街道から大きく外れた荒野を一匹の猫が駆けていた。四肢を懸命に伸ばし、何かに追われるように走っている。頭の上には金色の毛並みのネズミが振り落とされないように捕まっていた。
「サティ、一瞬身を翻せるか?」
「どうする?」
「私があれの後ろに飛び移る」
「……危ないよ!……私の魔法で何とか……」
「サティの魔法の威力だけでは無理だろう!……サティ……!」
「……分かった。掴まって!」
サティは、ずさ……と身を翻してターンし、眼前の敵を睨んだ。迫り来る敵……、人間の膝くらいの高さがあるだろうか。巨大なネズミともモグラともいえぬ、醜悪な動物が不恰好にこちらに迫っていた。ぶよぶよとした皺のよった皮にはまばらに毛が生え、瞳は退化してしまっている。……魔物化した凶暴なモグラネズミ。普段は地下で大人しくしている彼らは、時に魔と化して、こうして地上に出て、見えない瞳で無差別に生き物に牙を向くことがある。
口からは大きな長い牙が2本飛び出していて、飛び掛られれば人であっても脅威だろうが、自分達が人の姿であれば、歴戦の騎士であるピウニー卿や、古魔法に精通しているサティならば、ものの数秒で蹴散らすだろう。だが、なにせ今2人は小さな猫とネズミの力で、使うことの出来る能力にも限りがあった。……そして、シャドウメアとも、はぐれていた。
荒野は広く水も少ない。出来る限り川や森の側を歩いていたピウニー卿達は、その日河原で野宿をしていた。そして朝出発しようとしたときに、モグラネズミの集団に襲われたのだ。シャドウメアが一声甲高く嘶き、モグラネズミの集団の真ん中へと躍り出てそのまま走り始める。一瞬追いかけるべきかと思ったサティに、ピウニー卿は「逆に走れ!」と言ったのだ。サティはピウニー卿を乗せて、シャドウメアが走った方向とは逆に走り始めた。大半は大きな足音を立てるシャドウメアを追いかけたが、一匹だけ、2人を追いかけてきたモグラネズミが居た。
「サティ、今だ……!」
ピウニー卿の声に弾かれるようにサティの身体が跳躍した。モグラネズミは眼はほとんど見えず、気配と音だけでこちらを追いかけてくる。身を翻したサティの動きに咄嗟に反応できず一瞬出し遅れた牙が、交差するサティの身体を掠めた。ピウニー卿が、サティの頭の上からモグラネズミの上に飛び移る。
モグラネズミは背を這う奇妙な感覚に、ギャッギャッと小刻みな鳴き声を上げながらロデオのように体をくねらせ始めた。ピウニー卿は落ちないように、皺になった皮膚を掴み、モグラネズミの尻に剣をちくんと突き刺す。
ピギャーーーーーーーー!
不愉快な声を上げてモグラネズミが走り始めた。ピウニー卿は身体を反転させ、モグラネズミの寄った皺にしっかりと掴まる。今度は身体の少し左に剣をちくり。
ピィイイイイイギャアアアアア!!
モグラネズミのスピードが上がり、走る方向を少し右に修正する。その眼前には、白い岩がすぐ側に迫ってきていた。
ドゴン!
眼の見えないモグラネズミは、思い切りその岩にぶつかった。ぶつかった振動でピウニー卿は振り落とされそうになるが、なんとか剣を刺して支え、やり過ごす。……ドサリとモグラネズミの身体が地面に横たわり、あたりは静かになった。
ふ……と安堵のため息をつく。サティがこちらに向かってきているのを確認して、剣を抜こうと柄を握り直した。そのときだ。
ピイイイイイイィィィィーーーー!!
動かなくなったと思ったモグラネズミが、突然声を上げた。ピウニー卿は剣を抜いて頭へと駆け上がる。両手で持ち直し、渾身の力を込めてモグラネズミの眉間に剣を突き刺した。思い切り魔力を込める。……ギャッ! と短い断末魔の声を上げ、今度こそモグラネズミは動かなくなったようだ。ピウニー卿は剣を抜くと腰に納め、サティを振り返った。
「サティ、足は大丈夫か?」
「ピウニー、大丈夫? 怪我は無い?」
2人が同時に聞いて、顔を見合わせた。どうやら大丈夫そうな互いの様子を見て、ほっとため息をつく。サティが地面に降りてきたピウニー卿に顔を寄せると、ピウニー卿はその頭をそっと撫でた。
「しばらくどこかに身を隠して、人間に戻ったらシャドウメアを呼ぼう」
「分かった。……じゃあ、ピウニー、乗っ」
乗って……とサティが頭を低くした。そのときだ。
サティとピウニー卿の耳がぴくりと動いた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
……地鳴りのような音が聞こえる。地面も僅かに振動し、明らかに様子がおかしい。サティがピウニー卿を乗せて立ち上がり、頭を上げた。荒野の向こうに見えるのは……。
「なにあれ……」
荒野の向こうが黒く染まっている。何か獣の集団が、こちらに迫ってきているようだ。……迫って、きている? 地面の高低差によって、その獣の集団に気付いたのは、かなり距離が迫ってからだった。
「……これ、不味くない?」
「不味い……な」
「ピウニー、しっかり掴まってて……」
「うむ。サティ……」
「逃げろ!」……ピウニー卿の声が聞こえると同時にサティは走り出した。
****
後ろから聞こえてくる地鳴りから逃れるようにサティは駆けた。轟音は少しずつ、近づいてくる。ピウニー卿はサティに掴まりながらそっと後ろを伺ってみた。そこには、先ほど自分達が対面していたモグラネズミが集団となって、こちら目掛けて突進してきている。朝、シャドウメアが蹴散らした数とは比べ物にならない。……そして、その集団の前に、2頭の馬が居た。
1頭はシャドウメア、もう1頭の馬上には何者かが乗っている。
「シャドウメアか。……もう1頭は、何者だ」
サティも大分疲れてきたのだろう。段々、足が重くなってきた。ピウニー卿は、今ほど自分のネズミの姿が忌まわしいと思ったことは無かった。自分はこれほどにも小さく、移動も戦闘もサティがいなければ何も出来ないではないか……! 自身の無力さに歯噛みしながらも、ピウニー卿は剣を抜いて、それを掲げた。
<イラキュヒ・エーク・オ・ピウニーア!>
(ピウニーアの剣よ発光せよ!)
ひら……と小さな光がピウニー卿の剣に灯った。
「サティ、 少しスピードを落とせ」
「でも、」
「シャドウメアが来る。大丈夫だ」
ピウニー卿の落ち着いた声はサティを少し安心させた。それを聞いて、サティは少しずつスピードを落す。ピウニー卿が剣を掲げたまま後ろを振り向くと、大分距離を詰めてシャドウメアがピウニー卿の剣の光を目指して駆けてくるのが見えた。もう1騎も軌道をこちらに向けているようだ。
スピードを緩めた猫の足にシャドウメアが追いつくのはすぐだ。徐々に歩を緩めてくるシャドウメアが、サティの身体をつつくように鼻面を下げた。サティが思い切ってそこに身体を乗せると、シャドウメアは、ぐ……と頭を起こして2人の身体をたてがみに落とす。ずるずるとシャドウメアの首に沿ってサティ達の身体は落ちていくが、さほどスピードが出ていなかったので、上手く鞍にたどり着くことができた。
再び馬のスピードが上がった。だが、獣姿のピウニー卿とサティにシャドウメアの速さはかなり不安定だ。手綱は人間サイズのもので、サティは必死でそれを口に咥え、ピウニー卿も小さな前足でそれを抱えているが、今にも振り落とされそうだ。
「こちらへ」
隣で走らせている1騎から男の声が聞こえた。ピウニー卿がそちらに視線を移すと、目の細い大柄な男がシャドウメアに並ぶように馬を走らせている。大きな手がこちらに伸ばされた。何者か、ピウニー卿の全く見たことの無い顔だ。だが、迷っている暇は無い。
「シャドウメア、身体を寄せるんだ」
ピウニー卿の声に呼応するように、シャドウメアが少しずつ隣の馬と距離を詰める。その間にも、後ろからモグラネズミの集団は迫ってきている。
「3つ数えたら飛べ、サティ!」
そんなこと出来るわけがない!……サティは一生懸命ぷるぷると頭を振る。しかし、
「……そのまま鞍を蹴って手綱を放せ。受け止める」
もう1人の男の声だ。片腕で手綱を握り、シャドウメアに触れそうなほど、もう片方の腕を伸ばしている。
ピウニー卿がサティの首元にしっかりと掴まった。
「……サティ、何が起こっても私は一緒にいる……!」
小さな自分に出来ることはそれくらいだ。失敗しても成功しても私がいる。そう言ったピウニー卿の言葉に後押しされるように、サティは意を決した。
「3……2……1……!」
ピウニー卿の声に合わせて、サティが手綱から身体を外して鞍を蹴る。カクン……と、馬から身体が離れる感覚は一瞬だ。次の瞬間には、何者かの手にピウニー卿ごとサティの身体がすくい上げられた。そのまま男の腹に抱えられ、マントがふわりとかけられる。
2頭の馬はスピードを上げ、荒野を斜めに走り抜けた。森に飛び込み荒野から逃れるとモグラネズミの集団の軌道からも外れ、やっと助かったと認識したときには、人も馬もネズミも猫も、疲労困憊だった。
****
男はモグラネズミの集団が通り過ぎたのを確認すると、ピウニー卿とサティを抱えたまま馬からそっと降りた。手近な木の根元に胡坐を組んで座ると、マントを広げる。
自分を見下ろす細い目をピウニー卿は改めて見上げた。……そして、もぞりと腹を曲げた。首と胴の境目があまり無いので、お辞儀も分かりにくい。
「かたじけない。貴殿のおかげで助かった。感謝する」
男はピウニー卿を見下ろすと、ゆっくりと頷いた。彼はピウニー卿が話すことを、別段不思議にも思っていないようだ。ピウニー卿も、話すことが出来る……という事実を、この男に隠すのは礼に反すると思ったのだ。だからこそ、自然と騎士の一礼を取った。
やがて男の視線がサティに移った。それにつられるように、ピウニー卿もサティに視線を傾ける。
サティのグリーンの瞳が今にも零れそうなほど、大きく見開かれていた。
「サティ?」
ピウニー卿が首を傾げた。……サティの尻尾の先がトントンと動く。
「……つ、杖の賢者?」
「え……?」
ピウニー卿は、サティと男の顔を見比べる。
「杖の賢者……?」
ピウニー卿が確認するように、こげ茶の瞳を向けた。それを見下ろしながら、細目の男は頷いた。