「大丈夫か、サティ」
「うん」
杖の賢者の屋敷から、1時間ほど馬を走らせたところに目的地の黒の森は存在する。
だが、黒の森には多くは無いが人を襲う魔物が生育する森でも有名だ。
魔物は討伐の対象とされているが、全てが悪……というわけではない。動物と同じで、基本的に普段は人間に危害を加えることなく大人しくしている。だが、魔物は動物とは異なり、多くの魔力を有している。そのため魔力のバランスに影響を受けやすい。人の子が魔力のバランスを崩して身体を壊したり、魔力を暴発したりするのと同じように、魔物は魔力のバランスを崩すと凶暴化してしまうのだ。魔竜のように人間を越えるほどの知性を持つ者も確認されていて、そういった存在が魔物にさらに影響を与えて別の魔物を生み出す……という事もあった。
黒の森には、杖に素材に向く植物が通常の森よりも多く、それを求めて魔法使いが出入りするため魔力がより蓄積されている。杖の賢者が出入りするたびに、その魔力を沈静化するように術を施しているらしいが、それでもさまざまな系統の魔力を持った魔法使いや冒険者が立ち入れば、それだけ魔力のバランスは崩れる。この森で魔物が凶暴化するのは仕方がないことでもあった。
先ほどピウニー卿が切って捨てた魔物も、そういった類の者だろう。今は人間になっている2人の足元には、猿の体に鳥のくちばしのような口を持った魔物が息絶えている。襲撃はそれほど多くは無いが凶悪なものが多く、ネズミと猫では苦しい戦いになっただろう。今はシャドウメアも連れてきてはいない。
ピウニー卿が足場の悪いところを通すために、サティに手を伸ばした。こういう場所を行き来するのは慣れないサティは、その手に大人しく掴まる。足場が悪く、バランスを崩しかけたが、ピウニー卿はその身体を軽々と抱き止めた。
「あ、ありがとう」
「ああ」
サティは、すぐさまピウニー卿から離れた。猫の時にネズミのピウニー卿を抱えるのも擦り寄るのもなんとも思わないが、こうして人間に戻ったピウニー卿に抱えられるのはこそばゆく頬の温度が上がる。
最近、人間に戻ったピウニー卿を見ているとサティの心は落ち着かない。普段は歴戦の騎士らしく(サティの目には)落ち着いている(ように見える)ピウニー卿が、時々、自分を熱っぽく見つめてくる視線も、隙あらば距離を詰めてこようとする態度も流石に気付いている。……だが、その視線の意味を計りかねて、サティ自身にそれを受け止める素直な勇気は無かった。
サティは、人の姿に戻った瞬間ピウニー卿の厚い胸板に自分の身体が落ちるのも、その身体が落ちないように逞しい腕に身体を支えられるのにも、いまだに慣れない。ピウニー卿は、最近では落ち着いたものだ。きちんと猫の身体をシーツでゆるく巻いて人の姿に戻し、ぐるぐる巻きの状態で人に戻ったサティを支えながら身体を起こして頭を撫で、もうひとつシーツを引き寄せて自分を隠し、最後によいしょと隣にサティを降ろす。最後のよいしょ……の時など、軽々と自分の身体を横抱きに抱えるのだ。そして、早く着替えろ……と後ろを向く。
一連の動作には、当初はよく見られた慌てふためいた様子など微塵も無く、一部の隙も無い。……落ち着かないのはサティだけのようで、それが悔しくもあった。ああもう、ほんっと、自分だって猫の毛皮にネズミが落ちてくるのは全然気にならないのに!
「サティ、手を」
「え?」
「足場が悪い」
「大丈夫よ」
「大丈夫ではない。早く貸すんだ」
サティは少し躊躇してみた。だが、ピウニー卿は問答無用でサティの右手を取る。その強引さにサティが、思わず身を引いたときだ。
「サティ」
ピウニー卿が再びサティを呼び、手を掴んだまま自分の背に隠した。すぐさまサティはピウニー卿から意識を離し、周囲へと気を向ける。ピウニー卿は既に周囲の気配に耳を澄ませていた。サティを庇ったまま、剣の柄に手を掛ける。
ガサガサ……!
遠くから素早く茂みを掻き分ける音が聞こえ、それが徐々に近づいてきた。魔法の気配を感じ取ったサティは、怪訝そうに眉をひそめる。魔物にも魔力の気配は感じられるが、この気配は魔物ではない。カチャリ……と、ピウニー卿が剣の柄を持ち上げた。
気配がすぐ側に迫り、茂みの揺れが目に見えるほどになった。何者の影が見える……、そう認識した瞬間。
「悪く思うなーーー!!」
ドーン!
轟音と共に足元に転がってきたのは、先ほどピウニー卿が倒した魔物と同じ種類の魔物だった。その魔物を転がしたらしき人が、同じ方角に立っている。
なびく髪は亜麻色で、片方の手にはピウニー卿が持っているものよりも一回りは大きいだろう剣を持ち、背には数本の剣を背負っていた。攻撃直後のポーズだったのだろうか。膝を曲げたままの状態で片方の足を前に突き出し、足の裏を見せたまま、顔をこちらに向けた。
「ああん?」
声は、女性の声。
ピウニー卿は剣から手を離し、まじまじと女性を見ている。サティは事態がよく飲み込めず、首をかしげていた。恐る恐る……と言った風に、ピウニー卿を口を開く。
「……貴女は、……まさか、剣の賢者?」
剣の賢者……と呼ばれた女性は切れ長の瞳でピウニー卿に視線を向ける。たちまちその表情が、驚きの色に変わった。
「そういうあんたは……おいおい、もしかして……ピウニーアかい!?」
「え?」
今度はサティが驚いた。剣の賢者……?
剣の賢者って……。
サティには、彼女が剣ではなくてキックで魔物倒してたように見えたが、とりあえず突っ込まないでおいた。
****
「いやー、まっさかあのピウニーが生きているとはね。死んだっつー話しか聞かなかったからさ」
「はあ」
「まあ、塵になって消えた? とか言われても……信じられるわけないよ、あのピウニーが」
「……あのピウニー?」
あっはっは……と豪快に笑っているのはピウニー卿が「剣の賢者」と呼んだ女性だ。くるりと豪奢に巻いた亜麻色の髪に、切れ長の瞳。少し大きく魅力的な唇。引き締まった肢体の美しい女性だった。サティはとても小さい頃に先代の剣の賢者に会ったことはある。だが、今代の剣の賢者には会った事が無い。今代の剣の賢者が女性だということは知っていたが、まさかピウニー卿とも知り合いだったとは意外だった。
「そうさ。もうこっちが恥ずかしくなるくらい熱い坊主でね。……どうしても、あたしに剣を作ってほしいってごねてさ」
「ご……ごねてなど……!」
「ごねてたさ。あたしは、そのときまだ剣の賢者を襲名してまだ2,3年で、変な矜持っていうかねえ……自分の作る剣は屈強な歴戦の戦士に……ほら、どうせならアルザスの先代当主とかさ、そういうのに持ってもらいたかったの。それなのに、王都の伯爵家の若いぺーぺーの長男様に譲れなんて、笑っちまうだろ。だから断ったんだよ」
「若い?」
サティが興味津々な顔で瞳を輝かせた。
「ああ。もう15年くらい前になるかね、なあ、ピウニー?」
「剣の賢者殿……もう、そのへんで……」
「だけどさ、『自分は絶対にアルザスの名に恥じない騎士になる男です。ですから、貴女の作った剣で魔法剣を極めたい』って、そういうから、根負けさね」
あのピウニー卿にそんな熱血な時代があったのか。サティが楽しげに剣の賢者の話を聞いていると、その瞳を見て、ニッ……と笑った。
「そのピウニーが、ネズミ?しかも、愛玩系の?……やだーもー、すっごい見たいわー」
「かわいいですよ。金色の毛がふわふわしてて」
「おい、サティ!」
ピウニー卿の顔が若干赤くなっている。普段は落ち着き払っているピウニー卿の慌てた姿を見るのは、なんとなく面白い。そんなサティを見つめていた剣の賢者は、瞳を細める。
「あんたもね、サティ?……理の賢者んところの弟子だろう?……こーんなちっちゃかったのに、いつのまに大きくなったのやら」
「え?」
「覚えていないかい? あたしが、剣の賢者を襲名するときに、理のじーさんに連れてこられたことがあったろう」
「ええ?」
あはははっ……と、剣の賢者は再び笑った。サティには全然記憶に無い。……多分、4,5歳の時だったのだろう。正直、その頃は完全に封じた魔力を少しずつ解放する訓練をしていて、身体も心もつらかった頃だ。つらい修行を強いられているように思えて、当時の自分は大層無口で無愛想だった記憶しか無い。今にして思えば、可愛くない子供だったに違いない。何か粗相でもしたのかと、心配になった。そんなサティの表情を汲んだのか、剣の賢者は優しい微笑みになって、大きな手でサティの頭を撫でた。
「あんときもたいした子供だったけれど、立派になったじゃないか。理のじーさんもさぞ鼻が高いだろう」
「そ、そんなことありません、私なんてまだまだで」
「そんなことはない」
ピウニー卿が被せるように即答した。
「サティは、古の魔法にも通じているし、魔法陣も術式も多く生み出せるのだろう」
「でもっ」
「まあまあ、あまり見せ付けないでくれよ」
なんですかそれどういう意味ですか!?……とサティが反論する前に、ニヤニヤ笑っていた剣の賢者は表情を引き締めた。
「……で、2人はトネリコの木を見つけたのかい?……確かにこの奥に、トネリコが余っていたと聞くが……」
「あ」
「ああ」
ピウニー卿とサティは顔を見合わせた。……2人には時間制限があるのだった。急いで立ち上がる。
「こうしている時間は無いのでした。……剣の賢者殿、恐れ入りますが私達は……」
……ピウニー卿が一礼する。その慇懃な態度に、苦笑しながら剣の賢者は言った。
「いや、それは構わない。……あたしも一緒にいくよ」
「え?」
「なんだい、文句あるのかい?」
「……い、いえ」
文句などはあるはずが無い。心強い味方だった。……ただ、若干その迫力に押され気味のピウニー卿と、なぜか剣の賢者を憧れの瞳で見つめるサティとは、少しばかりテンションの温度差があったのは、否めない。
****
「……ふむ……それで、ネズミになってしまった後も、剣が使えている……となあ。むう……」
剣の賢者と共に森の中を進みながら、話はピウニー卿の剣が、体のサイズに合わせて伸び縮みする……という話題になった。やはり剣の賢者は自分の作った剣が気になるのだろう。だが、そういった事象は聞いたことが無い……と首を捻る。
「剣を構成する物質の網目の中に魔力が入り込んで、それらが作用しているのではないかと踏んでいるんですけど」
サティの言葉に、うーん……と唸った。
「確かに、魔法剣の場合はそういうこともありうるがなあ……。だが、あれは私が最初に作った魔法剣用の剣だ。ネズミと人間くらいのサイズに伸縮するとなると、素材の比率を極限まで抑えた上で、残りは自身の魔力を最初に投入して……できるかどうか。……そもそもあの剣は、そんな風に作ってはいない。使いこなしている内にピウニーの魔力が素材に浸透した……としても、ピウニー自身の魔力はそれほど多いわけではないしな。……うーん」
「……ということは、別の魔力が介在している、ということですか?」
魔法剣というのは、その名の通り、剣に魔力を帯びさせる魔法だ。込める魔力によって、耐久力を高めたり、殺傷能力を上げたり、属性を付けたりする。ピウニー卿の場合は、呪文不要で魔力を剣に通し、殺傷能力を上げるという戦法を得意としていた。
魔法は、通常、金属との相性が悪い。魔法や魔力という柔軟な力に対応するには、頑なで頑固な素材だからだ。魔法使いが金属製の鎧を身に付けないのは、そういう理由もある。
そういう相性の悪い金属を魔法の媒体にしよう、というのが、魔法剣という研究だ。魔力の鎖によって素材同士を結合させることによって、その網目にさらに魔力を注ぎ込むのが基本だ。金属を打つときに特殊な魔力を注ぎ込んだり、あるいは、比較的柔軟性の高い素材で作った剣に魔力を少しずつ込めたり、手っ取り早く魔力をチャージした魔法石を柄に埋め込んだり、様々な手法がある。注ぎ込む魔力は、金属を媒体としやすい属性が必要だから、個人の資質も重要だった。物質の隙間に魔力が介在しているから、その比率によっては大きさが伸縮することも可能性としてはある。武器の形状を変える魔法も存在する。
ピウニー卿が手にしている剣は、剣を打つ段階で剣の賢者の魔力を注ぎ込んでいる。それをピウニー卿が使い込む内に、魔力が入れ替わっていく計算だ。だが、それと言っても、騎士剣から針までのサイズに変わる柔軟性を帯びるなど、聞いたことがない。剣の賢者は立ち止まり、一番後ろを歩くピウニー卿を振り返った。
「おい、ピウニー、ちょっと剣を見せてくれないか?」
「分かりますか?」
「さあなあ。……私としても、そういう話はあまり聞かない。……だが、手にとれば、作ったときと今の剣と、違いは分かるさ」
ピウニー卿は頷いて、剣を抜いて柄を渡した。剣の賢者はそれを受け取り、まじまじと見つめる。
そして、見つめる表情が徐々に険しくなってきた。
「ああん……?」
物騒な声を上げる。
「どうしました?」
何かあったのかと、ピウニー卿が眉を潜めた。
「どうしたも、何もないよ、これ。……あんた、この剣で何をやったんだい」
「……どういう意味ですか」
「この剣に込められた魔力は、ピウニーのもんじゃないね。そっくりそのまま、別の存在に入れ替わってるよ」
「別の、存在?」
「別の魔力」……とは言わずに「別の存在」……と剣の賢者は言った。……全員の足が止まり、その言動に注視する。サワ……と風が吹いて、周囲の気配が変わったような気がした。その雰囲気にピウニー卿がぴくりと眉を動かすものの、魔物の気配は無い。それでも自然、サティの背中を包み込むような位置に立つ。
「そうだ。別の存在……心当たりがあるんじゃないか?……ピウニー」
ピウニー卿の表情が硬くなった。サティにも分かる。ピウニー卿の剣がこういった状況になったきっかけ。いや、そもそもピウニー卿の身体をネズミに変える大きな呪いをかけた、あの存在。
「ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ……?」
……サティが思わずその名を口にした、瞬間。
グオオオオオオオオオオオン!!
「くっ……!」
剣の賢者が持つピウニー卿の剣が咆哮し、その手を離れた。咄嗟にピウニー卿がサティの身体を抱き寄せ、セピア色の髪を抱える。剣の賢者の手を離れた剣は、地面に勢いよく突き刺さり、その剣を中心に今まで感じたことの無い魔力が渦巻いた。
……いや、ただ1人、ピウニー卿は感じたことのある魔力だった。これは……。
「……魔、竜か……?」
『いかにも』
グルル……と唸り声にも似た、重々しい声が響く。
『いかにも、我はグラネク山の魔の竜。ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ!』
バキバキと周囲の木をなぎ倒し、再び大きな咆哮が轟く。
3人の眼前に現れたのは、
狼くらいの大きさの竜?……だった。