オリアーブ王宮の王子の宮で、ジョシュはソファでセラフィーナと並んで座っていた。ヴィルレー公爵は国王と会見するために席を外している。今は侍女も下がらせていた。
「よく来たね、セラフィーナ」
「ジョシュ、お加減はどう?」
「うん。今日はだいぶ調子がいいんだよ。フィーナ、今日は……」
「あのね、ジョシュ。ジョシュに見せたい子がいるの」
「見せたい子?」
ジョシュは、自分の学術指南役であるヴィルレー公爵の一人娘、セラフィーナのことをとても可愛がっている。
ジョシュは12歳。オリアーブの王太子である。そういった身分でありながら、ジョシュは身体が弱い。少し無理をするとすぐ熱を出してしまうし、激しい運動をすると眩暈を覚えた。特に、怒りや不安といった情緒が体調に影響を与えるため、常に気持ちを静めて生活しなければならない。周囲は何も言わないが、恐らく将来は危ぶまれているだろう。……にも関わらず、オリアーブ国王にはジョシュ以外の子が居らず、世継ぎとしての責任は今のところ彼1人にかかっている。
ジョシュは利発で才気溢れる王太子ではあったが、机上の勉学以外で、剣術や馬術、魔法など、王として必要な訓練を受けることがほとんど出来ていない。まだ子供であると甘えられる年齢もギリギリで、そろそろ王太子として国王の執務を手伝い、周囲に認められなければならない時期だ。だからこそ、周囲の人間は必要以上に厳しかったり、必要以上に腫れ物に触るかのような扱いをしてくる。国王ですら、ジョシュのことをどう扱っていいのか図りかねているようだった。
加えて、現在国王の妃は……ジョシュを生んで以来待望といってもいいだろう……懐妊していた。王妃に男子が生まれ、そして自分の身体が強くならなければ、恐らく自分は王太子ではなくなる。ジョシュは、もし弟ができれば王太子の身分は譲って自分は補佐として立ってもいいと思っているが、周囲はどう思っていることか。身体の弱い自分を傀儡にしたがる貴族は多いだろうし、王太子としては役に立たぬと排斥したがる貴族もまた、いるはずだ。王太子としては繊細すぎ、普通の子供としては高貴すぎるのだ。
気の休まらない毎日の中で、ヴィルレー公爵と過ごす勉強の時間と、時々自分を見舞いに来てくれるセラフィーナとの時間が、ジョシュはとても好きだった。
「グレン、出ておいで」
セラフィーナがいつもの大きな鞄を開けると、そこから辺りを伺うように、セピア色の小柄な猫が顔を出した。予想外の小さな客人に、ジョシュは思わずセラフィーナと猫の顔を交互に見る。
「猫?」
「グレンというの」
「フィーナ、ヴィルレー公爵のお許しは貰ったのかい?」
セラフィーナはジョシュの言葉に少しだけ気まずそうに、ふるふると頭を振った。その様子を見て、ジョシュは驚く。
セラフィーナは7歳で天真爛漫にも見えるが実はしっかりした性格だ。自分が教える勉強のこともよく覚えているし、順序よく物事を考えて答えを出すことも知っている。だから、まさかヴィルレー公爵に黙って、自分のところに猫を連れてくるという無茶をするとは思わなかった。
「ジョシュ、ずっと前に小さな動物を飼ってみたいって言ってたでしょう?」
「覚えていたの?」
セラフィーナは頷いた。確かにジョシュは、乗馬などの訓練があまりできず動物に触れる機会がない。雑談交じりに、小さな動物だったら自分にも飼えるだろうかとちらりと言ったことがあるのだ。本当にちらりと言っただけなのに、セラフィーナは覚えていたようだ。ジョシュは苦笑して、猫に手を伸ばした。そっと触れてみると、猫の毛皮は思ったよりもすべらかで心地よい。耳の後ろを撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らした。それにしても……、勝手に動物を王子の自室に持ち込むとは、全く褒められたことではない。
しかも今日は……。
「グレン……、しばらくこの部屋で大人しくできるかい?」
「ジョシュ?」
「フィーナ、忘れたの?……今日僕の調子がよかったら、」
コンコン。
ノックの音が、聞こえた。ジョシュは、思わず猫を鞄ごと自分の背に隠す。セラフィーナの体がびくりと緊張したのが分かった。 今日は、ジョシュの調子がよかったら、白翼騎士団の鍛錬場を見に行こうという約束をしていたのだ。女の子のセラフィーナでも楽しめるように、剣と剣の打ち合わせではなく、型通りに剣を振る鍛錬をみせてくれるはずだった。その迎えが来たらしい。
「ジョシュ殿下。鍛錬場の準備が整いましたが」
「ペルセ、ちょっと待って。フィーナ……?」
「私、忘れてた。……どうしよう、ジョシュ……」
扉の向こうから聞こえてきた女性の声は、ジョシュの護衛騎士の声だ。ジョシュは、少し考えて……セラフィーナの頭を撫でた。けほんと咳払いをひとつする。
「ペルセ、ごめん。少し休んでから行っても大丈夫かな」
「ジョシュ殿下?またお加減が!?……失礼します」
扉の向こうから慌てた声が聞こえ、すぐさまバタンと扉が開いて慌てたように女性の騎士が駆け込んできた。ジョシュはこの騎士が過保護なのを忘れていた。すぐに自分の作戦が失敗したことに気付く。
「ペルセニーアちょっと待って、大丈夫だから……」
「しかし、殿下……っ……!」
ジョシュが慌てて席を立つ。その途端、くらりと眩暈がして額を押さえた。
「殿下!」
「ペルセ、静かに」
「ジョシュ……!」
ジョシュの体を女性騎士が支え、心配そうにセラフィーナがジョシュの手を押さえる。
「兄上!」
ペルセニーアと呼ばれた女性騎士が、扉の向こうに声を掛ける。
「ペルセニーア! ジョシュ殿下は大丈夫か。……失礼いたします」
茶色が交じった濃い金髪、武張った顔に大柄な身体つきをした、気が立ったクマのような風貌の男が扉で一礼をした。その姿を見て、ジョシュが一喝する。
「ペルセ! 僕は大丈夫だ。パヴェニーア団長、扉を閉め……」
そのときだ。
鞄から、猫がトーンと飛び出して、扉目指して駆け出した。
「……グレン!」
「……猫!?」
「む!?」
セラフィーナとペルセニーアと、……そして、クマのような男、パヴェニーアが声を上げたのは同時だ。
「猫、一体どこから?」
「つ、捕まえて!」
ジョシュの声にパヴェニーアが反応する。だが、猫は既にパヴェニーアの足元をするりと抜けていた。
「兄上!」
「任せろ」
パヴェニーアが猫を追いかけて、大きな体躯を翻した。
「殿下、どういうことですか?……セラフィーナ嬢……?」
「ペルセ」
ジョシュはセラフィーナを背に庇った。眩暈はもう治まっている。何か言いかけたセラフィーナより先に、ジョシュは真っ直ぐにペルセニーアを見上げて言った。
「あれは僕の猫だ。傷つけないように」
「殿下」
「我侭を言ってすまないが、保護して欲しい」
ペルセニーアはジョシュとセラフィーナを交互に眺めて、観念したように、敬礼を施す。
それにしても、気のせいだろうか。
猫の上に、金色の固まりが乗っていたような気がした。
****
「サティ……、声を出さないように聞いてくれ」
ノックの音が聞こえ、慌てたようなやり取りが聞こえる中、再び鞄の中に閉じ込められたサティの耳元でピウニー卿が囁いた。鞄の中で様子は分からなかったが、ペルセニーアという名前が出てきた瞬間、ピウニー卿の髭が緊張したようにピンと張ったのだ。ペルセニーア・アルザス。間違いない。ピウニー卿の妹だ。王太子に近しい騎士として活躍していたとは思わなかった。
「合図をしたら、私を乗せて飛び出してくれ。外を飛び出したら女の騎士が居るはずだ。気を引いて、追いかけさせる。あれは私の妹だ」
サティはこくりと頷いた。ピウニー卿はサティの背によじ登りしがみつく。
「しっかり掴まってて」
「ああ」
ピウニー卿に囁くと、サティは身をゆっくりとよじって頭を鞄の蓋の方に向けた。蓋が閉められていない鞄は、一気に飛び出せば簡単に外に出られるはずだ。そのとき、パヴェニーア団長と呼ばれた男が入り口に控えた声が聞こえた。
「サティ、行け!」
サティは、トン!……と鞄を飛び出した。
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「ちょっとーー!、なんかクマみたいな人が追いかけてきてるんですけど!?」
「計画に、変更無し、だ。あれは、私の、弟だ」
駆けているサティの頭の上で、ピウニー卿の声がかくんかくんと揺れる。
「全然似てない! クマみたい!」
「そうか?……じゃあ、私は、何に似て」
「え、何その質問。ネズミじゃなくて?」
「おい、追いつか、れるぞ!」
サティは、わざとスピードを緩めると、数本立っている柱をくるりと回ってみせた。追いかけてくるクマのような男はその動きに翻弄され、「うおう」とか何とか言いながらバランスを崩す。だが、そこはさすがに騎士なのだろう、体勢を整えつつサティを捕らえんと手を伸ばしてきた。サティはパヴェニーアの手を誘うように、すぐ側の、えらく高そうな壺の置かれた机に飛び乗って、その後ろを通り抜ける。これにはさすがにクマの身体が躊躇い、動きが止まった。その隙を見計らって再び廊下へ降り立ち駆けていく。
「妹さん、ちらっと見えたけど、すっごい美人だったーー!」
「……そうか?……私は、その、サティの、方が、美……」
「あの角曲がるから掴まってて!」
「……待て、そっちは……!」
サティは下働きの人の多い一角に入りこんだ。今は昼過ぎの中途半端な時間ということもあり、人はまばらだ。……だが、不味いことに廊下は行き止まりだった。
「行き止まりっ!?……ピウニー……」
「……大丈夫だ、サティ」
サティが、きゅっ……と身体を反転させて振り向くと、角を曲がるクマの身体が見えた。
「あの部屋へ!」
サティは返事をする前に、すぐ近くの開いていた扉にするりと身体を滑り込ませた。
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2人が飛び込んだのはどうやら物置の類のようだ。磨かれる前の鎧や盾などが置かれてあり、猫の姿のままそこに飛び乗るのは、不安定そうで気が引けた。安定しそうなところを探し、サティはとんとんと、上手く部屋の棚の一番上に登る。一番上に到着したとき、扉が勢いよく開いてパヴェニーアが入ってきた。
「確かここに……。猫、おい猫!」
顔も厳ついが、声も厳つい。そういえば、ピウニー卿の声も低くて渋みがあってよく通る。アルザス家の殿方は皆声がいいのだろうか。棚の上で身を低くして構えていると、サティの耳元で、聞き慣れた低い声が響く。これはピウニー卿の声だ。
「『おい猫』とはまた、随分偉くなったものだな、パヴェニーア」
パヴェニーアの動きが止まった。狭い物置にはもちろん誰も居ない。パヴェニーア1人だ。それなのに、パヴェニーアの周辺が緊張したような雰囲気になるのがサティにも分かった。
「……その声、あ……」
「私が分からんのか、パヴェニーア」
「……あ、あに……」
「こっちだというのに、パヴェニーア・アルザス!」
「はっ! 兄上!」
ざざっと、パヴェニーアが直立不動の姿勢を取った。
「こっちだ。上だ」
「……は?」
パヴェニーアは、鎧下などが置かれた棚の、さらに上を見上げた。パヴェニーア自身背が高いほうだが、物置の棚はそれよりもさらに背が高い。見上げたそこには、棚の端から顔を覗かせて自分を見下ろすセピア色の小柄な猫がいる。その猫の足元から、金色の毛皮のネズミがゆっくりと姿を現した。