「ただいま、葉月。」
扉を開けて「おかえりなさい、高司さん。」…と、可愛く首をかしげる自分の妻にたまらず八尾は抱きついた。少し細くて、それでいてちょうどよく柔らかい。
「た、高司さんちょっと、晩御飯出来てるから、まって」
「いや、待てない。」
「晩御飯、冷めちゃ、う…からっ…!」
スパーン!
壁際に葉月を追い詰め、ぎゅう…と抱きしめる。ふにふにとした頬に吸い付こうと唇を寄せたところで、後頭部に衝撃が走った。
「ルーちゃん、がっつきすぎ。葉月ちゃんの晩御飯冷めるのヤだから、せめて食べ終わってからヤって。」
「おい、レヴィ。せめてもう少し待つという配慮は出来んのか。」
葉月を抱き寄せたまま後ろを振り向くと、スリッパを構えた一尋と、腕を組んでため息を吐く三羽が居た。魔王をスリッパで叩くとは…しかも、なぜお前らが…と言い掛けて思い出す。晩御飯の時間に葉月が1人で過ごすのは危険だから、三羽と一尋に護衛を命じていたのだ。常に葉月に目を光らせたいが、会社員というものである限りそうもいかない。最近の日本は危険が多い。宅配を装って葉月を狙う男だとか、電気会社の社員を装って入り込もうとする変態だとか、葉月の周りは不埒な者達でいっぱいだ。
八尾はいずれ魔界に葉月を連れ帰るつもりだったが、それまでは人間界で人間のような新婚生活を送っている。もちろん、葉月を少しずつ魔界に慣らしていく…という意図もあったが、何より、人間界で人間のような夫婦生活を送るのも悪くないと考えたからだ。
魔族の重鎮達に請われ、月に1度とか2度、魔界に出向いてはいるが、それ以外の人間界での生活は今までとあまり変わらない。いわゆる職場結婚だったから課が変わってしまったのは残念だが、同じフロアだから目が届いて安心だ。芹沢…という同期も同じ課になり、楽しくやっている様子だった。
人間界での結婚生活は、魔界では得られない実にたくさんの楽しみがある。もちろん、魔界で本性のままに愛し合うのもよいが、たとえば一緒の出勤とか、手作りのお弁当、「おかえりなさい、高司さん」コール、「今から帰るよ」「きをつけてね」メール、会社帰りの時間をあわせて夜デート、あまつさえ…土曜日の午後にまったりと珈琲を飲みながらいちゃいちゃしたり、DVDとやらを鑑賞しながらいちゃいちゃしたり、狭い風呂でいちゃいちゃしたり、本を読んでいる葉月にちょっかい出していちゃいちゃしたり、そういうことが思いのままに出来るのだ。悪くない。むしろいい。特に気に入っているのが風呂だ。城の広い風呂でのびのびといちゃいちゃするのもいいが、日本式の狭い風呂でぎゅうぎゅうと抱きしめあうのがこれまたいいのである。
しかも…しかもである。憧れの…あのシチュエーション…。エプロンをして洗いものをしている葉月を後ろから、ぎゅっと抱きしめ「もう、高司さんったら、まだダメ…あ、洗い物が、残って…んんっ…」「いいだろう、洗い物なんて後で…なあ葉月…。」「や、…高司さん…」みたいなシチュエーションが、人間界の夫婦であればリアルに実現可能なのだ。キッチンで洗物中の葉月を後ろから襲うとか、魔界の城ではとても出来ない。興奮する。…ああ、本当に結婚とはなんといいものだろう。結婚してよかった。
だが、こちらにいると、たまに邪魔が入っていけない。八尾がふん…と鼻を鳴らしてしぶしぶ腕を緩めると、葉月が安堵したように息を吐く。
「ありがとうございます、一尋さん、三羽さん。」
「おい、葉月! なぜ礼を言うのだ!」
「人前で、こういうことするのヤなんですってば!」
「しかし、キスするくらいいいだろう。ちょっとだけだから。」
「だから…ちょっととか、たくさんとか、そういう量の問題じゃないんです。」
「坂野。」
押し問答を繰り広げる2人に三羽が遠慮がちに声を掛けた。葉月にキッチンタイマーを渡す。
「作った料理はレヴィが用意する。5分で終わらせてくれ。」
「え? ちょっと、三羽さ…」
「えーなにそれー」…とぼやく一尋を引っ張って三羽がキッチンへ下がると、忠義な部下に後を任せた八尾が葉月の身体を再び抱きしめた。
「葉月、会いたかった。」
「…高司さん…」
時間制限は5分。とろんと八尾の舌が葉月の唇を割って入り、濡れた温もりを絡めとっていく。葉月の甘い吐息と体液を貰って、自分を送り込む。は…と一度唇を離してもう一度葉月の名前を呼ぶと、戸惑ったような、怒ったような表情で睨み返してきた。
「…も、毎日会ってたじゃないですか…!」
「そうだが、今日はせっかくの土曜日だから、いつもなら午後まで寝台で過ごせたはずなのに。…瞬間移動で帰るといったら、お前が怒るから。」
「新幹線乗って帰んないと怪しいんだから、しょうがないじゃないですか。」
出張へ出かけて一週間経過。我慢の限界だった。もちろん魔王の八尾にとって離れた距離など一瞬だ。実のところ、夜は毎日帰って毎日自分の寝台で葉月と過ごしていたが、「バレるからちゃんと朝晩はホテルで過ごしてください!」…と怒られてしまった。朝は一緒に出勤できないし、昼は葉月のお弁当ではないし、晩御飯も一緒に食べられないしで、葉月を抱いた余韻を楽しむ余裕などあったもんじゃない。しかも今日は土曜日で遅くまで寝台で葉月を抱いていても怒られない日だというのに、何が悲しくて山下と2人で新幹線に乗らないといけないのか。
「葉月、我慢できない。」
「だめです、もう、5分経ちました。」
びしっ…と葉月が手に持ったキッチンタイマーを八尾に見せる。ピピピっ…! …と無粋な音が響いた。魔王ともあろう魔族がキッチンタイマーで情事を邪魔される…など、魔界の者達が知ったらどういう顔をするだろうか。
八尾は、むう…とすねた様な表情をして、しぶしぶ腕を緩めた。
「はいはーい、晩御飯運ぶよ。」
一尋の声が呼ぶ。
「魔王様。夕食をご一緒したら、すぐに帰宅しますので、今しばらく我慢を。…それに後ほどゆっくり楽しまれた方が。」
そういって、三羽が2人の傍らを一礼して、通り過ぎる。その言葉になんとなく嫌な予感がして葉月が、八尾を見上げた。
「高司さ…」
「後ほどゆっくり…か。そうだな。」
運ばれていく美味しそうな晩御飯の香りを追いかけて視線を外していた八尾は、すぐに葉月を見下ろして…先ほどまですねた表情を見せていたとは思えないほど妖艶に、笑った。眼鏡の向こうに紅い眼光がきらめき、ぞくぞくとする甘い声をつむぐ唇で、葉月の耳を一口味見する。
「そうしよう、さあ、葉月。」
八尾の行動に葉月が何かを言い返す前に、その肩を抱いて食卓へと移動する。三羽がごつい体型に似合わぬ気遣いで食事を並べている。一尋が、「お茶はどれにするー?」と葉月に声を掛けた。
葉月を抱いている八尾の手に、葉月の手が重なった。八尾が「どうした?」と葉月を見返すと、黒くて愛しい双眸がこちらを見つめている。
「葉月?」
「おつかれさま。高司さん。」
そう言って笑って、すぐに恥ずかしそうに視線をそらした葉月を、八尾がぎゅう…と抱きしめる。直後に、3人の抗議の声が追いかけた。
「ちょっと、あの、高司さん!」
「ルチーフェロ様。」
「だーかーらー、ルーちゃん…!」
ああもう、やっぱり我慢できない。
****
街を八尾と一緒に歩いていると、時々不思議なことが起きる。
近所に新しく出来たケーキ屋は、八尾の知人が出店したのだという。その店のミルクレープが最近の葉月のお気に入りで、特に予定の無い午後は散歩がてら2人でケーキを買いに行ったりする。無口なご主人がパティシエで、品がよくて愛らしい奥様が店を切り盛りしている。最近はバイトも雇って、なかなか繁盛しているようだ。
その帰り道、隣の八尾が不意に空を見上げた。つられて葉月も空を見上げる。そこには1匹の黒い影が翼を広げて、ゆったりと空を飛んでいた。
「鳥…?」
「いや、あれはシャイターンだ。…あの爺め、また葉月を見に来たのだろう。」
「…シャイターンさん?」
魔界を訪ねる時にいつも葉月の世話を焼いてくれる、確か魔界の宰相だ。結婚式にも参加してくれた。八尾の親代わりとして葉月の両親に立派な挨拶をした、物腰の柔らかな老紳士だったはず。
魔界。…月に何度か八尾と共に出向く、八尾の…魔王の故郷のことだ。
その言葉のイメージとは全く異なる、無骨だが整然とした城…一見して中世のお城?という印象を持ったが、その時代の建築について詳しくはないので、どうという表現が出来ない。その城が八尾と葉月が住まうところで、自分とはまったく姿かたちの異なる生き物たちが、人と同じように忙しなく働いている。
魔族と呼ばれる姿の異なる生き物たちには、さほど驚きはしなくなった。動物に近いものであったり、人と同じ形をしているが鱗や羽が生えていたり…目眩がしそうなものではあったけれど、八尾の姿に慣れていたからだろう、余程奇抜なものや恐ろしいものでなければ割と平気だ。大体が人間が映画や小説などで抱く人ではない生き物のイメージに近い。恐ろしい形相のものもいるが、可愛らしいものもいる。
総じて、皆、葉月には優しい。
過剰に世話を焼く侍女(侍女…という考え方自体が非現実的だ)や、葉月にじゃれついては八尾に怒られる3つ首の番犬、友達になった小さな悪魔や、そしてお城の幹部達。人間をお妃にするなどけしからん…などという声があってもおかしくないと葉月などは思うのだが、そのようなことは一切ない。魔王に反骨しているものや不躾な態度を取る魔族も居るそうだが、花嫁を害そうというものは居なかった。逆に恐縮してしまう。
そうして、そのような魔族たちが時折、葉月の住んでいる世界に来ているそうなのだ。当然、魔王である八尾の周りに魔族達は集まってくる。シャイターン…魔界の宰相もそうした魔族に混じって、時々人間界に来ているという。八尾曰く「葉月の顔が見たいらしい。」…そういえば、会う時はいつも「葉月様と魔王様のお子も見たいですなあ。」などと言っていた。孫の顔が早く見たい…という親心のようなものかもしれないと考えるとおかしい。
空を見上げていた八尾が眩しげに瞳を細めた。
「かなり高い位置にいるから分からないかもしれないが、今は本性を現しているな。竜の姿だ。」
「竜の姿…。」
「そうだ。」
ずっと空を見上げていると、八尾が葉月の手に指を絡めてくる。
「そう愛想を振りまくな。」
少しばかり不満そうに八尾が言うと、それが聞こえたかのようにふわりと竜の影が旋回した。太陽の光に紛れて見えなくなってしまったので、葉月が視線を八尾に戻すと優しくこちらを見ている。それに何かを応えようとすると、ふわりと足元に何かが擦り寄ってきた。見下ろすと、黒くて貫禄のある猫がニャ…と鳴いた。
「お前また来ていたのか。」
八尾の呆れたような声に、黒猫は澄ました顔でぺこりと頭を下げてみせた。ひょいと身を翻し、壁の隙間へと駆けていって見えなくなる。あれはベルゼビュートの副官だ…と、八尾が付け加えた。
自分の夫が魔王様で、その部下も実は魔族…だなんて、いったい誰が信じるというのだろう。
八尾高司は仕事が出来てルックスも抜群、部下の信頼も厚く、かといって気取ったところも無い、上司としても仲間としても完璧な男。だけど、ちょっとだけ変わったところがあって、懐いた犬みたいに大げさで、葉月をいつも困らせて、葉月といつも一緒に困った顔をして、葉月が笑えば一緒に笑って、妙に律儀なところがあって、猫舌で、ソイラテが好きで、珈琲は砂糖とミルクをたくさん入れないと飲めない、魔界の魔王ルチーフェロ。
「魔族とか魔王とか、…そんなに近くに居るものなの?」
いや、案外近くにいるものなのかもしれない。
空を飛んでいる鳥の影、道端を歩いているボス猫、隣人が飼っている犬、新しくできたケーキ屋のパティシエ、勤めている会社のチームリーダー、課長補佐、それから。
「葉月。ケーキ楽しみだな。」
優しく名前を呼んでくれる、自分の夫。
「高司さん。」
「ん?」
呼ばれて八尾が顔を下ろした。葉月が耳元で、こっそりと何事かを囁く。八尾の…魔界の魔王の顔が、盛大に真っ赤になる。その表情を見て、葉月が小さく笑った。