第1章 王都へ

013.えーっと……君だね?

ジョシュの元に猫が戻ってきたのは、日が変わる直前だった。侍女や護衛達に窘められたが、ジョシュは起きて待っていた。ペルセニーアは見つかっても見つからなくても必ず報告に来るはずだ。夜着に着替え、ソファで頬杖を突いて考えるのはセラフィーナのことだった。

まったく。どうしてあんな無茶をしたのだろう。いくらジョシュが小さい生き物が飼ってみたいと言っていたといっても、セラフィーナらしくない行動だった。

ジョシュの母は今、懐妊している。ジョシュが生まれてから12年。待望の第2子だ。つまり、弟か妹が生まれるのだ。ジョシュとて12歳で、もう王太子としての教育も始まっており、それがどういうことかは分かっていた。だが、不安も大きい。生まれる子が弟でも妹でも、可愛がりたい。守りたい。でも、12歳で、病気がちで、魔法も剣もほとんど出来ない自分にできるだろうか。それが不安だった。今の自分が、王として立てるとはとても思えない。周囲の貴族達も、生まれる子がどちらかによって、対応を変えてくるだろう。ジョシュはまだ12歳、だがもう12歳なのだ。それらへの立ち回りも、うまくやらなければならないというのに。

ここのところ身体の調子が悪かったのは、不安が蓄積している結果だと自覚している。ジョシュの体調は、なぜか気持ちの昂ぶりや不安に左右される。ジョシュの調子が悪いときはジョシュの気持ちも沈んでいるのだ。セラフィーナはそれに気付いている。……だからかもしれない。彼女があんな無茶をして、小さな生き物を連れてきたのは。

……小さい生き物。グレンと名前をつけていたあの猫。ヴィルレー公爵の商隊に紛れ込んでいた、という。出来れば、セラフィーナに返してあげたい。そして、グレンの話をセラフィーナからたくさん聞きたい。ジョシュはそう思っていた。

コンコン……と、控えめなノックの音が聞こえて、侍女がペルセニーアの来訪を告げた。

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サティはペルセニーアの腕に抱かれ、ピウニー卿はベルトにつけたサイドバッグに入れられている。

あの後、2人が変身したであろう時間きっかりに侍女部屋に迎えに行ったペルセニーアの目に入ったのは、星明りにうなだれるネズミの姿とそれを見下ろす猫の姿だった。いや……正直ネズミに詳しいわけではないので、あのときのネズミの背中が果たしてどういう感情だったのかは知る由も無いが……あんなに小さな兄の背中を見たのは初めてだった。

ネズミが言葉を話すという事実、さらにその声が兄のものであることを認めれば……この小さなネズミが兄だと思わざるを得なかった。ネズミであっても、この雰囲気と声で「ペルセニーア!」と一喝されれば、「はい、兄上」と答えてしまう。

(なぜか)うなだれている兄をそっと手ですくって、ベルトに取り付けたサイドバッグに入ってもらった。手に触れた毛皮はふわふわと繊細で柔らかく、冷静なペルセニーアにも心地よさが理解できる。なるほど……これは、パヴェニーアが冷静でいられなくなるはずだ。あの兄は、小さい頃から可愛らしいものが好きだった。アルザス家は、武術の強さと礼儀にだけは相当厳しかったが、それさえ守れば個人の趣味には決して煩くなく、自由に育てられた。ペルセニーアは女だからと多くのぬいぐるみや人形を持っていたが、それらのうち、可愛らしいぬいぐるみに関しては、パヴェニーアがいつも恐る恐る撫でていたのをよく覚えている。

ピウニー卿は宮廷における武官としての役割に興味は無く、多くの騎士達を育て王宮を守る仕事ではなく、国を飛び回る職務を選んだ。彼の職務は国王の親衛隊としてある程度の自由を与えられ、国中の魔物を調査する……という、最前線の中でも最も未知なる戦いに晒される危険なものだった。堅実と言われているアルザス家だが、個人の気質についてはそういった自由で奔放な人間が多い。

とはいえ、兄2人はどちらも真面目で堅物だ。ピウニー卿は国を飛び回り、パヴェニーアは男らしからぬ趣味を持っているが、それだけである。

そんな兄2人を見ながら育ったペルセニーアは、なぜか真面目だけが取柄の性格になってしまった。自分でもつまらぬ性格だな……と思う。こういった性格が災いしてか、縁談も……無くは無いものの特別感情を許したいと思う男もおらず、いい歳になった今でもなんとなく未婚のままだ。自分は騎士であるし、継ぐ家があるわけでもなし、未婚のままでも忠義を守り、国に仕えて生きるのも悪くない……と思っている。そう思うこと自体が、つまらぬ性格だと自嘲する。

ペルセニーアはサティを「失礼いたします」……と優しく断りを入れて、そっと抱き上げた。両手で抱えると猫だから当たり前だが、軽く温かい。

「疲れませんか?」

「大丈夫です」

「疲れたら、言ってくださいね」

腕の中のサティを見下ろして、気遣わしげに首を傾げた。サティが腕の中で自分を見上げ、「大丈夫です」と答えれば……確かに頭を撫でたくなる。ペルセニーアは小さく笑った。そして思う。

ペルセニーアでさえ頭を撫でたくなる猫のサティ。だが、サティを守りたいと一番思っているであろう兄は、今は非力なネズミだ。正義感が強い騎士が、今は守るべきものを持っていたとして、だがその姿はネズミ。騎士としてその胸中は……。

ペルセニーアは2人に心から元に戻ってほしいと願わずにはいられなかった。

****

「夜分までかかり申し訳ありません、ジョシュ殿下」

「かまわない。我侭を言ってすまなかった。見つかったようだね」

「はい」

控えているペルセニーアをソファに座るよう促して、ジョシュも向かいに座った。ジョシュは真面目なこの護衛騎士が、誰よりも優しく、誰よりも周囲に細やかに気を配っていることを知っている。その優しさに甘えて、見つかるまで待機する……と言った自分が少し後ろめたい。

「ジョシュ殿下、その猫のことですが……」

「ペルセニーア……、この猫は……」

「はい。セラフィーナ嬢が連れてきたのですね」

「知っていたの」

「なんとなく、ですが」

「そうか……。セラフィーナが次に来るまで、僕が預かっていてもかまわないかな」

ジョシュがそう言った瞬間、びくりとサティが震えた。手に伝わってきたその反応に、ジョシュは猫の顔を覗き込む。苦笑して、少し寂しげに指で喉に触れた。

「早く、セラフィーナのところに帰りたい……?」

「にうぅ……」

ジョシュの指が触れたとき、サティが低く唸った。ペルセニーアはその声色の変化に気付き怪訝そうにサティを見下ろしたが、話しかけるわけにもいかず、ジョシュに視線を移す。

「ジョシュ殿下。……この猫ですが、他に飼い主がいるのではありませんか?」

「ペルセもそう思う?」

「ええ。……よければ、アルザス家で預かり飼い主を探したいのですが……」

「それならば、ヴィルレー公爵もそのように手配していると言っていたよ」

「ヴィルレー公爵にもお話されたのですか?」

「フィーナがね」

ジョシュは、正直にヴィルレー公爵に猫を連れてきたことを打ち明けたときの、セラフィーナの様子を思い出しながら小さく笑った。

「ならば、ヴィルレー公爵にお伺いしてみます」

「うん。そうしてくれるかい。……面倒なことになってしまってすまない」

「とんでもございません」

内心しまった……と思っているペルセニーアには気付かず、ジョシュはサティの頭を再び撫でた。

「でも、今日は一晩預かってもいいかな?」

「え?」

「え?」

「にゃー!」

男の声が聞こえた気がして、ジョシュは顔を上げてきょろきょろと周囲を見渡す。

「今、何か聞こえなかった? ……ちょっとグレンの鳴き声が邪魔で、よく聞こえなかったけど……」

「い、いえ、聞こえませんでしたが、何か?」

「気のせいかな……」

ジョシュは首を捻りながら、話を戻す。

「今日だけでいいんだ。セラフィーナが折角連れて来てくれた猫だし。……ダメだろうか」

「それは……」

「しかしだな!」

「うにゃああああああ!」

またも男の声が聞こえた。ジョシュは再び首をかしげる。

「……やっぱり何か聞こえなかった?」

「いえ、気のせいではありませんか?」

「そうかな」

ジョシュが首を捻っている間に、サティがふんふんとペルセニーアの脇腹に顔を突っ込んだ。ピウニー卿を入れてある辺りだ。何事か……とペルセニーアが上着を開けようとしたが、はたと気が付き、上着に包むようにサティを隠した。ペルセニーアが珍しく声を高くする。

「えーーー、それはですね。ジョシュ殿下。侍女の方々がいい顔をなさらないでしょう。陛下の耳にも入るでしょうから後から知ればなんと言われるか分かりませんし……」

「それは大丈夫。父上には僕からきちんと話すよ」

「それならば……」

「にゃ」

……相談が終わったのか、サティが上着の中から顔を出した。一体どのように話がまとまったのかペルセニーアにも聞き取れなかったが、何かしらの結論が出たようだ。問題はそれをペルセニーアにどう伝えてくれるか……だ。ペルセニーアが……そしてジョシュが、サティをじっと注目している。サティは「にゃあ」と一声鳴いて、とん……とジョシュの座っているソファの上に飛び乗り丸くなった。その様子にペルセニーアは一瞬だけ瞑目し、ジョシュに頷く。

「それならば、明朝兄と共に迎えに来ます」

「パヴェニーア団長と?」

「ええ。実はあの兄が……、あんな厳つい顔をして大層猫好きでして。えー、その、猫を気に入りまして」

「ああ、だから、アルザス家で面倒を見たいと……?」

くすくすとジョシュが笑った。ペルセニーアは澄ましている。「あんな厳つい顔」というが、ジョシュにとっては頼もしい実直な騎士団長だ。剣術を充分に習うことはできていないが、騎士の心得を教えてもらったことが幾度かあった。

「分かった。パヴェニーア団長が来たら、通すように手配しておくよ」

「ありがとうございます」

ペルセニーアがほっとしたようにジョシュに頷いた。……顔を引き締めて敬礼すると、ちらりとサティに眼を向けた。サティはグリーンの瞳でペルセニーアの琥珀色の瞳を見返した。小さく頷き、尻尾をぱたんと揺らす。

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一晩一緒に居たい……と言ったのは、やはり猫がとても可愛かったからだ。一度触れた温かい体温は手に心地よく、離れ難かった。毛が付いてしまうと侍女がいい顔をしないだろうから、ジョシュは室内にいくつか置いてある大き目のタオルを枕元に敷いて、そこに猫を置いた。頭をそっと撫でて、自分も寝台に潜り込む。じっと猫を見つめていると、ぱたんぱたんと尻尾が揺れた。ぽんぽんと自分を寝付かせようとしているかのように、長い尻尾ですぐ近くのシーツを叩いている。思わず笑って、背中を撫でると、猫は、くか……と欠伸をした。今度は少し近づいたジョシュの肩を、尻尾で叩き始めた。その尻尾の揺れを見ていると、ジョシュもだんだんと眠くなってくる。そして、いつの間にか、眠ってしまったのだ。

ジョシュの目が覚めたのは、空が少し白み始めたときだった。

「……あー……、なんかやっかいごとに巻き込まれそうな気がする……」

寝台の下からそんな女の声が聞こえてきたのだ。寝台でビクリと身体が震える。硬直していると、すとんと寝台が揺れた。ジョシュの開いた瞳と、猫の綺麗なグリーンの瞳が……パチリと合う。途端に猫の頭の毛がぶおおおおと逆立ち、瞳孔全開で、ジョシュを見つめていた。

「……今の、君かい……?」

ジョシュの驚いたような声に、猫の耳がぴっとひっくり返った。

「にゃ……にゃーん……」

「えーっと……君だね?」

ばれた。

****

サティがジョシュの下に残ったのは、気になることがあったからだ。

サティは、ペルセニーアのマントに隠れてピウニー卿に「ごめん、一晩だけ殿下のところに行く」……と伝えたのだ。当然、ピウニー卿は猛烈に反対した。だが、「ちょっと気になることがある」と言って聞かなかった。さすがに今回はピウニー卿は一緒には無理だ。姿を現すなとペルセニーアから念を押されているし、上手く隠れることが出来たとしても、その後気付かれずに脱出できるかどうかは微妙なところだ。

サティは、無理を押しても少し調べてみたいことがあった。ジョシュが寂しげにサティの喉下に触れたときに、奇妙な魔力の流れを感じたのだ。なぜか、ジョシュから、魔力を無理矢理押し込めて歪めているような……そんな気配がした。もしかしたら、ジョシュの体調が不安定なのはこの力の流れのせいなのではないか……そんな気がしたのだ。

サティは魔法使いだ。こうした魔力の揺れや歪みにはやはり興味があった。それがジョシュの体調に影響しているとなれば、なおさらだ。だから、ピウニー卿に無理を言った。かならず明日には戻るから……と言って、半ば無理矢理残ったのだ。

通常、魔力というのはどの人間にも宿っている。だが、その量は人によって様々だ。もちろん、血統などによっても左右される。量が多ければ魔法使いに向く……と一般的には言われているが、基本的には素質は量だけとは限らない。魔法はさまざまな系統に分かれているが、魔力も系統ごとに得手・不得手がある。たとえば、ピウニー卿は剣を媒体とした破壊魔法は使えるが、他の魔法系統は全く使うことができない。サティは身に宿る魔力が人より多く、物理的に使いこなせる系統が多方面に向いている。ただし、本来はサティのように多くの系統に向いた魔力の方が、珍しい。

サティのように魔力を豊富に持つ人間は、バランスを崩しやすい。満ちたコップを揺らせばすぐに水が零れてしまうのと同じで、こうした魔法使いは、魔力を体内から零さないようにバランスを取りながら生活する必要がある。もちろん小さい頃からそれを訓練し、サティも息を吐くように魔力の均衡を保っている。魔法使いが杖などの安定した魔力の媒体を持つのは、そういう意味でも必須なのだ。

幼い頃に魔力を上手く発動することが出来ず、身の内に無駄に魔力を溜め込んだり、不意に揺らされて壊れたり……ということは多い。もっとも、それほどの魔力の持ち主は滅多に生まれることは無い。それなりの魔法使いの系統に、たまに生まれるかな……という程度だ。だからこそ、ジョシュにサティが感じている魔力の歪な流れは、速く対処しなければならないとサティを焦らせるには充分だった。

ただ、ジョシュの魔力の流れは、どこかおかしい。別のところからコントロールされ、押さえつけられているような感覚だ。どこからか……。サティは、自分の身体に3分の1だけ戻ってきている魔力に集中した。ジョシュの魔力が歪められている圧力……寝台の下。そう感じたサティは、ジョシュを起こさないようにそっと床に下りた。猫の小さな身体で寝台の下に潜り込む。

一番弱い光の呪文を唱えて、寝台の下を覗く。

……サティがそこに見たのは、ジョシュの魔力が出来る限り発動しないように封じ込める複雑な術式だった。