第1章 王都へ

010.いい。実にいい。

猫の前足の間からゆっくりと登場した金色のネズミ。その姿に、パヴェニーアは目を奪われた。しばしの間、言葉を失う。状況から言うと、この猫かネズミが兄の声で自分を呼んだとしか思えない。

「猫……と、ネズミ? 面妖な……」

「兄に向かって面妖とは失礼だな」

……ネズミの口元が、ふくふくと小刻みに動いている。……ということは、今声を出しているのはネズミということになるだろう。そんな愛くるしい口元から出てきているとは思えない渋い声だった。聞き覚えのあるその声に、パヴェニーアは驚愕の表情を浮かべたまま、恐る恐る問いかける。

「……兄上……?」

「そうだ。とりあえず扉を閉めろ」

パヴェニーアが扉を閉めたのを確認すると、ピウニー卿は再びもぞもぞとサティの頭の上に乗った。サティはネズミを落さないように、さらに、鎧や兜に触れないように気をつけながら、そろそろと近くの小さなテーブルまで降りる。テーブルにトン……と着地すると、ピウニー卿がサティの頭から降りて、その傍らでふんぞり返った。パヴェニーアの瞳には、どう見ても綺麗なネズミにしか見えない。薄い色合いの金色の毛皮、濃いこげ茶色の愛くるしい瞳。Yの字の口元、自慢げに揺れる髭、丸い耳、太ましいお腹、短い手足。腰にはベルトらしきものを身に着けているようだ。

「こ……ここ、こんな可愛らしいネズミが?……そんなまさかっ」

「え」

サティがよく見るとパヴェニーアの瞳が妙に熱っぽかった。息が上がり、頬が赤い。餌の足りないクマのような怖い顔から飛び出した「可愛らしい」という言葉に、ピウニー卿の髭が不機嫌そうにピクリと揺れた。

そんなピウニー卿の髭の揺れには全く気が付かず、パヴェニーアはさらに小柄な猫に視線を移す。さわり心地のよさそうな綺麗なセピア色の毛皮、グリーンの瞳、たおやかな尻尾、しなやかな四肢。

「しかも、こ、こんなに可愛らしい猫を従えて……?……ああ!」

パヴェニーアがサティの脇腹をむんずと掴んで持ち上げた。

「うきゃああああああ!!」

「なんて可愛らしい!」

「……なっ、パヴェニーア!」

サティの毛が逆立ち、尻尾の先まで膨らんだ。

しかし、サティの切なる悲鳴も、ピウニー卿の制止も耳に入っていないようで、パヴェニーアは抱き上げた腕を引き寄せて、そのセピア色の毛皮に思わず頬を摺り寄……

てし。

近づいてきたパヴェニーアの顔を拒否するように、サティの四肢が突っ張った。両の前足がパヴェニーアの頬を押さえつけている。サティはそのままジタバタと暴れた。

てしてしてしてしてし。

だが、このささやかなサティの抵抗がパヴェニーアの心に火を付けた。

パヴェニーアの頬にヒットするのは、ぷにぷにとした感触。猫が軽く暴れた程度、白翼騎士団の団長たるパヴェニーアには何のダメージも無い。いや、むしろ回復する。癒される。ああ……。

「ああっ、この感触はっ……!」

ピウニー卿が両前足を万歳の格好にして伸び上がっている。片方の前足には抜き身の剣を持ち、必死にそれを振っていた。

「パヴェニーア! 止めろ、止めんか!」

「しかし、肉球が! ……あああっ!」

「にっ、にくきゅ……っ、なっ……、なんだとう!……私ですら触れたことがないというのに、……くそうっ、許せん!」

チクンっ!

「いだだっ」

ピウニー卿はテーブルの端に寄って、ちょうど眼前にあったパヴェニーアの腿を剣で刺した。さらにサティが追撃する。

ガリッ!

「あいだっ!」

サティのご自慢の肉球から爪が出て、パヴェニーアの小さな悲鳴が響く。

ガリガリッ

猫パンチ。

猫パンチ。

猫パンチ。
猫パンチ。
猫パンチ。
猫パンチ。
猫パンチ。
猫パンチ。

「す、すみません、すみませ、ちょ、いだっ、すみ、す、ま、」

パヴェニーアは腕を伸ばしてサティを自分の顔から引き離した。頬には鮮やかに数本の筋が描かれている。

「パヴェニーア! 気をつけっ!」

パヴェニーアがサティを持ったまま、ざざっ……と姿勢を正す。その号令に我に返って兄の声に視線を落とすと、金色の毛皮のふわふわしたネズミのピウニー卿が、剣をパヴェニーアに向けている。

「パヴェニーア! 注目!」

言われなくてもパヴェニーアは、サティを持ったまま真剣な様子でピウニー卿を見下ろしていた。……こんなに小さいのに帯剣している……ということか……!? しかもあんなまん丸の可愛らしい瞳を凛々しく釣り上げて、どうやら自分を睨んでいる。なんという……なんというすさまじい愛くるしさ! これが、あの竜殺しの騎士ピウニーア・アルザス兄上なのか、こんな可愛い兄上が存在してもいいのか? いいのかーーー!?

いや……、いい。実にいい。

目の前のネズミが本物の兄なのかどうなのか、どう判別すればよいのか分からない。いや、もう兄でかまわない。むしろ兄であってください。

「いい加減サティを下ろせっ、それから気安くサティに触れるな!……聞いておるのかパヴェニーア!」

「はっ、はい、申し訳ありません兄上!」

ピウニー卿の一喝に、つい「兄上」と返事をして、慌ててサティをテーブルに下ろす。サティはずささっ……とピウニー卿の背後に回り、小さな背中の毛皮に自分の顔を押し付けた。ネズミの背に猫なので、サティの身体はまったく隠れていない。

「……あ、兄上、まことに貴方は兄上なのですか……?」

「信じられないのは無理も無いが、私はまさしくピウニーア・アルザスだ。そしてこっちが、魔法使いのサティ」

「しかし……」

剣を鞘に収めながら言ったピウニー卿の言葉に、パヴェニーアの視線が改めてサティに移る。紹介されたらしい猫は、いまだに警戒しているようだ。頭を低くして、頭の毛を逆立てている。ピウニー卿の背中から、ちらっちらっ……と顔を覗かせつつ、渋々応答した。

「……サ、サティ、です……」

猫から紡がれた綺麗な声に、再びパヴェニーアの瞳が見開かれる。

「しゃべっている……!ということは……意思疎通が?……このような愛くるしい猫と意思疎通が!?」

パヴェニーアの瞳が熱っぽく潤み、大きな手が再びサティに伸ばされた。

「おいこら! サティに触れるな!」

「しかし兄上!……今度は乱暴はいたしません!……ちょっと撫でさせていただくだけで……」

既に、ネズミのことは「兄上」確定のようだ。それは武家に育てられたパヴェニーアに刷り込まれた「兄」という存在に対する条件反射なのか、はたまた、こんな可愛いネズミが「兄」だったらそりゃあもう楽しいだろうなあという願望なのか。

「撫でる!? サティを撫でるだと!? パヴェニーア、それは聞き捨てならん。どういう意味だ!」

「じゃあせめて肉球だけでも!」

「もっとダメだ!」

「じゃあ撫で」

「だからダメだというのに!」

2人とも毛を膨らませて威嚇している。ピウニー卿などは再び剣に前足を掛けていた。しかし、ああっ……! なんということだ、それすらも愛くるしい……。パヴェニーアは久々に興奮を覚える。そもそも小さな金色の太ましいふわふわしたネズミが、針のような剣を今にも抜かんとする構えを施し、美しい小柄な猫を守る姿など、愛くるしくないわけがないではないか! ふわふわした愛らしさを目の前にそれを堪能できないなど、なんという拷問か!

……パヴェニーア・アルザスは厳つい外見に似合わず、愛らしいものが大好きな男であった。

ピウニー卿が「気をつけろ」……と言っていたことを、サティは今更ながら思い出した。

****

「ともかくパヴェニーア、少し落ち着け」

「しかし、兄上、これが落ち着いていられますか!?」

「何がだ?」

「兄上がこんなに愛くるしい猫を連れ、こんなに愛くるしい姿をしているというのにっ!」

再び身の危険を感じたサティはそっと退いて、パヴェニーアから少し離れたところへ移動した。ピウニー卿がそんなサティを庇うように右前足を出す。もう、どんな動作をしても可愛く見えるパヴェニーアは、再び頬が染まる。そんな弟を見ながらピウニー卿はため息をついた。

「相変わらずだな、パヴェニーア……」

「何が、ですか?」

ふん……と髭を撫でると、ピウニー卿は口元をぴくぴくと動かした。

「パヴェニーアが小さい頃、ペルセニーアの持っているぬいぐるみがあまりにも可愛くて自分も欲しいとごね……」

「兄上!」

サティがクフッと噴出した。厳つい顔のパヴェニーアが顔を真っ赤にして拳を握りしめている。

「そもそも小さい頃はぬいぐるみがないと寝れな」

「ああああああ兄上!!」

いよいよパヴェニーアの拳がふるふると震えている。やはりこのネズミは兄なのだ。ああ……ならば、ささやかなこの弟の願いを聞き届けてほしい。

「兄上!……しかし、しかしですね、それならばせめて、兄上の腹の毛皮だけでも撫でさせては……」

「……ダメだ! 何が悲しくて弟に腹を撫でられなければならんのだ」

もっともだ。

「しかしっ」

諦めきれないのか、熱い視線でパヴェニーアが2人の乗っているテーブルへと一歩近づく。気圧されるようにサティが一歩退くと、後ろ足が空を切った。

「おっ……」

ずるん……とサティの身体が傾き、机から落ちる。振り向いたピウニー卿がぎょっとして、思わず助けようと飛び降りる。それが間違いだった。

「サティ……!」

ピウニー卿の小さな身体がサティの顔の上に落ち、2人の口元が触れ合った。

****

「うおっ!」

「きゃ、……嘘っ!」

「……!」

パヴェニーアの視界で突如、ふわりと空気が揺らいだ瞬間、

「パヴェニーア!、回れ右っ!」

「はっ!」

これまでにない条件反射でピウニー卿の声がパヴェニーアに回れ右を指示し、脊髄反射でパヴェニーアはその指示に従った。パヴェニーアが変身の瞬間および変身直後の2人を見なかったのは、アルザス家秘伝の修行の成果といえるだろう。

パヴェニーアの背後から何かを打ち付ける音がして、続けざまに男と女の声が聞こえた。やがて、ガタンとかバタンとかいろいろな音が聞こえてくる。

「なんで、何でこんなところで変身……」

「お、落ち着けサティ、とにかく今は服を……」

「分かってる、服着るから、ちょっとどいて……あ、ダメ……どいたら全身見え……って、前くらい隠してよピウニー!」

「見るな!」

「見せないで!」

「見せてはいない!」

<エディオディド・エテビューシュ・イハシュ・オ・ト・グレン>
(全ての持ち物を緑石より出力せよ。)

サティの首輪が魔法の力を帯び、ふわりとシーツが2人に降りる。さらに2人分の下着、服などがばらばらと落ちてきた。突如聞こえてきた呪文に、パヴェニーアが振り向く。

「む、今の呪文は……うをおおおおおっ!?」

振り向いたところに見えたのは、裸の女を裸の男が組み敷いている(ように見える)様子だった。シーツが2人の身体を隠してはいるが、男の逞しい肩と肩甲骨は隠しきれておらず、セピア色の綺麗な髪が、男の身体の下からさらさらと流れて広がっている。あたりには脱ぎ散らかされたような男女の下着や、服が散らばっていた。恐らく男は女に体重を掛けないように四つんばいになっているのだろう。

男と女の視線が、固まったパヴェニーアに向けられたのは同時だ。

「……!」

「パヴェニーア、回れ右と言っておる!」

「はっ、はいいいいい!」

パヴェニーアは再び回れ右をした。