳が声の方向に揺れた。
廊下には誰も居なかったが、掠れたような男の声が聞こえる。サティは廊下の片方に視線を向けた。そこには布を張ったベンチが置かれていて、その足元にちらりと薄い金色の毛並みが見える。サティは迷わず駆け寄った。
腰に佩いた剣が間違いない、ピウニー卿だ。
ピウニー卿は、サティがセラフィーナに連れて行かれたと同時に幌を出て、茂みから茂み、物陰から物陰へと伝い渡り、セラフィーナの後を追いかけたのだ。扉を閉められたのには焦ったが、窓の隙間から身体を潜らせるとなんとか邸内へと忍び込むことができた。後は執事や侍女達の動きを追って、セラフィーナが入っていった部屋を突き止めたのである。皆、セラフィーナとサティに気を取られ、ネズミ一匹の侵入には気付いていないようだった。
「……ピウニー……!」
サティは思わず顔を寄せた。ピウニー卿もその鼻に駆け寄ろうとして、ハッと気がつき思わず避ける。
「ま、待て、ここで変身するのは不味い」
その声にサティの動きも止まり、仕方なく頭を低くしてごつんと頭突きをした。ピウニー卿のふくよかな体がごろんと後ろに転がる。
「よかった。無事で。……ピウニー……」
「ああ、サティ……。む、……待て」
サティの声に思わずピウニー卿の声が熱くなる。だが、すぐさまトーンを落とした。廊下の角からヴィルレー公爵の手を引いたセラフィーナが現れたのだ。後ろには、両手に何かを持った執事がついて来ている。ベンチの足元に顔を突っ込んだサティを見つけたのだろう。セラフィーナが駆け寄ってきた。その距離が詰まる前に、ピウニー卿はサティの口元を前足で撫でて、行け、と押し出す。
「サティが出てきた部屋。あそこに居る」
サティの瞳が何か言いたそうに揺れたが、小さく頷くと顔をベンチから離した。
「なあに、グレン、何か見つけたの?」
「にゃーん……」
サティは、セラフィーナがベンチの側に来る前にその足元に駆け寄って、すり……と頭を摺り寄せた。初めて見せる猫の懐いた姿に、一気にセラフィーナの顔が綻ぶ。それ以上ベンチの下を覗き込むこともせず、セラフィーナはサティを抱き上げた。
「ふふ。お腹すいたでしょう。ご飯にしましょう」
「にゃ……」
セラフィーナの腕の中で、少しだけ切なげにサティは鳴いた。その仕草にくすくすと笑いながらセラフィーナは部屋に入り、娘の様子に瞳を細めたヴィルレー公爵と執事が後に続く。
既にベンチの足元に、ピウニー卿の姿は無かった。