ヴィルレー公爵の屋敷で、ペルセニーアとヴィルレー公爵は向き合っていた。ヴィルレー公爵の隣にはセラフィーナが座り、その膝の上ではサティが喉をごろごろと鳴らしている。セラフィーナはどことなく、寂しそうだ。
ペルセニーアは理の賢者と猫の関係のみをヴィルレー公爵に打ち明け、ジョシュが魔力抑制を受けていることについては秘しておいた。信用が置けない……という問題ではなく、まずは理の賢者に相談したい……という、それはジョシュの意向だとサティから聞かされた。
サティはあの夜、ジョシュに魔法の内容の概要を伝え「必ずなんとかする」と約束したそうだ。ジョシュ自身がどう考えているかは、ペルセニーアは伺い知ることは出来なかったが、サティの話が本当であれば、ジョシュは将来有望な魔法使いになる可能性がある。ジョシュに掛けられている魔力抑制が、それを阻止しているのか、それとも純粋にジョシュのために施されているのか、目的が異なれば、術を施した人間も異なるだろう。
……可能性としては、ジョシュの身体を守るために、国王自身がそれを行っているかもしれないのだ。サティからその可能性を示唆されたときに、まさかとは思ったが、それほど、ジョシュの魔力というのは大きく不安定なのかもしれない。
そのような事情もあったし、何よりサティがアルザス家を信用してくれたからこそ、こうした秘密を共有しているのだ。その信用を裏切るわけにはいかない。ジョシュの魔力抑制については、いくらヴィルレー公爵であっても秘密を貫き、より一層、かの王子の身を守ろうとペルセニーアは誓っている。
「じゃあ、グレン……んーん……サティは、家では飼えないのね」
セラフィーナの寂しげな声が聞こえた。その声を受けた、ヴィルレー公爵がゆっくりと娘の頭を撫でる。
「探している人がいるのならば仕方がない。きっとその人もサティに会いたがっているよ」
「そうね……」
ヴィルレー公爵は、ペルセニーアから事情を聞く前に、あらかじめジョシュから話を聞いていて大方の事情は知らされていた。ジョシュははっきりと「猫が話す」とは言わなかったが、理の賢者の話が出てきたということは、そういうこともあるのかもしれない。ジョシュはそのような嘘をつく人間ではない。
いずれにせよ、人語を解する猫が王宮に紛れ込んだとなれば、どこぞの誰の間者かと騒ぎだてるものも居るだろうし、知っている人間がごく限られた……しかも、ヴィルレー公爵も信用できる人物であったことには安心していた。
アルザス伯爵家は、堅実な武門の名家として知られている。国王の覚えもめでたく、次男のパヴェニーアは若くして白翼騎士団の団長に、長女のペルセニーアはジョシュの護衛騎士となっている。長男ピウニーア……ピウニー卿はほとんど宮廷に関わっては居ないが、それというのも、国王の命によって、国の要所に出没する魔物を討伐・調査する任に着いていたからだ。籍は国王の親衛隊。国中を動いていたため意図して役職を与えられてはいなかったが、国王の信頼厚い騎士として宮廷では有名だった。そのピウニー卿も1年と少し前、魔竜の討伐に出向いて亡くなっている。
もともと文官の出だったヴィルレー公爵とアルザス家は交流があるわけではなかったが、ペルセニーアがジョシュの護衛騎士になり、王宮でよく顔を合わせるようになると、言葉を交わすようになった。ジョシュやセラフィーナがよく懐いているペルセニーアも、その関連で顔を出すパヴェニーアも、人柄もよく野心も無く、武人らしい率直な態度をヴィルレー公爵は快く思っている。
「もとよりこちらで保護した猫です。……ヴィルレー家でも何かさせてもらえないでしょうか」
「いえ……そこまでしていただくわけには。お気持ちだけで結構です」
「しかし……」
サティを撫でていたセラフィーナが顔を上げた。
「ねえ、お父様。私、いつかまたサティに会いたいわ」
「ああ。……それならば……」
ヴィルレー公爵は優しげな眼差しで、セラフィーナに抱かれているサティの頭を撫でた。セラフィーナに全ての事情は話していない。ただ「飼い主が見つかって、寂しがっている」と言っただけだ。
「サティ、いつか君の主と共に、セラフィーナに会いに来てくれるかい?」
人語を解するならば、自分達の会話も聞こえているのだろうか。
「にゃあ」
サティの返事に、セラフィーナの顔が綻んだ。
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「猫が迷い込んだ?」
「はい。ヴィルレー公爵とそのご息女がご訪問されたときに、迷い込んだ……と。早々に捕獲し、ジョシュ殿下の下で一晩過ごした後にアルザス伯爵が引き取ったそうです」
「ジョシュが、一晩預かった……と」
「ええ。ヴィルレー公爵と殿下のお2人からお伺いしましたので、間違いありません。侍女や護衛の者達も、そのように申しております」
「ジョシュに変わりは?」
「特に問題は無いようです。本日、お伺いしてみましたが、お顔の色も優れており、いつになくお声もしっかりとなさっておられました」
「そうか」
オリアーブ国王の執務室で、国王は宰相バジリウスから報告を聞いていた。
穏やかな、落ち着きのある声は、そのバジリウスのものだ。先王の下では魔法使いとして名を馳せていたが、その手腕は政治にも発揮され、現国王が即位したときから宰相を務めている有能な男である。今では魔法使いとしては現役を退いている。しかし、その経験からか魔法師団と騎士団の協力の必要性を訴え、実証してきた。彼のおかげで、国内で勃発する魔物の討伐が迅速、かつ最小限の被害でとどまっているといってもいい。内政手腕においては国王の意図をよく汲み、騒がしい宮廷からも一目置かれている。
それにしても、猫……か。
国王の1人息子のジョシュは、12歳になるというのに勉学以外の……剣や魔法などについては、ほとんど基礎しか教えることが出来ていない。いずれ王太子として国王を補佐する身でありながら、そのような事態に陥っているのは、父王たる自分の責任でもあった。あれは聡明だ。今からでも強く鍛えることができれば、立派に王太子を勤めるだろう。だが、今のままでは到底、無理だった。
それに、長く次の子が出来なかった王妃が、やっと第2子を懐妊したことも、喜ばしいことではあるが、恐らく悩みの種なのだろう。聡いジョシュのことである、宮廷の力の均衡にまで気を配り、どういう立ち位置に立つべきかを思案しているに違いない。……そしてそれらは、アルザス伯爵やヴィルレー公爵には相談しても、恐らく、父王の自分には、一言も相談することは無いだろう。ふ……と、国王は苦笑した。
「ジョシュの件は承知した。不問とせよ。もう下がってよいぞ」
「はっ」
バジリウスは深く一礼して、執務室を辞した。入れ替わりに、1人の騎士が入ってくる。その騎士の姿を認めた国王は、「ああ、ここにも懸念事項があったか」とため息をついた。
騎士から提出された報告書に一通り目を通し、国王は瞳を上げた。
「この報告書の内容はどれほど信用できる」
「半々……と言ったところでしょうか」
「お前自身が作ったものだろう」
「私とて半信半疑です。……陛下、調査の続行を許可いただけるでしょうか」
蜂蜜色の髪に目尻が下がり気味の、甘い面差しの騎士だ。彼は少しばかり口元を緩めた。騎士としての礼節は保っているが、漂う気配がどことなく軽薄になってしまうのは彼の性分なのだろう。そうした雰囲気を特に気に留めることなく、国王は頷いた。
「許す」
「そう言っていただくと甲斐があります」
「これは余の個人的で、面倒な仕事だろうに。それでも、続けたいか」
「もちろん。……こんな面白いことはありません」
「そうか」
「もし王都を離れることになっても、パヴェニーア団長には、融通を?」
「お前が余の使いで出向する……という旨は通達しておこう」
「お願い致します」
騎士が一礼して立ち去ったのを見届けると、国王は執務机から立ち上がり、窓の外を見た。ジョシュの件にしろ、この件にしろ……自分という男は国王でありながら、頼りないことよと思わざるを得ない。
待つとか、見守るとか、……そういったことしかできぬ自分が恨めしかった。
***
「ピウ、よかったの?」
「何がだ」
「もう少し実家にいても、よかったんじゃない?」
「かまわんさ。またいつでも戻ればよい」
顔を隠すほどマントを目深に被ったピウニー卿に、サティは話しかけた。2人が騎乗しているのは、青毛の馬シャドウメア。今はゆっくりと歩かせているため、かぽかぽと一定の足音を刻んでいる。
シャドウメアはピウニー卿の愛馬だ。魔竜討伐のときにも連れて行った彼は、ピウニー卿のことはもちろん覚えていたが、それ以上にサティに懐いた。驚いたことに、シャドウメアはネズミや猫になった2人の言うこともきちんと聞いた。
サティがヴィルレー公爵家から帰ると、2人はすぐに出発した。ジョシュの魔力抑制についてはひとまず理の賢者に任せ、当初の目的であった杖の賢者の下へと向かう。理の賢者の杖を引き取り、サティの杖を新しく作ってもらうためだ。
昼間は人間に戻りシャドウメアで駆け、必要があれば街で買い物をする。夜間は鞍に乗ったまま、街道から外れたところを歩いた。足が強く賢いシャドウメアだからこそ可能な旅路だ。魔物が出そうなとこは避けて通っており、今のところ特に問題は無い。
ピウニー卿は後ろからサティを抱き寄せるように、馬に乗っている。
「それに、とりあえず早く呪いを解きたいからな」
「あのさ、ピウニー」
「サティは、そう思わないか?」
「うん、それは思うんだけど」
「呪いを解いたら……」
「あの、」
「サティ……」
サティを抱き寄せる腕に力が込められ、不謹慎な色を帯びた声がサティの耳元で囁かれた。そのとき、シャドウメアがいなないた。
かぽかぽと街道から離れていく。
「む? シャドウメア? どうしたのだ」
「あのね、だから」
たったった……と、シャドウメアが駆け足になった。
「ああ……」
「ね」
ピウニー卿は深く溜息をついた。いつもサティと話していると時間を忘れる……などというのは陳腐な言い訳であると分かっている。そうか。時間か……。早くサティをこの腕で思う存分……。ピウニー卿が騎士らしからぬ不埒なことを考えていると、シャドウメアの足が一層速くなり、森に飛び込んだ……と、同時。
シャドウメアの足が止まり、その背中から人が消え、ふわりと2人分の旅装が鞍の上に落ちた。
シャドウメアはとても賢い馬だった。
「いいかげん、覚えたほうがいいよね……」
「そうだな……」
鞍の上で、サティはピウニー卿のマントに頭を突っ込んだ。ぶるる……とシャドウメアが鼻を鳴らしている。マントの中でサティはピウニー卿を見つけて、その毛皮をぺろりと舐めた。