第1章 王都へ

008.大人しくしておいてね

夜。どうしても一緒に寝たいというセラフィーナを侍女たちが嗜め、枕元に猫用ベッドをしつらえてくれた。ようやく大人しく眠ったセラフィーナを見て、サティはほっと一息つく。すとんと床に降り立ち周囲をきょろきょろ見渡すと、「……サティ……」トーンの低い、落ち着いた男の声がベッド下から聞こえてきた。サティは振り向き、そちらへと頭を寄せる。

「ピウニー……!」

「ようやく落ち着いたようだな……」

「うん。ごめん、なかなかあの子、離してくれなくて」

「ああ」

「お腹空いてない? こっち来て」

サティが頭を下げると、ピウニー卿がそれに乗った。ベッド脇に置かれたサティの餌箱のところに来て、ピウニー卿を下ろす。サティに与えられた餌は、人間の食べるものとほとんど変わりが無い。さすが公爵家といえるが、味付けは薄かった。サティは自分だけが食事をするのも気が引けて、食べ物をほとんど口にしていない。セラフィーナは心配していたが、猫はこういうものですよ……と執事のフォローで無理やり食べさせられるのだけは避けられた。ピウニー卿は両前足で野菜を持って、もぐもぐしゃくしゃくと食べている。サティはすぐに食べ終わると、ピウニー卿の側で身体を丸くした。食事を終えたピウニー卿は、いささか元気の無いサティの喉元の毛皮に背中を預ける。その様子に尻尾を振りながら、サティはため息をついた。

「……明日にでも脱出できるかしら」

「そうだな……。昼間は人の出入りが多いから、明日の晩まではここに居たほうがいいだろう」

「経路は?」

「私の通れるところは確認できた。ここまで入ってきたところを辿ればサティでも戻れるだろう」

「分かった。明日ね」

「ああ」

「ううん……」

不意に、小さな子供がむずがるような声が聞こえた。セラフィーナが寝ぼけているのだろう。サティとピウニー卿の耳が、ぴくりと動いた。サティが顔を起こして、ベッドの方を見る。

「セラフィーナ、寂しがるかな」

「……そうだな」

セラフィーナはあれからずっとサティにかまいっぱなしだった。どう扱っていいのか分からないらしく、そっと撫でたり瞳を覗き込んだりするだけだったが、サティが思わず頬をすりと摺り寄せると、それは嬉しそうに微笑む。それを見ている執事や侍女達の瞳も温かく、何よりそんなセラフィーナの頭を撫でるヴィルレー公爵の瞳はとても優しげだった。サティには、それが眩しい。

サティには血の繋がった家族というものが居ない。田舎の小さな教会で、孤児として育てられていた。一番古い記憶が、師匠である理の賢者が自分を迎えに来た時のことだ。あの頃から、理の賢者は優しい髭のおじいさんで、師匠の家には門外不出の不思議な奥方と、生まれたばかりの娘さんが居た。サティはそこで育ったのだ。サティにとって家族というのは、その3人だった。いわゆる絵に描いたような普通の家族がよかったなどと思ったことはないが、どういうものだろうという気持ちもなかったとは言えない。だが、そんな風に思うことは、幸福に育ててくれた師匠に失礼なような気がして、普段は決して表情に出すことは無かった。ヴィルレー公爵とセラフィーナを見ていると、そういう微妙な心の琴線に、触れる。

「サティ?」

しょんぼりと耳を寝かせてセラフィーナを見ていたサティに、ピウニー卿が声を掛けた。

「うん?」

「どうした。ぼーっとして」

「ん、なんでもない」

情でも移ったか、と言い掛けて、ピウニー卿は止めた。代わりに別の言葉を紡ぐ。

「完全に人間に戻れたら、」

「ん?」

「訪ねてみることくらいは許されるだろう」

ピウニー卿の家も伯爵家だ。公爵家とは格も位も違うが、ご機嫌伺いくらいできるだろう。そしてそれくらいのささやかな、貴族の特権を行使する程度ならば、家名を継がないピウニー卿にも許されるはずだ。人間に戻った暁に、死んだはずのピウニー卿の立ち位置がどうなるのかは分からないが、一晩の宿と食事を貰った恩もある。弟のパヴェニーアもそれくらいの世渡りならばできるはずだ。

「早く、パヴェニーア達と合流しよう」

「そうだね」

ピウニー卿は、サティがセラフィーナを可愛く思っていることに気付き、どうやら気を回しているらしい。サティは小さく喉を鳴らして、頭をピウニー卿にそっと摺り寄せた。……人間の時には絶対にやらないくせに、サティは猫になったときだけ、このように妙に人懐っこい。

「サティ。私は、あの棚の下辺りに隠れておく」

「うん。私もできるだけこの部屋から出ないようにするね」

「無茶はするな」

「分かってる、ピウも」

サティはピウニー卿に頷くと身を翻す。とん……と床を駆けてセラフィーナの枕元に戻った。起きていないかな?とサティはセラフィーナの顔を覗き込む。

「……ん、……グレン……遊ぶ?」

セラフィーナはうふふ……と笑って、寝返りを打った。サティは肩まで落ちたシーツを咥えてセラフィーナの首元までそっと引き上げ、前足でてしてしと軽く叩いて調えた。それから用意された猫ベッドで丸くなると、すぐに眠りに落ちていった。

****

「セラフィーナ、準備は出来たかい?」

「うん。この格好、おかしくない?」

「とってもかわいいよ」

くるりと一回転してみせるセラフィーナは、小花柄の刺繍を施したアイボリーのジャンパースカートに、生成りのブラウスを合わせている。ブラウスの首周りには、ふんわりと大きなリボンタイが結ばれていて、リボンの端にはチュールレースがあしらわれていた。髪は半分だけ結い上げて、ブラウスのリボンタイと同じ造りのリボンを大きく飾っている。どこから誰が見ても愛らしい公爵令嬢だ。

翌日、朝からサティと遊んでいたセラフィーナだったが、昼が近くなってくると急に身辺があわただしくなり、着替えやらお風呂やらで侍女達に囲まれていた。どうやら、ヴィルレー公爵が王宮へ上がるらしく、王太子のご機嫌伺いにセラフィーナを連れて行くらしい。サティはヴィルレー公爵と共に、セラフィーナの様子を見ながら、尻尾をぱたんと揺らす。

セラフィーナはサティを連れて行きたがったが、それはさすがにヴィルレー公爵に窘められた。

「フィーナ、今日はジョシュ殿下のお見舞いなんだよ」

「分かってるわ。ジョシュもきっとグレンを見たら元気になると思うの」

「……フィーナ、確かにグレンは可愛いからジョシュ殿下もお喜びになるかもしれないね。でも、病気の方のところに動物を持っていくのはよくないな」

「グレンはとても綺麗なのに?」

「うん。お城にはたくさんの人がいるだろう? 猫が嫌いな人もいるかもしれない。そういう人にグレンが捕まってしまったらかわいそうだ」

「そうね……」

セラフィーナはしょんぼりと肩を落とし、ソファでくつろぐサティを振り向いた。その額をくすぐり、寂しげな顔をしている。

「グレン、お留守番しておいて?」

「にゃ」

サティは返事をしてみせた。その声に、パッとセラフィーナの顔が明るくなる。

「お父様! グレンは私の言うことが分かっているのかしら。返事をしたわ!」

「そうだね。とても賢い猫かもしれない」

返事をした……というのは、もちろんヴィルレー公爵には信じられなかったが、それでも愛娘の嬉しそうな顔に思わずつられて微笑んだ。ヴィルレー公爵は、サティの頭を撫でる。

「グレン、大人しくしておくんだよ」

「にゃーん」

ヴィルレー公爵の手にサティは再び答えて見せた。その様子を見たヴィルレー公爵は首を傾げている。なるほど、確かに返事をしたように聞こえた。昨日、少し遊んだだけだったが、グレンはセラフィーナにどんなに触られても爪も牙も出さなかったし、本当に賢い猫なのかもしれない。ヴィルレー公爵は立ち上がり、セラフィーナに鞄を渡した。とても大きな鞄で、昨日届いた歴史の本を入れている。王太子に見せると約束をしているそうだ。セラフィーナはいつもこの鞄を誰にも持たせず自分で持っていた。

「さあ、行こう」

「はい。グレン、また後でね」

「にゃん」

サティはほっとした。ソファに立ち上がって、再び尻尾を振る。ヴィルレー公爵に手を引かれたセラフィーナ、そして侍女達も外に出たのを見計らって、サティはすとんと床に下りた。

****

「ピウニー」

「サティ、大丈夫か」

「ピウニーこそ」

「私は、じっと待機しているだけだからな」

「私も別段フィーナに構われているだけだから」

……とはいえ、ずっと猫のフリをしていてサティは若干ぐったりしていた。酒場でネズミ捕りの番をしているときは、特に酒場の主にかまわれるということもなかったので、ここで始終セラフィーナの相手をしているのとは格段に違う。ピウニー卿が潜んでいる棚の足の側で身体を丸めると、尻尾をぱたりと動かした。ピウニー卿もそれに答えるように、サティの丸まった喉元に身体を埋め、そこを撫でてやる。

商隊にくっついて移動しているときと昨晩と離れて眠っていたので、久々に感じるサティの毛皮と喉元の温かさが心地よい。サティもピウニー卿の毛皮のふわふわに思わず瞳を閉じる。だが、次の瞬間2人の身体がぴくりと動き、立ち上がった。

「グレン!」

セラフィーナが戻ってきたのだ。

セラフィーナは棚の足元で丸まっているサティを見つけると駆け寄ってきた。しゃがみこむと、鞄を開け唇に人差し指をあてる。

「静かに。グレン、入って!」

サティの毛皮がぶわわと逆立った。鞄に入るように促され、足を突っ張って踏ん張る。だが、セラフィーナはサティの身体を抱き寄せるように鞄へと招き入れた。セラフィーナが外を窺っている隙を狙って、とっさにピウニー卿が鞄の中に入る。前足を上げて、躊躇うサティへ合図を送った。「ピウ! 本気!?」かろうじて声には出さなかったが、グリーンの瞳で怪訝そうにピウニー卿を見る。ピウニー卿はその瞳を見て、しっかりと頷いた。サティは観念したように鞄に顔を突っ込む。

「フィーナ、忘れ物はあったのかい?」

「はーい、今行きます! ……グレン、大人しくしておいてね?」

恐らく、ひっくり返らないように大事そうに抱えているのだろう。それほど無茶な体勢にならなかったのが幸いした。ピウニー卿とサティを入れた鞄を持って、セラフィーナはヴィルレー公爵の元へ急いだ。