後日談あるいは小話

1輪のトルコキキョウ。

「いらっしゃいませ!」

依子よりこの実家は、こじんまりとしているが品揃えのよい花屋だ。高校生のときから店を手伝い、今は大学3年生。授業が終わったら実家の手伝いをしている。ちゃんとしたバイトとして雇ってもらい、ちゃんと給料をもらって働いているのだ。

昔から植物が好きで、花に囲まれるバイトは全然苦にならない。どんな花を仕入れるのか、親から聞いているだけでも心が躍るし、その花を使ってどんなアレンジを作るか…とか何を組み合わせるか…とか、まだまだ任せてはもらえないけれど、考えるのは楽しかった。

そんな依子の今の楽しみは、ある常連のお客さんに会うことだ。

「三羽さん、こんにちわ。」

「ああ。」

その常連のお客さんは、いつもきっちりとしたスーツに身を包んでいる。背が高くて肩幅も広く、低い声は渋い。鋭い眼つきでぱっと見は近寄りがたい雰囲気の人だが、落ち着いた声色と静かなたたずまいは、同年代の大学生ばかり見ている依子からするといかにも大人の男…という感じだ。

「今日はスターチスが入ってきて…これなんですけど、いろんな色があって小さいけど元気がいいですよ!」

依子が笑顔を向けてレース細工のように繊細な切花の束を出して見せると、三羽は黙ってそれを見下ろした。依子がどれほど元気に声を掛けても、三羽はあまり口を開かない。二言三言、必要と思われる言葉を掛けるだけだ。その三羽が今日は少しだけ口元を歪める。どうやら笑っているようだ。大きなごつごつした手で、スターチスの密集した小さな花弁にそっと触れる。

「確かに元気がいい。」

「そうでしょう!」

「では、これを。」

「はい、何色にしますか? 3色?」

「いや、薄い桃色を。」

「はい!」

依子は薄桃色の花を10本取ると、台の上に持っていく。くるくると跳ねるような動きは、リスのようだ。透明なセロハンを敷いてその上に花達を調える。

「今日もお部屋に飾るんですか?」

店内の花を穏やかな無表情で眺めている三羽に、作業しながら依子が問う。花達に視線を落としたまま「ああ。」と素っ気ない返答だ。だが、依子は気にした風でもなかった。

普通、男の人は花を買う時とても照れたり恥ずかしがったりするものだ。だが、三羽はそんな風なそぶりは全くない。それどころか、堂々と頻繁に店にやってきては、切花を買って行く。大体が、一種類の花を10本。ガタイのいい大人の男の人が照れもせず、10本の花束を買っていくのは印象的で、依子はすぐに覚えてしまった。

最初は彼女か奥さんに買っていくのかな、と思ったのだが、どうやら違うらしい。「どなたかへの、プレゼントですか?」と聞いてみたことがあって、その時もやはり無表情で、「部屋に置く。」と答えたのだ。こんな怖そうな見た目の人が、お花を買って自分の部屋に飾るなんて、と思ったら、急に親しみを覚える。

しかも三羽は花の種類には疎いが、花の状態はよく分かっている。元気がいいとか、どれくらいしたら咲くとか、そういうことがすぐに分かるのだ。以前、保ちそうにない花をわざわざ選んだ時があって元気なほうの花を勧めたのだが、三羽は首を振ったこともある。よく分からなくて首を傾げたら、「まだ咲いているのに枯れそうだからと誰にも買われないのはもったいない。」と言ったのだ。売れ残った花は廃棄するしかない。いくつかは幼馴染がバイトしているケーキ屋さんに使ってもらったり、自分の部屋に飾ったりするが、やはり忍びない。そう思っていたから、「枯れそうだから」と言って買っていった三羽を見たときには、胸がきゅんとしたものだ。

三羽の部屋はどんな部屋なのだろう。たくさん花が飾ってあるのかな。

想像すると笑みが零れたが、同時に、そんなシチュエーションになるってどんな時よ!…と思って、顔が赤くなるのだった。

「これは?」

「え?」

ちょうど顔を赤くしたときに声を掛けられて、声が上ずってしまう。三羽が見下ろしているのは、花びらの一枚一枚が、くるりと互いを包み込むように綺麗に綻びかけた薄紫色の花だ。

「すごく綺麗でしょう! トルコキキョウです。昨日から入ってきたんですよ。」

「そうか。」

包み終わったスターチスを渡しながら、三羽と一緒にトルコキキョウを見下ろす。財布を取り出しながら、ふと思いついたように三羽が依子に視線を移した。

ドキリとする。

黒いと思っていた瞳はグレーで、思わず魅入ってしまう。

「トルコキキョウだったか、それを1本。…別に包んでくれないか。」

「…あ。は、はい!」

我に返った。

すぐにコクコクと頷いて、元気なトルコキキョウを選んで1本取る。渡そうと思っていたスターチスを脇において、それとは別の花として調える。そういえば…と考えた。三羽が1種類を10本ではない買い方をするのは初めてだ。1本だけ別にしてくれと頼まれたトルコキキョウは、部屋に置く花とは別ということだろうか。それならば、一体何のために別にしたのだろう。一体何のために買ったのだろう。一体誰のために。1本だけ、透明なセロハンに小さく包まれたトルコキキョウはまるで誰かへの贈り物のようで、しかし依子には「誰かの贈り物ですか?」とは聞けなかった。

「出来ました。…スターチスと、トルコキキョウ。」

トルコキキョウの行方が気になってもやもやしたまま、依子は笑顔を作った。スターチスの花束を三羽に手渡して、支払いを済ませる。

「ありがとうございま…」

「動くな。」

挨拶をしようと改めて三羽を見上げると、三羽が覗き込むように依子を見ていた。驚くほど近い位置に精悍な顔があって、心臓が爆発したと思った。動くな…と言われても動けない。切れ長の瞳に強い眉。まっすぐな鼻梁に、笑わない口元。それがすごく近い距離にあって、動きたくても動けないのだ。そんな依子の心臓に、三羽がさらに追撃する。

三羽の大きくて広い左手が、依子の顔を抱えるように回され横髪に触れたのだ。

え。

…と思った瞬間。三羽が離れる。

左手には何かを軽く握りこんでいた。

「これが。」

三羽が握りこんだものを、そっと依子に見せる。依子が覗き込むと、そこには小さなてんとう虫が居座っていた。

「てんとう虫…。」

依子の肩から力が抜ける。…いつの間についたのだろう。三羽は別に何の下心もなくただてんとう虫を取ってくれただけだったのに、それなのに変に緊張してバカみたいだ。「ありがとうございます…」と脱力した風に三羽に礼を言うと、三羽はそれに答えず店の出入り口に向けて手を広げた。

「行け。」

三羽が命じると、まるでそれが聞こえたかのように、てんとう虫が大きなごつごつした手の平を飛びたった。それを視線で追いかけていた三羽の背中に、またも胸が詰まる。三羽との距離があまりにも近かったことと、その距離にドキドキした自分、そしてそんな気など微塵もなさそうな三羽。自分の気持ちを隠すように、依子は「ありがとうございました!」…と声を掛けた。スターチスの花束を押し付けるように渡す。

その声に追い立てられ、三羽は相変わらず無言だったが、僅かに怪訝そうに出口に向かった。そうしてくれることに、なんだかほっとする。

これ以上、三羽を見ているとなんだか自分が自分でなくなるような気がしたからだ。

「では、また。」

…と、いつもの台詞と共に静かに去る大きな背中。それを見送って、はあ…と一息を付いた。自分の気持ちにハラハラして嫌になる。

「大きな手だったなあ…。」

ちょっとだけ触れた手の平。近づいた時に、ふと香った石鹸の香り。

恋に落ちそうだ。

依子は、もう一度ため息を付く。あわてて追い返してしまったくせに、依子はうっとりとしながら先ほどの三羽の顔を反芻した。やっぱり大人の男って感じだ。大学の同級生とも、同い年の幼馴染とも全然違う。大きくて広くて落ち着いていて…。

ふと視線を落とす。

そこにはトルコキキョウの小さな花が残されていた。

「あああーーーーーーーーーーー!!」

三羽に渡すのを忘れていた。依子はすぐさま店から出て、きょろきょろと辺りを見渡す。当然のことながら、そこにはすでに三羽の姿は見えなかった。

****

帰路の途中にあるこじんまりとした公園の前で、三羽は足を止めた。

「アスティルト。」

「ベルゼビュート様…。」

公園の真ん中にシンボルツリーとしておかれている大きなけやきの樹の影から、女が一人、三羽の前に現れた。緩やかにウェーブがかかったこげ茶の髪は、肩より少し長い程度。長く濃い睫に、色のくっきりとした意志の強そうな唇を引き締め、黒いスーツに身を固めたその女は三羽に向かって綺麗なお辞儀をする。

「よく来た。」

「はっ。」

女の名前はアスティルト…という。魔界の将軍嵐雨の王ベルゼビュートにもっとも近しい部下だ。現在人間界には魔王が滞在し、人間の妃と共に夫婦生活を営んでいる。それに伴い情報収集や護衛などの名目で何人かの魔族が派遣されているのだが、彼女もその1人だった。魔王…八尾と妃の葉月は職場結婚だったため、その後、別の課に配属になってしまった。それを受けて、葉月が働いている職場にリーダーとして派遣できる人材を…という魔王からの要望で、三羽…ベルゼビュートが推薦した。長年ベルゼビュートの元で働き、公私共に彼を守ってきた魔族だ。

アスティルトが雨を受けるように手のひらを上に向けた。

ベルゼビュートはアスティルトに近づくと、その手のひらに自分の手を軽く置く。よく見ると、アスティルトの手からベルゼビュートの手へと、ちいさなてんとう虫が移動した。てんとう虫はベルゼビュートの手の上で、ひらりと一枚の小さな紙に姿を変える。

「目は通しました。」

「名前や設定は頭に入ったか。」

「はい。葉月様の所属する課のチームリーダーとなり、護衛を行う…と。」

ベルゼビュートは鋭い瞳をちらりとアスティルトに向けると、静かに頷いた。

「ルチーフェロ様とは同じフロアといえど別の課になる。」

「はい。」

「坂野は仕事は出来る。その辺りは心配無用だが、婚姻なさる前に会社で男に襲われたことがあってな。」

「魔王様がすんでのところで撃退なさり、ベルゼビュート様とレヴィアタン様が、記憶操作の術を掛けられたとか。」

「ああ。そういったことが過去あって、坂野の側近くで護衛できる者を求めている。それでお前を推薦した。」

「光栄にございます。」

「それに女性の護衛には女性がよかろう…ということだ。」

「はい。」

「詳しくは私の部屋で話そう。今夜はルチーフェロ様もお待ちだ。」

アスティルトがぴしりと頭を下げると、それに答えるように再びベルゼビュートが頷いた。だが、何者かの気配に気づいて瞳を上げる。

ベルゼビュートが少しその気配に集中してみると、それは意外な人間だった。

****

少し追いかけると三羽の姿はすぐに見つかった。ベンチとブランコしかないような小さな小さな公園に、その大きな後姿があったのだ。依子はほっとして、声を掛けようと口を開く。すると、ゆっくりと三羽が振り向いた。

依子の足が止まる。

三羽の側にはどうやら人がいたらしい。振り向いた事によってその人の姿が明らかになる。三羽と話していた人は、依子が見たことのないような綺麗な女の人だった。依子よりも少し背が高くて、三羽の肩くらいだ。綺麗な髪はどんな手入れをしているのだろう…っていうくらいつるっつる。睫はふさふさで目鼻立ちがはっきりしている。それなのに、濃い化粧をしている風でもない。

こんな綺麗な人が、三羽の側にいる。

「花屋の?」

「あ…。」

三羽とその女の人は、とても近しい雰囲気のようだった。寄り添うように立っていて、女の人も依子に声を掛けるでもなく、迷惑そうな顔をするでもなく、三羽を尊重して静かに控えている。そういう雰囲気だ。かえって、いたたまれなかった。よくよく考えてみれば、三羽のような大人の男に恋人がいないはず無いのだ。花は恋人に買っているわけではない。…そう聞いただけで、独身の人だと勝手に勘違いして勝手に浮かれていた。

思わず言葉に詰まったが、勇気を奮い起こしてにっこりと笑う。

「三羽さん。これ、忘れ物です。」

依子は三羽が忘れていったトルコキキョウの花を渡す。三羽がそれを受け取った。

「ああ。」

忘れていた。そう言って、依子に向かって首をかしげ、ゆっくりと口元を笑みの形に象った。

「すまない。」

うわあ。

強面がゆるく微笑むギャップの破壊力はすごい。思わず依子がその珍しい笑顔に見とれると、三羽がそれをそのまま後ろの女の人に渡した。

「これはお前のだ。」

「え?」

三羽の側に居た女性が、思わず…といった風にトルコキキョウの花を受け取る。女性も三羽の行動は思いがけないものだったようできょとんとして、次の瞬間ほんのりと頬を染めた。その様子で思わず依子の頬も染まる。依子だって女だから、こうした感情のベクトルには敏感だった。すなわち、この女性も三羽のことが憎くからず思っているのだろう。

「今日、お前が来る予定だったから購入したものだ。」

「は…ありがとう、ございます。」

「それを見たとき、お前のことが思い浮かんだ。部屋に置いておけ。」

「…了解いたしました。」

今度は三羽が依子の方を振り向く。

「わざわざすまなかった。」

「い、いえ。」

三羽が女性に言った言葉が胸に突き刺さる。…そうか、その女性のために買ったんだ。いつもは自分の部屋に置いておくのに、トルコキキョウだけ、別にして。贈り物だったんだ…。その様子は、男が女に渡す光景の割に情緒が無く、まるで何かの事務連絡のようだったが、それでも女性の視線がふわりと愛らしく動いたのが印象的だった。ぶっきらぼうな男の人から「お前のために買った」…と言って、小さな1輪の花を渡されたら誰だってときめく。それが好きな男ならなおさらだ。ただの憧れの人だったはずなのに、依子の心はショックを覚えていた。

だが、そんな依子の気持ちなど知らず、三羽は淡々と続ける。

「一人で来たのか。」

「はい…その、すぐに追いかけたんですけど、どっちに行ったのか分からなく、て。」

「そうか。…うっかりしていた。」

「いえ…。」

「すぐに暗くなる。送って行こう。」

「えっ。」

思いがけない言葉に依子が顔を上げる。だが、自分が一体どんな表情をしているのか自信が無くて、…というよりも、この綺麗な女性の前で自分の顔を見られるのが恥ずかしくて依子はうつむいた。送ってもらうなんて出来ない。どうすればいいのか分からず、依子が一歩身を引くと、それを追いかけるように一歩進み、進みながら女性を再度振り向く。

手にしていたスターチスの花束も、その女性に渡した。

暁月あかつき、部屋は分かるな? これを持って先に入っていろ。」

とどめだった。

この暁月という女性は、三羽の部屋を知っていて、自由に出入りが出来て、先に部屋に入って待つことが許されている。そんな女性なのだ。

「いえ、いいえ! いいです。帰ります。失礼しました!」

依子は身を翻して、ダッシュした。なんてなんて、お似合いの2人なんだろう。暁月さん…自分みたいに子供ではなくて落ち着きがあって…そのくせ、あんな顔で照れる人。いつも自分のためにしか花を買わない三羽さんが、その人のために1輪だけの花を買っちゃうような人で、部屋に入れる人で…。

恋かな…と自覚する前に、依子はなんだか失恋したのだった。

****

「お前さあ、そんなに食べて太っても知らねーぞ。」

「うるっさいわね。ちょっとくらい付き合いなさいよ。」

「俺はいっつも食べてるんだよ、ほら、今日の。」

「んあー、ちょう美味! …ねえ、オレンジ? これオレンジのムース?」

「大雑把なくくり方だなあ、お前。オレンジ、ライム、レモン…はちみつで甘み付けて三層のムースにしてあるの。」

「このさくさくしたやつマカロン?」

「そうだよ。」

「やっぱりここのケーキ、おいしい。」

「当たり前だろ。…で、なんだよ、失恋でもしたか?」

依子は幼馴染がバイトしているケーキ屋さんに、いつものように花の配達に来ていた。休憩時間だというので少し付き合え、と誘うと、店の主人の計らいで、イートインスペースで新作ケーキの味見をさせてもらうことが出来た。新作ケーキは柑橘系のフルーツを使ったムースで、少しずつ香りと甘みが異なるムースが何層かになっている。うえにはころんと小さなオレンジ味のマカロンが乗っかっていて、周りにはうっすらとココアパウダーがふりかかっていた。

失恋した心にずいぶんと染み渡る甘くて苦いケーキだ。

失恋か?…と聞いてきた幼馴染に、依子は半眼になった。

「私が失恋するなんておかしい?」

「誰もそんなこと言ってねーだろ。」

「じゃあ、何なの。」

「別に。」

「ねえ、あんたはどうなのよ。あれからまた、あの人に会えた?」

依子の幼馴染もまた、ほんのり淡い恋心を抱いていた女性がいたはずだ。バイト先で見かけただけ…という話に、見かけただけで声掛けられないんじゃ恋も何もないじゃーんとからかったことがあるが、自分だって、店の客と店員という関係でしかなかったのだ。からかって悪かったな…と少し反省する。

「会えた。うちの店に来てくれて。」

「え?」

「向こうも覚えててくれてた。」

頬を少し染めてぶっきらぼうに答えた幼馴染は、終わってしまった自分の恋よりも随分進展しているように見えて、置いていかれたような、なんだか面白くない気分になった。依子は少しむくれた表情で、ふうんと答える。

「どうなの、少しは…」

「旦那が、いた。」

進展しそうなの?…という、依子の問いを遮るようにして、幼馴染が答える。

「え。」

「俺なんか、ぜんっぜんかなわない、旦那がいた。」

「そうなんだ…。」

ってことは、こいつも失恋したんだ。だけど、いつものようにからかって笑う気持ちにはなれずに、そっか…とため息を付いた。

「おまえは?客にかっこいい大人の男がいるっつってたろ。」

「その人、女の人がいたみたい。」

「彼女?」

「知らない。でも、先に部屋で待ってろって言ってた。それにお花を渡して…『お前のために買った』って。」

「あー。」

それにあの2人には、なんだか依子には入り込めないものを共有しているような、そんなつながりを感じたのだ。恋人かどうか、奥さんかどうか、聞いたわけではないけれど、2人の間に気安く入っていくようなそんな気分ではいられなかった。幼馴染も、そうか…と言って、黙り込んだ。

ぶっきらぼうで、強面で、低い声と石鹸の匂いと、大きな手と大きな背中。
すごく大人で、自分の知らないことをたくさん知っていそうな人。
そのくせお花のことは自分のほうがよく知っていて…。

そんな人の隣に居たのは、やっぱり。

「大人の男って、感じだったなー…。」

「大人の女って、感じだったねー…。」

依子と幼馴染は、ガラス窓の向こうの景色をぼんやり見ながら同じ台詞を吐く。情けない表情で顔を見合わせた。

「まあ、食えよ。」

「あんたも、元気だしなよ。」

「俺、あの2人に美味しいって食べてもらえるようなケーキ作ろ。」

「私も、もっと花の勉強して、あの人笑わせるくらい綺麗なアレンジメント作れるようになろう。」

2人なんとなく同志のような気分を持ち寄ってなんとなく慰めあいながら食べたオレンジムースの味は、甘酸っぱさの中に少しばかりの苦味がきいていた。




「追いかけましょうか?」

突然やってきて花を渡し、風のように去っていった依子の後姿を見送って、さすがのベルゼビュートも虚を突かれた様な表情をしていた。依子の背を見送っていた上司の背中に、アスティルトが遠慮がちに声を掛けた。非力な人間であるにも関わらず、嵐雨の王ベルゼビュートに臆することの無い態度を見せる者がいるとは…とアスティルトは随分と感心した。送る…と言った上司の言葉に、護衛が必要な人物か…と分析したのだ。

しかしベルゼビュートは首を振った。

「ハドゥ。」

ベルゼビュートがケヤキの木の上に視線を向けると、うにゃ…と大きな枝をゆさゆささせながら、貫禄のある黒い猫が姿を現した。

「悪いが頼む。危険の無いように。」

ハドゥと呼ばれた猫は、やれやれ…と首を振った。ふしゅんっ…と鼻息を吐くと、と…と地面に降りて、依子が去ったほうへ駆けていった。副官を護衛に遣すとは、随分と重要な人物らしい。

「あの方は?」

「花屋の娘だ。」

「花屋?」

「元気のいい、よい花を扱う。」

「なるほど。」

ベルゼビュートは戦場を駆ける魔界一の将軍だが、嵐を操り川を肥えさせる力を持つ魔族でもある。植物と虫も操るが、特に植物から力を抜き取り己の魔力とする研究をしているのだ。人間界の植物は興味深いのだろう。アスティルトの敬愛する上司は、戦場では鬼神のようだが、こうした研究をしているときは生真面目で物静かな男だった。

「では、これも?」

アスティルトがもらった紫色の花に視線を落とす。花びらの一枚一枚が互いを包み込むように巻いていて、ところどころ小さなつぼみが付いている。華やかだが、どこか凛とした風情のある花だ。鼻を近づけてみると、ほんとうに微かだがよい香りがした。

「ああ。トルコキキョウというそうだ。」

だが、何故自分に手渡したのか。不思議に思ってアスティルトが首を傾げる。その様子をちらりと見ると、相変わらず何を考えているのか読めない無表情で、アスティルトの持つ紫の花びらにそっと触れた。

「こちらの界では、男から女へ花を渡す習慣があるらしい。」

「そうなのですか。」

「だから、少しは人間界らしく…と思ってな。」

それに…と言って、ベルゼビュートがふ…と笑う。

「その花の色は、お前の髪と羽の色によく似ている。」

アスティルトが本性を現すと、足先まで届くほどの見事な薄い紫色の髪をしている。ベルゼビュートの意外な言葉にアスティルトの瞳がきょとんと丸くなったが、何も言わなかった。ベルゼビュートにとってアスティルトはただの部下であるとは分かっている。しかし、アスティルトはなぜか口元が綻んでしまうのを自覚した。あらためて表情を引き締め、ありがとうございます…と再び一礼を取る。ふと、ベルゼビュートに押し付けられた薄桃色の花束に視線を傾けた。

「この、薄桃色の花は?」

「これは私のだ。やらんぞ。」

「分かっています。」

いつも部下としての頑なな表情しか見せないアスティルトがベルゼビュートの言い様に、ふわりと優しい瞳になった。今度は、ベルゼビュートがその表情の動きに、僅かに眼を見張る。