「もしかして、寝台の下を見た?」
ジョシュが身体を起こし、サティに向かって首を傾げた。グリーンの瞳の瞳孔が開き、毛が逆立つ。尻尾が膨らみ、耳が裏返った。その様子を見て、くすくすとジョシュは笑う。ふ……と、ジョシュの瞳に12歳らしからぬ、どこか達観した光が揺らめいた。
「……誰にも言わないで?……グレン。寝台の下を見たのでしょう。……魔力を封じる、魔法陣」
「あ、あれは」
サティが観念したように口を開いた。
「うん」
その声を聞いて、ジョシュは満足気に頷く。
「君は、この魔法陣を書いた人?」
ジョシュの瞳が、……悲しそうに沈んだ。その瞳を見て、サティは慌てて頭を振る。
「違います、ジョシュ殿下」
「本当?」
「本当です。……ジョシュ殿下、殿下はあれがどのようなものか……ご存知なのですか」
「うん。……少しだけ、こっそり勉強したから」
ジョシュは知っていた。幼い頃から、自分の身体を巡る特殊な力。自分の体内にある、不思議な力が「魔力」というものであること。その魔力が、魔法使いたちによってどのように使われているかということ。とても幼い頃だったが、理の賢者という人に1度だけ習ったことがあったからだ。理の賢者はすぐに王宮から居なくなってしまったため、その力の使い方まで学ぶことは出来なかった。……そして、学ぶことも許されなかった。魔力を扱うという力の流れを認識すると同時に、ジョシュは身体を壊したのだ。6歳の頃、ジョシュは初めて倒れた。その後は、魔力を自分でコントロールしようとすると無理矢理引き剥がされるような感覚に陥るようになった。そのせいで、眩暈を覚えたり熱を出したりしたのだ。
魔力を意識できるようになった人間は、自身の魔力の系統によっては魔力の流れを知ることができる。ジョシュは部屋の1点から自分を押さえる特殊な力の流れに気付き、寝台の下に潜ったのだ。そして気付いた。自分の魔力を抑える為に、記述された魔法陣の存在。最初はもちろんそれがどういったものかは分からなかった。だが、図書室などで独学で魔法語を勉強をするうちに、なんとなくだが、その内容がどういったものかが分かるようになった。あくまでも独学だ。詳細なところまでは分からない。ただ、自分の魔力を封じ込め、時折揺らしている。そういった内容だった。
最初は正体の分からない魔法陣が怖くて、その効果が分かったときにはそれが知れたときに宮廷に及ぶ効果を図りかねて、……ジョシュはずっと黙っていた。父にも、母にも、医者にも、誰にも言ったことは無い。王宮の人達は、皆、自分が6歳の頃に体調を壊し、原因不明の熱や眩暈で体が弱いと思っているはずだ。
そんなジョシュの見解にサティは内心舌を巻いた。確かにジョシュの認識している通りだ。あの術式は恐らく術者のオリジナルで、ジョシュのために組んだものだ。サティも一見しただけだったが、ジョシュの魔力に合わせ、ジョシュ自身の魔力を押さえ、揺らすように組まれていることが分かった。範囲は王宮全体を薄く覆う広いもので、そして、恐らくその目的は。
「ジョシュ殿下」
「うん」
「あの術式の目的はお分かりですか?」
「……いや……何をしているかは分かったけれど、目的までは分からない。グレン、君には分かるの?」
サティには……分かった。あの術式の目的は、ジョシュの身体を壊さないようにしているのだ。ジョシュの魔力の発動を抑え、発動を抑えることよって偏ってしまう魔力を時折揺らして分散させる。その度に体調は悪くなるだろうが、ジョシュは魔力の暴発によって死ぬことは決してないだろう。……恐らくそういう目的だ。サティも幼い頃にそういう類の術を施されていた時期があった。だから分かる。
魔力が強くそれを正常に操ることができなければ、子供の頃は、魔力を暴発させたり、体力ごと一気に枯渇させたりして、命を落としてしまうことがある。だから、命の危険があるほどの魔力の大きな子供が生まれれば、必ず魔法使いの手に預けられ処置が施されるのだ。小さい頃に一度魔力を抑え、徐々にそれを緩めていくのが定石だ。ジョシュは、魔力の暴発によって万が一が起こらないように、綿密な魔方陣が練られていた。だが、ずっとこのままでは、ジョシュは魔力の使い方を知ることの無いまま病床で過ごさなければならないだろう。……一体誰が何の目的で、このような術を施したのか。さまざまな可能性が考えられる。ジョシュに大きな魔力を持ってほしくない人、ずっと病気のままにしておきたい人、あるいは、
ジョシュに絶対に、万が一が起こってほしくない人。
サティは頭を振った。ジョシュはどこから見ても利発的な王子だ。ちゃんとした教育を施せば、このまま立派な王太子になれるだろう。だが、魔力を抑えられている。放っておいても彼は死ぬことは無い。だが、それは王太子として必要な力と身体を、持てないことを意味していた。
「ジョシュ殿下」
「うん」
「私の名前はサティといいます」
「サティ」
「はい」
サティ。……ジョシュが、口の中で何度か反芻して、嬉しそうに微笑む。
「そうか、サティ」
「私は、理の賢者の弟子の、サティです」
ジョシュの瞳が大きく見開かれた。
****
翌朝、ジョシュの部屋にペルセニーアとパヴェニーアがやってきた。サティとすっかり仲良くなったジョシュが、応対する。
「おはよう。ペルセニーアもパヴェニーア団長も、昨日はありがとう」
ペルセニーアとパヴェニーアが敬礼を施す。その様子にジョシュが頷いて、椅子を勧めた。二人は腰を下ろす。ジョシュはサティの頭を撫でながら、切り出した。
「この猫のことなんだけど……」
「ジョシュ殿下、あの」
「うん。ペルセ、大丈夫」
何か言いかけたアルザス家の2人を遮って、ジョシュは頷いた。
「この猫は、サティといって理の賢者のところの猫だそうだ」
「……はっ……。は?」
思わずペルセニーアとパヴェニーアはサティを見た。サティはそ知らぬ風を装って、尻尾をぱたぱたと揺らしている。
「理の賢者の使いで杖の賢者のところに出向くはずが、道に迷ってしまったらしい」
「……は、あ」
「僕が王宮の人間を動かすわけにはいかないから、アルザス家で杖の賢者のところまで送り届けてもらえないだろうか」
「それは、かまいませんが」
「それから、ペルセニーア、パヴェニーア団長」
ジョシュが、低い声で2人の忠義な騎士の名前を呼んだ。その声は12歳の少年の声ではなく、威厳の込められた王太子のもので、思わず2人は背筋を伸ばす。
「猫が迷い込んだことは知れているけれど、理の賢者のことについては、君達2人と僕とサティしか知らない。セラフィーナのこともあるからヴィルレー公爵には話すけれど、……それ以外には他言無用だ。いいね」
「はっ」
座したままではあるが、騎士の一礼を施した2人に、王太子の態度を崩してジョシュは微笑んだ。
「ありがとう。ヴィルレー公爵には僕から伝えておく。それで……もしよかったら、送り出す前にセラフィーナのところに寄ってもらえないかな」
「恐れ入りますが……殿下、その、猫のことをどこで?」
ペルセニーアの疑問には、微笑んだままジョシュは片目を瞑った。
「それは秘密」
「秘密……ですか?」
「うん。ね、サティ」
サティが顔を挙げ、すり……と顔をジョシュに摺り寄せた。
「さあ、サティ。理の賢者によろしく伝えておくれ」
「にゃーん」
ジョシュがサティから手を離すと、サティは両手を広げたパヴェニーアを無視してペルセニーアの膝の上に乗った。パヴェニーアは行き場を失った両手を落とし、がっくりとうなだれる。
「ありがとうございます、ジョシュ殿下。今から少しお暇を頂いても?」
「今日は君達は非番と聞いている。アルザス家に戻ってもらって構わないよ。ヴィルレー公爵は今日も来る予定だから、サティのことはそのときに伝えておく」
「分かりました。それでは。失礼いたします」
アルザス兄妹が立ち上がり、ジョシュに再度敬礼を施した。ペルセニーアは片方の腕にサティを抱えている。2人の様子を見てジョシュも立ち上がって頷く。ジョシュは、ペルセニーアが抱き寄せるサティの右前足を取った。
「またね、サティ」
そうして、ちゅ……と、サティの右前足にキスをした。サティは、ジョシュの腕にすり……と擦り寄る。
「サティ!」
「うおおおおっふぉん!」
突然、低く響く声がサティを呼んだような気がしたが、パヴェニーアのやたら大きな咳払いが被る。
「……パヴェニーア団長?」
「いえっ、なんでも」
微妙に怪訝そうなジョシュの表情に、ペルセニーアが助け舟を出した。
「兄は、サティのあまりの可愛らしさに平静を失っているようですね」
「ああ、サティはとっても可愛いものね」
「ぺ、ペルセニーア!」
ジョシュはくすくす笑いながら頷いて、ペルセニーアとサティから一歩離れた。ダシにされたパヴェニーアは顔を真っ赤にしながら、ペルセニーアに抗議しようとするが、妹は何食わぬ顔をしていた。
それにしても。
ピウニー卿は12歳の子供が猫のサティ(の前足)にキスしたくらいで動揺するような男だっただろうか。まこと恋とは人を変えるものだな……と、ペルセニーアは思ったが、言葉にすることはせず、己の身の内に止めておいた。
もっともそれが恋なのか何なのかは、本人に聞いたわけではないから知る由も無いが。
****
ピウニー卿はサティを連れて、アルザス家に戻ってきた。
無事連れて帰った後、パヴェニーアが何に触発されたか、「改めまして、アルザス伯爵パヴェニーアと申します」……と、パヴェニーアがサティの右前足を取ろうとしてピウニー卿にみっちり怒られるという出来事があったが、概ね無事に移動することが出来た。
あらかじめ、執事と侍女頭、そしてパヴェニーアの妻であるセシルにのみ事情を説明しておき、2人は他の家人の目に触れないように、客人として離れで過ごしていた。1年ぶりのピウニー卿の帰郷はネズミの姿だったため容易には信じてもらえなかったが、人間に戻って見せればなんとか信じてもらうことが出来た。執事も侍女頭も泣いて喜び、なぜかサティも「あのピウニーア様が女性と共に!」などというよく分からない歓迎を受けて、久々に人間の姿で一休みすることが出来たのは幸いだった。
サティはアルザス家ではもちろん、客人として扱われている。正直こういった場所でどのように過ごせばいいのか分からず戸惑っていたが、パヴェニーアの妻セシルやペルセニーアが何かと世話を焼いてくれるので、暇ということはあまり無かった。
最初にピウニー卿とサティ、そしてセシルが顔を合わせたとき、2人は猫とネズミの姿だった。セシルは目を丸くして、「まあ……」と感嘆の声を零す。
「あのピウニーア様がこのような可愛らしい姿でこのような可愛らしい女性を連れて帰ってくるなんて」
そして恥らいながら、こう言った。
「あの……お2人にその、触れてもかまいませんこと?」
ピウニー卿の髭がピーンと張り、後ずさる。サティの毛皮がぶわわわと逆立った。セシルは期待に満ちた目でこちらを見ている。その表情を受けたピウニー卿が困ったように咳払いしていると、不意に頭上が陰った。
「あー……セシル殿?……むほっ!?」
……なんだ……とピウニー卿が見上げたと同時に、ばふ……と暖かな毛皮に包まれた。サティがピウニー卿の上に乗っかったのだ。お腹の毛がふかふかしていたため、つぶれたりすることは免れたが、微妙に苦しい。そして暑い。
「ちょ、サティ、何だ」
「……」
ピウニー卿が毛皮を掻き分けて喉元から這い出てきた。すると、サティが前足を組んで顎を置く。完全に出さないようにしているらしい。どういうつもりかとピウニー卿がもぞもぞしていると、そんな2人を見てセシルが笑った。
「まあ……」
セシルが頷き、サティの頭にそっと触れる。
「サティさん、わたくしとしたことが出すぎたことを申し上げてしまいましたわ」
「あの……」
そういって、そっと身体を低くするとサティに目線を合わせてくれた。
「もしよければ、ご一緒にお茶にしましょう。冷たいお茶をお淹れします。……お義兄様はパヴェニーアに任せて」
「セシルさん……」
「はい」
「あの、失礼なことをして……すみません」
「まあ。いいのですよ。こちらこそ、不躾なことを申し上げてしまいましたもの。本当に、ごめんなさいね」
ちょっとだけ悪戯っぽく笑ったセシルの表情を見て、サティは前足を組んでピウニー卿を閉じ込めたまま、しょんぼりと耳を寝かせた。なんだかすごく子供っぽいことをしてしまった気がする。「いくら毛皮に触れたい」と言ったとしても、自分の実家に帰ってきたピウニー卿を、その家の人から隠してしまうなんて大人気ない。パヴェニーアの様子とは違ってセシルはとても控えめだ。動物に触りたい……と思う人間はサティだってこれまでたくさん見てきているし、それに擦り寄って餌を貰うという処世術だって使ってきた。セシルだって悪気が無かったわけじゃない、思わず言ってしまったのだろう。すぐに手を引っ込めてくれたし謝ってもくれた。でも。
でも、ピウニー卿の毛皮が他の女の人に撫でられるのは……何故か、なんとなく、嫌だったのだ。
そんなサティの気持ちを汲み取ったのか。それからセシルは何かとサティの世話を焼き、短い期間の内にすっかり仲良くなった。
ちなみにやっとこ這い出てきたピウニー卿が「サティ、どうかしたのか?」と聞いて「別になんでもない」……と、つーんと顔を逸らされ、訳が分からずあたふたしている様子を見て、セシルの顔はさらに綻んだという。
****
その夜。
サティがピウニー卿を誰の目にも触れさせないようにお腹に包みこんだあの様子について、「とても可愛かったわ……」と散々、夫パヴェニーアに自慢し、それを聞いたパヴェニーアが「……それはっ、それは可愛かっただろうな! 分かる!分かるぞセシルよ!」……と力強く同意し、「まあ、あなたならきっと分かってくれると思ってたの! 」……とセシルが夫の手を取り、うふふあははと、それはご機嫌だったとか。
アルザス伯爵夫妻は、愛らしいものが好きな夫妻であった。