パヴェニーアの背後で、男女の声が響いている。要約すると、「動くから少しずれろ」「早く動いてよ」「これ……か?」「ちょっと下着! それ私の!」「た、たまたま手に触ったんだ!」「分かったから返して!」とかそういう類の言葉である。ダメだ。深く考えてはいけない。何が行われているか……など、深く考えてはいけないのだ。
……パヴェニーアは邪念を振り払うように、脳裏に焼きついた映像を反芻してみた。とても美しい……いや可愛い……いや愛くるしい……、猫とネズミと会話したのはつい先ほど。ネズミは信じられないことに兄だという。あんなに腹がふわふわした兄がいてもいいのだろうかと思ったが、居てもいいのだという結論に達した。ともかく、兄が居て……そして兄が必死で守る猫が居たのだ。
お分かりになるだろうか。可愛いものが好きな人間の目の前に、意思疎通のできる可愛いもふもふした生き物がいたとしよう。そのときの、その悦びたるや! ああ、あんなに可愛くて小柄で綺麗な猫……そしてネズミ、思い出しただけで……。
邪念を振り払うためだったのに、さらに邪念が。
忘れそうになった。猫もネズミも、先ほどの一瞬で目の前から消えたのだ。そして、男と女が2人そこに居た。……男のほうは、確かに兄だった。1年前に魔竜と共に果てたという兄……その兄が戻ってきて、共に在る女性。パヴェニーアとて妻帯者である。ピウニー卿の口調や必死さで、あのサティという猫……女性、が兄にとってどのような存在なのかは分かるつもりだ。……わかる、つもり、えっと、兄の、大切な、女性? ……大事なことを、ひとつ、忘れているような……。
「パヴェニーア。もう大丈夫だ」
「はっ」
パヴェニーアが忘れかけている大事なこと……それを思い出す前に、兄の声が自分を呼ぶ。
振り返り、2人を認識する……その瞬間、
コンコン
ノックの音が、響いた。
****
「パヴェニーア殿はここへ?」
白翼騎士団所属の騎士、ヴェルレーン・サテュルニアは、さらりと前髪を払った。
彼はジョシュ王子を迎えに行ったまま戻ってこない団長を探していたのだ。団長の妹君、王太子の護衛騎士を勤めているペルセニーアに聞いてみると、なんでも王太子の飼っている猫……?が逃げ出したとかで、その保護に走ったとのことだ。訓練の見学は副団長が滞りなく続行しているから問題ないが、猫1匹を捕まえるのにこれほど時間がかかるのはおかしい。ヴェルレーン・サテュルニアという男は猫が苦手だったが、職務に忠実な男なのである。各地に残されたパヴェニーアと猫の足跡を人づてに辿りながら、最終的に王子宮から少し離れた物置部屋に案内された。
「ありがとう。君はもう行ってかまいませんよ」
ヴェルレーンは僅かに目じりの下がった甘い瞳に爽やかな笑みを湛えて、案内してくれた侍女の髪に遠慮がちに触れた。触れられた侍女は、頬を染めて俯く。「いえ、そんな」とかなんとか言いながら、首を振って一礼した。「あ、待ってください!」身を翻そうとした侍女の腕を、ヴェルレーンが取る。
「……ああ、僕としたことが。……貴女の名前を教えていただけますか……?」
侍女の顔がハッとした表情に変わる。恥ずかしげに瞳を伏せて……、侍女は名を名乗った。その様子に満足気にヴェルレーンは瞳を細め、頷く。
「ありがとうございます。これで今度から……貴女の名前を呼ぶことができます。……さあ、もう行ってください。仕事の邪魔をして、申し訳なかったですね」
ヴェルレーンはぱたぱたと廊下の向こうに消えていく、侍女の可愛い後姿を見送った。その姿が完全に消えたのを確認すると、そこにある扉を振り向く。
コンコン……とノックをする。
「パヴェニーア団長、こちらですか?」
返事が聞こえる前にガターンと大きな音がした。怪訝に思ったヴェルレーンはもう一度、今度はドンドンと大きくノックをする。
「団長? 開けますよ?」
「その声、ヴェルレーンか、いや、ちょっと待て」
「パヴェニーア団長? 待てとはどういうことですか」
「いや、のっぴきならない事情があってだな、とにかく、少し、」
「パヴェニーア団長、何事かあったのですね?……申し訳ありませんが開けさせていただきますよ、失礼しま……」
ヴェルレーンがガチャリと扉を開けると、そこには、いつもの厳つい顔を僅かに焦ったように歪ませたパヴェニーア。そしてその背に庇われるように、セピア色の髪にグリーンの瞳の女が居た。グリーンの瞳は不安げに、揺れているように見える。狭い部屋に男と女。焦った顔の男。これは……。
ふっ……とヴェルレーンが苦笑した。パヴェニーア団長は元来真面目な男だったと思うが、このような一面もあったとは。クマのような厳つい顔をし、それでいて美しい妻を持っているのに、……また別の華を隠していたとは……。
「そういうことですか……、パヴェニーア団長。分かりました。奥方には黙っておきますが、あまり羽目をお外しにならないように」
ヴェルレーンの言葉を聞いて、驚いたのはパヴェニーアだ。目を丸くして、首を振る。
「な、何を言っているんだヴェルレーン、違うんだ、これは……」
「いえいえ、いいんですいいんです。分かってます分かってます。ええ、普通こういうときに『ハイ正解!』とは言いませんよ。……パヴェニーア団長、気にしないでください。私の事にもいつも目を瞑っていただいているということで、今回は見逃しますよ。……ただ、」
ヴェルレーンは、パヴェニーアの肩越しにセピア色の髪の女を伺った。部屋に一歩入ると、女の方に近づく。
「……このような美しい女性がこの王宮に居たとは、私としたことが。……お名前をお伺いしてもよろしいですか……?」
「あ……あの、」
ヴェルレーンが囁く声が妙に色っぽい。パヴェニーアが押さえようとした手よりも先に、女の髪に触れる。女の戸惑うような声が耳に心地よく、ヴェルレーンは楽しげな表情を浮かべた。真っ直ぐなセピア色の髪を持ち上げると、そっとそれに口付けを……。
「ふぇっぶしょーーい!」
そのときヴェルレーンがくしゃみをした。それは、ヴェルレーンという線の細い洗練された立ち居振る舞いの男には不似合いな、年齢を重ねた中年親父のようなくしゃみだった。
「ちょ、何か飛んできた……」
女がぼそりと呟く。だが、ヴェルレーンという男はその程度のことでもげる……ではなかった、めげるような精神力の男ではないのだ。「失礼……」淑女の前の騎士らしい、一分の隙も無い笑顔に戻ると、今度は女の手を取った。女の手がびくりと震えたのが、ヴェルレーンの手に伝わり、それをなだめるようにもう片方の手をそっと重ねる。
「ヴェルレーン、よさないか」
女が咄嗟に手を引いたのと、パヴェニーアが咎めるようにヴェルレーンと女の間に入ったのは同時だ。そして、もう1つ。
女の手を掴み、ヴェルレーンから引き剥がした手があった。ヴェルレーンとて、白翼騎士団に所属する騎士である。そのヴェルレーンに直前まで気配を気付かせることない男。そのような存在がもう1人ここに居たことに、ヴェルレーンは怪訝そうな表情を見せた。その男に目を向けると、
そこにいたのは、良家の子息が着る様な上質な……だが、シンプルな平服に豪華な兜を被った男だった。
****
ピウニーさん。
どう見てもそれは怪しいです。
パヴェニーアと話し合っているときに、何の不可抗力でか元に戻ったサティとピウニー卿はあたふたと着替え、やっとパヴェニーアに人としてまともに向かった。その直後だ。コンコンとノックの音が聞こえ、扉の向こうからヴェルレーンと名乗る男の声がしたのは。
ピウニー卿は死んだことになっている。王宮内でこういった形で顔が見られるのは不味いだろう。咄嗟にピウニー卿を奥の死角に押しやるが、サティは間に合わなかった。パヴェニーアに庇われるような位置で、扉が開いたのだ。
サティとパヴェニーアの関係を誤解したらしいヴェルレーンを見て、サティはなんとしてもこの誤解を解かねばならずと思案していたため、髪が触れられたときに反応が遅れた。その後、まさか至近距離でくしゃみをされるとは思わなかった。完全に言葉を失ったサティの、今度は手を、ヴェルレーンは掴む。咄嗟に身を引いた瞬間、サティの身体が別の男に引き寄せられた。後ろから抱え込むように手を引かれ、バランスを崩した背中を逞しい胸が受け止めた。
助けてくれた腕の安心感に見上げた男の顔は、きらっきらした兜を被っていて見えなかった。
………………サティの口が開いた。
……が、かろうじて、「何やってんのピウニー」と発声しなかった自分を褒めたい。
確かに、正体がばれないように顔を隠したのは分かる。だが、鎧を着ていない、鎧下でも無い、シャツにズボンというシンプルな平服に兜というコーディネートは、いくらなんでも怪しい。どう考えてもおかしい。いや、おかしいよね。自分の美的センスがおかしいわけじゃないよね。しかもなんでその豪華な兜チョイス。いや、地味だったらいいかとかそういう問題でもないが、目立つ。印象抜群すぎて、逆に忘れられない。
「……君は、何なんだ……」
普通はそう来る。誰なんだ、ではなくて、何なんだ。
ヴェルレーンは不愉快そうにピウニー卿を見ている。パヴェニーアでさえ、どうフォローしていいのか分からない顔だ。そもそもピウニー卿はどう見ても素人臭さがない。姿勢も体躯も、鍛えられた男のものだ。発する気配も歴戦の戦士だということが、ヴェルレーンには伝わってきた。
そのとき、なんとか気持ちを持ち直したサティが口を開いた。
「えーと、あ……あの、私が……」
サティがピウニー卿を庇うように手を伸ばし、グリーンの瞳を潤ませた。ヴェルレーンの視線が、ピウニー卿からサティへ移る。
「私が、この方とここでお会いしていたのです。……そこをパヴェニーア様に見つかってしまって……」
「いやいや、どう考えてもこの服にこの兜って怪しいじゃないですか。ここで、何を……」
ほらやっぱり怪しいではないか!
サティはピウニー卿の身体を庇う。それを見たヴェルレーンの瞳が潜められ、サティを伺った。途端にサティの頬が染まり、羞恥に視線を逸らす。その視線を見れば、2人が一体ここで何をやっていたか……などはすぐに想像がついた。ヴェルレーンがその表情に気付き、こほんと咳払いする。
「なるほど……、ここで」
「あの……それは……」
言い淀んだサティが、身を翻して今度はヴェルレーンへと近づいた。ふわりとサティの髪が揺れ、ヴェルレーンの瞳を覗き込む。綺麗で大きなグリーンの瞳、さらさらとした髪の毛。それが視界に入り、ヴェルレーンは、
「ならばどの所属の、なんという人間……へ……くしょーーーーい!」
ヴェルレーンは再び親父のようなくしゃみをする。再びアタックを受けたサティは、一瞬嫌そうな顔を浮かべそうになったが、かろうじて堪えてもう一歩踏み込む。
「騎士様……どうか……」
「わ、わかった、ちょっと待って、君、猫か何か……ふぇ……ふぇ……ふぇくしょん!はくしょん!」
眼前のくしゃみに怯むことなく攻め入るサティ。ヴェルレーンはじりじりと後退した。
「き、君猫か何か飼って……ぼ、僕は猫アレルギーで……、へぶしっ、ふぇくしっ!」
いよいよヴェルレーンのくしゃみが止まらなくなった。ヴェルレーンという男。実は猫アレルギーなのである。この大陸には、猫の毛を吸い込むとくしゃみが止まらなくなる……という症状があった。実に珍しいその症状は「猫アレルギー」と呼ばれている。防ぐには、猫の毛を吸い込まないようにするほか、今のところは手立てが無い。そんなヴェルレーンとサティの間に、パヴェニーアが割って入った。
「あー、ともかく、ヴェルレーン。ここは私がきちんと話を聞いて、始末しておく。お前は早く訓練の元に戻れ」
「ヘクションっ、ふぇくしょっ……、団長、しっ、しかし猫は……」
「お前、猫アレルギーなのに私を探しに来たのか。無謀にもほどがあるぞ。猫を探す途中で2人を見つけたのだ、分かるだろう。その調子ではお前にここは無理だ。帰ったら報告してやる。行け、命令だ」
「だ。だんちょ……」
バタン。
ヴェルレーンのくしゃみを避けるように、扉は閉ざされた。
****
なんとかヴェルレーンを部屋から追い出したパヴェニーアは、これからどうすべきか思案した。2人を匿うのに物置部屋では不便すぎる。顔を隠してなんとか移動してもらわなければ。そう思いながら2人を振り返ると、不愉快そうに顔を拭っているサティの様子が視界に入り、パヴェニーアははたと気が付く。
忘れかけていた大事なことを、今思い出した。
そういえば、サティのことをさっき自分は撫でたいとか、言っていなかったか。
パヴェニーアはピウニー卿をちらりと伺う。既に兜を脱いでいるピウニー卿は、サティのことを心配そうに見つめながら何事かを話しかけていた。袖の端でサティの頬を拭ってやろうとして、「……大丈夫か?」「大丈夫だってば」などという攻防を繰り返している。漂う雰囲気を見れば、サティという女性を、兄が大切にしていることが一目で分かった。その女性を、いくら猫の姿だったからといって「撫でたい」発言……したか? 気のせい?……いや、気のせいではない。そうだ、気のせいではなかった! 確かにあの猫、あのネズミ……ああ、あの毛皮! お腹のふかふか! ……せめて兄のでいい、撫で……
ダメだ。嫌な予感しかしない。
だが今は、ヴェルレーンのどさくさに紛れて忘れているようだ。パヴェニーアは2人から視線を外し、小さく安堵の溜息をついた。ヴェルレーンはあのような男だが、今回は感謝せねばならない。いいところに来てくれた。おかげでなんとか誤魔化せそうだ。
「パヴェニーア」
ピウニー卿の声が低く響く。びくうぅっ……と、パヴェニーアの身体が上に上がる。
「はっ。はいぃっ」
「先ほどまで、サティのことを撫でたい……などと言っていたな?」
誤魔化せてなかった。
恐る恐る振り向くと、今は可愛いネズミの姿ではない、1年ぶりに見る兄の堂々とした姿がそこにあった。改めてみるその兄は、真顔で自分のことを見つめている。1年ぶりに会った弟を見る兄の目とはとても思えない。しかも声が低い。兄の声が低くなったときは大概怖い。恐ろしい。絶対夢に出る。後ろに控えるサティが、「あの、ピウニー、それあんまり蒸し返さないで……」などと言いながらピウニー卿の袖を引っ張っていたが、彼はまったく聞いていなかった。
白翼騎士団団長パヴェニーア・アルザスは、久々に命の危険を感じた。
説教する姿もネズミの姿だったらよかったのに……と遠い目をしていたら、さらに説教時間が長くなったのは言うまでもない。「もう、ピウニーいいからそれ以上撫でるとか肉球触りたいとか言わないで!」……と、サティがピウニー卿の口を塞ぐまでそれは続いた。