後日談あるいは小話

ロールケーキとミルクレープ。

まだ学生の賀山がとあるケーキ屋でバイトしていた頃、肩程度の綺麗な黒髪の女の人がよく買い物に来てくれていた。こういう店に来る女性によく見られる、はしゃいだような風ではなくていつも静かで落ち着いた佇まいの女性だ。それでも甘いものが好きらしく、ケーキを選ぶときはいつも少し顔が綻ぶ。賀山くらいの年頃の男が憧れる、大人の女性としての落ち着きの中に、たまに見られる小さな笑顔の差異。その女性が来ると、別の仕事をしていてもついつい目で追いかけてしまう。

その女性は焼き菓子ならマカロン、ケーキならロールケーキが好き。

マカロンを選ぶときは、季節の味のほかに、オレンジと黒ゴマは必ず入れる。黒ゴマが切れていたら少し困ったような残念そうな顔をしたので、和風の味も好きなのかな…なんて考えたりもする。

いつか自分もケーキを作らせてもらえるようになったら、その女性に食べてもらいたい。ささやかな夢だった。

「葉月も、そろそろ彼氏作ればいいのに。」

「まあ、機会があればね。」

「毎日会社であれだけいい男を見てたら、彼氏作る気も無くなる?」

「そんなことないわよ。」

葉月っていうのか。

時々、一緒にやってくる友達らしい女性との会話を図らずも聞いてしまう。苗字か名前のどちらかが「葉月」。別にこの女性を狙っているとか、付き合いたいとかそんな風に思っているわけではなく、ただの憧れだったが、彼氏が居ない…という部分を聞いて、少し心が浮つく。

ただ、その店のバイトは専門学校の卒業と同時に止めてしまった。

どうしても働きたい…と思えるケーキ屋を見つけてしまったからだ。それは、いつの間にか近所に出来ていたケーキ屋で、スキンヘッドのどう見てもこっちの道じゃないだろう…みたいなご主人と、小動物みたいにふわふわした可愛い奥さんの2人で切り盛りしているケーキ屋だ。偶然通りかかったときに目にしたときは、いつの間に出来たのだろう…と不思議に思ったものだ。それくらい、唐突に出来ていた。季節の味をふんだんに取り入れた愛らしい洋菓子は、以前働いていたケーキ屋のような華やかさは無かったけれど、誠実な味がした。

そこに運よくバイトで転がり込むことができた。

あの女性に会えないのは寂しいな…と思ったけれど、言ってみれば若い時分の憧れみたいなものだと自覚していた。あのケーキ屋界隈に行かないわけではなかったし、また会えることもあるかもしれない。それはそれで運命みたいなものではないかと自分を納得させる。

そんな風に思いながら働き始めた、バイトも5日目。以前と同じ職種なだけあって、仕事を覚えるのは苦にならなさそうだった。誰に言われるともなく、賀山は店内の花を綺麗に整え、ケーキのストックと出来上がり時間を確認し、空いた時間には箱やリボンの準備を整えておく。

仕事をしているとカラン…とガラス扉を押した音がして、「いらっしゃいませ」と声を掛ける。

上げた視界に映ったのは、見覚えのある黒い髪だった。

バイト開始5日目にしてまた会うことができるなんて、マジで運命の再会だ! そう思った。

…が、次の瞬間。

「葉月。」

男の賀山が聞いても、これはいい声だ…と思うような甘い声が女性の名前を呼ぶ。葉月の姿しか目に入っていなかった賀山の視界に、背の高い眼鏡のイケメンが映りこんだ。そのイケメンは、葉月のウエストに優しく手を回して口元を緩める。映画のように、ナチュラルな動きだ。

男が葉月と一緒に、ケーキの並んだガラスケースの前に並ぶ。

葉月が首をかしげるようにケースを覗き込み、隣の男を見上げて「おいしそうですね」…と柔らかな綺麗な笑顔を向ける。それは賀山が知る葉月の小さな笑顔よりも、もっともっと親密な笑顔だった。落ち着いた表情と微笑んだときのギャップは自分だけが知っている…みたいな優越感をほんの少し持っていたが、そんなバカみたいな優越感も一気に消し飛ぶ笑顔を、そのイケメンに向けている。

つまり運命の再会は5秒で玉砕した。

****

「どれにする、葉月。」

「えっと…」

葉月が少し身を低くすると、襟元の開いたシンプルな白いシャツから鎖骨がちらりと覗く。その無防備感に一瞬賀山はドキっとしてしまう。そして気づく。そういえば、以前のケーキ屋で働いていた時は職場に近かったのか、ビジネスライクなかっちりとした服装だったが、今日はジーパンに細身の白いシャツ…というラフな格好だ。休日だから当たり前だがいかにも気を緩めた格好で、ジーパンだと腰のラインの綺麗な風がよく分かる。

その腰のラインをさりげなく撫でている隣の男も、賀山の見たことのある男だった。これまた以前に働いていたケーキ屋でだが、何度かケーキを買いに来たことがある。イケメン1人だったこともあるし、部下らしいごっつい男と可愛い系の男を引き連れてきたこともある。ストイックな風なのに、目立つオーラだったからすぐに分かった。

「いらっしゃいませ、ル…八尾さま。」

「ああ。いつも葉月が世話になってる。」

「とんでもございません。」

いつの間にか主人が出てきて、2人に挨拶をしていた。スキンヘッドの主人が恐縮しているのに対して、「八尾」と呼ばれた男はどこか鷹揚に構えている。会話の内容から、葉月は何度か来ているようだ。知り合いなのだろうか…と思っていたら、賀山に視線を向けられた。

「何してる賀山、注文を。」

「うわ、は、はい。あの、注文が決まりましたらお声掛け下さい。」

賀山が慌てたように一礼すると、「はい。」…と返答した葉月が本当に小さく笑った。何か粗相をしてしまっただろうかと、顔が赤くなってしまう。そうしてまた、葉月はガラスケースを眺め始めた。

「今日は2つにします。」

「もっと頼めばいいのに。」

「だって、太ってしまうし。」

2人の会話を聞きながら、ぜんぜん太ってないじゃないか…と、賀山が心の中で思っていると、くすくすと八尾が笑って言った。

「それはそれで、やわらかくていい。」

やわらかくていい…。ああ…そうですか。やわらかいとかかたいとか、そういう感触が分かるような間柄ですか…。2人の間に漂う離れがたい雰囲気に、見ている賀山の方が脳が沸きそうだ。

「じゃあ、マカロンも買おうかな。」

「オレンジか、黒ゴマ味がいい。」

「高司さん、いつもそれ。」

今度は葉月がくすくすと笑った。黒ゴマ味…好きなのは、葉月ではなくて八尾だったようだ。以前、黒ゴマ味が切れていて残念そうな困った顔をした理由が知れる。

「それならやっぱりケーキは葉月と俺の分で2つにしよう。」

「高司さんは、どれがいいですか?」

八尾が葉月に頬寄せるように並んだ。一緒にガラスケースを眺めている。その近しい距離でそっと葉月を振り向くと、顔が触れそうだ。近い近い。

「葉月の一番おすすめはどれだ。」

「ロールケーキ。」

はしゃいだ風にパッと答えて、葉月がほんのりと頬を染めた。子供みたいだ。かわいい。

「じゃあ、2番目のおすすめは?」

「えっと…ミルクレープかな。」

八尾が頷いた。

「じゃあ、それにしよう。」

「でも、高司さんが好きなのは?」

「俺はケーキのことは詳しくない。葉月の好きなものならきっと美味しいから、2つ買って半分ずつ食べよう。」

葉月がじ…と八尾のことを見て、照れたように頷いた。なんでもない会話なのに、なんだろう。この入れない世界観。

「ロールケーキと、ミルクレープひとつずつですね。…マカロン、どの味になさいますか?」

賀山の声に、葉月がぱっと顔を上げた。思いがけず、まっすぐに目が合う。八尾と来ているからか、賀山が知っている葉月の表情よりも豊かで…そして、ものすごく色っぽかった。心臓が跳ね上がる。跳ね上がった心臓に追い討ちを掛ける様に、葉月が微笑む。その笑みは、今は確かに賀山に向けられていた。

「…もしかして、駅に近いところの…あのケーキ屋さんに居た人でしょうか。」

「え、あ…」

賀山の顔が、かぁ…と熱くなった。まさか、まさか、知っていてくれていたなんて。すごい勢いで心臓が鼓動を打ち始める。葉月とのチャンスなんて、絶対無い。100パーセント無いって分かっているのに、音が聞こえるほどどきどきするとか、どうしたというのだろう。

「知り合いか、葉月。」

「高司さんが好きなマカロンを、よく買っていた…あの、駅に近いお店です。」

「ああ、俺も行った事がある。」

八尾が大きく頷き、葉月の横顔をじっと見つめている。だが、今は…葉月の視線は八尾ではなくて、賀山にある。そのことが、妙に嬉しい。

「あのお店は辞めたのですか?」

葉月の言葉に賀山は何度も頷いた。葉月が賀山を見ながら横髪を耳に掛ける。左手に、指輪が見えた。ちくりと胸が痛むが、同時に意味の分からない雄の反骨心が湧き上がった。

「は、はい。俺、あ、自分、ここのケーキの味がすごい好きになって」

「そうですか。おいしいですよね、ここの。」

「あ、の、ロールケーキ、いつも買ってくださってましたよね。やっぱり、お好きなんですね。お友達とよく、来られてて。」

それは、ちょっとした男の挑戦みたいなものだった。自分は葉月の好きなものをすごく前から知っている。そういう含みを、ほんの少しだけ持たせて、ちらりと八尾を見る。すると先ほど葉月を見て心臓を打ったそれとはまったく逆の意味で、賀山はどきりとした。

八尾がじっと賀山を見ている。

その表情はとても凪いでいて、別に怒っているわけでも睨みつけられているわけでもないのに、…猛獣と目があってしまったかのような錯覚を覚えた。異様な緊張感が走る。だが、それは一瞬のことだった。するりと八尾の腕が葉月の腰に絡まり、それを引き寄せる。

「マカロンは、一種類ずつにしてくれ。」

「は、はいっ」

急に現実に引き戻されたような心地がして、賀山はあわてて注文のケーキをトレイに取った。八尾は賀山から視線を外し、店の主人と何事かを話している。葉月は八尾に抱き寄せられたまま、相変わらずガラスケースを覗き込んでいた。ちらちらと視界の端っこに入る葉月の抱えられている腰のラインは細くて、それを支えている八尾の左手には…指輪がある。

決して葉月に対してやましいことを考えていたわけではないが、憧れの女優が結婚した…っていうニュースを見たときみたいな独特の寂しさと羨ましさを感じた。

魂が抜けそうになりながらも、賀山は勘定を終えて葉月にケーキの箱を手渡す。

「がんばってくださいね。またきます。」

ケーキの箱を受け取るとき、葉月がそうやって言って笑った。さっきのがっかり感はどこかへ行ってしまい、賀山が思わず全開の笑顔で元気に頷く。すると、ぱっとその箱を横から八尾が取り上げて、賀山に向けて挑戦的な…笑顔になった。

「ありがとう。」

そう言ってから、葉月を促した。その挑戦的な笑顔に思わず次の言葉を忘れた賀山に背を向けて、八尾と葉月が出口へと歩いていく。

「持ちます。」

「持ちたい?」

「そういうわけじゃないですけど…」

「だめ、持たせない。」

もう賀山のことなど忘れてしまったように、2人の世界に戻っていく。不意に、葉月の腰に回されている手が…するりと葉月の服の中に入り、直接肌を撫で上げた。それを見た賀山の腹が、ぎゅうと締め付けられるような妙な感覚に陥る。

賀山も男だ。八尾の意図はよく分かった。

見せ付けられている。はっきりと、見せ付けられている。この女は俺のものだと目の前をちらつかせて、でも絶対に手出しが出来ないことを知っているのだ。

「ちょっと…!」

葉月が抗議の声が上がるのと、カラン…と音が鳴るのは同時だ。2人が店のガラス扉を押して出て行く。

「ありがとうございました。」

「あ、ありがとうございましたー!」

すっかりその存在を忘れていたが、すぐ傍にいた店の主人が頭を下げる。それにつられて賀山も頭を下げた。

大きなため息を思わず吐く。運命の再会と同時に失恋に近いものを味わった賀山だった。

「でもまあ、いいか…。」

憧れの人も憧れのケーキもすぐ近くにある。そんな場所で、働けるのだから。

「よし、がんばろ!」

「おい賀山。」

「はいいぃ!」

気合の入った賀山に、店の主人が声を掛けた。その低い声に、緊張に背筋がぴんと張る。バイト5日目の自分に、この主人の風貌はいまだに慣れない。スキンヘッドの柔道家…とでも言ったほうが似合いそうな賀山の上司が、三白眼気味の細い瞳でじろりと賀山を眺めた。

「葉月様…こほん。…八尾様の奥方を知っているのか。」

「え、あ、あの、…前にいた店の常連さんで…。」

なぜか、葉月がよく買うケーキや甘味について、根掘り葉掘り聞かれた。




<デザートに関する取り扱い方針の考察>

ルチーフェロ様は甘みも好まれるが、葉月妃の好みに合わせておられる様子。つまり葉月妃の好まれる味を中心に取り揃えることが先決となるだろう。

葉月妃がもっとも好まれるのはロールケーキ、およびミルクレープであるが、以前、葉月妃が常連となっていたケーキ屋の従業員によると、嫌いな洋菓子は無い。

季節のものが特に好き。
フルーツはベリー類が好み。
チョコレート、抹茶などを使用したものは、ムースやババロアなどを好む。特にチョコレート類は、洋酒をわずかに効かせるものをよく買われていた。ただし、これはルチーフェロ様の好みを取り揃えたもののようだ。

そのほか、ルチーフェロ様の好みが反映されているものが、マカロン…特にオレンジ味と黒ゴマ味。
黒ゴマ味は切らせないように常備しておく必要あり。

引き続き、調査を続行する。

(魔王城専属料理人ニシュロク配下菓子部門長ダーガン)