「それで……、先ほどの猫がサティ殿で、ネズミが……ピウニー兄だ……と?」
物置部屋から程近い、今は使われていない侍女部屋にピウニー卿とサティは通された。誰にも見つからずに移動できる距離で、落ち着いて話が出来る場所がここだったのだ。2人を前にして腕を組んでいるのはペルセニーア。猫を探している途中、兄のパヴェニーアに呼び出された。そこでペルセニーアが見たのは、1年前に死んだと思っていた兄だ。薄い色合いの金髪に精悍な顔。濃いこげ茶の瞳はあの頃と変わらず頑固そうで、一見すると誰も寄せ付けない硬派な雰囲気も相変わらずだった。そして、その兄が庇うように身を置く1人の女性。サティと名乗るその人は、魔法使いだという。
パヴェニーアとペルセニーアは、ピウニー卿とサティの事情を聞かされた。なぜ、呪いが解けたのか……という点についてははっきりと教えてくれなかったが、ともかく2人が人間と獣の姿を行ったりきたりしていることは、本当のようだ。
ピウニー卿と魔竜の戦いはペルセニーアとパヴェニーアの記憶に新しい。何よりも2人がもっとも尊敬していた兄の、最期だったから。
共に竜を倒しに行き、生きて帰ってきた仲間から話は聞いた。ピウニー卿は竜の呪いを受け止めた後、剣以外の装備を残して消えたという。だが、死体の1つも無く塵になって消えた……などと言われ、誰がその死を信じることが出来るだろう。それでも葬儀を出し、「竜殺しの騎士」という2つ名を冠し、国王からもいくつかの勲章や名誉ある言葉を頂いて、やっと兄は帰ってこないのだという実感が沸いた。死んだのではない、帰ってこないのだろうという奇妙な諦めだった。
それなのに、今、その兄が目の前に居る。しかも、しばらくするとネズミに戻ってしまうというのだ。……そんな話、今すぐに信じろというのが無理だった。兄が生きていることが……ではない、兄がネズミに戻ってしまうことが……だ。
それに気がかりなのはサティのことだった。話によれば、オリアーブの魔法研究所で、死霊使いがサティに対して戦いを挑んだという。だが、そのような事件は聞いたことが無い。魔法師団とペルセニーアの所属する黒翼騎士団は協力関係にある。魔法師団の後衛施設ともいえる魔法研究所でそれだけの事件があれば、騎士団に知られないなどということはまず無い。そもそも死霊魔法自体が禁じられた、魔法使いにとっても恥じるべき、そして忌むべき魔法なのだ。その死霊魔法が国内で研究されていた……となれば、それは由々しき事態だ。
サティは理の賢者の弟子だという。理の賢者は、オリアーブに3人いる賢者の1人。オリアーブ国王とも親密な関係だが、どれほど請われても国のために自らが働くということはなかった。ただ、魔法師団との関係は悪くなく、研究の要請などがあれば弟子が引き受ける場合もある。サティという名前の弟子が、魔法師団に協力したことがあっただろうか。調べてみる必要がある……と、ペルセニーアは思った。
いずれにしても……。
ペルセニーアは仲良くサンドイッチを食べているピウニー卿とサティを見た。
あと数時間もすれば2人は猫とネズミに変わる。時間的には、夜半過ぎだ。ギリギリ日が変わる頃だろう。人間のまま王宮内を歩くわけにもいかないので、ペルセニーアとパヴェニーアは残業と称して王宮に残り、日が変わる前に2人を連れて裏口から帰宅する算段だった。ただそうすれば、サティを……猫をジョシュに会わせることは出来ない。ジョシュにピウニー卿の事情を話すわけにはいかないが、猫が見つからなかったと報告するのは気が引けた。
「サティ殿……。あと少しすれば、貴方は猫に戻られるのですよね」
「はい」
「お願いしたいことが……あるのですが」
「ジョシュ殿下の元に戻れ、というのですね」
「……命令ではありません。お願いです。それに、戻るのではなく、少し姿を見せるだけでかまいません」
サティの言葉にペルセニーアは申し訳無さそうに顔を上げた。
「今の話によればサティ殿は……、セラフィーナ嬢が連れてきたのでしょう」
サティの表情が、何と言っていいのか分からないような表情になる。ペルセニーアは続けた。
「セラフィーナ嬢は責任を感じて、ひどく気落ちされて帰宅なさいました。ジョシュ殿下が必ず見つけるから……とお引き受けになって。見つからなかったとしても咎めはしないでしょうが……」
ペルセニーアはジョシュの護衛騎士だ。ジョシュが懇意にしているヴィルレー公爵令嬢、セラフィーナとも仲がよい。彼女にとって、セラフィーナは歳の離れた妹のような存在であり、ジョシュの大切な姫君であり、小さな友達でもあった。その小さな姫が悲しむのは忍びない。だが、この自分の願いが随分身勝手な我侭であることも分かってはいた。2人は動物になってしまえば非力な猫とネズミなのだ。誰の目にも触れないよう、ひっそりと王宮を出るのが一番安全に決まっている。
「わかりました」
「おい、サティ……!」
断られても当たり前だと思っていたペルセニーアは、あっさりとしたサティの返答に驚いて視線を向けた。ピウニー卿がサティの隣で非難めいた声を上げている。
「本当に構わないのですか?」
「顔を見せるだけならば、大丈夫だと思います」
「いや、待て、サティ。見つかったということになれば、ヴィルレー公爵のところにも言い訳をせねばなるまい。どうするのだ」
「でも見つからなかったって言ったら、セラフィーナが心配すると思う。王子を通さずに公爵のところに直接話に行くのもおかしいでしょう」
しょぼんとしたサティに、ピウニー卿が明らかに動揺する。
「いや、それは分かる、分かるが……、ヴィルレー公爵にはどう言うのだ」
「……それならば私が、お三方に話します。実は元々アルザス家で保護していた猫だとでも言えば……」
「我らは公爵家の馬車に乗ってきたところを見られている。……そんな言い訳が通用するだろうか」
3人は考え込んだ。……サティがため息をつく。
「……とにかく、王子様に1回会うくらいなら問題ないでしょう、ピウニー」
「だが……」
ピウニー卿がサティに咎めるような表情を向けた。ペルセニーアの眼から見ると、サティとピウニー卿は旅の仲間という以上の、特別な関係に見える。
「……それならば私も……」
「では兄上も一緒に来てくださってかまいません。ネズミ一匹くらいならば、隠すことは出来るでしょうから。その代わり姿を現さないようにしてくださいね」
「う……うむ……」
いずれにせよ、ジョシュは猫について何らかの報告があるまで起きている……と言ったのだ。いつもは聞き分けのよいジョシュがこのような我侭を言うのは珍しい。よほどセラフィーナの事が心配なのだろう。
「ピウ、大丈夫だって」
サティが若干うんざりと言った。2人の様子を見て、ペルセニーアとパヴェニーアは眼を丸くする。ピウニーアをピウニー、ピウニー卿と呼ぶ人は多いが、ピウと略すのは初めて見た。少し可笑しい気持ちになる。アルザス家でもっとも強い男、父と唯一互角に剣を合わせる男。優しいけれど、武術に関しては常に厳しかった兄が、サティという女性にこのようにおろおろさせられているのを見るのは、不謹慎ながらも愉快だ。
「サティ殿」
ペルセニーアはサティに向き直ると、その手を取って丁寧に騎士の礼を取った。その凛々しい様子に、サティは少し首を傾げる。気遣わしげにサティを見返す瞳は琥珀色でピウニー卿よりも少し色が薄かったが、意志の強そうなところは似ているような気がした。
「お心遣い感謝します」
「いいえ、大丈夫です」
受け負ったサティの言葉に、まだ申し訳なさそうな表情を浮かべたまま静かに頷いて、ペルセニーアはパヴェニーアを振り返った。
「兄上は執務室で待っていてください。お2人は私が」
「ああ」
本当はパヴェニーアが2人を連れて行きたかったが、絶対に全員に止められるだろう。パヴェニーアは涙を飲んでその役割を自重した。
「貴方方が猫かネズミの姿に戻るであろう時間に、私達は再び来ます」
「あ、ああ」
まだ全然納得していないピウニー卿は曖昧に頷いた。パヴェニーアもペルセニーアも騎士としてまだ仕事が残っている。残業するという旨を部下に伝えなければならないし、パヴェニーアはジョシュを伴うはずだった訓練に立ち会っていないのだ。報告も受けなければならない。
「サティ殿、施錠の魔法をお願いできますか?」
「分かりました。開くときは<グレン>で」
「了解しました」
「ではまた後で……」とパヴェニーアとペルセニーアは侍女部屋を辞した。2人が部屋を出ると、ガチャリと音がして施錠されたのが分かった。
****
「兄上、よかったのですか?……2人が戻るまで一緒に居なくても」
「何がだ」
ペルセニーアは少しだけ言葉を濁す。
「その……、私は2人が言葉を解する猫とネズミだった姿を見たわけではありません」
「信じられない、と?」
「あれははっきりと、兄上だったではありませんか」
「ネズミだった兄上を最初に見せられた、俺の方が信じられんかったよ」
「それは……」
確かにそうかもしれない。ペルセニーアは静かに瞳を伏せる。そんなペルセニーアから視線を外し、パヴェニーアも考え込んだ。
パヴェニーアにとってピウニーアは乗り越えられない強い兄だ。もちろん、パヴェニーアとてアルザス家の男。若くして白翼騎士団団長という身分を頂き、アルザス家の当主になっている。ピウニー卿という常に比較される「竜殺しの騎士」を兄に持ちながら、アルザス伯爵家という武門の名家を支えるのは相当なプレッシャーだ。
ピウニー卿は、魔竜を倒す旅に出る事が決まって、すぐに家督をパヴェニーアに譲る旨を父親に申し出た。それは魔竜という敵がいかに強大で、それに立ち向かう兄がどれほどの覚悟を決めていたのかが分かるものだった。その覚悟を受けてパヴェニーアは家督を継ぎ、それに伴って父は夫婦で隠居している。もちろん、ひとりアルザス家を支えることになったパヴェニーアは戸惑った。だが、それでもパヴェニーアが当主として立ったのは、兄に認められたいがためだった。いや、違う。兄に認められた証だと考えたからだ。
その兄がネズミになって帰ってきた。戸惑わないわけがないのだ。ネズミ。そう……ネズミ。
……パヴェニーアは、再び恋する乙女のような顔になって、ほう……と溜息をついた。
「まあ、ネズミになった兄上を見れば分かる……」
パヴェニーアがぽつりと言った。
「……何がです?」
胡散臭そうにペルセニーアがパヴェニーアを伺う。パヴェニーアは厳つい顔に全く似合わない、うっとりとした瞳で言った。
「あの愛くるしさに」
ペルセニーアが若干冷たい目でパヴェニーアを見た。
****
侍女部屋で特にすることなく、ピウニー卿とサティは寝台の端に2人並んで座っていた。いつも人間から猫やネズミに戻るのは唐突だ。今までの経験から、大人しくしておいたほうがいい……というのは分かっていた。
「サティ……本当に大丈夫か。すぐにアルザス家に戻れば、王子に会わなくても済む」
「何をそんなに心配してるの」
「ジョシュ殿下がサティのことを気に入って、ずっと側に置くと言ったらどうするのだ」
「そんな我侭は言いそうに無いでしょう」
「分からないだろう。猫になったサティは……!」
「何?」
突然言葉を止めたピウニー卿を、サティはちらりと伺う。さっきからピウニー卿はずっとこの調子なのだ。それにしても猫になったサティは、なんだというのだろう。
「猫になった私は、何?」
言葉に詰まったピウニー卿に、追い討ちをかけるようにサティは問いを重ねる。今は夜で、念のために明かりの魔法は控えている。明かりといえば、僅かに窓から零れる星明り程度だ。
「猫になったサティは……その、愛らしいだろう……」
「…………」
その言葉を聞いて、サティはなぜか、はあ……とため息をついた。
「ネズミのピウニーだって似たようなもんでしょう」
「そういう意味ではない!」
「じゃあ、どういう意味なの」
「それは、サティが……」
ピウニー卿は再び言葉に詰まった。サティはそれを聞きながら、全く別の話題を口にした。
「ねえ、ピウニー」
「なんだ」
「弟さんはまあ……なんかちょっとアレだけど、妹さんとか、いい人ね」
サティはパヴェニーアとペルセニーアの2人を思い出しながら言った。髪の色合いも瞳の色合いも、少しずつ違うがよく似ている。何よりも3人に共通するのは、凛々しい、頑固そうな瞳だ。血縁者というものがいないサティには、それがとても新鮮に見える。
「ん?」
「しかも、ピウニー、『兄上』って呼ばれてた」
ピウニー卿が「兄上」と呼ばれていたのを思い出すとおかしくなって小さく笑った。自分がいつも「ピウニー」と呼んでいる人が、「兄上」と呼ばれているのを見ると、なんだか自分には馴染みの無い単語でくすぐったい気持ちがしたのだ。
「どうした?」
「なんでもない。兄弟ってちょっと羨ましいなって」
サティは多分22、3歳くらいだ。教会で見つけられたときを1歳と数えて、そのくらい。特に子供という年齢ではない。それなのに、兄弟が羨ましいなどという、子供のような言葉を口にしてしまうのは、今が多分夜だからだ。少しだけ物憂い気分になってしまう。
「サティは、……兄弟などは居ないのか?」
「あー……、妹みたいなのは居たけど……」
「妹みたい?」
「妹弟子?……家族とかそういうのは元々居なくて、……その、ずっと師匠と師匠の家族と一緒に過ごしてたから……」
なんとなく言い難そうな口調で、サティが隣で身じろぎした気配をピウニー卿は感じる。
「サティ……」
「あの、別にさびしいわけじゃなくて、どういうものかなって思っただけで……」
「ああ」
そういえば、ピウニー卿はサティの身の上話を聞いたことが無かった。理の賢者……という高名な賢者に弟子入りするほどの女性だ。まったく紆余曲折を経ていないわけではないだろう。深く聞くのは躊躇われたが、今はただ、隣で物思いにふけっているサティの横顔が、僅かに寂しそうで目が離せなかった。夜目にもそれと分かるほど、2人の距離は近い。ピウニー卿は、思わずサティの頬に触れた。触れた頬はピウニー卿の手にしっとりと優しく、いつまでも触れていたかった。そして、そう思ってしまう自分の気持ちを自覚しながら、ピウニー卿は身を寄せる。
「ピウ?」
「サティ……こっちを向いてくれ」
「……え」
急に吐息交じりの低い声が耳元で聞こえ、大きな手が頬に当てられて引き寄せられる。突然の艶めいた雰囲気に、サティの顔が上気したように赤くなる。夜だから赤くなったなどと分からないだろうが、熱は伝わるかもしれない。しかも、ピウニー卿の声で(人の姿で)囁かれると、魔力に絡められたようにサティは動けなくなった。裸で人間に戻ったときですらこんな風に動けなくなることは無いし、悪態だって付ける。それなのに、服を着ている今、動けなくなる自分の身体は一体どうしてしまったのだろう。
「ね、待って、ピウ……ちょっ、と、」
「……サティ、俺は……」
何故かサティの心臓が跳ね上がり僅かな抵抗も出来なくなった。ピウニー卿がサティの直ぐ側にもう片方の手を付く。ギシ……と腰掛けている寝台がきしみ、熱い吐息が感じられるほど、ピウニー卿の顔が近付いた。頬を触れていた大きな手が、サティの首筋をなぞるようにうなじに回される。その感触に思わずサティから溜息が零れ、支えられた手の力で逃げることも敵わない。……今にも唇が触れてしまう。
だがしかし、唇が触れる代わりにピウニー卿の身体はサティの猫の体に沈み込み、サティは自分の身体に覚えのある重みがかかったのを感じた。2人の上に、着る者を失った洋服がはらりと掛かる。
「くそっ……またか、またこのパターンか! 全く同じではないか、呪いかこれが! 呪いでなければ納得できん!」
ピウニー卿が騎士らしからぬ独り言をぶつぶつ言いながら、サティの喉元で悔しげにもぞもぞ動いている。
サティは喉元で動くピウニー卿の体温を感じながら、ホッとしたような切ないような、なんともいえない気分になった。