第1章 王都へ

015.髭を剃れということか

ピウニー卿は人の姿に戻ってから、パヴェニーアやペルセニーアに請われて地下の訓練場で剣の手合わせをし、馬の手配、荷造りなどの作業をしていて、サティとの時間はほとんど取れていなかった。一日のうちの3分の1しか人間に戻れない……というのは存外不便だ。人の姿で在るうちにやっておきたいことはたくさんあるが、それらを全てこなせば大体いい具合に8時間が過ぎてしまう。そんな風に2日程過ごして、そして今、やっと2人きりになった。家人達は2人に変な気を回して、猫とネズミに戻るまでは離れに近づきませんから……とかなんとか言っている。

ピウニー卿はサティが座っている隣に座った。

少し伸びた薄い色合いの金髪に、時折剃ってはいるものの、再び伸び始めた無精髭はそのままだ。それでも騎士然としているのはさすがだろう。精悍で頑なそうな表情は変わらずである。

サティは人間に戻ってから、ずっとなにやら魔法陣や魔法語のようなものを書きとめていた。ジョシュの部屋で見た魔法陣を、頭の中で整理していたのである。大方の事情を聞いているピウニー卿はそれを覗き込んだ。

「理の賢者殿には連絡が取れそうか」

「呼びかけてはいるよ。多分大丈夫だと思う」

ピウニー卿は頷く。王太子の事情については、国王にも話さないで欲しいというのがジョシュの意向だった。とはいえ、ずっとこのままにしておくわけには当然行かない。サティは理の賢者に話を通すことを約束し、……同時に、ジョシュの身体が心配だったサティは、彼に近しいアルザス家の兄弟にのみ話を打ち明けた。

「解けそうか?……私には魔法は詳しくは分からんが……」

「そうね。……時間をかければ大丈夫だと思う。問題は……」

問題は、解いた直後だ。何の手も施さずに解除すれば、急に解放された魔力を制御しきれない危険性がある。特に12歳……ということは、成長に伴い魔力が増加している途中の時期のはずだ。それを制御するのは、慣れるまでジョシュにとってかなりつらいものになるだろう。

「私も小さい頃に魔力抑制されてたから分かるんだけど……」

「サティも?」

「うん」

サティは思い出す。魔力を抑制されている状態で魔力を使う訓練。大きすぎる力に振り回されないように、自身の耐性を強くする訓練。手足を鍛える為に重りを付けて生活するようなものだ。小さい頃はそれがつらかった。

「つらかったけど、魔法使いになりたいと言ったのは自分の癖に、訓練がつらいと思う自分が一番情けなかったな……」

そういって、サティは苦笑した。

それでもなんとか解いてあげたい。自分の力を持て余す不安さを、サティは痛いほどよく分かる。ジョシュは体調を犠牲にして、それを押さえ込んでいる。しかも、1人で事態を抱え込んで、不安でつらいに決まっているのだ。

ピウニー卿がそっとサティの横髪を梳いた。

少しだけ不安げなサティの横顔を見て、ピウニー卿は再び自分の心が疼くのを感じていた。人間に戻ることができるようになってからではない。サティと過ごすようになってから、ずっと心が落ち着かないのは、予想以上に自分でももてあまし気味の感情だった。だが、心地よい。悪くは無い。ピウニー卿はセピア色の髪に手を差し入れ、髪を掛けるように耳をなぞった。その感触にサティの肩が揺れ、驚いたような表情でこちらを見返した。

「ピウニー?」

「サティ、どうかしたのか?」

「なにが?」

「不安そうな顔をしておったぞ」

ピウニー卿の言葉に、サティの瞳が大きくなった。元々大き目の綺麗なグリーンの瞳でピウニー卿を見つめ返し、突然ふい……と瞳を逸らす。頬が僅かに染まっているようだ。そんな風に視線を逸らされると追いかけて、触れたくなる。

「サティ」

小さく名前を呼んで、伸ばした手で顔を強引に引き寄せる。「ピウニー……、どうし……」

『ふぉーーーーふぉふぉふぉ。おうおう、久々じゃのう、サティ! 呼びかけてくれとったのに、さっさと出てこれんと悪かった悪かった。……おっとっと、これはお邪魔じゃったかの?』

サティの戸惑うような言葉の途中で、理の賢者が長いお髭を撫でながら薄ぼんやりと現れた。今にもサティに顔を寄せんとしていたピウニー卿は、サティの顔を引き寄せた姿勢のまま理の賢者と瞳が合う。

「こっ、こここここっこ理の賢者殿っ」

『ほうほう。お久しぶりじゃのう、ピウニー卿。いやはや、もう少し待ったほうがよいかの』

「そうですね、あともう少し待っていただければ……」

「いーーえっ、そんなことないです、今で大丈夫です」

『これこれサティや。そんな心にも無いことを言うんじゃないぞ』

「こっ、心にも無いってどういうことですかっ!?」

『あと5分待てと顔に書いて……』

「師匠!」

なぜか問答無用で迫ってくるピウニー卿を押しやりながら、サティは賢者に向き合った。

「師匠、何故いままで何回も呼び出したのに呼応してくださらなかったのですか!?」

『だって』

理の賢者は相変わらず、ふぉふぉふぉと笑いながら髭を撫でている。

『古のことわざにあるじゃろう。人のなんとかの邪魔をするものは馬に蹴られると』

「なんとか!? なんとかってなんですか師匠っ!」

『なんとかはなんとかじゃよ。のう、ピウニー卿』

サティに押しやられたピウニー卿は、「くっ……一体誰が私の味方なんだ……!」……などと呟いていた。

****

『ふむ……ジョシュ殿下がのう』

「はい。師匠はご存知でしたか?」

『わしがジョシュ殿下にお会いしたのは7年ほど前じゃ。そのときはまだ、魔力もそれほど成長しておらんかったのじゃろう。上質な魔力じゃとは思うとったが』

理の賢者はふむ……と何事かを思案していたが、不意にピウニー卿に目を向けた。

『アルザス伯爵はどのようにお考えなのかの?』

「理の賢者殿に相談し、一任する……とのこと。それ以上のことはせず、他言も致しません」

理の賢者の言葉にピウニー卿が答えた。パヴェニーアは今この場に居ないが、伯爵家の意図としてはその通りで間違いない。

『ふぉふぉふぉ……肝心なところはワシ任せじゃのう』

相変わらず飄々と笑っている理の賢者だったが、ふと真顔に戻って首を傾げた。

『……サティや』

「はい」

くだんの魔法陣をまとめたものは、用意できておるか』

「こちらに」

サティは、先ほどまで纏めていた魔法陣の術式と魔法語を記述した紙を自分の目の前に持ち上げた。それをまじまじと見つめながら、理の賢者は若干厳しめの瞳を見せた。

『ふむ……。よかろう。お主らがこちらに来るまでの間に、解析をしておこうぞ』

「ありがとうございます。もうよろしいですか?」

『うむ。概要は覚えたぞ。……サティも覚えておるのじゃろう?』

「ええ」

魔法陣や術式を記憶するのは、サティの得意とするところだ。魔法陣などに限ってだが、大体1度見て内容を掴めば、記憶することができる。これは理の賢者にも、もちろん言えることだ。

「師匠」

『ふむ』

「この魔力抑制は何のために行われているのでしょう」

『ふうむ。殿下を魔法使いにしたくない、もしくは、殿下を危険な目に合わせたくないか……のどちらかじゃろうのう』

ピウニー卿が怪訝そうな顔をする。

「しかし……後者であるならば、サティのように徐々に訓練をするなどの方法があったのでは?」

『それでも絶対に大丈夫じゃとは言い切れんのじゃよ。ピウニー卿。サティとて同じじゃった』

「え?」

理の賢者がさらりと言った。思わずピウニー卿がサティの横顔を見たが、サティは「そうなんですよね」と言っただけで、特に何の感慨も浮かべていない。

『さて、ワシはそろそろ戻るとするかのう』

「……賢者殿……」

ピウニー卿は思わず理の賢者を呼び止めたが、何を聞けばいいのかも分からず、口を閉ざした。サティが少し首を傾げてピウニー卿を見たが、その視線には気付かず、難しい顔をして黙ったままだ。理の賢者は2人を眩しげに見つめる。

『ピウニー卿、サティをよろしく頼みますぞ』

「は?……はっ、必ず守ります」

「はい? 何それ」

『ふぉふぉふぉふぉふぉ、ではさらばじゃ』

慌てて理の賢者の声に答えた騎士と、怪訝そうに首をかしげる弟子を残して、賢者は消えた。

****

「一体どういう意味なのよ師匠」

「サティ」

ピウニー卿が少し強めの口調で呼んだ。

「何?」

「その……絶対に大丈夫とは言い切れない……というのはどういうことなのだ」

「それは……そのままの意味だよ」

本当に、そのままの意味だ。たとえ魔力を抑制していたとしても、それを徐々に弱める過程で絶対に綻びは生まれる。抑制を弱めた直後は特に顕著だ。急に重りを外せば手も足も勢いよく動き出す。それと同じで、急に緩くなった枷の反動に戸惑うことも多い。だからジョシュの魔力抑制も、解除していくときが一番難しいはずだ。絶対に大丈夫だと言い切れないからこそ、心配なのだ。

サティの肩が、突然抱き寄せられた。バランスを崩したサティの身体が、ピウニー卿の腕に包み込まれる。「絶対に大丈夫とは言い切れない」訓練を、小さい頃に施されたというサティの話と、それを淡々と話す表情が、思いのほかピウニー卿を切なくさせたのだ。一瞬、どうしても目を離したくない、どうしても離れたくない……という思いに囚われる。いつに無い強引な行動に、サティが僅かに焦ったような顔でピウニー卿を見上げた。

「……何、ピウニー?」

「サティ、お前が……」

「ちょっと、ちょっと待っ……て、……ぅ……」

サティは、きゅ……とピウニー卿に抱き寄せられていた。熱い吐息が髪の毛に掛かり、どうやら唇が髪の毛越しにサティのこめかみに押し付けられたようだ。サティを求めて徐々にそれが下がってくる気配と、ごつごつとした大きな男らしい指が髪を掻き分けてくる感触が熱い。触れ合っているのは小さくて柔らかなお腹とふわふわの毛皮ではなく、自分よりもはるかに逞しくて力強い男の身体だというのも落ち着かない。

胸が詰まるような心地をサティは覚えた。最近、人の姿で2人きりになると唐突に色めいた雰囲気になって、それが心地よいようなむずがゆいような気がするサティは、素直にそれに身を任せることができないのだ。だが、こんな風にピウニー卿に包み込まれていると、「やめてよ」……と退ける一言がどうしても言えない。

サティは逃げることにした。

「あの、ピウニー……」

「なんだ」

「私、お風呂入りたい」

「あ?……あ、ああ」

抱き寄せてサティに触れていると、名前を呼ばれた。ピウニー卿はサティの身体を少し離し、そのグリーンの瞳を見下ろす。するとその口から発せられた、突然の風呂発言。何故かピウニー卿の顔が赤くなった。えー、あー、この状況で風呂……か……。人間に戻ったあと、すぐに風呂を使っていたと思うが……このタイミングでそれを言い出すということは、つまりどういう解釈が当てはまるのだろうか。ピウニー卿は腕を緩めて、「あちらだ」と、部屋の奥を指した。汗を流す程度の簡単なものならば、部屋に付いている。

「ありがとう」

ピウニー卿の腕を抜けると、サティはそそくさと立ち上がり部屋の奥へと駆けていった。ああ、そんなに慌てると転ぶぞ。セピア色の揺れる髪を瞳を細めて見送りながら、何故かピウニー卿も立ち上がる。今はサティとこの小さな離れに2人きり。ピウニー卿は無意味に部屋をうろうろした。

少しばかり待つと、本当に汗を流しただけなのだろう、サティが風呂から出てきた。セピア色の濡れ髪をタオルで拭きながら、先ほどまで着ていた服を着崩している(ように見える)。妙に色っぽいサティの腕を強引に引くと、湯で上気した肌がほんのり温かくピウニー卿の腕に伝わってきた。もう片方の腕を背に回し、腰まで這わせる。その感触がサティの身体をぞくりと揺らしたのが、ピウニー卿にも分かり、こうしていると自分の息が上がる。ピウニー卿はそっとサティの名前を呼んだ。

「サティ……?」

「あああ、あのっ……」

サティが腕を突っ張って身体を離してきた。妙に緊張している様子が可愛らしく、ピウニー卿も思わず腕を緩める。

「……ピウニーも入っとく?」

「え?」

「ピウも、お風呂に入っとく?」

「ええ?」

「入らないの?」

「いや、あ、ああ……」

一緒に?……いや、ない。既に入っている現状から分析してそれはない。……ということは、暗に風呂に入れといわれている……? しかし自分はそんなに汗だくだっただろうか? 汗臭かっただろうか? ピウニー卿はいささかショックを受けたが、腕の中で上目遣いに言われたら流石に嫌とは言えなかった。騎士たるもの、淑女をその腕に抱くのに、汗だくではいかんだろう。……いや、もう一度聞くがそんなに汗だくだっただろうか。待てよ、これか!髭か!髭を剃れということか!……旅立つ前に一度くらいは剃っておかないといくまいな。浮上してくる様々な思いを口にすることはなかったが、ピウニー卿は顎を撫で「じゃあ、入るか」などと言いつつ、風呂に向かった。

ピウニー卿が浴室に入った直後。

「ふおおおおおおおおっ!」

男の悲痛な叫び声が聞こえる。

時間切れだった。

サティは扉を押して浴室に入り、水浸しの床に転がっているピウニー卿を口で咥えて救い上げてやった。ふかふかタオルを用意して、その中にピウニー卿を落とすと、前足でちょいちょいと転がしながら拭いてやる。

「ごめん、あの……どうしてもお風呂入っておきたくて……ピウニー大丈夫?」

獣になる前に人の姿で風呂に入っておきたい……というのは、ささやかな女心だ。

「いや……この程度」

わざとか? わざとなのか!? ……ピウニー卿は動揺を悟られないように髭を撫でて平静を装った。

もちろん風呂だけではない。
女心というのはもっと複雑でもっと可愛らしいものだ。

ただ残念なことに、ピウニー卿は剣の筋は分かっても女心には疎かった。

サティはため息をついた。
自分がどうしても、こうした雰囲気を誤魔化したくなるのは……。